(トピックス)明智秀満「湖水渡り」の伝承を裏付ける一端を記した古文書見つかる!

明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書『山岡景以舎系図』

戦国武将・明智光秀の重臣で明智次右衛門光忠・斎藤内蔵助利三・藤田伝五行政・溝尾庄兵衛茂朝らと共に"明智五宿老"と称された明智弥平次秀満、通称、左馬(之)助が、織田信長を急襲した天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直後、近江瀬田城主の山岡景隆と琵琶湖で船戦ふないくさに及んだことを記した古文書東寺真言宗大本山 石山寺(滋賀県大津市石山寺)で発見されました。

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発見された古文書は、同寺の塔頭たっちゅう・世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒や系図がまとめられた『山岡景以舎系図いえのけいず(縦27㎝、横119㎝)で、天正19年(1591)に景隆の七男・景以かげもちによって書かれ、石山寺に奉納されますが、その後、別な人物が寛永18年(1641)3代将軍・徳川家光の命で江戸幕府主導により編纂された『寛永諸家系図伝』の素材資料として幕府に提出するために書き写したものが、同寺の塔頭・法輪院の蔵に保管されていました。

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明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が見える

明智光秀の軍勢が本能寺で織田信長の手勢を襲った後、琵琶湖北岸の安土城(滋賀県近江八幡市)へ向かう途上、景隆を味方へと勧誘しますが、景隆に拒まれた上に瀬田の唐橋を焼き落されて進軍をはばまれたことは『信長公記』などによって知られていました。

しかし、今回発見された古文書によると、その軍勢を率いたのが「明智弥平次」、すなわち秀満で瀬田の唐橋が焼き落されて安土城への陸上ルートの進路が阻まれたため、水上ルートとして船で琵琶湖の対岸に渡ろうとしたところ、景隆の軍勢と湖上で戦闘に至っために少なからぬ損害を出し、止むなく先に進めずその後の進軍に遅れをとってしまったことが記されていました。

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明智左馬之介の湖水渡り

やがて、光満は安土城の守備に就きますが、6月13日の山崎の合戦で光秀が敗れて坂本城を目指して落ち延びる途中、山城国宇治郡小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りに遭って殺害されたことを知ると、14日未明、安土城を発して坂本城に向かいます。

しかし、坂本城への道を塞がれた秀満が打出浜から愛馬にまたがったまま柳ヶ崎まで琵琶湖を泳ぎ渡り、坂本城ヘ帰還したという「湖水渡り」の伝承があります。

湖に浮かぶ明智左馬之助秀満湖水渡像の完成予定図

琵琶湖で船戦が行われたことはこれまで知られておらず、当時の明智の軍勢の行動を伝える貴重な発見であり、秀満「湖水渡り」の伝承もこの船戦が伝説につながった可能性があるのでは?と「実像に迫る上で貴重な史料」と話しています。

古文書は10月31日から石山寺の本堂で公開される予定だそうです。

(トピックス)「海道一の弓取り」勇ましく 今川義元見参!

除幕式で披露された今川義元の銅像

静岡ゆかりの戦国時代の武将、今川義元の銅像が完成し、JR静岡駅北口広場に設置されることとなり、5月19日に除幕式が開かれました。

今川義元は駿河・遠江国の守護大名で戦国大名として三河国を実効支配した今川氏の第11代当主で「海道一の弓取り」の異名を持ちます。

義元といえば永禄3年(1560)5月には熱田湊から伊勢湾にかけての制海権を支配しようとして那古野なごや城を攻略するため駿河・遠江・三河の軍兵を率いて侵攻するも桶狭間おけなざまでの戦いで織田信長方の軍兵に急襲され、奮戦するも敗死し首級みしるしを奪われます。享年42歳。

今川義元の木像(臨済寺蔵)

義元公姿は今川家の菩提寺ぼだいじである臨済寺(静岡市葵区)の木像などが伝えています。

しかしながら、後世において義元を描いたイメージのほとんどが、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬを身に着け、顔は白塗りにお歯黒、といった“お公家さん”キャラのいでたちで、戦国武将らしからぬ軟弱なキャラ立ちぶりだけが突出しているのが実情…

そんな「桶狭間で敗れた公家かぶれの武将」というイメージを払拭し、静岡のいしずえを築いた功績を広めようと今川義元公生誕五百年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所)が「生誕500年祭」を企画し、義元の銅像制作費をインターネットで資金を募るクラウドファンディングでまかなったところ、当所の目標だった300万円を超える517万5千円が集まったそうです。

