(トピックス)応仁の乱で途絶えた神仏習合の祈り 「北野御霊会」 550年ぶり再興

並んで本殿に向かう僧侶と神職

学問の神様・菅原道真を祀る北野天満宮(京都市上京区御前通今出川上ル馬喰町、以下、北野天神)で、祭神の菅原道真を慰霊し、神道と仏教が一緒になって疫病や災害をもたらすとされる祭神の怨霊おんりょうを鎮める儀式「北野御霊会ごりょうえが、約550年ぶりに執り行われました。

「北野御霊会」とはて天暦元年(947)6月9日に北野天神が創建されて以来、疫病や災いを鎮めるため行われてきたとされる神仏習合の儀式で永延元年(987)に一条天皇からの使者が派遣され、勅祭「北野祭」の一環として始まりました。

しかし、応仁・文明の乱(応仁元年〔1467〕~文明9年〔1478〕)で「北野御霊会」は途絶え、維新政権下で神社と寺を区別する神仏分離政策(慶応4年〔1868〕3月13日から明治10年〔1877〕1月11日まで)をきっかけに、境内での仏事は全く途絶えてしまったのです。

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北野天神は創建以来、比叡山延暦寺の管轄下にあり、宮司の役割を担う別当職を天台宗京都五門跡(曼殊院まんしゅいん〔京都市左京区一乗寺〕、青蓮院しょうれんいん〔京都市東山区粟田口三条坊町〕、三千院=梶井門跡〔京都市左京区大原来迎院町〕、妙法院〔京都市東山区妙法院前側町〕、毘沙門堂門跡〔京都市山科区安朱稲荷山町〕)の1つで、竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が住持を務める別格寺院)の曼殊院の門主が代々務めており、平安時代以来、幕末期に至るまで北野天神と関係が深かったようです。

曼珠院の開基である是算ぜさんは菅原氏の出身であったことから、北野天神創建と同時に北野別当職(北野天神の初代別当)に就き、歴代の曼殊院門主は以後、明治維新に至るまで別当職を歴任しています。

そうした所縁で、比叡山延暦寺の僧侶が参列し、読経など仏教的な要素も取り入れた神仏習合の「北野御霊会」を共に催されてきました。

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北野天満宮と比叡山延暦寺によって行われた「北野御霊会」

そのような状況下、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、北野天神は今年6月に比叡山延暦寺に新型コロナウイルスなどの疫病退散や健康、安全を祈願する「北野御霊会」の再興を打診した結果、明治期の神仏分離以来、約550年ぶりに神仏習合による祭典が執り行われた訳です。

「北野御霊会」には北野天神の神職と比叡山延暦寺の僧侶らを招き、延暦寺の僧侶が向かい合って座り、法華経の教義を問いかけ合う、天台宗最高の修行とされる「山門八講」が営まれ、新型コロナウイルスの早期終息などを祈られたそうです。

「医は仁術」小石川養生所と赤ひげ先生

享保7年(1722)12月13日、江戸幕府立「小石川養生所」が開設されます。

徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗が享保6年(1721)8月、江戸城辰ノ口の評定所(当時は「寄合場」と呼称していた)前(現、東京都千代田区丸の内)に将軍への直訴制度として設置された目安箱(※1)を設置していたのですが、同年12月、漢方医で町医者の小川笙船が江戸市中の身寄りのない貧民たちの救済のため、施薬院のような無料の医療施設の設置を求める意見書を投じます。

そこで幕府は、小石川御薬園おやくえん(現、小石川植物園)内に「小石川養生所」を開設し、享保年間以降、幕末期まで146年間貧民救済施設として医療活動を実践していきます。

※1 目安箱
「目安箱」という呼称は、「藩」という歴史用語と同様に明治政府が使用した用語であって、当時(江戸時代)においては、単に「箱」と呼称していたようですね。(『徳川実紀』や『御触書寛保集成』には「名もなき捨て文を防止するために、評定所に『箱』を設置した」とあります。)


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幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に薬園を設置します。

やがて大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684)には麻布の薬園も館林宰相だった徳川綱吉の小石川にあった下屋敷で白山御殿と呼ばれていた跡地に移設され、その後この地に小石川御薬園が設置されるのです。この場所で様々な薬草の栽培や、国外から持ち込んだ植物の移植を行わせ、本草学(※2)の実験場とします。

※2 本草学
中国古来の植物を中心とする薬物学で、薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問。日本では自生する植物・動物などの研究に発展し、博物学・植物学などに受け継がれた。


享保7年(1722)12月、小川笙船の意見書により、江戸町奉行(南町奉行)の大岡越前守忠相に検討させ、御薬園内の約1000坪の地所を区切って「小石川養生所」が開設されますが、貧民救済を目的とし、入所者は病苦に悩む貧窮者に限られ、治療その他一切の費用は官費による負担でまかないました。御薬園内で生成された薬を市民に施すことから「施薬院」とも呼ばれていたようです。

