(トピックス)戦国武将・松永久秀の特徴捉えた肖像画が発見される!

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戦国時代、斎藤道三・宇喜多直家と並んで“戦国時代の梟雄”に数えられ、下剋上の風潮を代表する武将、松永久秀を描いたとみられる肖像画が見つかったそうです。

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見つかった肖像画は縦108・7㎝、横43・6㎝で、掛け軸に表装されてあり、薄い藍色の直垂ひたたれを着て烏帽子えぼしをかぶり、扇を持って腰刀を差した正装姿という構図は、戦国時代に描かれた武家肖像画の典型的な姿でした。

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腰刀の柄 ( つか )の部分には永禄4年(1561)2月3日に将軍・足利義輝あしかがよしてるから使用を許可され下賜された将軍家の御家紋である桐紋が入っています。

また、膝元には金糸を織り込んだ茶道具をしまう袋も描かれていて、茶人の武野紹鴎たけのじょうおうを師事していた久秀が所有していた茶入の「付藻茄子つくもなす(九十九髪茄子)」や茶釜の「平蜘蛛ひらぐも」など、名物茶器が収まっていたのでは、との推測ができます。

こうした武将の肖像画は、法要や祭祀のために制作される事が多く、本人を偲ぶ事ができるよう、実際の特徴をしっかりと捉えて描かれているのが一般的ですが、この肖像画は美化して描かれる事なく、唇が厚く、前歯が出た独特の顔立ちを描くなど、しっかりと特徴を捉えて写実的に描かれていました。

その事から、久秀の特徴を知っている、久秀に近い人がまだ存命中の時代に描かれた可能性が高いようです。

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それを裏付けるかのように、肖像画の上部には「天正五丁丑年冬十月十日薨 妙久寺殿祐雪大居士尊儀」と、久秀の命日と戒名が記されており、久秀を描いたものと断定し、顔の特徴などを知る子孫らが描かせたのでは、とみられています。

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さて、松永久秀のイメージとして描かれた画像(錦絵など)のほとんどが、江戸時代に備前岡山城主である池田氏に仕えた儒学者・湯浅常山ゆあさじょうざんによって著された逸話集『常山紀談じょうざんきだん』などで創作された「久秀の三悪」などを典拠としていて、

東照宮信長に御對面の時、松永彈正久秀側に在り。信長、此の老翁は世人の爲し難き事三つ成り者なり。將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗を流して赤面せり。

東照宮後長臣等を召して、御物語有りける時、此の事を仰せ出され、先年信長金崎を引き退きし時、所々に一揆起り危かりしに、朽木が淺井と一味を疑ひ進退極りしに、松永信長に告げて朽木が方へ參りて、味方に引き附け候べし。朽木同心せば人質を取りて打具し御迎に參るべし。若し又歸り參らずば、事成らずして朽木と刺違て死したりと知し召されよ、と言ひて、朽木が館に赴き事無く人質を出させ、夫より信長朽木谷にか〻りて引き返されしなり、と仰せられしとぞ。(『常山紀談』巻之四「信長公松永彈正を恥しめ給ひし事」より)

徳川家康(「東照宮」)が織田信長(「信長」)と対面した折り、信長の側にいた久秀(「松永彈正久秀」)を紹介します。

その際、信長が久秀は普通の人間では考えも及ばない仕業をやった奴―しかも3つも―なんだ(「世人の爲し難き事三つ成り者なり」)と、家康に紹介したわけです。

それは「將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる」事で、これらは「久秀の三悪」として酷評されるきっかけとなっていきます。

この「久秀の三悪」とは、江戸時代に至り儒教思想が広まった時代背景もあって、久秀が「悪人」のイメージで語られるようになったきっかけとなった歴史事象を表し、

  • 主家である三好家中かちゅうの実権を握るため、三好家の要人を殺害した、
  • 対立していた将軍・足利義輝を襲撃し殺害に至らしめた、
  • 東大寺の寺院伽藍がらん及び大仏殿を焼き打ちした、

などの悪行から、久秀を「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったイメージで見る風潮が生まれ、自然、小説を始めとした創作物においても、そうした人物像として描かれる事が定着するに至ったわけです。

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そうして生まれたイメージは久秀を「荒々しい極悪人風」に捉えられ描かれていったわけです。

