(トピックス)大垣城特別展「石田三成~幻の大垣城決戦~」

関ヶ原の戦いに向けた前哨戦や幻となった大垣城決戦などを解説するパネル

関ヶ原の戦いで西軍方を率いた武将、石田三成に焦点を当てた特別展「石田三成〜幻の大垣城決戦〜」が、大垣城(岐阜県大垣市郭町)で開かれています。会期は来年1月11日まで。

関ヶ原の戦いから420年を記念して催される企画で、三成の戦略構想や大垣城入城、福束ふくつか城や杭瀬くいせ川での前哨戦などを時系列にしてパネルで解説しています。

展示の中には、もし仮に西軍方が関ヶ原での決戦を選択せず、大垣城での決戦を選んだ場合を考察した「幻の大垣城決戦」の解説もあり、籠城する西軍方を南宮山から支援する毛利秀元らの軍勢の存在や、東軍方が大垣城を水攻めする可能性など、混戦模様になっていた状況を推測しています。

会場では、大垣城籠城や落城寸前の脱出の様子について、三成の家臣、山田去暦の娘が少女時代に体験した大垣城の戦いの頃の様子を年老いてから子供たちに語った体験記『おあむ物語(御庵物語)』も絵巻の挿絵と共に紹介しています。

大垣城特別展「石田三成~幻の大垣城決戦~」

入館料200円(18歳未満は無料)。休館日は原則として火曜日、あるいは祝日の翌日(その日が日曜日または火曜日にあたる場合は、その翌日、その日が月曜日または土曜日にあたる場合は、その翌々日)、年末年始(12月29日から1月3日)となっています。

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※(参照)大垣城―「肝心」な場所―

(トピックス)明智光秀、438年の時を経て出生地・明智荘に帰参を果たす‼

明智光秀のブロンズ立像

岐阜県可児市所縁の戦国武将・明智光秀のブロンズ像が完成し、光秀の命日にあたる13日、明智長山城・本丸跡(同市羽生ヶ丘)で除幕式がで行われました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放送され、明智光秀の出生地と伝わっている「明智荘」などが注目を集める中で地元が誇る智将を次世代に伝えようと可児市が建立を計画。事業費は約3100万円で個人や法人からの寄付、ふるさと応援寄付金も活用されました。

光秀のブロンズ像は、像の高さが2・3mで高さ2mの台座の上に乗り、40歳ぐらいで甲冑に陣羽織を纏い、左手には火縄銃を携えて明智荘を見渡している立像姿になっています。

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「麒麟が来る」明智光秀

光秀の出自については諸説ありますが、通説では土岐氏の流れをくむ「土岐明智氏」の一族であるとされています。

土岐氏は美濃国土岐郡を本拠地とした氏族ですが康永元年(1342) に土岐氏庶流の土岐十郎頼兼が可児郡明智荘(可児市北東部と可児郡御嵩町西部の一帯)に明智長山城(同市瀬田長山)を築いて居城とし、以降「明智」の名字を名乗るようになったとされています。

同時代に禁裏御蔵職みくらしきであり、金融業を営んだ立入宗継の日記には、光秀「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也 明智十兵衛尉」(『立入左京亮入道隆左記』天正7年=1579=6月10日条)と記載しています。

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今回のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が起爆剤となって、新たな発見が見つかるといいな!

城戸俊三選手と「久軍号」―観客すべてが感銘し賞賛した"愛馬精神"―1932・ロサンゼルス五輪にて

昭和7年(1932)7月30日から8月14日までの16日間、アメリカ合衆国カリフォルニア(California)州のロサンゼルス(Los Angeles)で行われたオリンピアード競技大会(通称、オリンピック、Games of the Olympiad)で8月10日から14日までの期間に開催された馬術競技の日本代表選手は次のようなメンバーでした―

  • 総合馬術:城戸俊三選手久軍号
  • 総合馬術:山本盛重選手(錦郷号)
  • 総合馬術:奈良太郎選手(孫神号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):今村安選手(ソンネボーイ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):吉田重友選手(ファレーズ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):西竹一選手(ウラヌス号)