銅像設置のためイメージとしてつくられた今川義元の粘土像

義元の銅像は台座を含め1・9m。彫刻家・堤直美氏が約2年の年月をかけて甲冑姿の銅像を作り上げました。

こうして、義元の銅像はその命日に当たる5月19日に除幕式が迎えることとなったわけです。

殉教者へ祈りの行進―「浦上四番崩れ」と乙女峠まつり

聖母マリア像を担ぎ、乙女峠を目指す乙女たち

毎年5月、“山陰の小京都”として知られ、キリシタン殉教の地としても知られる島根県鹿足かのあし郡津和野町で開催される行事の1つに「乙女峠まつり」というものがあります。

昭和27年(1952)から行われている催しで、約2000人のカトリック信者が全国から集まり、聖母マリア像を中心に行列を作り、賛美歌や祈りの言葉を唱えなえながら、津和野カトリック教会(島根県鹿足郡津和野町後田うしろだ、以下、カトリック教会)からJR津和野駅の裏山の中腹にひっそりと建つ「乙女峠マリア記念堂」(以下、マリア聖堂)までの約2kmを行進し、殉教者の霊を慰めます。

参加したカトリック信者らはカトリック教会を出発。白いベール姿の女子生徒8人が薔薇バラの花で飾られたマリア像を肩に乗せて静かに運び、その前を、やはりベール姿の地元保育園児らが花びらを撒きながら先導。賛美歌を口遊くちずさみながら、約2kmの道程を歩き、「乙女峠」マリア聖堂を目指します。その後、「乙女峠殉教者を偲ぶミサ」が厳粛に催されます。

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津和野では石見いわみ国津和野藩主の姫が不慮の事故にあって亡くなった際に枕流軒ちんりゅうけん(島根県鹿足郡津和野町寺田)と呼ばれる山の麓に埋葬されたことから乙女山と呼ぶようになり、そこから「乙女峠」と呼称するようになります。また、島根県松江市出身で長崎に投下された原爆の後遺症で亡くなった永井隆氏の著書『乙女峠』にも由来するようです。

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この周辺は千人塚と呼ばれる、天保13年(1842)の大飢饉の犠牲者が埋葬され、弔われた万霊塔が建っており、その奥に殉教者たちの遺骨も埋葬され、追福碑「至福の碑」が建っています。

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昭和26年(1951)5月13日、イエズス会宣教師として来日したドイツ人のパウロ・ネーベル(Paul Nebel)神父(のちに帰化されて岡崎祐次郎神父)によって「浦上四番崩れ」の流配地の1つ、津和野藩で殉教した36人の冥福を祈るために、昭和14年(1939)に日本カトリック教会広島司教区が流配者たちが幽閉されていた光琳寺の跡地を購入し、建立されたマリア聖堂を記念しようと翌27年(1952)5月11日に第1回目が開催され、その後毎年5月3日を例祭日として開催されているのです。

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さて、「浦上四番崩れ」とは、江戸幕府天領(直轄領)であった肥前国彼杵そのぎ郡浦上村(現在の長崎県長崎市)において、江戸時代中期から明治時代初期にかけて4度にわたって発生した大規模な隠れキリシタン信徒の摘発事件です。

浦上村は戦国時代、大村氏の領国内でしたが、その後有馬氏の領国となります。天正12年(1584)にはキリシタン大名となった有馬晴信によって、浦上村はイエズス会に寄進されています。

江戸時代、幕藩体制下で寺請制が敷かれ、この地は浄土宗系の聖徳寺の檀徒となりますが、密かにキリシタン信仰を続けていました。

元治2年(1865)正月24日、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の居留地内にカトリック教会の大浦天主堂(長崎県長崎市南山手町、当時は「フランス寺」と呼ばれていました)が建てられます。

そんな折り、同年2月12日に浦上村の住民十数名が大浦天主堂を訪れ、信徒である事を表明(「信徒発見」)。

浦上村近郊図

浦上村のキリシタン信徒らは、大浦天主堂の巡回教会として浦上村内の4か所に、
 サンタ・クララ教会堂(家野郷)、
 聖フランシスコ・ザべリオ堂(中野郷)、
 聖ヨゼフ会堂(本原郷)、
 聖マリア会堂(本原郷)、
などの秘密教会を創設します。