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江戸時代も中頃になると、領主たちの家臣統制に対する倫理感を儒学に求めようとし、過去の故事から理想を追求する朱子学しゅしがくと、現実を見添えて物事を捉えようとする陽明学ようめいがくが普及します。

支配階層である武士層は立身出世という実益に叶った朱子学を重視し、結果として武士道という倫理観が生まれていきます。

そんな倫理観が浸透すると困った弊害が生じます。

江戸時代とは、単純にいえば差別階級が再生産された社会で、支配する者(=武士層)と支配される者(=それ以外の階層)が生まれ、さらに支配する者からも仕官する者と浪人する者が生じます。

『常山紀談』が著された時代は、身分の固定化が進んでいた一方で、家柄だけで仕官が決まる者と、才覚と能力で仕官への道をつかむ者が現れます。領国支配にとって代々譜代の者が政務を治めていたのに、時代が進むにつれ、才覚と能力で実務に秀でた者が立身出世する、といったように―

この時代で言えば、御側御用人おそばごようにん(=将軍の秘書)として五代将軍・綱吉つなよしに仕えた柳沢吉保やなぎさわよしやすや六代将軍・家宣いえのぶおよび七代将軍・家継いえつぐに仕えた元猿楽師の間部詮房まなべあきふさ、十代将軍・家治いえはるに仕えた田沼意次たぬまおきつぐなどは、その才覚と能力によって立身出世を果たした者たちでした。

柳沢吉保は御側御用人から老中格、大老格の地位に、間部詮房は家継が幼かった事もあって、将軍の意志決定代行者としての地位にありました。田沼意次に至っては、将軍の側近である御側御用人と共に政権運営を担う幕閣(幕府閣僚)の老中も兼任したために、やっかみを持った代々の譜代の者たちの嫉妬が一番集中したといえるでしょう。

実際、こうした御側御用人は家禄が低い下級幕臣が就任するケースが多いのですが、就任した者のうち、約2割が1万石以上の大名や若年寄、側用人、老中などの幕閣に昇進しているのです。

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家柄を重視する風潮のなか、氏素性うじすじょうの判らない、身分の低い者が才覚と能力で立身出世していく様が社会秩序を破壊している、として警鐘を鳴らし、久秀のようにその出自もはっきりしないのに異例の出世を遂げ、将軍からも家臣の身分なのに主君と同じ待遇を受けたのは、主君への敬意を軽視している、として儒学者から「社会秩序を壊す危険な存在」と認識されるようになったんですね。

その結果として、松永久秀は「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったレッテルが貼られてしまったわけですね。

今回の肖像画の発見は従来の松永久秀の粉飾されたイメージを払拭し、新たに再評価される一翼となれば良いと思われます。

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大阪府高槻市のしろあと歴史館において第48回トピック展示「戦国武将・松永久秀と高槻」が6月2日(火)から8月2日(日)まで開催されます。

松永久秀の出自伝承として、

  • 「摂津国島上しまかみ五百住よすみ(現、高槻市東五百住町)の土豪出身」(『陰徳太平記』)という記載がみられる事、

  • 同地域にに「松永屋敷跡」(『郡家村・東五百住村境見分絵図』『摂津志』)と呼ばれる久秀に関連する屋敷跡が存在する事、

などから同地域が久秀の出身地ではないか、との見解もあるようですね。

それに伴い、「戦国武将・松永久秀と高槻」と題して今回初公開となる久秀の肖像画ほかに、久秀を描いた錦絵や高槻における久秀伝承に関する古文書など、久秀にまつわる21点が紹介されています。

2022年大河は「鎌倉殿の13人」

令和4年(2022)のNHK大河ドラマ(第61作目)は「鎌倉殿の13人」と決まりましたね。

主役は北条義時、主演は小栗旬さんが演じられ、脚本は三谷幸喜さんが務められます。

主なストーリーは、

平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・ 政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。

1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打に乗った。 頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。

幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂の時、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。“飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。

義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵を取る。源氏の正統が途絶えた時、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ―

って感じ!

