小姫が想い父に届け!─「まつだいらつゆ」の遺筆

浅草寺所蔵「木造玉露童女坐像」

江戸時代の中期から後期にかけて、因幡鳥取藩の支藩である鳥取新田藩(東舘新田藩=東分知家、明治維新後の朝藩体制下では鹿奴藩、に対し、西館にしやかた新田藩=江戸屋敷が鉄砲洲てっぽうず(現、東京都中央区湊辺り)にあったので鉄砲洲家、維新後の朝藩体制下では若桜わかさ藩と呼ばれる)の殿様に池田定常という人がいました。


池田定常は謹厳実直な性格であると共に文学者としても有名で、その学識と沈毅な人柄から文化人仲間の間でも高く評価される人物で、文人大名と称されます。


その故、毛利高標たかすえ(豊後佐伯藩主)や市橋長昭(近江国仁正寺にしょうじ藩主)らと共に“柳間の三学者”“文学三侯”と称された程で、家督を譲り、隠居して冠山と号して以降も文化人たちと交流を深め、『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』など、著作活動や研究に力を注き、当時の儒学や古典、地理などを知る上での貴重な史料と現在も高い評価を受けています。


─ ◇ ◇ ◇ ─


さて、お話はこの池田定常(以下、冠山)の16女で末娘にあたる露姫に関するエピソードです──


露姫は、江戸鉄砲洲の鳥取新田藩江戸屋敷で生まれました。冠山は9男16女の子女を得ますが、これらのうち、無事に生育したのは2男4女に過ぎませんでした。


そのためもあってか、ことほか露姫を可愛がっていたそうです。


しかし──


文政5年(1822年)11月27日、辰刻過ぎ(午前8時頃)、露姫疱瘡ほうそう天然痘てんねんとうがために短かすぎるほどの生涯を終えます。享年6才。6歳という儚はかない生涯を閉じられました。


冠山は悲しみにくれたようですが、それにも増して、この文人大名を更に嘆き悲しませる物が、露姫の死後に見つかったのです。


それは、露姫が父や母、兄、そして侍女に書き遺した遺筆でした。


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そこには―


於いとたから こしゆあるな つゆが於ねかい申ます
めてたくかしく
  おとうさま
    まつだいらつゆ
    上あけるつゆ

とありました。


要約すると「愛しいお父様、もう良いお年なのですから、あまりお酒を召し上がらないで下さい、お願いです!」って感じでしょうか。


遺書は折り畳まれて机の中に入っており、「上を開けるように」と書かれていまたそうです。


冠山は無類の酒好きだったらしく、露姫は父の健康をひとえに気遣っていたんですね。


冠山が最晩年に著した『思ひ出草』という随筆の中で「酒は露児が戒しにより今は唇をも濡さず」(酒は露姫に戒められて以降は一滴も飲まなくなった)と記しています。


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また、母である冠山の側室「お妙の方」に宛てた辞世の句には、


まてしはし なきよのなかの いとまこい
むとせのゆめの なこり於しさに
  おたへさま
    つゆ

とあり、「むとせのゆめ」(=6歳の夢)を持ちながら短い一生を終えるのは名残惜しい、と無念さを訴えつつも死んでいく自分のはかなさを詠んでいます。


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そして、侍女のたつとときの2人には、


ゑんありて たつときわれに つかわれし
いくとしへても わすれたもふな
  ときさま
  たつさま
    むっつつゆ

と願い、「たつ」「とき」を「立つ時」、すなわち「自分がこの世を立ち去っていく時」に懸けているところが涙を誘います。


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更に、露姫の死後42日目に兄や姉が故人を偲んで露姫が愛用していた箪笥の引き出しを開けて見たところ、


十いちかつこきうそくてかく
おのかみの すへおしら(ず)に もふこてう
  つゆほとの はなのさかりや ちこさくら
  あめつちの おんはわすれし ちちとはは
    むっつつゆ

と詠まれた句に添えられる形で、花や蝶などの絵が描かれていたそうです。遠からず尽きようとしている自分の身の上を花(「稚児桜」)や蝶(「胡蝶」)になぞらえて歌を詠む感性は想像を打に尽くせません。


露姫が遺した遺筆を見て、父である冠山はその才能を惜しみ嘆いた事でしょう。


冠山は亡き露姫の菩提を弔うと共に、その才を多くの友人たちに観てもらおうと露姫の遺筆(歌・発句・手紙)を露姫の筆跡を模し(=模刻)木版刷りにして親類や知人らに配り、供養してくれるよう頼みます。


