(トピックス)大野市歴史博物館で企画展「絵図に見る越前大野城と江戸屋敷」、10月11日まで展示

「絵図に見る越前大野城と江戸屋敷」「絵図に見る越前大野城と江戸屋敷」

現在、大野市歴史博物館(福井県大野市天神町)で令和2年度企画展「絵図に見る越前大野城と江戸屋敷」が開催されています。

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舞台となる越前大野城(福井県大野市城町)は天正3年(1575)、金森長近によって築城されました。

天和2年(1682)、土井利房としふさが越前大野に入封して以降、最後の藩主で8代藩主・利恒としつねが明治4年(1871)の廃藩置県で廃藩に至るまでの期間は土井家の藩主によって藩政の基礎は固められます。

その間、宝永8年(1711)2月4日午後9時頃、藩の会所より出火したために角櫓すみやぐらが焼失。角櫓は再興不能となっています。

さらに、安永4年(1775)4月8日午前7時頃には「太郎兵衛火事」と呼ばれる大火で、天守閣や本丸などが焼失。

寛政7年(1795)に天守を除き本丸や藩主館などが再建されますが、同じ形態で復元されています。

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大野城などが描かれた「陸軍省城絵図」などが並ぶ企画展

越前大野藩の第2代藩主・利知としともが幕府に提出した『越前国大野城破損修復願絵図』(貞享5年=1688)、『越前国大野城曲輪焼失付修復之願絵図』(元禄8年=1695)、『越前国大野城曲輪焼失付修復之願絵図』(宝永8年=1695)や第6代藩主・利器としかたが幕府に提出した『越前国大野城絵図』(文政11年=1828)のほか、明治5年(1872)に陸軍省が作成した『陸軍省城絵図』(明治5年=1872)では越前大野城のほか、勝山城(福井県勝山市平泉寺町)、丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞)、鯖江陣屋(福井県鯖江市本町)、小浜城(福井県小浜市城内)なども展示されており、取り壊し直前の各城の様子を知ることができます。

城絵図には、その作成目的によって様々なものがあり、大野城や小浜城に多く見られる「石垣修復を願うための絵図」、勝山城や丸岡城、鯖江陣屋の絵図のように「城建設用の設計図」、そして明治初期に陸軍省が作成したような「軍事拠点として城の全容を把握するための絵図」などが見られます。

陸軍省の絵図とその120年前の絵図を比較してみると、城下町や城郭の変遷が見比べられます。

城が取り壊しになった際に足羽あすわ県が行った入札結果を記した『元大野城郭御払下入札人名帳』(明治5年=1872)なども展示されています。

また、土井家に対し幕府から下された屋敷(上・中・下屋敷)周辺の絵図を描いた江戸屋敷図『江戸切絵図「本郷谷中小石川駒込図」』(嘉永3年=1850)や、第7代藩主・利忠としただが私邸として自分で購入した屋敷図『築地御屋敷総絵図面』(年不詳)には小ぢんまりとした屋敷と大きな庭園が描かれ、面積は3798坪と記されています。

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大野城の絵図がこれだけ一堂に会するのは珍しく、色々な絵図の中を自分なりにイメージして巡り歩いてみてはいかがでしょうか!

開催期間は10月11日(日)まで。入館料は、大野市民と中学生以下は無料。大野市外の大人は300円。詳しくは同館へ。

(トピックス)島津義弘没後400年 企画展「鬼島津が遺したもの~島津義弘と文禄・慶長の役~」

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昨年は島津義弘没後400年に当たり、鹿児島県内を中心に島津義弘をテーマとする多くの企画展やイベントが開催されましたが、今年も義弘の新たな魅力や文禄・慶長の役前後の活動状況などを紹介する企画展「鬼島津が遺したもの~島津義弘と文禄・慶長の役~」が、9月18日(金)より佐賀県立名護屋城博物館(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)で開催されます。

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戦国大名・島津貴久たかひさの二男として生まれた義弘は、初陣の岩剣いわつるぎ城(現、鹿児島県姶良あいら市平松)の合戦を皮切りに、三州(薩摩・大隅・日向)統一などにおいて多くの軍功を挙げ、兄の義久を助け、勢力拡大に大きく貢献しましたが、九州統一を目前にして豊臣秀吉に阻まれ、島津氏は豊臣体制下で臣従の道を歩みますが、その中でも義弘は積極的に重い任務にあたることで一族の存続を図ります。