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番組タイトルにもある「鎌倉殿の13人」ですが、「鎌倉殿」とは、源頼朝が朝廷によって公的に保障された、
  • 日本国惣追捕使(惣追捕使、後の守護職)の任免権
  • 日本国惣地頭(地頭)の任免権
の二つの地位であって、征夷大将軍職ではありません。

その「鎌倉殿」頼朝が亡くなった後、嫡子である頼家が朝廷から「鎌倉殿」として頼朝の地位を継承を追認されます。

実際、「鎌倉殿」と家臣である御家人たちとの関係は全く私的なもので、公的に裏付けられたものではありまえん。

新たな「鎌倉殿」となった頼家は、頼家を立てる事で政治の主導権を握ろうとした頼朝側近(大江広元や梶原景時など)の補佐を受けて政務を行ないますが、数名の側近たちの評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す仕組みであったため、側近たちの専横に対する他の有力御家人たちの不満・反発が募ります。

そこで、有力御家人たちは頼家の権力を補完する機能を果たそうとし、そうして誕生したのが有力御家人「十三人の合議制」が導入されます。

  • 大江広元(公文所別当→政所別当)
  • 三善康信(問注所執事)
  • 中原親能(公文所寄人→政所公事奉行人。鎮西奉行)
  • 二階堂行政(政所家令→政所執事)
  • 梶原景時(侍所所司→侍所別当。播磨・美作守護)
    ⇒正治元年(1199)梶原景時の変により失脚
  • 足立遠元(公文所寄人)
    ⇒『吾妻鏡』承元元年(1207)3月3日条の闘鶏会参加の記事を最後に史料から姿を消している。安達盛長よりも年長者であり、少なくとも70代の高齢に達していると思われるので、程なく没したと思われる
  • 安達盛長(三河守護)
    ⇒正治2年(1200)病死
  • 八田知家(常陸守護)
  • 比企能員(信濃・上野守護)
    ⇒建仁3年(1203)比企能員の変として謀殺
  • 北条時政(伊豆・駿河・遠江守護)
    ⇒元久2年(1205)牧氏事件により追放
  • 北条義時(寝所警護衆)
  • 三浦義澄(相模守護)
    ⇒正治2年(1200)病死
  • 和田義盛(侍所別当)
    ⇒建暦3年(1213)和田合戦により敗死

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「合議制」の13人の構成メンバーをを見ると、北条氏は頼朝の姻戚、比企氏・八田氏は頼朝の乳母、安達氏は頼朝の流人時代からの側近、三浦氏は源氏累代の家臣、梶原・和田・足立は頼朝の家政機関(侍所・公文所)の職員となっています。

この構成メンバーの中から、まず頼朝の信頼が厚かった梶原景時が三浦氏によって失脚(正治2年=1200)。

北条時政は、頼朝の乳母であり、頼家の妻の一族である比企能員を打倒(建仁3年=1203)した後、政所別当に就任。

将軍職を奪われた頼家は、伊豆修善寺に幽閉され、殺害(建仁4年=1204 )。

さらに、北条時政は後妻の牧氏に唆されて畠山重忠を殺害、さらに実朝を廃して牧氏の女婿平賀朝雅を将軍にしようと画策しますが、これを知った時政の子・北条義時は尼御台・政子と謀ってこれを防ぎ、父時政を追放し代わって政所別当になります。(建仁5年=1205 )

次いで義時は、侍所別当の和田義盛を挑発し、これを打倒します。(建暦3年=1213)

こうした権力抗争の果てに最後まで生き残った北条義時が政所と侍所の別当を兼務することになり、この兼務状態の職を「執権」と呼び、この職は代々、北条氏が世襲することとなるのです。

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さてさて、ひさしぶりの鎌倉時代モノですね。北条氏を扱った大河ドラマとしては、『草燃える』(昭和54年=1979)、『太平記』(平成3年=1991)、『北条時宗』(平成13年=2001)以来となりますね。

まともに重なるのは『草燃える』ですけど、三谷幸喜さんがどのように仕上げることやら!

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※(関連)NHK大河ドラマ「草燃える」、時代劇専門チャンネルにて全話放送決定!