さらに、檀那である聖徳寺に届けずに自分たちで勝手に葬儀を行なった事や、浦上村の住民の多くが毎日のように大浦天主堂を訪れる様子を不審に思った長崎奉行所が探索の手をのばしたところ、浦上村の5つの郷(馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷)のうち、馬込郷を除く4つの郷に暮らす人々のほとんどはキリスト教を信仰するキリシタンである事が発覚します。

慶応3年(1867)6月13日の深夜、長崎奉行所の役人が秘密教会を急襲し、信徒ら68人が一斉に捕縛され、激しい拷問を受けますが、諸外国(とくにフランス)の領事からの釈放要求があり、9月14日までに全員が一旦は解放されます。

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その年の12月9日に江戸幕府が瓦解し、王政復古がなされると、祭政一致の立場から神道国家を目指した維新政府は翌慶応4年(1868)3月14日に「神仏分離令」を発して旧来の神仏習合を禁じると共に、翌15日には「五榜の掲示」が公布され、その第三札に「切支丹邪宗門厳禁」を提唱して旧幕府の政策を踏襲し、改めてキリスト教を禁止します。

同じ年の2月14日、九州鎮撫総督(のち長崎府知事)として長崎に着任した沢宣嘉さわのぶよしは浦上のキリシタン信徒たちを呼び出して改宗を説得しますが、改宗の意思が無い事から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」と言う厳罰の提案を新政府に諮問したため、4月25日に処分に関する御前会議が開かれた結果、閏4月18日、維新政府による浦上のキリシタン信徒の流罪が決定。5月20日には信徒の中心人物114名が山口藩66人・津和野藩28人・福山藩20人の3藩へ移送されます。(第一次配流)

さらに、明治2年(1869)12月4日、浦上村のキリシタン信徒3394名が一斉検挙される事が決まり、名古屋、和歌山、金沢、松江、津和野、岡山、広島、福山、高知、萩など20藩22か所に移送されます(第二次配流)。

津和野へは新たに第一次配流で移送された114名の家族125名も移送され、総勢153名となります。

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津和野に送られた浦上のキリシタン信徒153名は、長崎から廿日市港に上陸し、津和野藩の御船屋敷(広島県廿日市市桜尾本町)まで船で運ばれた後、津和野街道を2泊3日かけて90㎞ほど歩かされ、津和野城下の異宗徒御預所となった光琳寺に男子は本堂に、女子は小さい庫に幽閉されます。

当初は津和野藩は維新政府の「右宗門元来御国禁不容易事ニ付、御預ノ上ハ人事ヲ尽シ、懇切ニ教諭致シ、良民ニ立戻リ候様厚ク可取扱候」「異宗信仰ヲ厳禁シ、人事ヲ尽シ教諭ヲ加へ、良民ニ復シ候様精々教化可致事」という指示に従い、説得方が改宗の説諭に務めますが、改宗する者はなく、そこで説得方は方針を変更し、同じく維新政府から若シ悔悟不仕者ハ不得止可被処厳刑候間、此趣相心得、改心ノ目途不相立者ハ可届出事」との方針に改めます。

津和野藩による、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問する、など数多くの拷問は過酷であり、陰惨であり、残虐であったため、結果として37人の殉教者を出すこととなったのです。

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『異宗門徒人員帳』(国立公文書館所蔵『公文録』所収)によれば「改宗者:53名、信仰を守った者:63名、殉教者:37名、計153名」とされている。

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西欧列強の強い抗議・批判を受けた維新政府は明治6年(1873)2月24日にキリスト教禁止の高札を撤去し、キリスト教は黙認されます。(但し、全面的な「信教の自由の公認」が保障されるのは、明治22年〔1889〕2月11日発布の大日本帝国憲法で「信教の自由を保障する規定」(第28条)が定められ、明治32年〔1899〕7月27日に発令された内閣省訓令の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」(第41号)でキリスト教の宣教が公に認められたのを経て、昭和21年〔1946〕11月3日公布の日本国憲法で「信教の自由と政教分離原則について規定」(第20条)が定まるまで待たなければなりませんが…)

これにより明治6年(1873)にキリシタン禁制は廃止され、慶長18年(1613)12月19日に禁教令が布告されて以来、260年ぶりに日本でキリスト教信仰が解禁される事になったのです。