選手の殆んどが習志野原(千葉県千葉郡二宮町薬園台、現在の船橋市薬円台)にあった陸軍騎兵学校(習志野騎兵学校)出身者だそうです。

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競技は3日間をかけて同一人馬により競技が行われ、初日に馬場馬術(調教審査)、2日目にクロスカントリー(耐久審査)、3日目に障害馬術〔障害飛越〕(余力審査)がそれぞれ行われました。

また、これら3種目を同じ人馬のコンビネーションで減点合計の少なさを競う複合競技を総合馬術といいます。

馬場馬術とは、長方形(20m×60m)の競技施設内を演技の正確さや美しさを競う競技で、「常歩(なみあし)」「速歩(はやあし)」「駈歩(かけあし)」といった3種類の歩き方を基本に、様々なステップを踏んだり、図形を描いたりしながら、規定演技と自由演技を行ないます。

クロスカントリー競技は、通常のコースだけではなく、自然に近い状態の地形に竹柵や生垣、池、水濠、乾壕といった障害物が設置され、
32・29㎞というコースの長さに加え、飛越する障害物は50を超えます。選手の技術と騎乗する馬の能力、さらにそのコンビネーションが合わさってコースを走りに抜きます。障害物の前で止まったり、回避したりすると減点となり、選手が落馬すると失権(競技停止)となります。また、既定の時間を超過しても減点となるため、スピードも重要な要素となります。

ハードなクロスカントリー競技の翌日、獣医師によるホースインスペクション(馬が競技への参加を続けるだけのコンディションにあるかどうかをチェック)が行われます。選手やスタッフは、馬のコンディションを維持するためにあらゆるケアをしてインスペクションに臨み、合格した馬がこの競技への参加を許されます。馬の体力は勿論の事、心理状態もかなり追い詰められる競技なので、人が心身ともに元気があっても、馬の調子がよくないと進みません。いかに休ませるかも重要になってきます。

障害馬術〔障害飛越〕とは、競技施設内に設置された10~13個の様々な障害物(高さ160㎝、幅200㎝=大障害)を、決められた順番通りに飛越、走行する競技で、障害物の落下や馬が不従順な態度を示すと減点となる「標準競技」、障害物の落下による過失をタイムに換算したスピード&ハンディネス競技があります。

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さて、選手たちは、同年5月28日に各国選手団よりも一番乗りでロサンゼルスに到着します。

この頃の移動は、現在のように飛行機とかではなく船旅で、日本からロサンゼルスまで2週間余もかかる長旅でした。

しかも、馬術の選手団は競技用の馬を運ばなければならないため、別便として馬用の貨物船を用意しなければなリません。

加えて、選手団は7人の他にも到着後に馬の世話をするためのスタッフ(馬丁など)が必要なため、かなりの大所帯であったと云います。

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2日目に催されたクロスカントリー競技でのエピソードは現在も語り草となっています―

馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手が競技に臨んだのですが、本来の担当馬及び予備馬がロサンゼルス到着以降、2頭とも故障が発生し、完治する見込みがない、という事態が生じてしまったのです。

そこで、翌日の障害馬術〔障害飛越〕用に同行させていた「久軍号」を代替馬として出場します。

実際、城戸選手が初めてオリンピックの馬術競技に参加したのは、前回大会である昭和2年(1928)のアムステルダム大会で、同じく「久軍号」とのコンビで総合競技を完走していました(21位)。

城戸選手は1番出走で出発します。最終障害まで障害無過失で疾走していたのですが、突然「久軍号」の身に異変を感じ取ります。

それでなくても、「久軍号」も年老いており、急なエントリー変更で熟練の技能はあっても鍛練不足は否めません。

最後の障害に向かう事、計3回!しかし、3回目に臨もうとしたその時―

城戸選手は突然、「久軍号」から下馬し、なおも進もうとする「久軍号」を押し留めたのです。

そう、城戸選手は完走を目前にしながら棄権を選択したのですね。

実は「久軍号」は息も絶え絶えで、全身からも汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていた状態で、とうに全力を出し切っているのにも拘わらず、微かに残る力で次に進もうと踏ん張っていたようです。

その状態を2回目の時に感じた城戸選手は無理はさせられない、と咄嗟の判断で下馬したんですね。

城戸選手「久軍号」に「よく頑張った」とたてがみを撫でてやると、「久軍号」も主人の心を知ってか、城戸選手の胸に鼻を埋めてきたそうです。まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているかのように―

