(トピックス)海底眠る元寇船に「至元十二年」の文字情報を確認:「元寇」裏付け資料 松浦・鷹島沖

長崎県松浦市教育委員会は、鎌倉時代の元寇げんこう」(蒙古襲来)の遺物が数多く出土している、伊万里いまり湾に浮かぶ鷹島たかしまの南岸沖にある「鷹島海底遺跡」(長崎県松浦市鷹島町、国指定史跡)に眠る、沈没したと伝わる元寇船から、「墨書木板」(墨で文字が書かれた木製の板)が発見されたと発表されました。


約750年前に起きた「元寇」(蒙古襲来)の歴史的背景を裏付ける新たな手掛かりとして貴重な文字資料とされています。


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「元寇」(蒙古襲来)とは、鎌倉時代の文永11年(1274)の文永のえきと弘安4年(1281)の弘安の役、の2回にわたって行われたモンゴル帝国「大蒙古国」の大元モンゴルウルス(元王朝)の対日本侵攻をいいます。


なかでも、弘安の役において日本へ派兵された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊が日本に向けて出航したといいます。


弘安4年(1281)6月下旬、元軍は朝鮮半島から進発したモンゴル兵、女真じょしん兵、高麗こうらい兵などで編成された東路軍とうろぐんと、旧南宋領である杭州路(現、中華人民共和国浙江せっこう省)から進発した旧南宋の降兵を主体に編成された江南軍の二方面から日本に侵攻します。


東路軍は高麗の合浦がっぽ(現、大韓民国慶尚キョンサン南道ナムト昌原チャンウォン馬山マサン会原フェウォン区)から出撃し、江南軍は揚子江河口付近の慶元府けいげんふ(現、中華人民共和国浙江せっこう寧波にんぽー市)を出撃します。


6月の末頃になって東路軍と合流した江南軍は平戸島ひらどじま(長崎県平戸市)・鷹島沖周辺に集結し、いよいよ上陸を開始しようと準備を進めます。


東路軍と江南軍の合流地点となった平戸島は大宰府だざいふ(福岡県太宰府市・筑紫野市)に近い場所であること、軍船などを停泊させるのに利便性があったようです。


停泊していた江南軍ですが、鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進めない状況だったため、鷹島で一旦進軍を停止し、鷹島沖に駐留します。


7月30日夜半から翌日の閏7月1日、東路軍、江南軍ともに激しい暴風雨に遭遇し、荒波で多くの軍船が激突しては沈没、損壊などで潰滅的打撃をこうむり、軍船は約4400隻のうち残ったのは200隻ほどであったように、次々と海底の藻屑と消えていった、という惨状であったといいます。


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発見された「墨書木板」は、縦12㎝、横25・2㎝、厚さ0・9㎝の杉材の板とみられ、左右の上端に釘で船内に打ちつけられていたとみられる0・4㎝ほどの穴があった事から、軍の高官に出された公文書の内容や、兵士や船員への注意事項などを船内の壁に掲示していた可能性があるとされています。


表側には文字が確認でき、赤外線で撮影した文字を解読したところ、左端に大元モンゴルウルス(元王朝)の元号と思われる至元しげん「十二年(または十三年)」を示す漢字が墨書きされていて、ほかにも船員の業務当番などを示す更次こうじ(輪番)とみられる文字などが確認されたそうです。


昭和55年度(1980)から続く「鷹島海底遺跡」調査では、これまで海底から出土した船舶に用いた大型木材などの軍船の残骸や陶磁器、甲冑や刀剣などの武器・武具などの遺物約4千点のうち、文字資料となるのは銅銭を除いては印鑑類や陶磁器など14点しか出土されていませんでしたが、「墨書木板」は令和5年度(2023)に確認された3隻目の沈没船の発掘調査中に水深約18mの船底部付近から出土したそうです。発見された段階で墨書の跡を確認できてはいましたが、遺物などの引き揚げ後の急速な劣化を防ぐため、今年2月まで保存処理に時間を要し、その後、赤外線撮影などを実施し、文字の解読に臨んだのだとか──


また、陶磁器のほとんどが江南地方で製造されたものと判明しており、高麗産の遺物は発見されていないようです。


以上の点から、二度にわたる「元寇」(蒙古襲来)が史実であることを裏付ける決定的な証拠と評価されています。


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「至元十二年」(文永12年=1275)という年号は元が最初に襲来した文永の役(1274年)の翌年にあたり、「至元十三年」(1276)は翌々年にあたります。


