「承平天慶勲功者」と「兵の家」─天慶の乱からの視点

天慶の乱―ここでは平将門の乱に限定する―は「武者(武士)の登場」を促進させたと言われています。いったい何が要因だったのでしょう?天慶の乱を経過ごとに観ていきましょう…


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承平8年(938)2月中旬頃、武蔵権守ごんのかみ興世おきよ王と武蔵すけ(三等官)・源経基が武蔵国足立郡司であり、判官代を兼ねた武蔵武芝むさしのたけしば国例(在地ごとの先例)を無視した行為に対し、いざこざを起こします。(『将門記』)


※(律令制度下の)四等官
→律令制度下の官職は、長官・二等官・三等官・四等官の4等級から構成されており、それぞれ、
  • 長官(かみ)
  • 次官(すけ)
  • 判官(じょう)
  • 主典(さかん)
と呼称します。このうち、地方行政官は、
  • 長官(かみ)=守
  • 次官(すけ)=介
  • 判官(じょう)=掾
  • 主典(さかん)=目
となっています。国(行政単位)は
  • 大国
  • 上国
  • 中国
  • 下国
の4等級に分けられていました。

その状況を見かねた平将門は紛争調停のため武蔵国府に閲兵行軍して興世王と武蔵武芝との間を取り持ち、両者は和解をみます。(『将門記』)


しかし、源経基は猜疑心から「興世王と平将門らに謀反の動きがある」として、帰京するや、興世王と将門らが共謀して謀反を謀っていると朝廷に告発するのです。(「経基、武蔵の事を告言す」『貞信公記』天慶2年3月3日条)


3月25日、将門の私君であり、時の太政大臣である藤原忠平が、私信として事の真意を問うため、御教書みぎょうしょを下して家司を使者として東国へ送ったところ、将門は同年5月2日付で「謀反は事実無根」の旨を書いた上書をしたためてきます。(『将門記』)


6月7日、経基の密告に基づいて、陣定じんのさだめが開かれ、問武蔵国密告使(推問使)の派遣が決定します。(しかし、問密告使に選ばれた者たちは、将門の武威を畏れ、出立を延引し、結果、出立しません)(『本朝世紀』天慶2年10月7日条、『貞信公記』同3年正月9日条)


6月16日、朝廷は除目によって、坂東国司のすけ以下の人事を決定し、彼らに押領使(国ごとに置かれ、追捕官府を受けて、内乱の鎮圧や盗賊を追捕する権限を有する役職)を兼帯させます。(本朝世紀』)


→坂東の地は治安が悪く、兵乱の地であるというイメージが京にいる貴族全体に共有され、坂東の諸国司に限っては、押領使を兼任する先例がここに生じます。

6月21日付で相模・武蔵・上野権介に太政官符(追捕官府)が下されます。(本朝世紀』)


11月21日、常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点とし広大な私営田を経営していたが、常陸介・藤原惟幾これちかの追捕官府を受けてお尋ね者となった藤原玄明はるあきとその妻子・従者が平将門を頼ってきた事を受け、玄明の追捕撤回を求めたちょうを発しますが、藤原維幾は承諾する事なく、合戦となり、常陸国府は包囲され、維幾も監禁されてしまいます。(『将門記』)


その中に、検交替使といって、前任の国司が任期中に亡くなった場合に都から派遣され、新任の国司との間で事務引き継ぎを執り行う使者がおり、その検交替使までも将門は監禁してしまいます。


朝廷側の認識として、この時期までの将門と敵対する者との争いはあくまでも私戦とみなしていますが、検交替使は詔使(天皇の詔により任命・派遣される使者)であったため、将門の行為は天皇の命令に反する行動となり、これを期に将門の戦いは私戦から国家に対する叛乱という形に政策が転換されていきます。


そうして、12月2日に常陸国府から将門と興世王らが常陸国に損害を与えたとの一報(『日本紀略』)が都にもたらされて以降、同月27日付では、


総国豊田郡武夫、平将門并に武蔵権守従五位下興世王等を奉じて謀反し、東国を虜掠す

という知らせが都の貴族たちを震撼させます。(『日本紀略』天慶3年12月27日条)


そのような中、明くる天慶3年(940)正月11日付で将門を討伐した者に恩賞を与える旨の太政官符(追捕官府)が東海道・東山道とうさんどうに対して下されます。(「天慶三年正月十一日官府」『本朝文粋』巻2)


若し、魁帥(賊徒などのかしら、頭目)を殺さば、募るに朱紫の品を以てし、賜うに田地の賞を以て、永く子孫に及ぼし、之を不朽に伝えん。又、次将を斬る者は、その勲功に随いて、官爵を賜らん。(=首領〔→将門を指す〕を殺したならば、朱色や紫色の服を着る事ができる位を授けて田地を賜り、収公する事なく、子孫に伝える事を許し、次将を斬った者には、その勲功に応じて位を賜る事を約束する)