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その後、慶応元年(1865)9月、医学館の管轄に移った形で「小石川養生所」は一旦廃止されるのですが、維新後、慶応4年(1868)6月、「貧病院」と改称され存続しますが、漢方医廃止の方針により閉鎖されてしまいます。

その後、小石川御薬園と「小石川養生所」の施設は、管轄が東京府(現、東京都)→文部省(現、文部科学省)と移り、明治4年(1871)9月には博物局に所属します。

明治10年(1877)には東京大学に払い下げられて最終的には同大学理学部に組み込まれ、小石川御薬園は「小石川植物園」(正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)となり、「小石川養生所」は東京大学医科大学附属医院(のち東京大学医学部附属病院)小石川分院となります。

園内には当時「小石川養生所」で使われていた井戸跡が保存されており、水質が良く、水量も豊富で、実際に関東大震災(大正12年=1923=9月)の折りには命からがら避難し、家を亡くした3万人もの被災者たちの飲料水として大いに役立ったと云います。

「小石川養生所」が担っていた貧民救済を目的した施設は、明治5年(1872)10月15日に設立される養育院(現、東京都健康長寿医療センター)によって引き継がれていきます。

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意見書を出した小川笙船は、戦国時代~安土桃山時代の武将で伊予国府城国分山こくぶやま、愛媛県今治市国分)城主だった小川土佐守裕忠すけただの子孫で、江戸時代の町医者で漢方医でした。

笙船は「小石川養生所」(以下、養生所肝煎きもいり職(幕府の職名で、同職中の支配役・世話役)に就任し、以降笙船の子孫が代々幕末まで7代に渡り世襲します。

山本周五郎氏の小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督の作品「赤ひげ」では「赤ひげ」こと新出去定にいできょじょうがこの小川氏の下で働く医長として描かれています。

実際、「赤ひげ」の舞台設定として、少なくとも天保14年(1843)以降と考えられます。養生所の番医は当初定員が9名で本道(内科)、外科、眼科に分かれていましたが、享保18年(1733)9月に7名に、天保14年(1843)の制度改革によって7名から5名に削減され、全て町医者が担当するように切り替えられています。『赤ひげ診療譚』および「赤ひげ」では養生所の番医の定員が内科医、外科医、婦人科医から成る5名となっていますので…

「小石川養生所」は柿葺の長屋で薬膳所が2か所に設置され、収容規模は享保7年(1722)の開所当時40名でしたが、翌8年(1723)建物が増築されて100人、同14年(1729)ついで150人となりますが、同18年(1733)から120人→117人となり、以後幕末まで変わらなかったようです。

当時の医療は漢方(東洋医学)が主流で、勤務形態は肝煎を除いて、本道(内科)・外科・眼科の医師が医療行為に従事していました。

その後、医師として長崎で南蛮外科を学んだ杉本家の第3代・杉本良英よしふさが勤務するようになり、幾分か西洋医術も採り入れられたようです。

勝手な解釈だけど、映画やドラマになった「赤ひげ」に登場する長崎で修行した見習医・保本登(やすもと・のぼる)は杉本良英、あるいは杉本家の人だったら面白いよね。

享保7年(1722)の開所から安政6年(1859)に至る137年間の全入所者数は、累計3万2000人以上であり、そのうち1万6000人が全快退所とされているので、かなりの治療実績があった医療施設であったのではないでしょうか。

(トピックス)米沢市上杉博物館で特別展「米沢城 ―上杉氏の居城―」

特別展「米沢城―上杉氏の居城―」01特別展「米沢城―上杉氏の居城―」02

伝国の杜 米沢市上杉博物館(山形県米沢市丸の内)では、9月19日(土)から特別展「米沢城―上杉氏の居城―」が開催されます。

出羽米沢城は江戸時代を通じて米沢藩主・上杉家の居城として、藩内の軍事・政治の拠点でした。本丸を取り囲むように二の丸、三の丸を配した平城ひらじろで、城内には上杉家の御殿、家祖・上杉謙信を祀る御堂、武器庫であり城の目印ともなった三階やぐらなどが立ち並んでいました。

現在、城跡には当時の建造物は残っていませんが、本丸の周辺部には現在も堀や土塁が残り、公園や街路には城下の名残りを見つけることができます。

そして、城に関する資料として、4000名以上の藩士の居住地を記した城下絵図、随所に工夫を凝らした城郭と上杉家の御殿の詳細な図面、国宝『上杉家文書』をはじめとした古文書、二の丸を中心とした考古資料などが豊富に残されています。

これらの資料を展示し、城下町の構造や軍事拠点としての機能、政庁としての役割、藩主一族の住居と儀礼の実像などを紹介し、米沢という地域の城下町としての特性を感じつつ、城跡の変遷を辿たどります。