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明治6年(1873)3月14日、浦上のキリシタン信徒の釈放と帰村命令が出され、8月7日に1900人が浦上村に帰還を果たします。

慶応3年(1867)から明治6年(1873)の足掛け6年間、「浦上四番崩れ」で捕らえられ流罪にあった浦上村のキリシタン信徒3394名のうち613名が命を落とし、生き残って帰還した者らは流罪で遭遇した苦難を“旅”と呼んで信仰を篤くし、

明治12年(1879)土井に新たに「サンジュアン・バブチスタ小聖堂」をつくり、翌13年(1880)6月4日に「浦上四番崩れ」の発端となった庄屋の跡地を買い取り、ここにに浦上天主堂(現、カトリック浦上教会)を建てるのです。

「浦上四番崩れ」から帰還した生存者たち

大正9年(1920)8月、流罪から50年経った節目の年に記念祭が催されました。生存者たちは50年前の“旅”に感慨を新たにし、50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」の除幕式が行われたそうです。

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さて、乙女峠マリア聖堂の内部には美しいステンドグラスがあります。このステンドグラスには、拷問の悲しい様子が描かれているのですが、その中の1枚に描かれているのが、明治4年(1871)7月20日に 天に召され殉教した6歳の女の子・岩永もりちゃん(洗礼名・カタリナ)に行った役人の拷問の様子です。

飢えに苦しんでいるもりちゃんに、説得方の役人は美味しいお菓子を見せて言いました。「食べてもいいけど、その代わりにキリストは嫌いだと言いなさい」と―

しかし、もりちゃんは「お菓子をもらえばパライゾ( 天国)へは行けない。パライゾへ行けば、お菓子でも何でもあります」と言って断り、永遠の幸せ(殉教の道)を選んだのだそうです―

(トピックス)「村八分、まかりならん」―菰野藩のお裁き、意外に民主的か!

種田さんが判読して現代文に直し、解説を加えた古文書『諏訪村入作喜七一件綴』

江戸時代の後期、他所よその村から転入者を「村八分」にして追い出そうと訴えた村人たちに、菰野こもの藩(伊勢国三重郡菰野村、現在の三重県三重郡菰野町大字菰野、に陣屋を構えた藩)が下したのは、逆に重い処罰だった―

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文政5年(1822)、菰野藩の目安箱に奉行所宛の訴状が入っていました。

訴訟は諏訪村の「百姓一同」26人の連名で起こされ、その内容は、近くの村から引っ越してきた喜七という者に対し、「村の風儀になじまない」と主張し、元の村に戻らせるよう求め、それがだめなら、村人全員を別の村へ移住させてくれ、というものでした。

喜七は、諏訪村に持っていた土地に移住したのですが、村人と折り合いが悪く「村八分」にされていたようです。

藩の裁決は訴訟があった翌年の文政6年(1823)4月に出され、村人からの訴えは却下され、村人のうち首謀者1人は「追放」、3人は勤労奉仕と蟄居謹慎、9人は勤労奉仕の処罰を受け、残る13人は“同調圧力”に屈して名前を連ねただけと判断されたのか、「しかり」という処分が下されます。

一見、喜七の全面勝訴のような感じですが、実は喜七に対しても「普段から出すぎている(ところがある)」として「叱」の処分が下ったのです。

当時の慣習でもある喧嘩両成敗にするために喜七も形式上処分したようですね。

藩は「(村人たちは)農業を怠り、強訴ごうそ徒党のような状況で秩序を乱した。人口が少ない村で田畑の耕作をしかねている状況なのに、引っ越してきた者を追放しろとはけしからん」と指摘し、「首謀者に下した『追放』は死罪に次いで重い処罰」といい、徒党を組んでのいじめや差別に、厳しい「お上の裁き」が下されたことが読み取れますね。

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『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』

さて、小さな藩で起きた訴訟についての古文書『諏訪村入作喜七一件綴』を、名古屋市博物館元学芸員の種田祐司さんが読み解きました。

こうした訴訟関係の内容―奉行所宛ての訴状、被告側が出した弁明書、藩の裁決文書など―訴訟に関する一連の文書類を含む約160点が菰野町の旧家で喜七の子孫にあたる横山家の土蔵で見つかった古文書の中に含まれていました。

現在の横山家の当主で前名古屋外国語大学准教授の横山陽二さんが、古文書研究の専門家である種田さんに読み解きを依頼し、『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』を上梓したそうです。