との恩賞を約束した。


服の色については、衣服令えぶくりょうの「諸臣の礼服」を定めた規定(『衣服令』諸臣条)によると、

  • 一位…深紫(濃い紫)
  • 二位・三位さんみ…浅紫の衣(薄い紫)
  • 四位しい深緋ふかあけ(濃い緋色…朱色)
  • 五位…浅緋(薄い緋色)

とあるので、朱紫の品とは五位以上の位階を約束した事になります。


さらに14日には坂東八ヶ国のじょう(三等官)が任命され、彼らに押領使の職務である追捕官府を受けて犯人を追捕する任務(追捕凶族使)を兼帯させます。(『貞信公記』天慶3年正月14日条)

  • 上総掾=平公雅きんまさ
  • 下総権少掾=平公連きんつら
  • 常陸掾=平貞盛
  • 下野掾=藤原秀郷
  • 相模掾=橘遠保とおやす

そうして18日には、藤原忠文が征東大将軍に任命され、忠文は2月8日に京を出発します。(『貞信公記』『日本紀略』『公卿補任』)


ところが、征東軍使が現地に着く前に―


天慶3年(940)2月14日、平将門が下野掾兼押領使藤原秀郷と常陸掾兼押領使平貞盛に誅されます。(『将門記』)


25日になって、信濃国府より朝廷へ平貞盛・藤原秀郷によって平将門が誅殺された旨(『日本紀略』)が届き、3月5日には藤原秀郷が平将門の誅伐に関する申文(任官を望む自己推薦状)を都に届けます。(『貞信公記』)


これを受けてか、朝廷は矢継ぎ早に9日付で平将門誅伐の恩賞として藤原秀郷を従四位下、平貞盛に従五位下に叙し、位階に見合った衣なども下賜します。(『貞信公記』)


また、18日には征東大将軍・藤原忠文から、興世おきよ王が2月19日に上総掾兼押領使平公雅きんまさによって討ち取られた旨を届けます。(『日本紀略』)


11月16日、朝廷は除目を行い、藤原秀郷を下野権守、平貞盛に右馬助うめのすけに任ずるなど、将門を追討した者に恩賞を約束した正月11日の太政官符の言葉どおり、その他軍功のある者たち数十人に対して官職が与えられます。(『日本紀略』)

  • 藤原秀郷=下野掾(従七位上相当)から従四位下・下野守、武蔵守へ
  • 平貞盛=常陸掾(七位相当)から従五位下・右馬助へ
  • 源経基=武蔵介(六位相当)から大宰少弐(正五位相当)へ
  • 平公雅=上総掾(七位相当)から安房守(正六位下相当)へ
  • 平清幹=上野介(六位相当)から因幡守(従五位下相当)へ

この結果、こうした者たちは「承平天慶勲功者」と呼ばれ、以後、「承平天慶勲功者」の子孫のみがつわものの家」の者、すなわち武者(武士)と認知されるようになる訳です。


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では、当時の人々は「武者(武士)」をどう観ていたのでしょうか?貴族の日記や説話集に書かれたエピソードを見る事にします―


蔵人くろうど・藤原範基は武芸に秀でていた人物でしたが、右大臣・藤原実資は「範基武芸を好む、万民の許さざるところ、内外共に武者の種胤に非ず」(『小右記』長元元年(1028)7月24日条)と、「範基が武芸を好むなどもっての外だ!彼は父方も母方も武者の血筋を引いていないじゃないか!」と非難しています。


また、鎌倉時代中期に成立した説話集『十訓抄じっきんしょう』には優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼むねより・平維衡の名が挙げていますが、このうちの藤原保昌は『尊卑分脈』にも「勇士武略之長名人也」と記された程で、藤原道長・頼通父子の家司を務め、上記のメンバーと共に「道長四天王」と称された人物です。


『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に収められた説話によると、『尊卑分脈』に「強盗張本本朝第一武略、追討宣旨十五度」と記された盗賊・袴垂が夜道を一人で笛を吹きながら道を行く者の着衣を奪わんとしたが、恐怖から気押されて結局は襲えなかった…と言う逸話(『今昔物語』巻第25、第7話「藤原保昌朝臣、値盗人袴垂語」『宇治拾遺物語』第28話「袴垂、合保昌事」)が記されています。


保昌朝臣ハ家ヲ継タル兵ニモ非ズ、□ト云人ノ子也。而ルニ、露家ノ兵ニモ不劣トシテ心太ク、手聞キ、強カニシテ、思量ノ有ル事モ微妙ナレバ、公モ此ノ人ヲ兵ノ道二被仕ルニ、聊心モト無キ事無キ。然レ、世二靡テ此ノ人ヲ恐ヂ迷フ事無限リ。但シ子孫ノ無キヲ、家二非ヌ故ニヤ、卜人云ケルトナム語り伝へタルトヤ