その逸話が世間に広まるや江戸の文人らの涙を誘い、多くの著名人が追悼文や詩歌の類を冠山に贈ります。


なかでも、幕府の旗本で当時の情報収集家で知られていた宮崎栗軒が著した『視聴草みみききぐさ』と呼ばれる書物に露姫の遺筆のレプリカを『視聴草』に綴じ込んだ上に次のように書き添えたのです──


冠山公の息女名は露、幼にして才慧衆児に超越す。惜しいかな六齢にして蘭砕す。老候痛 惜に耐えずその遺筆を刻して親戚にわかたる。余これを見れば覚えず涙襟を潤す(『視聴草』二集之七 四六 松平冠山息女阿露筆蹟摸刻本、幼女遺筆)

冠山はそれらを30巻に及ぶ書物『玉露童女追悼集』としてまとめ上げ、露姫が生前とくに参詣していた浅草寺に奉納し現在いまに伝えられています。


また、全国各地の寺院にも露姫の遺筆と共に木版刷りを送り、供養を願っています。


冠山の友人たちから贈られた詩歌のうち、


冠山と特に親しかった安房北条藩主・水野壱岐守忠照が寄せた詩歌には、


筆草や/枯野のつゆの/置きかたみ  忠照

と詠んだといいます。要約すると、「最後に素晴らしい形見を残してくれたのだ、以て瞑すべしじゃないか」かな。


実は水野忠照も冠山と同じように2歳の男児と6歳の姫を疱瘡(天然痘)で亡くしていました。わけても露姫と同じ6歳の姫を亡くしたときの様子を


其の後又ををな子をまうけしが、六才の冬是も同じもがさ(=庖蒼)にて目も閉じぬれば、父は今御城にや今表にや今奥にや、と傍らのらのもとびと(=侍女)に尋ね問ひぬるをや、掌の玉きわる命終わる前の日までも斯かる事止まざりしを、老の今に至るまで耳の底にとどまりぬ。

と書き記しています。「父上は今登城しているのか、今屋敷で執務をしているのか居間にいるのか、と死の前日まで毎日傍らの侍女たちに問いかけていたのが、老いてしまった今も私の耳に残って離れないんだ」と冠山同様、幼い子を亡くした悲しみは忠照には他人事ではなかったのです。


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生まれ変わり伝承「ほどくぼ小僧」と露姫


江戸時代後期、武蔵国多摩郡中野村(現、東京都八王子市)の百姓・源蔵の次男に勝五郎という8歳の少年がいました。


ある時、勝五郎は「自分は多摩郡程久保村(現在の東京都日野市)で6歳で死んだ百姓・久兵衛の息子・勝蔵の生まれ変わりだ」と言ったのです。「生まれ変わり伝承」って奴ですね。


よくよく話を聞いてみると、話の辻褄つじつまが合い、関係者も実在していた事で評判となります。


その噂を聞いた冠山は江戸から八王子まで勝五郎に話を聞きに出掛けます。


冠山とすれば、藤蔵も露姫と同じく疱瘡(天然痘)で亡くなっており、若しかすれば露姫も藤蔵のように復活しないだろうかと期待をかけていたのかもしれませんね。


現在、藤蔵の生家と伝えられる家屋に住む方の話に寄ると、家には露姫のものとされる位牌いはいが伝わっているそうです。


わが子の生まれ変わりを切に願う親心を感じ取れずにはいられませんね!


“西の長崎 東の佐倉”

とある番組で、千葉県は佐倉市民に“西の長崎”と問えば“東の佐倉”と返すというシーンがありました。

よくよく説明を聴いてみると、蘭学、蘭方医学の先進地として長崎と並び称されていたのを表したフレーズなんだとか…

そこでチョット、調べてみました!

千葉県佐倉市出身で有名な人物といえば、プロ野球ファンなら誰もが知ってなきゃいけない長嶋茂雄さんがいますよね。

しかし、歴史的にみてもっと重要で、知っておかなきゃおかしい偉人がいます…

それは佐藤泰然たいぜんとその一族およびその門下ではないでしょうか!