また、本展示では米沢藩主・上杉家にまつわる史料が展示されるほか、家祖である上杉謙信の生涯を関東という視点から学べる内容となっていますよ。

開館期間:9月19日(土)~11月23日(月)
(前期):9月19日(土)~10月18日(日)
(後期):10月24日(土)~11月23日(月・祝)
※なお、11月3日(火・祝)は「東北文化の日」のため入館無料となります。

開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:9月23日(水)・10月28日(水
※10月19日(月)~10月23日(金)は展示替のため常設展のみ

入館料:一般620円、高校・大学生420円、小・中学生270円 ※団体割引あり(20名以上)

江戸っ子の粋、江戸町火消「いろは47組」再編成から400年!

「火事と喧嘩は江戸の華」―

というくらい、江戸の町は他の都市に比べて火災が多発していました。

慶長6年(1601)から慶応3年(1867)の江戸幕府期間中で1798回もの火事が発生したといいます。

その理由として考えられるのが、

①膨大な人口増加による建物の密集・集中

徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入部して以降、江戸城周辺には大名や旗本の屋敷が設けられ、多くの武士が居住するようになります。

さらに、武士の生活を支える商人・職人が町人として流入し、江戸の人口は急速に増加していきます。

慶長14年(1609)頃は約15万であった人口は、寛永17年(1640)頃には約40万、元禄8年(1695)には約85万、享保6年(1721)には凡そ110万に達し、天保8年(1837)には128万と推移していきます。

但し、広大であった武家地(全体の64%)に対し、町人地の面積(全体の15~20%)は狭く密集して立ち並ぶようになり、町人地の人口密度は極めて高くなっていきます。

その上ほとんどが可燃性の材質でできた木造家屋なので、一度家屋に火が点くと、消火活動を行なう間もなく、次々と近隣の家屋に延焼してしまう有様なのです。

慶長6年(1601)からの100年間で269回、元禄14年(1701)からの100年間で541回、寛政13年・享和元年(1801)から慶応3年(1867)までの67年間で986回となり、人口増加に比例して、火事の回数も増加しています。

②江戸という町の独特な気象条件との関係性

江戸の独特な気象条件として、

・冬から春先にかけて、北乃至ないし北西の冷たい季節風(モンスーン)、すなわち極めて乾燥した強風(からっ風)が吹き続け、長期間にわたり降雨がない場合、

・春先から秋にかけて、暖かい空気と冷たい空気が日本の上空でせめぎ合い、日本海付近で低気圧が急速に発達するためにフェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風(「春一番」)が吹く場合、

などで、江戸における火災の多くが旧暦の12月から2月の時期(新暦の1月から3月)に発生しています。

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江戸時代初期には消防組織が制度化されておらず、度重なる火災などを契機として火消の制度を整えていきます。

具体的には武士によって組織された「武家火消」と、町人によって組織された「町火消」で、「武家火消」は大名による「大名火消」と旗本による「定火消」(旗本火消)に分類されます。

寛永6年(1629)、江戸に初めて創られたのが奉書ほうしょ火消」で、火災の都度、老中奉書によって大名を召集し、火事にあたらせます。

同20年(1643)には「大名火消」が創られ、幕府が課役として16の大名家を指名し、火事が起きてから出動を命じるのではなく、あらかじめ消火を担当する大名を定めます。その範囲は江戸城や武家地を火事から守るためのものでした。

明暦3年(1657)には「方角火消」が創られ、参勤交代で江戸に滞在中の大名12名が選ばれ、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組に編成され、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たります。元禄年間には東西南北の4組に、正徳2年(1712)には5方角5組に改編。享保元年(1716)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、主に消火が目的ではなく火元から離れた場所の防火優先でした。

万治元年(1658)9月8日には幕府が旗本に消火を命じるじょう火消」(江戸中定火之番、旗本火消)を制度化します。(但し、「定火消」の消化目的は冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものでした。)

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8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に一環として、火消制度の整備化を提唱した儒者の荻生徂徠おぎゅうそらいによる「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」という進言を受けて、享保2年(1717)に江戸町奉行(南町奉行)となった大岡越前守忠相は翌3年(1718)に名主たちの意見も採り入れて火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出し、翌4年(1719)には住民(町人)の義勇消防組織としてたな火消」(町火消)が制度化されます。

翌5年(1720)8月7日には「店火消」(町火消)を再編成し、地域割りを修正して江戸の町を約20町~30町ごとに分割して1組とし、隅田川を境に西を担当する町火消「いろは四十七組」(後に1つ増えて48組)と、東を担当する「本所、深川十六組」が誕生し、本格的な町火消制度を発足させたのです。