秀吉の「唐入り」が決まると義弘は島津家を代表して、一族の久保ひさやす義弘の次男)や忠恒ただつね義弘の三男、島津宗家を継ぎ、のち 家久)、豊久とよひさ義弘の甥)と共に肥前松浦郡名護屋(名久野)に参陣。義弘自身は名護屋城(現、佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城にも積極的に関わっています。

文禄・慶長の役(壬辰倭乱じんしんわらん)では朝鮮半島に渡り各地を転戦し、特に慶長の役では、慶長2年(1597)8月12日~16日にかけての南原なんげん(現、大韓民国全羅北道チョルラプクト南原ナモン市)城の戦いや、翌3年(1598)9月19日~翌10月1日にかけての泗川しせん(現、大韓民国慶尚南道キョンサンナムド泗川サチョン市)倭城の戦い等で大きな戦功を挙げて明・朝鮮軍から「鬼石曼子(ぐいしーまんず)」、すなわち"鬼島津"と恐れられます。

ちなみに、韓国時代劇ドラマ『不滅の李舜臣(イ・スンシン)』の中で文禄・慶長の役(壬辰倭乱)が描かれた際、日本軍の補給・連絡の前線基地が肥前名護屋ではなく尾張名古屋となっていたんですよね。作中に描かれた航路図も本陣である尾張名古屋から出航し、摂津大坂経由で瀬戸内海航路を通り、玄界灘を渡って朝鮮半島に渡った、という長距離航海になっていたんですよ。厳密にいえば、この頃は名古屋城(現・愛知県名古屋市中区、北区)はまだ築城されておらず、那古野城(現・愛知県名古屋市中区)跡地が存在しただけなのにね…

関ヶ原の戦いでは西軍の敗戦が決まると、寡兵で「敵中突破」を敢行し、その脱出劇は「島津の退き口」として後世に広く語り継がれ、「島津の軍勢といえば"鬼島津"のごとし」という心理的影響を植え付けていくことになるのです。

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島津義弘陣跡主郭部の南面石垣

同館では平成28年度(2016・4~)より、義弘が築いた陣の跡地(国が指定する特別史跡)の発掘調査を実施しており、その結果、石垣・玉石敷たまいじき虎口こぐち空間など、陣屋の構造や在陣生活の一端を示す多くの手掛かりが確認されました。

この陣跡地は名護屋城跡から北西約3㎞の波戸岬付近に位置する佐賀県唐津市鎮西町波戸にあります。

企画展では、こうした発掘調査の最新成果を発表するとともに、義弘の名護屋在陣前後に関する様々な資料を紹介することで、新たな義弘像を明らかにし、その動向を通して文禄・慶長の役の実像や名護屋在陣中の義弘の生活に迫り、その足跡たどります。11月8日まで。観覧料は無料。

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※(参照)(トピックス)「じめさあ」(持明様)にあやかれ 願いをこめて“お化粧直し”
※(参照)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―

(トピックス)斎王を選ぶ方法紹介 斎宮歴史博物館で企画展

「斎王を選ぶ」展

かつて天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた斎王(さいおう・いつきのひめみこ)の選定方法などにスポットを当てた夏季企画展「斎王を選ぶ」が、斎宮歴史博物館(三重県多気郡明和町竹川)で催されています。

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斎王を選ぶ儀式を紹介する絵巻やパネルが並ぶ会場

斎王は天皇が代替わりした時や、斎王自身の身内に不幸があった時にその都度、未婚の内親王または女王の中から選ばれました。

制度上、最初の斎王は天武2年(674)、壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、娘の大伯おおくの皇女ひめみこを神に仕える御杖代みつえしろとして伊勢に遣わしたことに始まります。

以来、後醍醐天皇の時代に制度が廃絶するまでの約660年間、60人余りの斎王が天照大神に仕え、祈りを捧げてきたそうです。

どのようにして斎王が選ばれたのかについては、亀(アオウミガメとか)の甲羅を火で焙ってできたひび割れの形で吉凶を占う儀式である亀卜きぼくを用いた「卜定ぼくじょう」によって、その皇女が斎王に適するか否かを占ったという。