『今昔物語集』では保昌の事を「「兵ノ家ニテ非ズト云へドモ、心猛クシテ弓箭ノ道二達レリ」(『今昔物語集』巻第19、第7話「丹後守保昌朝臣郎等、射テ母ノ成鹿ト出家語」)とつわものの家」の出自ではないが、つわものたる資質を備えた人物と評していますが、彼の家系が途絶えた際、保昌に子孫がなかったのは「家ヲ継ギタル兵ニモ非ズ」「但シ子孫ノ無キヲ、家二非ヌ故ニヤ、卜人云ケルトナム語り伝へタルトヤ」と「武士の家でもないのに武者としてふるまった罰だと陰口されるほどであった」と書かれてしまいます。


以上の2人には共通項があって、源頼信や平致頼・平維衡のようなつわものの家」の出自ではなく、藤原南家の出なんですね。


この時代というのは、藤原北家、その中でも摂関家となった御堂流が“わが世の春”な時期であり、他の藤原氏と言えども御堂流と縁戚関係を結ばぬ限り、出世など見込めなかったほどです。


そういえば、今年の大河ドラマ「平清盛」でも同じく藤原南家の出である藤原通憲(のちの信西)が平家軍が海賊討伐に出向いた際に潜り込んで、「この国の政治は門閥主義だから、人材登用主義な彼の国〔=中国・宋〕に渡りたい」と語らせてましたね。


いかに武芸に優れていた藤原範基や藤原保昌であっても、つわものの家」「承平天慶勲功者」の子孫でなければ世間には認知されなかったんですね。


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天慶の乱から半世紀を経た頃、一条天皇の治世に輩出した有能な人材のうち、武者として源満仲・源満正(政)・平維衡・平致頼・源頼光を挙げています。彼らこそ、その時代を代表する武者であり、典型的な「家ヲ継タルつわものでした。(『続本朝往生伝』)


佳句既多悉在人口、時之得人…(中略)…武者則満仲、満正、維衡、致頼、々光、皆是天下之一物也

同じく、一条天皇の治世の長徳2年(996)5月に起こった藤原伊周・隆家父子が失脚した長徳の変の際に内裏の警固として動員された「つわ物ども」として、「陸奥国前守維叙これのぶ、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親など云う人々」を挙げ、「皆これ満仲、貞盛子孫也」とあります。(『栄花物語』巻5・浦々の別)


「承平天慶勲功者」の家がつわものの家」として動員され、なかでも「満仲、貞盛子孫」つわものの家」と認知していた事が判りますね。


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こうしてみると、武者(武士)の条件とは、個人的に武芸が優れている事ではなく、特定の“家”、すなわちつわものの家」と呼ばれる、武芸を家業とする特定の家柄の出自に属している事が重要でした。


そして、そのつわものの家」を創出したきっかけこそが天慶の乱だったのです。


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(参考)佐藤哲「今昔物語集における『兵ノ家』の位置―巻ニ十五の構成意識を中心として―」(『語文』72)
(参考)高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会)
(参考)川尻秋生『平将門の乱』(『戦争の日本史』4)(吉川弘文館)
(参考)木村茂光『中世社会の成り立ち』(『日本中世の歴史』1)(吉川弘文館)

奇跡の人・塙保己一:ヘレン・ケラーが“心の支え”とした日本人

昭和12年(1937)4月、ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)女史が訪日されました。

訪日の目的は「日本における盲人たちを激励し、社会の関心を高めて欲しい」との依頼に応えてのものですが、ヘレン・ケラー女史にはこの訪日で最も訪問し、触れ合いたい人物がいたのです。

それこそがはなわ保己一ほきいちという人物でした。

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4月26日、ヘレン・ケラー女史塙保己一を顕彰する社団法人温故学会を訪問します。

講堂に入ると、ヘレン・ケラー女史保己一のブロンズ像や保己一が和学講談所で使っていた机などに触れて心ゆくまで保己一の偉業に接した後、次のような感想を述べられました―

When I was a child, my mother told me that Mr. Hanawa was my role model.
私が子どもの頃、母から塙先生は私がお手本とすべき人物だと語ってくれました。

To visit this place and touch his statue was the most significant event during this trip to Japan.
この地を訪問し、先生の像に触れる事が出来たのは、今回の日本訪問における最も有意義な出来事です。

The worn desk and the statue facing down earned more respects of him.
この使い古した机とうつむき加減なお姿の像を触っていると、心から先生への尊敬の念を覚えます。

I believe that his name would pass down from generation to generation like a stream of water.
先生の名前は必ずや、流れる水の様に、世代から世代へと永遠に受け継がれていく伝わる事でしょう

何度もくじけそうになった事があったけど、塙先生を目標に今日まで頑張ってきました、とヘレン・ケラー女史は仰っているんですね。

彼女は、塙保己一をいわば人生の1つの手本・目標としていたという訳です。

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さて、ヘレン・ケラー女史は三重苦(盲・聾・唖)を克服しながら、大学を卒業して学問を究めるなど、障害者の自立支援や福祉に貢献なさった人物です。

彼女は2歳の時、高熱病にかかり、一命は取り留めるものの目、耳、声の三重苦の身体障害を持ってしまいます。

そんな彼女が何処で如何どうして、塙保己一の存在を知ったのでしょう?

