長崎県松浦市教育委員会は、鎌倉時代の「
約750年前に起きた「元寇」(蒙古襲来)の歴史的背景を裏付ける新たな手掛かりとして貴重な文字資料とされています。
「元寇」(蒙古襲来)とは、鎌倉時代の文永11年(1274)の文永の
なかでも、弘安の役において日本へ派兵された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊が日本に向けて出航したといいます。
弘安4年(1281)6月下旬、元軍は朝鮮半島から進発したモンゴル兵、
東路軍は高麗の
6月の末頃になって東路軍と合流した江南軍は
東路軍と江南軍の合流地点となった平戸島は
停泊していた江南軍ですが、鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進めない状況だったため、鷹島で一旦進軍を停止し、鷹島沖に駐留します。
7月30日夜半から翌日の閏7月1日、東路軍、江南軍ともに激しい暴風雨に遭遇し、荒波で多くの軍船が激突しては沈没、損壊などで潰滅的打撃をこうむり、軍船は約4400隻のうち残ったのは200隻ほどであったように、次々と海底の藻屑と消えていった、という惨状であったといいます。
発見された「墨書木板」は、縦12㎝、横25・2㎝、厚さ0・9㎝の杉材の板とみられ、左右の上端に釘で船内に打ちつけられていたとみられる0・4㎝ほどの穴があった事から、軍の高官に出された公文書の内容や、兵士や船員への注意事項などを船内の壁に掲示していた可能性があるとされています。
表側には文字が確認でき、赤外線で撮影した文字を解読したところ、左端に大元モンゴルウルス(元王朝)の元号と思われる「
昭和55年度(1980)から続く「鷹島海底遺跡」調査では、これまで海底から出土した船舶に用いた大型木材などの軍船の残骸や陶磁器、甲冑や刀剣などの武器・武具などの遺物約4千点のうち、文字資料となるのは銅銭を除いては印鑑類や陶磁器など14点しか出土されていませんでしたが、「墨書木板」は令和5年度(2023)に確認された3隻目の沈没船の発掘調査中に水深約18mの船底部付近から出土したそうです。発見された段階で墨書の跡を確認できてはいましたが、遺物などの引き揚げ後の急速な劣化を防ぐため、今年2月まで保存処理に時間を要し、その後、赤外線撮影などを実施し、文字の解読に臨んだのだとか──
また、陶磁器のほとんどが江南地方で製造されたものと判明しており、高麗産の遺物は発見されていないようです。
以上の点から、二度にわたる「元寇」(蒙古襲来)が史実であることを裏付ける決定的な証拠と評価されています。
「至元十二年」(文永12年=1275)という年号は元が最初に襲来した文永の役(1274年)の翌年にあたり、「至元十三年」(1276)は翌々年にあたります。
大元モンゴルウルス(元王朝)にとって「至元十二年」(1275)・「至元十三年」(1276)は江南地方で中国の南宋王朝を攻略中の期間であり、
こうした点から、南宋の軍船を元軍が接収して使用した可能性があるのでは、との指摘もあり、年代が特定されたことで、当時の歴史背景も照らし合わせるとこの沈没船は中国・江南で建造されたものでは、との分析もされています。
「墨書木板」は4月28日から5月10日まで松浦市立埋蔵文化財センター(長崎県松浦市鷹島町)で一般公開される予定です。
松浦市は今後も発掘調査を進め、"水中考古学の聖地"として調査・研究のノウハウを全国に広げたいとしています。