企画展では、儀式の内容を取り決めた平安時代の法令集『延喜式』や占いが行われた場所を記した『大内裏図考証』、儀式や占いに関わった神祇じんぎ官などが斎王の名を紙に書いたとされるすずりや、封をするのに使った小刀が描かれた絵巻『類聚雑要抄図巻るいじゅうざつようしょうずかん』巻4など、主に江戸時代の版本や写本など図解で分かりやすく紹介したパネルなど33点の資料が展示されていて、様々な観点から「斎王を選ぶ」様相に迫っています。

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斎宮女御が斎王に選ばれた経緯や関連する美術品を紹介するコーナー斎王の選定方法について詳しく紹介した企画展「斎王を選ぶ」

また、歴史上60人余いたといわれる斎王のうち、卜定での選ばれ方が特徴的なエピソードを持つ8人の斎王を取り上げ、その時代的な背景とともに紹介されています。

歌人として知られ、“斎宮女御”と呼ばれた斎王徽子よしこ女王」は、朱雀天皇の時の斎王に不幸があった後、天皇の姉妹を斎王候補にできず、めいという遠い血縁関係にありながら選ばれた経緯が紹介されいて、“斎宮女御”の姿が描かれた『三十六歌仙図画帖』や掛け軸も並べられています。

卜定によって恋人・藤原敦忠との仲を引き裂かれた「雅子内親王」に関する平安時代の歌物語『大和物語』などもあり、それぞれの斎王の人物像に思いを馳せることができますよ。9月10日まで。月曜休館。詳しくは同館まで。

広島城入城後も吉田郡山城は存続していた?

毛利輝元と二つの城~広島築城と残された吉田郡山城

戦国時代、中国地方を治めていた毛利輝元が天正19年(1591)正月月8日に本拠地を広島城(現、広島県広島市中区基町)に移して以降、旧本拠地の吉田郡山城(現、広島県安芸高田市吉田町郡山)は毛利氏の本拠としての役割を終えて廃城となり、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住したと云われています。

しかし、吉田郡山城がその後少なくとも3年間は存続していたことが判明したのです。

それは大阪城天守閣に保管されている穂井田ほいだ元清(毛利輝元の叔父)の書状で、文禄3年(1594)に元清が兄の小早川隆景と共に吉田郡山城に出頭したとあるのです。

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縦約30㎝、横約50㎝の書状には「朝鮮(=朝鮮出兵)から帰国した元清が、小早川隆景と一緒に吉田に出頭した」と記されています。

厳島神社(現、広島県廿日市市宮島町)が所蔵する毛利氏関連の文献などから、元清が朝鮮(=朝鮮出兵)から帰国した年が文禄3年(1594)と特定でき、輝元が広島城(現在の広島県広島市中区基町)に入城した3年後であることが判明しました。

広島城に移転後も、元清、隆景ら毛利氏一族や重臣が吉田郡山城にて参集していた事実を見ると、吉田郡山城が何らかの形で維持されていたとも考えられ、広島城から吉田郡山城まで7里の道程があることから、輝元が吉田郡山城を「後詰めの城」と考えていた可能性もあるのでは、との推測されます。

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その後、毛利輝元は周防国・長門国に移封され、慶長6年(1601)3月、安芸国(広島)には福島正則が入封して以降、元和5年(1619)まで治めますが、その間の慶長20年閏6月13日、一国一城令により、広島城以外は破却されます。

さらに、元和5年(1619)8月に浅野長晟ながあきらが安芸国に入封しますが、寛永14年(1637)に島原の乱が起きた際、その拠点として一国一城令で廃城となった原城跡が使われたため、キリシタン衆徒の決起を恐れた幕府によって、廃城の石垣や堀などの完全破却・撤去が徹底されることとなり、吉田郡山城跡も徹底的に破壊されたようですね。

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※(参考)『毛利輝元と二つの城~広島築城と残された吉田郡山城』(吉田歴史民俗資料館 平成15年度特別企画展・図録)
※(参考)『郡山城―毛利氏260年の城―』(吉田歴史民俗資料館 平成19年度「日本百名城選定記念企画展」・図録)

※(参照)(トピックス)毛利氏時代の広島城天守閣の完成年が判明!