電話器の発明者として知られるアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)ですが、実は彼の一族は祖父・父・自分に至るまで3代続く聾者教育に尽力した一家でもありました。ベル本人も「私の職業は聾の教師」と言っていた程の様です。

ベルの一家は、スコットランド・エディンバラの出身で、父で大学教授であったアレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Melville Bell)は、聾者に発音を教える聾教育者であり、「ビジブル・スピーチ」(Visible Speech:視話法=図に発音する時の唇の形に描いて、図の形通りに発音させる方法)の考案者として著名です。

ベルの母であるイライザ・グレイス・ベル(Eliza Grace Bell)は聴力障害を抱えており、巨大な補聴器を付けていました。

そうした両親との生活の中で、ベル自身も「ビジブル・スピーチ(視話法)」を習熟し、聾者の発音指導に応用します。

やがて、一族挙げてカナダに渡ったベルの一家ですが、当時は猩紅熱しょうこうねつの後遺症が原因で聾者が増え、彼らの自立支援をどうすべきかなど深刻な社会問題の真っ只中にあり、ベルはそうした彼らのために複数の聾唖学校で「ビジブル・スピーチ(視話法)」を実践します。

そうした生徒の中に後に結婚し、妻となるメイベル・グリーン・ハバート(Mabel Green Hubbard)がいました。

実はメイベルも4歳の熱病が原因で失聴するなど聴力障害を抱えていました。

この様に、ベルはその生涯を通じて聾者教育に尽力しているのです。

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1887年、そんなベルの許にヘレン・ケラーの両親・アーサー・ケラーとケイト・ケラーが訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州のウォータータウンにあるパーキンス盲学校校長・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請。

その結果、派遣されてきた人物こそ、日本では“サリヴァン先生”の名で知られている、当時20歳のアン・サリヴァン(ジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー:(Anne Sullivan、Johanna Mansfield Sullivan Macy)女史で、ヘレン・ケラー女史が6歳の時の事です。

因みに、ヘレン・ケラー女史とアン・サリヴァン女史の半生は「The Miracle Worker」と題して舞台化や映画化がなされ、日本では「奇跡の人」という邦題で上演されていますね。

その事から、日本ではヘレン・ケラー女史の代名詞として“奇跡の人”と表現していますが、「The Miracle Worker」を英訳すると「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」となり、実のところ、アン・サリヴァン女史の事を指すんですよね。

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このように、ベルはヘレン・ケラー女史への支援にも尽力するのですが、実は、ベルの許にヘレン・ケラー女史の両親が訪れた際、保己一の事を語っていたのです。

ベルは彼の許で学んだ日本人留学生から保己一について詳しく紹介されていたようですね。

その人物とは、後に「紀元節」の作曲者となる伊沢修二という人物で、明治8年(1875)から同11年(1978)まで、ベルの下で聾唖教育・「ビジブル・スピーチ(視話法)」を学んでいたのです。

伊沢は後に文部省の官吏となり、日本における音楽教育や吃音、盲唖教育に尽力していきます。

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一体、塙保己一とはどんな人物だったのでしょう?

ところで、塙保己一と聞いて何人の人が「知っている!」と答えられるでしょう?

私などの様に大学で日本史を専攻とした者などは、かなりその恩恵を受けているのですけどね(笑)

その代表的なものが『群書類従』や『続群書類従』の編纂ではないでしょうか。

塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現、埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれ、幼少の頃から身体は丈夫ではありませんでした。5歳のときにかんの病気(=胃腸病)にかかったのが原因で、徐々に視力が低下し、7歳の時に完全に失明します。

しかし、てのひらを指でなぞって文字を書いてもらったりして、文字を覚えてたり、人から聴いた話を忘れる事はなく、一言一句違わずに語る事ができた程、物覚えが良かったと云います。