順天堂大学って皆さんご存知でしょうか?陸上・競走競技好きな私としては、箱根駅伝の常連校のイメージが強かったりしますが、この順天堂大学の創始者が佐藤泰然と云われているんですよね。

蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ。というのが東日本のその道の志望者の常識になりはじめているが、その塾は、良順の実父佐藤泰然のひとりの手で興った。ただ、佐倉十一万石の領主堀田正睦が江戸城の茶坊主あたりのあいだで『西洋堀田』というあだなをつけられたほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつとなっている。(司馬遼太郎氏『胡蝶の夢』より)

佐藤泰然信圭のぶかどは、天保元年(1830)、蘭方医を志し足立長雋ちょうしゅんや高野長英に師事。同6年(1835)、長崎に遊学して蘭方医J・ニューマンに西洋医学を学び、江戸に戻った天保9年(1838)、江戸両国薬研堀やげんぼり(現、東京都中央区東日本橋)の薬研堀不動院内に蘭方医学塾「和田塾」を開設。この塾こそが日本最古の西洋医学塾であり、現在の順天堂大学の起源とされています。

天保14年(1843)、泰然は下総しもうさ佐倉藩主・堀田正睦まさよしに招聘され、佐倉に移り住み、佐倉本町に病院兼蘭医学塾「順天堂」を開設。「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極め、全国に名声が及びました。

この「佐倉順天堂」から多くの人材が育つ事になります。主だったものとして―
  • 養嗣子・佐藤尚中たかなか(私立の「順天堂医院」、すなわち東京順天堂の創設者)
  • 次男・松本順(良順)(松本良甫の養子、将軍侍医、初代陸軍軍医総監)
  • 五男・林董三郎(ただす)(林洞海の養子、外交官・政治家・外務大臣)
  • 長女・つると結婚する林洞海どうかい(蘭方医、幕府奥医師)
  • 孫・佐藤百太郎ももたろう(佐藤尚中の長男、ニューヨークで明治9年(1876)に日本で最初の百貨店「日本米国用達社」(Japanese American Commission Agency)を営業する)
  • 孫・榎本多津(林洞海とつるの長女、榎本釜次郎=武揚)に嫁ぐ)
  • 孫・赤松貞(林洞海とつるの次女、赤松則良に嫁す。長女の登志子は森鴎外の先妻で於菟の母にあたる)
  • 孫・西紳六郎(林洞海とつるの六男、西にしあまねの養子となる、海軍中将、貴族院議員、宮中顧問官)
といった顔ぶれです。泰然は実子は他家に出して、優れた弟子を後継者に選ぶという不文律があったようです。

因みに、私が初めて佐藤泰然の名前を知ったのが、日テレ系年末時代劇スペシャル「五稜郭」でした。主人公は里見浩太朗さん演じる榎本釜次郎(武揚)ですが、上記のごとく、その妻・多津が泰然の孫娘なんですね。その時、順天堂大学の由来やそれこそ、松本良順や林董の閨閥の凄さを感じた訳です。

佐倉城主堀田氏

江戸時代初期の慶長15年(1610)に徳川家康の命を受けた土井利勝が下総国印旛いんば郡佐倉(現、千葉県佐倉市)の領主になり、翌16年(1611)から7年の歳月をかけて、佐倉城が築城され、その周辺に城下町が形成されます。

以来、佐倉城は江戸防衛の東の要衝&西国大名により江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代の有力大名たちが封ぜられる要地となり、幕藩体制期を通じて幕府の要職(老中職など)に就いた者が多数を占めた事から“老中の城”とも呼称されます。

幕藩体制下の258年間の佐倉藩政で、実に12家23代の城主が就任。その中で141年近く城主を務めたのが堀田家です。

その所領範囲は、下総国の印旛、千葉、埴生はぶ、海上、匝瑳そうさ、香取各郡の内、上総かずさ国の山辺、武射むしゃ、長柄、夷隅いすみ望陀もうだ、市原各郡の内、合わせて6万石。さらに出羽国村山郡の内、蔵王の山麓付近である蔵王、長谷堂、村木沢、飯塚、船町など46か村、合わせて4万3千石余などの飛地を陣屋(柏倉かしわぐら陣屋)を構えて入り組み支配し、それに幕府要職としての役知料1万石の計11万石が領知高として宛行あてがわれました。