大元モンゴルウルス(元王朝)にとって「至元十二年」(1275)・「至元十三年」(1276)は江南地方で中国の南宋王朝を攻略中の期間であり、徳祐とくゆう2年(1276)、モンゴル軍によって南宋の首都・臨安りんあん府が陥落・占領され、南宋皇帝の恭帝きょうてい趙㬎ちょうけん)は降伏。一部の南宋の遺臣たち残存勢力は徹底抗戦を続けますが、祥興しょうこう2年(元:至元16年/日本:弘安2年:1279)に厓山がいざん(崖山、現、中国広東省新会県)の戦いで元軍に撃滅され、南宋は名実ともに滅亡します。


こうした点から、南宋の軍船を元軍が接収して使用した可能性があるのでは、との指摘もあり、年代が特定されたことで、当時の歴史背景も照らし合わせるとこの沈没船は中国・江南で建造されたものでは、との分析もされています。


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「墨書木板」は4月28日から5月10日まで松浦市立埋蔵文化財センター(長崎県松浦市鷹島町)で一般公開される予定です。


松浦市は今後も発掘調査を進め、"水中考古学の聖地"として調査・研究のノウハウを全国に広げたいとしています。




(トピックス)賤ヶ岳の勝利記す秀吉の書状、白山に 「貴重な史料」市立博物館で公開へ!

羽柴秀吉と柴田勝家が雌雄を決した天正11年(1583)の賤ヶ岳しずがたけの戦い秀吉が勝家を破った旨を報告した書簡が見つかったそうです。


天正11年(1583)3月12日、勝家は北近江に出兵。対峙した秀吉と勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前国足羽あすわ北庄きたのしょう城(福井県福井市)に敗走。4月23日には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日の24日、勝家は自ら北庄城に火を放って自刃、夫人のお市の方をはじめとして一族子女とともに最期を遂げます。


今回公開されるのは、天正11年(1583)5月3日付の羽柴秀吉書状で、まさに秀吉が天下取りへと大きく動き出した激動の時期に書かれたもので、歴史の息遣いを間近に感じられる貴重な史料のようです。


この書簡を調査されたところ──


書状は縦14・4㎝、横35・2㎝で、表装されていて、日付は近江国伊香郡賤ヶ岳付近(現、滋賀県長浜市木之本町)での戦い直後の天正11年(1583)5月3日の日付が入っています。


この戦いで柴田一族を討ち果たし、※越前だけでなく加賀、能登、越中までを支配下に置き、勝家の本拠地だった越前北庄に入った状況などが記されており、「天下人への第一歩を踏み出した時期の貴重な史料」と評しています。


※越前だけでなく加賀、能登、越中までを支配下に置き
然者賀州・能州・越前属一篇候之条、国之置目等為可申付、至金沢城令逗留候、(『豊臣秀吉文書集』1、第661号)

勝家の最期に関しては、合戦の2日後の4月25日に小早川隆景に宛てた秀吉の書簡において、自軍の勝利に終わったことを報告(小早川隆景宛天正11年(1583)5月15日付秀吉書状)しますが、新しく発見された書簡には、文末に秀吉が当時使用していた「羽筑(羽柴筑前守)」の署名と花押かおうがあったが、宛所あてどころは不明だといいます。


「羽筑」というくだけた表現を使う一方で「手紙を拝見しました」との書き出しで返信していることや、文末の「謹言」で丁寧さがうかがえることから「ある程度の立場のある人物に出した書状ではないか」と推測する。秀吉が多方面に北陸平定の周知に努めていたことが分かる貴重なもの」と評価されています。


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白山市立博物館(石川県白山市西新町)では、4月10日(金)から5月17日(日)まで催される「スポット展示 羽柴秀吉書状」で、特別公開されます。


(トピックス)秀吉が見た朝倉氏の落日 一乗谷朝倉氏遺跡博物館で書状など展示

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井県福井市)ではNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」で注目の羽柴秀吉にスポットを当て、滅亡へと向かう朝倉氏の戦いを秀吉との関係を通して紹介した企画展「秀吉がみた朝倉氏の落日」が催されています。


本展では滅亡へと向 かう朝倉氏の戦いを秀吉との関わりを通して紹介し、羽柴秀吉が朝倉氏の滅亡を記した書状など約10点が展示されています。


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元亀元年(1570)に始まった越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎城付近を進軍中に信長の盟友であった北近江の浅井あざい長政が裏切り、織田方の軍勢を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機でしたが、秀吉は最前線にあって決死の退却戦「金ヶ崎の退き口」では殿しんがり軍を務め信長の窮地を救うなどの功績をあげます。


天正元年(1573)8月、織田信長は3万の軍勢を率いて北近江に侵攻します。朝倉義景も2万の軍勢を率いて出陣しますが、織田方の軍勢によって各砦を追われた義景は、長政と連携を取り合うことが不可能になったため、越前への撤兵を決断します。


信長方の軍勢は義景方の軍勢が撤退しようとするのに対して追撃をかけてきたので、義景は敦賀郡代(福井県敦賀市)から府中奉行所(福井県越前市)を経由して一乗谷(城館)へと敗走します。