同時に各組の目印としてそれぞれまといのぼりが作られます。これらは混乱する火事場での目印になるとともに、組を象徴するシンボルとして扱われるようになっていきます。

「いろは四十七組」の中でも、へは「屁」、らは「摩羅」という隠語、ひは「火」、んは「終わり」に通じるとされ、組名としての使用を避け、代わりにへ→「百」、ら→「千」、ひ→「万」、ん→「本」、に置き換えられました。

同15年(1730)には、「いろは四十八組」が一番組から十番組まで10の大組に、「本所、深川十六組」も北組・中組・南組の3組に分けられ、より多くの火消人足を現場に動員できるように改編しています。

元文3年(1738)には大組のうち、組名称が悪いとして四は「死」に、七は「質」に通じると嫌われたため、四番組が五番組に、七番組が六番組に合併され、大組は8組となります。

こうして創られた「町火消」ですが、「町火消」に要する費用はそれぞれの町会費をもってまかなわれました。

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享保の改革によって「町火消」制度は確立しますが、「町火消」の出動範囲は町人地限定で、武家屋敷への出動はできませんでした。

享保7年(1722)には町人地に隣接する武家地が火事であった場合、2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば「町火消」が消火するように命じられます。

同16年(1731)には幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことにはじまり、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も「町火消」に命じられます。

元文元年(1736)以降「方角火消」は江戸城より風上で発生した火事か大火の場合のみ出動と改められます。

延享4年(1747)の江戸城二の丸の火災においては、はじめて「町火消」が江戸城内まで出動することとなり、「定火消」「大名火消」が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられました。

寛政4年(1792)には「定火消」は町人地へ出動しないこととなり、文政2年(1819)には出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は完全に「町火消」の担当となります。

天保9年(1838)の江戸城西の丸の出火や同15年(1844)の本丸の出火などに際しても、江戸城内へ出動して目覚しい働きを見せたので何れも褒美が与えられています―

このように、徐々にその功績が認められていき、「定火消」「大名火消」にも勝るとも劣らぬ実力を示していくのです。

幕末期には「定火消」が1組のみに改編されるなど「武家火消」が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に「武家火消」主体から「町火消」主体へと委ねられていくのです。

(トピックス)姉川の敗戦から3年 浅井長政は織田信長にとってまだ脅威だった…

戦国時代の大名で北近江を支配していた浅井長政が姉川の戦い(現、滋賀県長浜市野村町付近)で織田信長に敗れた後、京都の寺院に送った古文書が発見されました。寺院への支配を示す内容で、長政が姉川の戦いで敗れた後も京都に影響力を残し、信長にとって脅威になっていたことを示す貴重な資料と注目されています。

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この文書は天台宗の寺院で「天台声明しょうみょう」「魚山ぎょざん声明」の道場の1つであった魚山大原寺勝林院しょうりんいん(京都市左京区大原勝林院町)で発見され、花押や内容から長政がこの寺に送った「安堵状」と判断されました。

「安堵状」とは、幕府や領主が支配下にある寺院などに対し、領地を保証するために発行したもので、今回見つかった古文書には「領地異議あるべからず候」と記されています。

この文書が書かれた日付である元亀元年(1570)11月、という点が大注目です―

長政はこの5か月前の同年6月28日の姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れています。

従来の歴史観だと、姉川の戦いで長政が敗れた後、その勢力は衰退の一途を辿っていった、とされていましたが、実際にはそうではなく、北近江に限られずまだ一定の勢力を保っていたことを裏付ける内容だとしています。

姉川での敗戦の後、野田城・福島城の戦い(同年8月26日)、志賀の陣(宇佐山城の戦い、坂本の戦い、堅田の戦いなど、同年9月16日~12月17日)と続きますが、古文書の日付が同年11月となると、影響力のあった勝林院に決して信長に味方しないよう取られた措置の1つかもしれませんね。

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今回見つかった古文書から、信長による延暦寺焼き打ちの背景についても、新たな解釈が生まれそうです。

古文書が発見された勝林院一帯は比叡山の北西の麓にあり、比叡山延暦寺と深い繋がりがあります。

また、京都から琵琶湖や北陸方面に抜ける交通の要所(大原街道、または鯖街道)にあたり、長政がこの一帯に影響力を持っていたことが裏付けられるからです。

それ故、信長にとっては長政の存在が脅威となっていて、翌元亀2年(1571)9月12日に行使した、信長による延暦寺の焼き打ちについても、実は比叡山という中世的権威の破壊という思想上の目的ではなく、現状で信長にとって軍事的に不利な情勢の打開を図るために軍事的拠点になりやすい比叡山の戦略的価値をなくそうとしたのではないか、との解釈も考えられるのです。

さらに、信長は同じ天台宗でも山門系の比叡山より寺門系の園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)とねんごろにしていたようなので、延暦寺焼き打ちについては、超現実主義からきた作戦と考えた方が良いのかもしれませんね。