そうした中で、幕末期に藩主の座にあった堀田正睦は「蘭癖らんぺき大名」と称されるほど蘭学を奨励し、文武両道だけではなく、医学を加えた、いわば総合大学としての機能を持たせた藩校「成徳書院せいとくしょいん」を創ったり、杉田成卿(杉田玄白の曾孫)や佐久間象山らに蘭学・兵学を学んだ木村軍太郎を勤仕させて藩の兵制改革を断行したり、長崎の高島秋帆に砲術、江戸の坪井信道に蘭学を学んだ手塚律蔵を蘭学・英学の教官として招聘し、江戸藩邸で教育を勧めます(のちの又新塾)。

そうした人脈の中に、佐藤泰然もいて、彼も堀田正睦の招きに応じて「佐倉順天堂」を開く事になり、その結果として、多才な人材が育成され、明治初期の学問分野をリードする訳ですね。

調べていて、特筆すべき点は、本藩・佐倉領の藩校「成徳書院」の分校が柏倉陣屋にも築かれ(「北庠ほくしょう」)、そこでは武士身分だけでなく領地内の百姓たちも学んでいたと云います。これって、当時としてはかなり開明的な教育方針ですよね。堀田氏は家臣団の人材育成だけではなく、領民たちの(村役人への)人材育成も尽力していたんですね。そう考えると、明治以降、民権運動が盛んになりますが、この地域はどうだったのだろう?って新たな興味が芽生えそう!

維新後、最後の藩主・堀田正倫は華族令によって伯爵を授爵します。その孫である正久は昭和34年(1959)に第3代佐倉市長に当選、昭和50年(1975)まで四期に亘って務め、彦根市長となった井伊直愛氏共々、“殿様市長”と愛された。

“西の長崎、東の佐倉”

「佐倉順天堂」における医療ですが、
  • 当時の「順天堂」には病室がなく、患者の宿泊する旅館を病室としていた、
  • 手術をする際、『手術承諾書』と手術により死亡した場合、佐倉に埋葬するために必要な書類などを患者に提出させていた、
  • 往診も行っており、藩領外や長期にわたる場合は藩からの許諾を受けていた、
など、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が入門しため、「佐倉順天堂」は「日新の医学、佐倉の林中より生ず」と謳われました。

そもそも、幕末の、しかも開国以前の西洋医学の普及は、長崎では直接外国人医師から教授を受け、江戸では翻訳書から学習する、という状況だったので、地方に住む医師たちは江戸や長崎に遊学して学問を究めようとしました。

開国以降、江戸幕府が公式に招聘した蘭方軍医・ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)(以下、ポンペ)が長崎奉行所西役所医学伝習所(のちに精得館)において医学伝習を開講します。

「佐藤順天堂」からも万延元年(1860)に藩命で佐藤泰然の養継子・尚中や松本良順、司馬凌海りょうかい、関寛斎かんさい、佐々木東洋らが遊学し、ポンペから系統的な蘭医学を学び、西洋近代医学を教授されたのです。

尚中たちは佐倉に戻るや早速、佐倉藩医として医学改革を実施。「佐倉順天堂」での教育だけでなく、佐倉の医療制度の改革も行いました。

実際、佐藤尚中の長崎遊学に泰然は反対していたようですが、こうして西洋医学発展の中心は長崎から江戸へ移行していき、当時の蘭学の東西の双璧として“西の長崎、東の佐倉”(東の佐倉「順天堂」、西の長崎「精得館」)という語が生じたのですね。

明治に入り、明治6年(1873)に下谷したや練塀町ねりべいちょう(現、千代田区神田練塀町)に順天堂医院(現、順天堂大学医学部付属病院)を開院。その後、同8年(1875)、下谷練塀町から湯島、本郷(現、東京都文京区本郷)に移転します。すなわち東京順天堂の創設です。

一方、「佐倉順天堂」は尚中の養子となった佐藤舜海が受け継ぎ、医療活動を続けられました。

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現在、佐倉市では“蘭学のまち”として小学校の頃から副読本『みんなのさくら』などに佐藤泰然や「佐倉順天堂」の事を記載して、教えているそうです。

なかなか良い事ですね!“わが街”自慢もできないのって寂しいし…

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※(参考)木村礎「堀田佐倉藩の家臣団と藩領」(村上直編『木村礎著作集』第3巻所収、名著出版)
※(参考)木村礎・杉本敏夫共編『譜代藩政の展開と明治維新 下総佐倉藩』(文雅堂銀行研究社)

(トピックス)世界最古?15世紀のブラジャー、オーストリアで発見!