槇島(眞木嶋)氏ノート(その3)―槇島(眞木嶋)昭光(2)

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期に南朝方の楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長・義就による内訌、あるいは細川京兆家けいちょうけ内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが眞木嶋まきのしま(槇島)城(館)であり、そこには宇治郡槇島地域を本貫地とする眞木嶋まきのしま(槇島)氏が勢力を張っていました。

元々、眞木嶋まきのしま(槇島)氏は、室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあったようです。

そうした中世期から近世期への移行期に活躍したのが眞木嶋(槇島)昭光です。

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さて、昭光については上述のように、
  • 宇治郡槇島まきのしま地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏である
  • 室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあった

などの記述が多く見られますが、平安後期から連綿と続き「槇長者」「槇島惣官家」と呼称されていた眞木嶋(槇島)氏とは一線を画すものと考えます。

以下に掲げる史料は、室町将軍・足利義昭に祗候していた時期の昭光に関する事項です。

〔史料①〕
今日武家御参内…(中略)…三千計上洛云々…(中略)…御走衆左…(中略)…眞木島孫六(『言継卿記』永禄13年〔1570〕2月2日条)

史料①は足利義昭が禁裏へ参内した際、その御供として随行した幕府軍勢の中に御走衆おはしりしゅうとして「眞木島孫六」の名が見える事から、「真木島孫六」としての初見史料と言えます。

〔史料②〕
飛鳥井中将をどりの歌三色五首つヽ可作与之由被申被来、眞木島来十五六日に可躍用云々、はねおとり、恋のヽヽヽ、すきのヽヽヽ三色遣之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月11日条)

史料②は7月15・16日の両日に催される風流踊の興行を任された「眞木島」のために飛鳥井雅敦まさあつが山科言継ときつぐに「をとりの歌」の作詞の依頼したもの。

〔史料③〕
晩頭…(中略)…今夜武家奉公眞木島興行踊、禁裏北御門拔通之外にて四踊有之 燈呂七十三有之云々、種々結構共不及筆舌也(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月17日条)

史料③は幕府奉公衆(「武家奉公眞木島」)主催で禁裏北門の路次で燈籠73個の随行する風流踊の興行が行われ、その見事さに見物人らが驚嘆したとあります。

「武家奉公」とあるので、昭光だと思われます。

〔史料④〕
(太秦)眞珠院斎に出京、又眞木島玄蕃ヽ所へ礼に被行云々(『言継卿記』元亀2年〔1571〕8月3日条)

史料④は「真木島玄蕃ヽ」とあるので、「玄蕃頭」としての初見史料です。

〔史料⑤〕
大外様続目之儀言上段、被聞食訖、証文分明上者、弥存其旨可抽忠勤、猶昭光可申候也、
    十月廿元亀二年日(花押)
      益田次郎とのへ
(『足利義昭御内書』〔『益田家文書』2-365号、『大日本古文書』家わけ文書22〕

〔史料⑥〕
                     眞木嶋玄蕃頭
      益田次郎殿              昭光

大外様続目之儀、被遂御案内候、証文分明上者、弥被存其旨、可被抽忠功之由、被成_御内書候、尤御面目之至珍重存候、此旨得其意可申入由、被仰出候、恐々謹言、
 元亀貮
  拾月廿日 昭光(花押)
    益田次郎殿
(『眞木嶋昭光副狀』〔『益田家文書』2-366号、『大日本古文書』家わけ文書22〕

史料⑤と史料⑥は足利義昭が石見の益田元祥宛に発給した御内書と、それに添えられた副状ですが、そこには「眞木嶋玄蕃頭 昭光」との署名があり、「昭光」としての初見史料です。

〔史料⑦〕
四日、壬戌、…(前略)…尾州佐久間、向之松田豊前守所借之、武家之大蔵卿局、奉公衆…(中略)…眞木島ヽヽヽ以下数多、…(中略)…音曲囃等有之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕11月4日条)

史料⑦は「奉公衆…(中略)…真木島ヽヽヽ」とあります。史料②において「武家奉公眞木島」との表記が見られますが、奉公衆になっていたと断定しきれないので、この史料⑤が「奉公衆」としての初見史料と思われます。

〔史料⑧〕
十九日、丙子、…(中略)…八幡宮ヘ御代官槇嶋玄詣云〻(『兼見卿記』元亀3年〔1572〕正月19日条)

史料⑧は将軍・足利義昭が自分に代わって、昭光を石清水八幡宮寺に年頭の挨拶として代参したものです。

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(参考文献)
  • 源城政好「槇島昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」(『宇治をめぐる人びと』宇治文庫6〔1995〕、のち『京都文化の伝播と地域社会』思文閣出版〔2006〕に「真木嶋昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」として収録)