15歳の時、江戸に出て盲人としての職業訓練を受けますが、生来の不器用さからそれらを習得できませんでした。

しかし、保己一の学才に気付いた師匠が保己一に様々な学問を学ばせ、学者の道を志します。

保己一は、物覚えが良いという長所を活かし、書物を見る事はできない分、人が音読したものを暗記して学問を進めます。

安永8年(1779)、『群書類従』の出版を決意し、天明6年(1786)刊行を開始、寛政5年(1793)には日本の学問を教える学校として和学講談所を開設。

そうして、文政2年(1819)、保己一74歳の時、『群書類従』は完成します。

こんなエピソードがあります―

ある晩の事、保己一は弟子たちを集めて、和学講談所でいつものように講義をしていました。

その時風が吹いて、蝋燭ろうそくの火が突然消えてしまいました。

それとは気づかず、保己一はそのまま講義を続けていましたが、暗闇の中で弟子たちが慌てて保己一に言いました。

「先生、風で蝋燭の火が消えてしまいました。すぐ火をつけますので、しばらくお待ちください」

これを聞いた保己一は、「目が見えるという事は不便なものだね」と笑顔で言ったとか―

自らの境遇を微塵みじん卑下ひげする事なく、むしろユーモアで受け流すこのエピソードにヘレン・ケラーも特にかれたのだそうです。

保己一のこうしたりんとした生き方は、「障害は不自由でも、決して不幸ではない」というヘレン・ケラー女史の信念と見事に共鳴しているし、この蝋燭のエピソードには、物が見えるという慢心こそが最も危険である、という強いメッセージが込められている様な気がします。

保己一の存在はヘレン・ケラー女史にとり、生きる活力となり、何度も励まされ、勇気づけられたものと思われます。

そういう意味では、塙保己一ヘレン・ケラー女史にとっての「The Miracle Worker」(奇跡の人)と言っても過言じゃないかもしれませんね!

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最後に、塙保己一の功績のお陰で日本の医学に新しい灯火を照らしたエピソードを挙げておきます―

明治18年(1885)、荻野吟子という女性が内務省の医術開業試験に合格し、日本で最初に正式の資格を持った公認の女医が誕生します。

それまでは医者という職業は男性しか成る事ができず、荻野吟子が医学校に入学する際も、医術開業試験受験を受験する際も、先例主義の官公庁は拒否の態度を示します。

この時、国学者・井上頼圀の協力で、平安時代に編纂された、養老律令の公的解釈書である『令義解りょうのぎげ』の中の「医疾令」に女医の前例がある事が証明され、受験を拒否する理由がなくなりました。

この『令義解』が嘉永4年(1851)に塙保己一によってが編纂されていたのです。

こうして、荻野吟子が日本最初の公認女医誕生に一役買った訳なんですよね。

西郷隆盛の末弟・小兵衛は熊本に仮埋葬、当時の県政資料で確認

西南戦争で戦死した西郷小兵衛が熊本市本山の香福寺で仮埋葬されていた事が分かる『熊本県政資料』の明治11年の箇所

西郷隆盛の末弟で明治10年(1877)に勃発した西南戦争に参戦し、同年2月27日、熊本県玉名郡高瀬町(現、熊本県玉名市高瀬)での戦いにおいて政府軍の銃弾を受けて戦死した西郷小兵衛の遺体が、同県内の託麻たくま本山もとやま村(現、熊本県熊本市本山)の香福寺こうふくじに仮埋葬された事を示す詳細な記録が見つかりました。

遺体は現在、鹿児島市の南洲墓地(鹿児島県鹿児島市上竜尾町かみたつおちょう)に兄の隆盛らと共に葬られていますが、戦死した薩軍兵士たちの遺体がどのようにして故郷に運ばれたのか、戦後処理の経緯が分かる貴重な資料だと言う事です。

詳細な記録を発見したのは熊本近代史研究会の会員の水野公寿さん=熊本市=で、熊本県立図書館(熊本県熊本市出水)が所蔵する『熊本県政資料』の明治期の記載部分から発見されました。

『熊本県政資料』は明治20年(1887)に編纂が始まり、全57部で編成されています。

『熊本県政資料』の記載によると、明治11年(1878)3月6日付で当時の熊本県権令ごんれい(現在の県知事にあたり、官員が四等官の場合は県令と称し、五等官の場合は権令と称した)だった富岡敬明とみおかよしあき香福寺こうふくじがあった本山村の戸長に対して出した通達文書の中で市来いちき政方まさかたという鹿児島県士族から、本山村の香福寺こうふくじ内に仮埋葬された西郷小兵衛の遺体を鹿児島に持ち帰って改葬したいとの願いが出され、許可したので不都合のないよう取り計らって欲しい」という内容が書かれていたのだとか―

西郷南洲顕彰館(鹿児島県鹿児島市)の高柳毅館長によれば、市来いちき政方まさかたは西郷隆盛の妹・琴の四男で、外交官をしていたといいます。

小兵衛の遺体が運ばれた経緯の記録は鹿児島県側には残っていないが、「賊軍の妻が自分の名前で改葬願を出せなかったので、薩軍に関わっていなかった親族の市来いちきが出したのではないか」と高柳さんは話されている。