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菰野と言えば、夏の高校野球の三重県代表になった時、話題になった事がありましたね。この地に慶長5年(1600)、土方雄氏ひじかたかつうじが1万2千石の知行分を拝領し、翌6年(1601)入封して陣屋を築きます。以下の史料は、元和3年(1617)の知行宛行状です。

伊勢国三重郡之内十五箇村壱万石余、近江国栗太郡之内四ヶ村弐千石、都合壱万弐千石余目録在別紙事、令扶助訖、可全知行者也、
 元和三年五月廿六日 朱印(徳川秀忠)
土方丹後守(雄氏)トノへ

入封して以降、12代雄永に廃藩置県(明治2年=1869)で藩政を閉 じるまでの約270年間、藩主の転封、移封もなく土方氏の治世下にありました。

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土方義苗

当該期の菰野藩藩主は第9代藩主・土方義苗よしたねでした。

義苗が藩主となる以前、菰野藩の財政は毎年の借入金によって支えられている、といったような現状で、ひどく窮迫し、破綻寸前の一途をたどっていました。

そこでまず義苗は財政改革に乗り出し、緊縮財政による藩財政の再建に取り組みます。

義苗はその打開策として、寛政10年(1798)「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を一割二分の利子で13年間に1500両も積み立てます。

その反面、領内に「御倹約触」と称する勤倹質素を奨励する御触おふれ(※)を出すなど厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減させます。

※こうした御触は、義苗の治世下だけで9回も出されたようで、その内容は、
  • 目上の者を敬愛すること、
  • 風儀を糺すこと、
  • 百姓に似合わざることをしないこと、
  • 村方の倹約をすること、
  • 男女の衣服は木綿を着用すること、
  • 往還道・橋や耕作道の修理をすること、
  • 家中諸士へ無礼をしないこと、
  • 召使い等を領分内から召し抱えること、
  • 火の用心に気を付けること、
  • 怪しく疑わしい者を見掛けたら申し出ること、
  • 竹木や土芝等を取らないこと、
  • 他領へ対して非道をしないこと、
  • 領内での勧進芝居・相撲をしないこと、
  • 若輩者への対応をすること、
  • 庄屋が身上不相応者へ適切な対応をすること、
  • 音信贈答に無益な費用を使わないこと、
  • 仏事・神事を華麗にしないこと、
  • 博奕を禁止すること、
  • 人倫を乱さないこと、
  • 鳥類を鉄砲で殺生しないこと、
  • 庄屋は村の手本であること、
  • 村役人の申し付けに背かないこと、
など22箇条から成り立っていて、それぞれ「御領内村々へ被仰出(おおせいだされ)」と銘打っており、これが菰野藩の領内統治の根本法令であったと思われます。

菰野藩は貧乏しても借金しても、領民を苦しめなかったのが大きな特徴としてあり、年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新での廃藩まで一揆がなかったといいます。

江戸時代、幕府による検地は1間が6尺(約181・8㎝)の検地竿(間竿けんざおともいう)によって一反300歩で測量されるのが基本ですが、菰野藩では領民たちが強く反対したため、反発が強い村落はでは一反360歩で検地を実施し、あとは免率で調節したそうです。

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さらに、民政面では目安箱を設けて優秀な意見を採用したり、教育面では学問を奨励して後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院を設立するなど、人材の育成にも努めます。

こうした成果もあって、義苗は菰野藩中興の名君と云われ、以降の藩主もこうした施政を引き継いだため、菰野藩では江戸時代を通じて一度も一揆が起きたことがないと云います。

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さて、「村八分」とは、村落共同体(村社会)の秩序を維持するために行われた制裁行為のことです。

村落共同体(村社会)では、みんな共同で助け合うべき行為が10個ありました―

①出産、②成人(元服)、③結婚、④葬式、⑤法事(祖先を祀る)、など冠婚葬祭にあたる行事、⑥病気、⑦火事、⑧水害、⑨旅立ち、⑩普請(新築・増改築)、などの手伝いや世話を示します。このうち、葬式の世話と火事の消火活動については、放置した場合に他の人間に迷惑のかかるので交流はするが、それ以外の8つについては、一切の交流を絶つ、というものです。

まさに、「村八分」は村民全体が申し合わせて一人の者に対して、集団で制裁を加える、といった集団行動主義好きな日本社会における代表的ないじめ行為なのです。

但し、この「村八分」という行為は少なくとも江戸時代の寛政年間頃より使われるようになった用語のようですが、江戸時代の村落共同体(村社会)において「村八分」がなされた最大の措置が入会地いりあいちの利用停止と云われています。