結果、最終障害物を目前にして城戸選手「久軍号」は失権となります。

下馬した城戸選手はすぐに「久軍号」のケアを始めます。

疲労著しい「久軍号」をスタッフには任せずに、城戸選手自ら労わり続ける姿に観客やスタッフ、そして取材陣は感銘を受けたといいます。

城戸選手は後にこう語っています―「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。『久軍号』には気の毒なことをした」と…

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大会後、現地のカリフォルニア動物愛護協会は城戸選手を表彰しようとします。

城戸選手「久軍号」の光景を観ていた観客たちの「彼は疲労した馬のために走行を止めたのだ!」と大きな感銘と称賛の声が広がった事もあって、当時ロサンゼルスで発行されていた、北米で現存する最古の邦字新聞『羅府(らふ)新報』(Rafu Shimpo)に「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」との見出しで書かれています。

"愛馬精神"に徹した城戸選手「久軍号」のエピソードにアメリカ人道協会は、昭和9年(1934)に城戸選手の行為を讃え、2枚の記念碑を鋳造します。

1枚はカリフォルニア州リバーサイド(Riverside)郡リバーサイド市にそびえるルビドー山(Mt.Rubidoux)にある「友情の橋」に取り付けられ、もう1枚は同じくリバーサイド市内のホテル「ザ・ミッション・イン」に保管されます。

「友情の橋」に取り付けられた記念碑には「情けは武士の道」という文言が日本語で刻まれています。太平洋戦争が勃発し、アメリカ国内で敵国となった日本を讃える石碑が撤去されそうになる事態が生じますが、城戸選手「久軍号」には罪はないのだから…とアメリカ人道協会は撤去ぜす、現在に至っているそうです。

また、「ザ・ミッション・イン」に保管されたいた記念碑は、この大会で城戸選手が使用し、日本馬術チームを親切に世話してくれたアメリカ人に寄贈していた鞍とともに、昭和39年(1964)に東京オリンピック開催の記念として日本オリンピック委員会に贈呈され、現在は秩父宮スポーツ博物館に展示されています。

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エピローグとして―

ところで、戦時中に徴用されたおよそ100万頭の馬が戦場に斃れたと云われています。

そんな彼らの犠牲を悼み、戦後になって記念碑建立の話が持ち上がります。

城戸氏は旧軍人や馬主など多方面への働きかけによって、靖国神社に「戦没軍馬の像」が建立され、現在も毎年4月7日の「愛馬の日」には「戦歿馬慰霊祭」が同神社で行われています。

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※(参照)NHKスペシャルより~ドラマ「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」

(トピックス)「命のビザ」バトンを繋ぐ 根井三郎の発給ビザ、実物見つかる!

今回、発見された根井三郎が発給したビザ

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ系難民に発給した日本通過ビザ(査証、以下、ビザ"命のビザ"として知られています。

この"命のビザ"は3人の日本人によってバトンリレーされ、多くのユダヤ系難民を救うことになるのですが、今回、旧ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連、現ロシア連邦)・ウラジオストック(ウラジオストク)の日本総領事館の総領事代理だった外交官、根井三郎が発給したビザの実物が初めて見つかりました。

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旧ウラジオストック日本総領事館

事の発端は、第二次世界大戦中の最中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきたユダヤ系難民が第三国に逃れるために日本への通過を求めて駐リトアニア領事代理だった杉原千畝ちうねにビザ発給を要求し、昭和15年(1940)7月から9月にかけて、外務省の訓令に反して人道目的から2139人分(その家族らも含め約6千人分)のビザを発給します。

リトアニアから国外脱出を目指したユダヤ系難民はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったウラジオストックに到着します。

当時の日本政府は最終的な行き先国の入国許可がない者へのビザ発給を認めておらず、また外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、条件不備で来日しようとするユダヤ系難民への対応に苦慮し、翌16年(1941)3月、杉原が発給したビザを再検閲するように命じ、要件を満たさない者は日本行きの船に乗せないようにせよ、と訓令を出します。

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ウラジオストック総領事館の総領事代理・根井三郎

総領事代理だった根井三郎は「日本の公館が発給したビザを無効にすれば、国際的信用を失う」と訓令に抗議、外務省とのやり取りは5回にも及んだそうです。(根井と外務省が交わした電信は外交史料館に残っています)。