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西郷小兵衛の遺体が仮埋葬されていたという記録が残る熊本市本山の香福寺

西郷小兵衛は、薩軍の一番大隊一番小隊長に選任され、副司令格兼一番大隊指揮長となった篠原国幹しのはらくにもとの補佐役として西南戦争に参加。

一番大隊は2月15日に鹿児島を出発し、同22日の本営軍議で一旦は篠原しのはらが主張する熊本城強攻策に決していたが、遅れて到着した小兵衛らが長崎、あるいは小倉を封鎖しようとする部分進撃策を唱えて容認された。

この点、小兵衛は「人格沈重にして思慮深い人物であった」と評されています。兄である西郷隆盛も年齢の離れた小兵衛を大層可愛がっていたそうで、兄の傍にいて、その言動や行動力に感化されて事で身についたのではないでしょうか。

小兵衛は熊本城の攻撃に加わった後、2月25日からは政府軍と菊池川を挟む形で稲荷山を巡って小競り合い、27日には繁根木はんねぎ川の南において激戦を繰り広げますがますが、敵弾を左胸部に受け、壮烈なる戦死を遂げるのです。

古老の話によると、小兵衛の遺体は永徳寺(熊本県玉名市永徳寺)付近の堤防に退避、焼け残った民家である橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受けて、桃田ももだ吉次きちじ峠を経て、西郷隆盛が本営としていた北岡神社の神官宅(現、熊本県熊本市春日町かすがまちへ運ぶ途中で絶命したと云います。(その後、橋本家に対し、小兵衛の妻・松子からの礼状が届けられたそうです)

西郷小兵衛戦死の地碑

現在、永徳寺側堤防上には昭和10年(1935)の小兵衛の命日に建てられた「西郷小兵衛戦死の地」という石碑が立っています。

水野さんの調査では、、小兵衛以外にも熊本県内に仮埋葬された戦死者に対する改葬願が把握できただけでも60件を超えていたとの事。

それこそ、戦争終盤になって死者が急増すると戦場でそのまま仮埋葬していたという事なんでしょうね。

また、当時薩軍本営の近くにあった延壽寺えんじゅじ(熊本県熊本市川尻町)は薩軍の兵站基地及び野戦病院となっていたため、多くの負傷者が運ばれて来たのですが「用意した病床が2884床あった」(『川尻町誌』)との記載が激戦を物語っていますよね。

『薩賊死亡姓名』

同じく『熊本県政資料』に記載がある『薩賊死亡姓名』という資料があるのですが、これは西南戦争によって熊本県内で死亡した薩軍兵士たちの所属部隊や出身地、年齢、死亡した日付や場所までが詳細に記載された名簿で、表紙に「川尻町圓寿寺(=延壽寺)不動堂ニテ」とあり、明治10年(1877)2月から同4月までに戦死した計1394人(但し、内102人は重複)が収録されているんですよね。

同寺の蔵原恒海住職によれば「『853名を仮埋葬した』という記録が残っている。後に遺骨を郷里に持ち帰った例も多い」と語っておられます。

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水野さんによると、西南戦争直後、コレラが流行し、熊本県は明治10年(1877)12月と翌11年(1878)5月の2回、改葬禁止令を出しているのだとか―

西郷小兵衛らの改葬はその間(=明治11年3月6日)に許可されている事から、「恐らく一周忌頃に遺族からの改葬願が続出したため、明治11年に入って一時改葬を許可したのではないか」「熊本県は賊軍であっても丁重に改葬に応じている。薩軍幹部の遺体がどのようにして南洲墓地まで移されたかという経緯の一端が判った事に加え、戦後処理の大変さも読み取れる」と話している。

土佐の小京都で、土佐一條公家行列「藤祭り」

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高知県四万十しまんと市で土佐一條公家行列「藤祭り」が催されました。

これは応仁・文明の乱の戦火を逃れ、応仁2年(1468)9月6日に京から領地の土佐国幡多荘はたのしょう、本郷(本庄)中村に下向したさきの関白・一條教房のりふさが中村に入府してくる様子を再現したもので、きらびやかな衣装に身を包んだ女官や従者などに扮した約170人が行列を組み、市内の中心街約2kmをを雅楽の調べに合わせて練り歩くというもの―

行列はまず、公家行列が露払いの武者を先頭に、土佐一條家(※1)を興した一条教房役(今年は一條家の御本家である旧一條公爵家の次期当主・一條実綱さん=東京都=が訪れ、教房役を務めました)が馬に跨り、“いちじょこさん”一條神社(旧、中村御所)を出発。