入会地とは、村民が村落共同体(村社会)で共同で利用する土地のことで、薪炭・用材・肥料用の落ち葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺く萱などを採取した原野・川原である草刈場の2種類に大別されます。

「村八分」の措置がなされ、入会地の使用が停止されると、落ち葉の入手に窮したり、入会地に属する水源の利用ができなくなるなど、村落共同体(村社会)における生活に困窮することとなるのです。

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この『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』は、菰野町図書館や三重県立図書館で閲覧可能。三重大学、名古屋外国語大学のほか、東京大学史料編纂所、早稲田大学、慶応大学への寄贈が決まり、それぞれの図書館でも読むことができるそうです。

京都にいる私にとっては、閲覧不可能な感じ‼

(トピックス)戦国武将・松永久秀の特徴捉えた肖像画が発見される!

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戦国時代、斎藤道三・宇喜多直家と並んで“戦国時代の梟雄”に数えられ、下剋上の風潮を代表する武将、松永久秀を描いたとみられる肖像画が見つかったそうです。

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見つかった肖像画は縦108・7㎝、横43・6㎝で、掛け軸に表装されてあり、薄い藍色の直垂ひたたれを着て烏帽子えぼしをかぶり、扇を持って腰刀を差した正装姿という構図は、戦国時代に描かれた武家肖像画の典型的な姿でした。

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腰刀の柄 ( つか )の部分には永禄4年(1561)2月3日に将軍・足利義輝あしかがよしてるから使用を許可され下賜された将軍家の御家紋である桐紋が入っています。

また、膝元には金糸を織り込んだ茶道具をしまう袋も描かれていて、茶人の武野紹鴎たけのじょうおうを師事していた久秀が所有していた茶入の「付藻茄子つくもなす(九十九髪茄子)」や茶釜の「平蜘蛛ひらぐも」など、名物茶器が収まっていたのでは、との推測ができます。

こうした武将の肖像画は、法要や祭祀のために制作される事が多く、本人を偲ぶ事ができるよう、実際の特徴をしっかりと捉えて描かれているのが一般的ですが、この肖像画は美化して描かれる事なく、唇が厚く、前歯が出た独特の顔立ちを描くなど、しっかりと特徴を捉えて写実的に描かれていました。

その事から、久秀の特徴を知っている、久秀に近い人がまだ存命中の時代に描かれた可能性が高いようです。

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それを裏付けるかのように、肖像画の上部には「天正五丁丑年冬十月十日薨 妙久寺殿祐雪大居士尊儀」と、久秀の命日と戒名が記されており、久秀を描いたものと断定し、顔の特徴などを知る子孫らが描かせたのでは、とみられています。

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さて、松永久秀のイメージとして描かれた画像(錦絵など)のほとんどが、江戸時代に備前岡山城主である池田氏に仕えた儒学者・湯浅常山ゆあさじょうざんによって著された逸話集『常山紀談じょうざんきだん』などで創作された「久秀の三悪」などを典拠としていて、

東照宮信長に御對面の時、松永彈正久秀側に在り。信長、此の老翁は世人の爲し難き事三つ成り者なり。將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗を流して赤面せり。

東照宮後長臣等を召して、御物語有りける時、此の事を仰せ出され、先年信長金崎を引き退きし時、所々に一揆起り危かりしに、朽木が淺井と一味を疑ひ進退極りしに、松永信長に告げて朽木が方へ參りて、味方に引き附け候べし。朽木同心せば人質を取りて打具し御迎に參るべし。若し又歸り參らずば、事成らずして朽木と刺違て死したりと知し召されよ、と言ひて、朽木が館に赴き事無く人質を出させ、夫より信長朽木谷にか〻りて引き返されしなり、と仰せられしとぞ。(『常山紀談』巻之四「信長公松永彈正を恥しめ給ひし事」より)

徳川家康(「東照宮」)が織田信長(「信長」)と対面した折り、信長の側にいた久秀(「松永彈正久秀」)を紹介します。

その際、信長が久秀は普通の人間では考えも及ばない仕業をやった奴―しかも3つも―なんだ(「世人の爲し難き事三つ成り者なり」)と、家康に紹介したわけです。

それは「將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる」事で、これらは「久秀の三悪」として酷評されるきっかけとなっていきます。