  • 木下昌規「真木嶋昭光の地位形成についての基礎的考察―天正元年以降の将軍足利義昭側近として―」(佐藤成順博士古稀記念論文集刊行会編『佐藤成順博士古稀記念論文集・東洋の歴史と文化』、山喜房仏書林、2004)

  • 木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章

  • 高田泰史「信長・秀吉・家康に怖れられた槇島玄蕃頭昭光―最後の将軍足利義昭の忠臣―」(熊本歴史学研究会『史叢』第15号、2011)
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※(参考)禅定寺 熊本藩重臣各家の墓(熊本市中央区)(「ぶらり歴史旅一期一会」のブログサイトより)―
※(参考)禅定寺に祀られている加藤家、細川家の家臣団、その他(禅定寺のブログサイト「歴史遺産の紹介」細川家家臣より)

※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―
※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光

「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」

私が高校3年生の頃に観たドラマ「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」がCSの日本映画専門チャンネルで再び視聴できます。

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「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」は、昭和58年(1983)1月2日にテレビ東京系列で放送された「12時間超ワイドドラマ」(のちの新春ワイド時代劇)の枠で放送されたテレビドラマです。

あらすじとしては―

海軍一筋に生きた山本五十六の生涯を約12時間の6部構成で描いた巨編。テレビ東京系列で1983年の正月番組として放送された。原作の阿川弘之や脚本に名を連ねる新藤兼人らの、多くの犠牲を伴う戦争への痛切な思いを、豪華俳優陣が真摯に体現。戦死を遂げた山本五十六の波乱の生涯を、彼の家族や友人、部下達とのふれあい、そして彼を愛し見守り続けた女性達との絆、歴史の奔流の中で消えていった名も無き人々の哀歓を交えながら描き出す。

といったもの。6部構成の各サブテーマは、

  • 第1部「日本海大海戦の激闘」
  • 第2部「宿命に揺れる初恋」
  • 第3部「決死の霞ヶ浦航空隊」
  • 第4部「日米開戦前夜」
  • 第5部「怒濤の連合艦隊」
  • 第6部「長官機撃墜の謎・戦艦大和の出撃」

    • となっていて、阿川弘之氏の『軍艦長門の生涯』、高橋孟『海軍めしたき物語』などを原作ベースに新藤兼人氏らの脚本で辛辣に当時の様子が描かれています。

      主な配役陣は、

      • 高野五十六(のち山本五十六)=古谷一行さん
        →第26代・第27代連合艦隊司令長官
      • 五十六の妻・礼子=檀ふみさん
      • 佐世保の芸奴・小太郎(鶴島正子)=池上季実子さん
        →五十六の初恋の女性
      • 新橋の芸者・梅龍(河合千代子)=樋口可南子さん
      • 空母「赤城」戦闘機隊長・波木の下宿屋の娘=杉田かおるさん
      • 古川敏子=岩井友見さん
        →料亭「新橋中村家」の女将
      • 五十六の実姉・高野嘉寿子(加壽):河内桃子さん
      • 五十六の従兵・後藤一作=岡本信人さん
      • 東郷平八郎=芦田伸介さん
      • 南雲忠一=金子信雄さん
      • 草鹿任一=平田昭彦さん
      • 草鹿龍之介=中井啓輔さん
      • 大西瀧治郎=藤巻潤さん
      • 古賀峯一=木村四郎さん
      • 堀悌吉=新克利さん
      • 米内光政=渡辺文雄さん
      • 井上成美=仲谷昇さん
      • 反町栄一=山田吾一さん
      • 伏見宮博恭ひろやす王=穂積隆信さん
        →海軍軍令部長→軍令部総長で「伏見軍令部総長宮」と呼ばれた。
      • 近衛文麿=高橋昌也さん

      放送予定は、9月23日、第1部から第6部までの一挙放送になっています。

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      すごく懐かしいです。今まで録画する機会を逸していたので、今回は全編滞りなく録画しようと思っています。

      特に印象に残っているのは、山本五十六の戦死シーンでしょうね。

      昭和18年(1943)4月18日、ブーゲンビル島やショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウル島からブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てていたのを、アメリカ軍に暗号傍受され、待ち構えていたアメリカ戦闘機にブーゲンビル島上空で襲撃・撃墜されて戦死するのですが、このシーンが(当時としては)割と詳しく描かれていて強烈なイメージを今も思い浮かべています。

      とにかく、36年ぶりに視聴できる「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」というドラマ、しっかり目に焼き付けないと!