次いで、土佐一條家第2代・房冬の妻で祭りのヒロインの玉姫(※2)役や侍女らの「女行列」らが続き、玉姫役が朱色の華やかな十二ひとえ姿で一條家の家紋・藤の花で飾られた輿こしに乗り、笑顔を振り撒くと、沿道の市民や観光客らから「綺麗ねぇ」と拍手や歓声が上がっていました。

土佐一條家・一條教房

※1 土佐一条家
  1. 一條教房…従一位、関白
  2. 一條房家…正二位、権大納言、土佐国司
  3. 一條房冬…正二位、近衛大将
  4. 一條房基…従三位、非参議
  5. 一條兼定…従三位左近衛少将、左近衛中将、権中納言
  6. 一條内政ただまさ(大津御所)…従三位、左近衛中将
  7. 一條政親(久礼田くれだ御所)…従四位下、右衛門佐、摂津守

内政が追放された後、その子・政親が家督を継いで「久礼田御所」と称された。その後、戸次川合戦の後に秀吉の推挙により従四位下、右衛門佐、摂津守に任官されるが、関ヶ原の合戦の後、長宗我部氏の改易・没落後は京、あるいは「大和国に去る云々」(『系図纂要』)とあるが詳細は不明。土佐一条氏の消息はここに途絶える事となります。

また、兼定の娘(一条信子)は按察使局あぜちのつぼねと呼ばれ、徳川幕府に出仕していた形跡があります。

崇源院(徳川秀忠正室・お江与の方)に上臈御年寄として江戸城大奥に仕え、その死後も家光、家綱に仕え、旗本の高島主水頭兼政に嫁ぎ、寛文9年(1669)江戸にて生涯を終えます。享年105歳。(「寛政重修諸家譜」)

なお、明治に入り、明治35年(1902)に一條公爵家・実輝の長子・実基が土佐一條家の再興を名目として分家し、男爵を授けられています。

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土佐一條家の開祖が教房なのか?房家なのか?という論争があるようです。

私的な見解としては、私も房家を土佐一條家初代とします。

※2 玉姫
玉姫は伏見宮邦高親王の王女で、大永元年(1521)6月、土佐一條家第2代・房冬に嫁ぎ、第3代・房基を産みました。房冬の死後、仏門に入り、天文16年(1547)に病死しています。

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※(参考)小松泰編著『土佐一条家年表:一条文化を考える』(一条兼定没後400年記念実行委員会)

英国ロイヤル・ウエディング―350年ぶりに一般女性が王室に!

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イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国:United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の次期王位継承者であるチャールズ王太子(His Royal Highness Prince Charles,Prince of Wales Charles:ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)チャールズ:Charles Mountbatten=Windsor=チャールズ・マウントバッテン=ウィンザー=Charles Philip Arthur George=チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ)故ダイアナ元王太子妃(Diana,Princess of Wales:ウェールズ大公妃ダイアナ=Lady Diana Frances Spencer=ダイアナ・フランセス・スペンサー)の長男で王位継承順位2位のウィリアム王子(His Royal Highness Prince William:William Mountbatten=Windsor=ウィリアム・マウントバッテン=ウィンザー、William Arthur Philip Louis=ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス)キャサリン・エリザベス・ミドルトン(Catherine,Elizabeth Middleton)さんの結婚式が29日、ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で行われました。

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次期王位継承者が一般家庭出身の女性を妃として迎えたのは、1660年9月に挙行された、ヨーク公(The Duke of York、後に名誉革命(Glorious Revolution、但し清教徒革命・ピューリタン革命:Puritan Revolutionと併せてイギリス革命・ブリテン革命、または三王国戦争:Wars of the Three Kingdomsと呼称する場合もある)によって王位を逐われたジェームズ2世:His Majesty The King James Ⅱ)に嫁いだアン・ハイド(Anne,Hyde)以来約350年ぶりの出来事で、イギリス国内は祝賀ムードに包まれ、ロンドン市内の沿道には約100万人がお祝いに繰り出したそうです。

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結婚式は、イギリス国教会の最高位聖職者であるローワン・ダグラス・ウィリアムズ(Rowan Douglas Williams)第104代カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)によって、式が厳かに執り行なわれ、エリザベス女王(エリザベス2世:Her Majesty The Queen Elizabeth Ⅱ:Elizabeth Mountbatten=Windsor=エリザベス・マウントバッテン=ウィンザー=エリザベス・アレクサンドラ・メアリー=Elizabeth Alexandra Mary)ら英王室一家に加え、デンマーク、スペインなど約40か国の王族、ウィリアム王子キャサリンさんの友人ら約1900人の来賓が見守るなか、ウィリアム王子はイギリス陸軍の真っ赤な 軍服、キャサリンさんはクリーム色がかった白色のウエディングドレスをまとい、祭壇に進み、大主教が愛の誓いの言葉を読み上げると、2人は順番に「I will」と誓い合い、続いてウィリアム王子がウェールズ産の金で作られた指輪をキャサリンさんの左薬指にはめると、聖歌隊による祝福の賛美歌が響き渡りました。