その際、残ったのは鳥居とりい景近かげちか高橋たかはし景業かげあきらら10人程度の側近のみとなってしまいます。


結果、義景はわずかな手勢のみで一乗谷(城館)を放棄して、従兄弟で朝倉氏の一門で構成された同名衆どうみょうしゅうの筆頭である大野郡司・朝倉景鏡かげあきら(のち土橋つちはし信鏡のぶあきら)に促されて景鏡が治めている越前北部の大野郡山田庄(福井県大野市)へと移動、曹洞宗大龍山洞雲寺とううんじ(福井県大野市清滝)、さらには六坊賢松寺けんしょうじ(福井県大野市明倫町)に逃れます。


信長は義景の元家臣・前波まえば吉継よしつぐ(のち桂田かつらだ長俊ながとし)を案内役にして越前に侵攻、信長率いる織田方の軍勢は柴田勝家を先鋒として一乗谷(城館)に攻め込み、城下町一帯を焼き払います。


六坊賢松寺に逃れていた義景ですが、8月20日早朝、義景を裏切って織田信長と通じた景鏡の手勢200騎の襲撃をうけ、近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃して果て、ここに戦国大名としての朝倉家の命運は尽きることとなります。


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さて、秀吉は信長の先鋒として越前に進攻し、朝倉氏の滅亡を目の当たりにします。


秀吉は朝倉氏と同盟関係にあった天台宗の有力な寺院である霊応山平泉寺へいせんじ(現、平泉寺白山神社はくさんじんじゃ、福井県勝山市平泉寺町平泉寺)の衆徒や僧兵たちを朝倉氏から切り崩すという工作を命じられていたようです。


この時、朝倉義景の死を最も早く知らせたのが、(天正元年)八月二十二日付矢野備後守宛「羽柴秀吉書状」というもので、朝倉義景が自害した2日後の天正元年(1573)年8月22日に先に丹後の有力武将・矢野備後守から受けた書簡に対して秀吉が返信したものです。


秀吉は信長軍の武将として越前や北近江攻略にあたっており、信長の越前出兵の経緯や越前での信長と義景の攻防、義景の大野郡への退去と自害、加賀地方の戦況など当時の戦況を丹後の有力武将・矢野備後守へ、攻略に当たった当事者である秀吉自身が陣中から日付を追って書き綴った書状となっています。


「義景も加州境大野郡まで引退候処に、則生害させ申し候」(義景も大野郡まで退却したところ自刃した)という朝倉氏の最期を知らせる最も早い書状として貴重な史料と位置付けています。


また、信長への服属の意を示すように矢野氏自らが直接、信長のもとに参上するよう進言した内容だという事です。


秀吉が発給した書状はこれまで約7千点が確認されていますが、秀吉自身の直筆は130通ほどしかなく、ほとんど家族宛てなどに限られています。


こうした朝倉氏の戦況を書いたものはこの書状1点のみで、秀吉が同じ年の元亀4年7月20日に木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名してから1か月後の文書(2通目)だそうです。


書状は縦26㎝、横42・8㎝で、秀吉の文書の代筆を担った右筆ゆうひつ(※)がそのほとんどを書いており、文面の末尾に直筆の花押かおうがあるのだとか──


※右筆
→右筆は、中世・近世に置かれた、主君の秘書・書記役を行なう事務官僚の役目を担っていました。本来は文章の代筆が職務でしたが、時代が進むにつれて、主君に代わって文案作成や日記、法令の記録作成を担当。戦時においても必要な文書を発給するために戦に同行するようになった。右筆に文書を作成・執筆を行なわせ、それに主君が署名・花押のみを行なうのが一般的となると、文書作成そのものが右筆によるものであっても、署名や花押が発給者当人(主君)のものであれば、公式な文書として自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書ゆうひつがきと言った。右筆の中には、奉行や代官などを兼務してその政策決定の過程に関与する者もあらわれたという。

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◎企画展「秀吉のみた朝倉氏の落日」

詳細は同館まで。


(トピックス)精密な「琉球国之図」デジタルで公開 王国独自の測量技術示す史料 現在の地図と照合も

一般財団法人・沖縄美ら島財団が所蔵する琉球国之図りゅうきゅうこくのずがデジタルアーカイブとしてインターネット上で公開されました。


「琉球国之図」は、1796年(寛政8年、嘉慶元年)9月9日に琉球王国が独自の測量技術で制作した精密な絵図で18世紀当時、フランスで開発された最新の測量技術が、中国(清)を経由して琉球に持ち込まれ、琉球の測量技術が急速な発達を見せたなかで、測量家の高原景宅たかばるけいたくが首里王府の命を受けて製作したと考えられています。