(トピックス)平安京の範囲が確定!「羅城」と「九条大路」を初確認 「延喜式」に合致

平安京で初めて出土した羅城の土壇跡。九条大路の側溝や路面も初めて見つかった

京都市埋蔵文化財研究所は、元京都市立洛陽工業高等学校の校舎(唐橋校舎)跡地(同市南区)で行われた平安京(城)跡の発掘調査で、平安京(城)の最南端に当たる九条大路と、平安京(城)と京郊外の境目を隔てていた築地塀ついじべい羅城らじょうの一部の遺構が確認されたと発表しました。

今回遺構が確認された場所は平安京(城)の玄関口であった羅城門跡から西へ約630mの場所にあり、平安京(城)の右京九条二坊四町にあたります。

発掘されたのは、東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面跡と、その南北の側溝跡、さらに南側の側溝の外側に砂利と土を締め固めた土壇跡、何れも平安京(城)が造営された9世紀から10世紀頃の遺構で、路面は九条大路、土壇は「羅城」を築いた基底部分とみられます。

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平安京右京九条二坊四・五町跡発掘調査現場

桓武天皇が延暦13年(794)に遷都した平安京(城)の規模は、根本法令である律令を補完するため10世紀頃にまとめられた法令集『延喜式』に造営当初の施工計画が記されており、それによると南北1753丈(1丈=3m、約5・3㎞)、東西1508丈(約4・5㎞)で、京域内の南北中心線上にメーンストリートとして朱雀大路が通り、その南端を東西に通る九条大路との接点に玄関口として「羅城門」が建っていました。

九条大路の遺構は路面跡などに残る土器などから9~10世紀のものとみられ、北側の側溝跡、路面跡、南側の側溝跡、側溝と築地塀の間の狭い平地「犬行いぬゆき」(犬走いぬばしり)跡がそれぞれ確認されました。

南北両側の側溝跡は幅が約1・2m、「犬行」(犬走)跡が約1・5mである事が確認され、北側の側溝跡から南側の側溝跡までの幅は約30メートルで、これが路面の幅とみられます。

『延喜式』には「南きわ大路十二丈。羅城外二丈垣基半三尺,犬行七尺。【溝廣一丈。】路廣十丈」(『延喜式』卷第42 左右京職 東西市司、京程)とあり、

 「溝廣」(溝の広さ)は「一丈」なので3m、
 「犬行」「七尺」なので2・1m、
 「垣基半」「羅城」を築いた基礎部分)は「三尺」で0・9m、
 「路廣」(路面の広さ)は「十丈」なので約30m、

合わせると、12丈=36mとなり、『延喜式』で定められた「大路十二丈」と一致することが確認されました。

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平安京の「羅城」推定図

一方で、「羅城」の基底部分にあたる土壇跡は南北方向に幅約3m、東西方向に約4m延び、高さが約15㎝で砂利や小石、土を交互に締め固めた跡が確認されました。

「羅城」とは、都城制を敷いていた古代中国の首都・洛陽や長安において外敵から守るため周囲に築かれた城壁を指し、中国では高い城壁を巡らせて囲っていました。

日本において、平城京(城)では南辺のほぼ全体にあった事が発掘調査などで確認済みですが、平安京(城)「羅城」については見つかっていませんでした。

通説では、京域内を荘厳に見せるためにその玄関口にあたる「羅城門」と周囲、すなわち国家鎮護の官寺・西寺まで設けられていた、としていて、『延喜式』にも「羅城」の規格は南限の九条大路にしか付記されていません。

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発掘を担った同研究所によると、平安京(城)の四辺の境界にあたる道路のうち北、東、西では遺構が確認されていたが今回の南側の発掘で、平安京(城)の南限が考古学的に確定し、『延喜式』に記載された平安京(城)の広さが考古学的に裏付けられたとしています。

また、今回の成果について、西山良平・京都大学名誉教授は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり丁寧に高い精度で造られていた事がはっきりとわかった。今後の平安京研究の基準となる大きな成果だ」と話されています。