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挙式を終えた王子夫妻は、寺院の外に姿を現し、4頭立ての馬車でバッキンガム宮殿までパレード。沿道には英国旗・ユニオンジャックが至る所にはためき、2人が手を振ると観衆から大きな歓声が上がった。

なお、この日、ウィリアム王子チャールズ王太子よりケンブリッジ公(Duke of Cambridge)(※1)の爵位を授爵し、ケンブリッジ公ウィリアム王子(His Royal Highness Prince William,Duke of Cambridge)となり、キャサリンさんもケンブリッジ公妃キャサリン(Her Royal Highness Duchess of Cambridge Catherine Elizabeth)の称号を授爵されました。

※1 ケンブリッジ公(Duke of Cambridge)
  • チャールズ・ステュアート(1660~1661)=ジェームズ2世の長男、しかし夭折

  • ジェームズ・ステュアート(1663~1667)=ジェームズ2世の次男、しかし夭折

  • エドガー・ステュアート(1667~1671)=ジェームズ2世の四男、しかし夭折

  • チャールズ・ステュアート(1677)=ジェームズ2世の五男、しかし夭折

  • ジョージ2世(1683~1760)=ジョージ1世の息子で、後にコーンウォール公、ウェールズ大公とになり、王位継承

  • アドルファス(1774~1850)=ジョージ3世の七男

  • ジョージ(1819~1904)=アドルファスの息子。王室結婚令(1772)に背き、愛人と結婚したため、生まれた王子たちはイギリス王室の一員と認めらず、公位継承権を喪失し断絶

  • ウィリアム(1982~)=チャールズ王太子の長男
さらに、キャサリン妃には紋章が紋章院(College of Arms:紋章及び系譜を管理・統括する国王や王家の典礼を司る英国王直属の法人機関)よりミドルトン家に新たに付与されており、以降は自分の子孫にこの紋章を継承する事ができるだとか―

宮殿に到着後、バルコニーに姿を現した2人は、眼下の広場を埋め尽くした観衆を前に笑顔でキスを交わしました。

キャサリン妃の頭に着けられたティアラは、エリザベス女王の父親であり、映画「英国王のスピーチ」で主人公だったジョージ6世(His Majesty The King George VI:アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ=Albert Frederick Arthur George)が妻であるエリザベス・バウエス=ライオン(HM Queen Elizabeth The Queen Mother Elizabeth Bowes-Lyon:エリザベス・アンジェラ・マーガレット・バウエス=ライオン=Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon)に贈ったものを女王キャサリン妃に貸したのだそうです。

高級ブランド「カルティエ」の1936年製で、ジョージ6世が兄であるエドワード8世(His Majesty The King Edward VIII:エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド・ウィンザー=Edward Albert Christian George Andrew Patrick David Windsor)から王位を引き継ぐ3週間前に購入し、女王が18歳の誕生日にプレゼントされたものだとか―、

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一連の式典終了の後、バッキンガム宮殿からイギリス王太子公邸であるクラレンス・ハウス宮殿まで、チャールズ王太子所有の英高級車メーカー、アストン・マーチンのオープンカーをケンブリッジ公ウイリアムが運転し、キャサリン妃を助手席に乗せて移動するという、事前の予定にはないサプライズ演出もあり、沿道に集まった観衆からは大歓声が起こりました。

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ジェームズ2世にはアラベラ・チャーチル(Arabella,Churchill)という公妾(ロイヤル・ミストレス)がおり、その影響で活躍の場を得た弟のジョン・チャーチル(John,Churchill)はマールバラ公爵(Duke of Marlborough)を授爵しています。このマールバラ公ジョンの死後、彼の三女アンとサンダーランド伯(Earl of Sunderland)チャールズ・スペンサー(Charles,Spencer)の間の長男チャールズがマールバラ公の爵位を継ぎ、その後、スペンサー姓をを改称してスペンサー=チャーチル(Spencer=Churchill)家とします。このスペンサー=チャーチル家の分家に生まれたのが第二次世界大戦期のイギリス首相サー・ウィンストン・レオナルド・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)です。

また、アンとチャールズ・スペンサーの三男ジョンの子ジョン・スペンサーはスペンサー伯爵(Earl Spencer)家となっていますが、その子孫が故ダイアナ元王太子妃なのです。彼女がチャールズ王太子と結婚し、ケンブリッジ公ウィリアムを生んだ事により、ジェームズ2世の、ステュアート王家の血筋がイギリス王室に甦った事となったんですね。

何だかちょっとばかり、ステュアート王家=スコットランド王国 vsイングランド王国という因縁めいたものを感じちゃいませんか!「ジャコバイト」復活したりして…

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※(参照)「チャールズ」は不吉?→