根井ビザを持つユダヤ系難民には敦賀行きの船への乗船許可を与え、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書やビザを新たに発給したのです。

リトアニアでユダヤ人たちに"命のビザ"を出した外交官・杉原千畝が発給したビザに、根井が追認して署名したものは既に確認されてはいましたが、根井自身が発給したビザはソ連側の記録(※)に残ってはいましたが、ビザの実物が立証されたのは初めてだそうです。

※ソ連側の記録
根井が昭和16年(1941)3月3日にソ連外務人民委員部(外務省)のウラジオストック駐在員と会談した際、「現地に滞留していた多数の難民に同情して、東京(本省)の許可を得ずに一定数の通貨ビザを発給した」と話した、という記録がロシア外務省の公文書館で発見されています。


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根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家 inochi-visa_05.jpg

今回、ポーランド出身で米国に亡命したユダヤ人の子孫が、根井が発給したビザを持っていることが判明しました。

根井が発給したビザを持っていたのは、ポーランド・ワルシャワ出身の故シモン・コエンタイエルさんで、孫にあたるキム・ハイドンさんから現存するビザの画像データの提供を受けたのだとか―

ビザは昭和16年(1941)2月28日に発給されたもので、「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀 横浜経由『アメリカ』行」と記され、根井の署名と署名の下にウラジオストック総領事代理の公印が押され、パスポートとは別の用紙に記載されていました。

シモンさんはドイツがポーランドに侵攻した昭和14年(1939)9月に妻子と共にリトアニアへ脱出。同16年(1941)2月上旬にモスクワの米大使館で入国ビザを申請したが却下され、シベリア鉄道でウラジオストックに入ります。

根井が発給したビザを使って同年3月に福井・敦賀に上陸。神戸から中国・上海に渡り、昭和22年(1947)8月に米・サンフランシスコに亡命されています。

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根井は戦後、外交官当時のことを周囲に語らなかったと云います。自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある精神が貫かれた"命のビザ"バトンリレーの結実した姿ですよね!

※(参照)「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ」

(トピックス)近藤勇自ら記した新選組の役割表か?黎明期語る手紙の写し

新選組局長の近藤勇が書いた手紙を写したとみられる史料(群馬県立文書館所蔵)

幕末期に活動した新選組の局長、近藤勇が結成前後に自ら隊士の役割表を記した手紙を写したとみられる史料が、群馬県立文書館(群馬県前橋市)に遺されていました―

手紙の日付は文久3年(1863)9月20日付で、運営方針を巡り対立した芹沢鴨らの暗殺直後とみられます。

新選組の存在が広く知られるようになったのは、攘夷派を襲撃した翌元治元年(1864)6月5日に起こった池田屋事件以降であり、黎明期の様子を垣間見れる貴重な史料となりそうだ。

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手紙は、現在の群馬県伊勢崎市で旗本の家臣の家柄だった萩原信之家に残された文書(萩原信之家文書)のうち『梧桐叢書あおぎりそうしょ』と題した冊子に収められていた。近藤が出した他の手紙もあり、所縁の人物が所有していた史料を、纏めて写したようです。

内容は、江戸市中にあった剣術道場、試衛館の創設者で養父だった周助の容体悪化を伝えられながら、京都を離れられない理由を綴ったもので、道場の跡を継いだ近藤に代わり、留守を預かる幕臣の寺尾安次郎へ宛てたものとみられます。

幹部だった芹沢の暗殺を「変死」とした上で、自分ひとりで攘夷派の取り締まりや取り調べを指揮しなければならず「寸暇も無之」と記載。養父の世話などを任せていることを心苦しいとして金を送り、状況が落ち着いたら江戸へ下るとしている。

それに続き、役割表は21人の名前を記している。新選組を所管した京都守護職で会津藩主の「松平肥後守御預り」「右役割被 仰付候」と明記。「局長」に近藤勇、「助役」に山南敬介、土方歳三らが並び、「当番目付」には、後の小隊制でそれぞれ組頭となる沖田総司や永倉新八、井上源三郎、斎藤一らの名前がみられます。

芹沢や同じく暗殺された平山五郎の名前はなく、芹沢の仲間で脱走した平間重介が担っていた「勘定役」は、土方と永倉の2人で兼務とするなど、混乱ぶりも覗えます。