この「久秀の三悪」とは、江戸時代に至り儒教思想が広まった時代背景もあって、久秀が「悪人」のイメージで語られるようになったきっかけとなった歴史事象を表し、

  • 主家である三好家中かちゅうの実権を握るため、三好家の要人を殺害した、
  • 対立していた将軍・足利義輝を襲撃し殺害に至らしめた、
  • 東大寺の寺院伽藍がらん及び大仏殿を焼き打ちした、

などの悪行から、久秀を「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったイメージで見る風潮が生まれ、自然、小説を始めとした創作物においても、そうした人物像として描かれる事が定着するに至ったわけです。

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そうして生まれたイメージは久秀を「荒々しい極悪人風」に捉えられ描かれていったわけです。

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江戸時代も中頃になると、領主たちの家臣統制に対する倫理感を儒学に求めようとし、過去の故事から理想を追求する朱子学しゅしがくと、現実を見添えて物事を捉えようとする陽明学ようめいがくが普及します。

支配階層である武士層は立身出世という実益に叶った朱子学を重視し、結果として武士道という倫理観が生まれていきます。

そんな倫理観が浸透すると困った弊害が生じます。

江戸時代とは、単純にいえば差別階級が再生産された社会で、支配する者(=武士層)と支配される者(=それ以外の階層)が生まれ、さらに支配する者からも仕官する者と浪人する者が生じます。

『常山紀談』が著された時代は、身分の固定化が進んでいた一方で、家柄だけで仕官が決まる者と、才覚と能力で仕官への道をつかむ者が現れます。領国支配にとって代々譜代の者が政務を治めていたのに、時代が進むにつれ、才覚と能力で実務に秀でた者が立身出世する、といったように―

この時代で言えば、御側御用人おそばごようにん(=将軍の秘書)として五代将軍・綱吉つなよしに仕えた柳沢吉保やなぎさわよしやすや六代将軍・家宣いえのぶおよび七代将軍・家継いえつぐに仕えた元猿楽師の間部詮房まなべあきふさ、十代将軍・家治いえはるに仕えた田沼意次たぬまおきつぐなどは、その才覚と能力によって立身出世を果たした者たちでした。

柳沢吉保は御側御用人から老中格、大老格の地位に、間部詮房は家継が幼かった事もあって、将軍の意志決定代行者としての地位にありました。田沼意次に至っては、将軍の側近である御側御用人と共に政権運営を担う幕閣(幕府閣僚)の老中も兼任したために、やっかみを持った代々の譜代の者たちの嫉妬が一番集中したといえるでしょう。

実際、こうした御側御用人は家禄が低い下級幕臣が就任するケースが多いのですが、就任した者のうち、約2割が1万石以上の大名や若年寄、側用人、老中などの幕閣に昇進しているのです。

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家柄を重視する風潮のなか、氏素性うじすじょうの判らない、身分の低い者が才覚と能力で立身出世していく様が社会秩序を破壊している、として警鐘を鳴らし、久秀のようにその出自もはっきりしないのに異例の出世を遂げ、将軍からも家臣の身分なのに主君と同じ待遇を受けたのは、主君への敬意を軽視している、として儒学者から「社会秩序を壊す危険な存在」と認識されるようになったんですね。

その結果として、松永久秀は「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったレッテルが貼られてしまったわけですね。

今回の肖像画の発見は従来の松永久秀の粉飾されたイメージを払拭し、新たに再評価される一翼となれば良いと思われます。

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大阪府高槻市のしろあと歴史館において第48回トピック展示「戦国武将・松永久秀と高槻」が6月2日(火)から8月2日(日)まで開催されます。

松永久秀の出自伝承として、

  • 「摂津国島上しまかみ五百住よすみ(現、高槻市東五百住町)の土豪出身」(『陰徳太平記』)という記載がみられる事、

  • 同地域にに「松永屋敷跡」(『郡家村・東五百住村境見分絵図』『摂津志』)と呼ばれる久秀に関連する屋敷跡が存在する事、

などから同地域が久秀の出身地ではないか、との見解もあるようですね。

それに伴い、「戦国武将・松永久秀と高槻」と題して今回初公開となる久秀の肖像画ほかに、久秀を描いた錦絵や高槻における久秀伝承に関する古文書など、久秀にまつわる21点が紹介されています。