もともとは琉球国王家だったしょう家(※)に伝来していましたが、現在では沖縄美ら島財団が所蔵しており、これまで一般には公開されていませんでした。


※琉球国王家だった尚家
→琉球王国の歴史において、尚家は琉球王国の王家で、尚思紹ししょう王を初代とし、尚巴志はし王より尚とく王に至る7代を第一尚氏時代、成化6年(1470)に王となった尚えん王から明治12年(1879)の琉球処分により最後の王となった第19代・尚たい王までを第二尚氏時代といい、410年にわたって王国を統治しました。

そこで東京大学史料編纂所が沖縄美ら島財団が所蔵する「琉球国之図」をインターネット上でも公開しようとデジタルアーカイブ化に向けて協定を結んで研究を続け、東京大学史料編纂所が持つ高精度のデジタルカメラで撮影。


画像データから琉球史の研究者とともに文字を解読したところ、さまざまな文字情報がびっしりと書き込まれていたのです。


本図は縦47・3㎝、横96・8㎝の紙幅の冒頭に「琉球國之圖」、末尾に「嘉慶元年丙辰九月九日」の作製日時の記載が見られ、中央に沖縄島おきなわじまが図示され、周囲には周辺離島の慶良間けらま諸島(渡嘉敷島とかしきじま座間味島ざまみじま阿嘉島あかじま慶留間島げるまじまなど)、久米島くめじま粟国島あぐにじま伊江島いえじま伊是名島いぜなじま伊平屋島いへやじま伊計島いけいじま宮城島みやぎじま平安座島へんざじま浜比嘉島はまひがじま津堅島つけんじま久高島くだかじまなどが精緻に図示され、朱書きで地名や地理情報が細かく書き込まれており、東京大学史料編纂所は「当時の琉球を知るうえで貴重な歴史史料」としています。


さらに視覚的にも、琉球の広域行政単位である間切まぎりは赤色・桃色・紫色・黄色・緑色・青色の6色に色分けされ、宿道は白色(水粉)、河川は水色、各間切の海上の境界線(海方切)は紫色、杣山の境界線は朱色で区分けされるなど、島ごとに美しく塗り分けられていて、1つの芸術作品としての価値も備わっています。


当時の地名などをテキスト検索することや、現在の地図と絵図を並べて同じ場所との比較や文字検索もできるようです。


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「琉球国之図」のデジタル地図は東京大学史料編纂所の公式ウェブサイトで公開されています。


→(参照)沖縄美ら島財団所蔵「琉球国之図」デジタルアーカイブ


(トピックス)「太閤検地」の台帳の原本を発見、「初期段階のもの」京都・真如堂

天台宗の山門派さんもんはの総本山、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)に属する鈴声山れいしょうざん真正しんしょう極楽寺(通称、真如堂)(京都市左京区浄土寺真如町)が、豊臣秀吉が実施した太閤検地の台帳にあたる検地帳が見つかったそうです。


石高などの土地情報を記した太閤検地帳(以下、検地帳)は、京都市内では写本については多く現存していますが、今回のように正本(原本)が残っているのはわずかで、貴重な史料としています。


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太閤検地とは、領地ごとに所有していた土地の所在地や面積、石高、耕作者名を測量調査し、検地帳に記載して確定させたもので、これにより領主に納める年貢を算出しました。山城国内では天正13年(1585)に以降に実施されたことが知られています。


この検地帳は真如堂が所蔵する宝物の調査で確認され、縦約30㎝、横約22㎝で、表紙には「天正拾三年」「拾一月吉日」と記載がみられ、検地の担当者として、秀吉に仕えた一柳ひとつやなぎ勘左衛門尉かんざえもんのじょう(直次)による署名と花押かおうもありました。


通常の場合、写しには署名と花押がないので、発見された検地帳も当時作成したものとみなしています。


真如堂は応仁元年(1467)に始まる応仁・文明の乱の戦火に巻き込まれ、堂塔は焼失します。しかし、戦乱が終息すると、文明16年(1484)5月6日に寺院の再興を後押しした室町幕府8代将軍・足利義政から真如堂の旧地である神楽岡かぐらおか(現、京都市左京区吉田神楽岡町)に戻って再建するよう御教書みぎょうしょが出され、6月1日には帰座。また同月11日には義政より当寺の灯明料として周辺の土地を(神楽岡東側の花園田2町)が寺領(105石)として寄進されています。


見つかった検地帳は太閤検地が導入された初期段階のもので、今後は他の検地帳と比較することで、当時の当時の検地のやり方や実態が明らかになる可能性があるとみられています。


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この検地帳は、4月11日~6月14日の期間、京都市歴史資料館(京都市上京区)が企画する特別展「真如堂の歴史と信仰」で公開されます。詳細は同館まで。