(トピックス)光秀の妻・煕子「病死説」裏付けか 戒名記した仏画発見!

聖衆来迎寺所蔵「仏涅槃図」「仏涅槃図」の裏面に記された寄進銘。熙子の戒名「福月真祐大姉」が記されている

戦国武将・明智光秀を献身的に支えたことで知られる妻、煕子ひろこが坂本城が落城よりも前に死去していた、という説を裏付ける新たな史料が大津市の寺で発見されたようです。

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発見されたのは、光秀が庇護ひごしたという所縁がある天台宗寺院・聖衆しょうじゅ来迎寺らいこうじ(滋賀県大津市比叡辻)が所蔵する仏画『仏涅槃ねはん図』の裏に寄進者と由来を示す「寄進銘」が記されていて、そこに煕子の戒名といわれている戒名が記されていたのが確認されたため、熙子の死亡時期を想起させる新たな史料として期待されています。

光秀を支えた良妻とされる熙子ですが、正確な事績を伝える史料は極めて少なく、その没年を巡っては、天正4年(1576)に病死したとする説と、同10年に光秀の居城だった坂本城が落城した際に自害したとする説があります。

光秀の菩提寺である天台真盛宗総本山の西教寺(滋賀県大津市坂本)にある墓石や過去帳(『西教寺塔頭実成坊過去帳』)には「福月真祐大姉 明智惟任日向守光秀御臺」と記された戒名と共に「天正4年11月7日」との記載がみられるので、天正4年に亡くなったとするのが有力とされる一方で、後年の編纂物である『美濃国諸旧記』(寛永末期~正保前期)や『明智軍記』(元禄年間)などの軍記物やイエズス会宣教師の報告書の記録では天正10年6月14日、光秀敗死後、坂本城落城の際に親族らとともに自害したと記されてあるからです。

しかし、この『仏涅槃図』は天正9年(1581)に煕子らを弔うため、寺に寄進・奉納されたとの記載があり、今回の発見によって熙子は本能寺の変の前、すなわち天正9年以前に亡くなっていたとが確実となり、天正4年の「病死説」を裏付ける可能性が高くなりました。

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煕子の戒名が見つかった『仏涅槃図』とは、釈迦が入滅した際の様子を描いた仏画で、縦144㎝、横135㎝。同寺が毎年3月15日に営んでいる涅槃会法要の際に使われているようです。

「寄進銘」の裏側には寄進・奉納した者などは不明だが、寄進・奉納された日付「天正九年壬午じんご八月時正じしょうが墨書きで記され、現世安穏や故人4名それぞれの戒名の冥福を願って同寺に寄進・奉納された経緯が記されています。

「時正」とは、秋分の日の前後3日間、合計7日間の秋のお彼岸の時期にあたります。

すなわち、熙子は天正9年8月の「時正」の時期には既に亡くなっていたことが確認できるのです。

但し、1つ気になるのは天正9年の干支えとの存在ですね。天正9年は辛巳しんしでなければならないのですが、翌10年の干支である「壬午」が記されている点が気になりますね。

光秀にとって天正9年8月頃の大事といえば、

去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、(『多聞院日記』天正9年8月21日条)

のように、「御ツマキ」殿の死去(8月7日、または8日)ですね。

とすれば、「御ツマキ」殿の法要も営まれていて、その流れのなかでこの『仏涅槃図』が寄進・奉納されたとも考え得るのですが…


その4名の戒名のうち、西教寺に伝わる煕子の戒名と一致する福月ふくげつ真祐しんゆう大姉だいしが記されていたのです。

西教寺以外で煕子の戒名が確認されたのは初めてだそうで、没年特定の有力な史料となり得るかもしれませんね。

『仏涅槃図』は、大津市歴史博物館(滋賀県大津市御陵町)で現在開催中のミニ企画展「明智光秀と在地土豪」(~10月11日まで)において10月4日まで展示された後、10月10日~11月23日まで催される開館30周年記念企画展「聖衆来迎寺と盛安寺―明智光秀ゆかりの下阪本の社寺―」でも出展される。問い合わせは同博物館へ。