15世紀に作られたブラジャー

オーストリアのインスブルック大学は19日までに、オーストリア西部に広がるチロル(Tirol)州の古城から15世紀に作られたブラジャーが見つかったと発表しました。


同大学が東チロル(Osttirol)側にあるチロル州レングベルク(Lengberg)城で2008年(平成20)7月から始めた考古学調査で、城内の床板の下から長く放置されていた大量の布を発見。その中に現在のブラジャーの形態のようにストラップ(肩紐)や2つのカップが付いたブラジャーらしきものが複数が含まれていて、一部にはカップの下も覆うタイプもあったとかで、何れもレースなどで装飾されていたのだとか──


その後、同大学の考古学者がスイス・チューリッヒ(Zürich)にあるスイス連邦工科大学で放射性炭素年代測定法(炭素14法)によって繊維を測定し、作られた時期を特定した結果、生地はリネン(亜麻布)製で、1440年~85年頃のものと判明。「これまでに発見された世界最古のブラジャーだ」と地元メディアに語ったそうです。


同大学の考古学者はブラジャーの考案時期について、中世の書物からは「胸用の袋」「袋付きシャツ」「胸用の帯」といった記述が散見されるものの、カップ付きのブラジャーはこれまで19世紀前には存在しなかった、と認識されていたと指摘し「15世紀に現代と同じようなブラジャーが存在した事は大きな驚きだ」と話しているという。


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さて、ブラジャーの語源ですが、フランス語の「brassière(ブラシェール)」から来たものと云われています。


但し、この「brassière(ブラシェール)」を意訳すると、「女性のバストのための下着」ではなく、「女性や赤ちゃんが使っていた袖付きの胴着」を指すそうです。


しかも、「bras(ブラ)」の語意は「胸」ではなく、「腕」を指し、直訳した場合、「腕の防護具」となるんだとか……


その歴史を辿ってみると──


ブラジャーのようなものを身に着けた女性の姿は古代ギリシャ時代においては、ミノア文明期(クレタ文明期ともいう、紀元前2000~1500年頃)のクレタ島やスパルタクスで着用されていた「ゾナ」と呼ばれる一枚布の下着で胸部を覆う姿が知られています。


時代が下がって、古代ローマ時代になると、女性はバストを衣類で覆ってしまいます。


中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する赤峰(シーフォン:Chìfēng)市寧城(ニンチェン:Níngchéng)県で遊牧民族系で山東系漢族と旧渤海系遺民を融合した遼(契丹)の時代の人が眠る墳墓(王族か上級身分でしょうね!)から現代のブラジャーに似た女性用下着の一部が発掘、出土されました。下着は絹製で精巧な刺繍が施されており、現代のブラジャーのようにストラップ(肩紐)やベルトに相当する部分(背中の帯)が付いていたのです。しかし、これはカップに相当する部分がまだありません。


16世紀頃、宮廷の女性たちはコルセットでウエストを締め上げ、バストを持ち上げるようになります。


ブラジャー「胸部を覆い、乳房を保護し形を整えるための女性用の下着」と定義すると、19世紀後半になってようやく、現代のブラジャーの原型らしきものが出てきます。


世界最古の寄せて上げるブラジャー?

世界最古の“寄せて上げるブラジャーがロンドンにある科学博物館で発見されます。鑑定された結果、1880年代の頃(→そうなると、ヴィクトリア朝でしょうね!)のものと考えられているそうです。


1889年、フランス人のエルミニー・カドル(Herminie Cadolle)という女性が最初のものを発明。


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1893年、イタリア人のマリィ・トチェック(Marie Tucek)という女性が「ブレストサポーター」という名前でブラジャーの特許を取得。


1907年にはファッション・ライフスタイル雑誌『VOGUE(ヴォーグ)』に初めて「Brassiere」という用語として登場し、認知されていきます。


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1913年、アメリカ人のメリー・フェルプス・ヤコブ(Mary Phelps-Jacobs)(グラマラス・カレス・クロスビー)によって発明されたものが、翌1914年に「Backless Brassiere」という名前でブラジャーの特許を取得。これが現在のブラジャーの原型として知られています。


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日本におけるブラジャーの歴史はさらに浅く、大正末期から昭和初期の1920~30年代、すなわち“モボ・モガ(モダンガール)”の時代に最先端ファッションとしての洋装が日本に輸入されてきます。


大正15年(1926)、「乳房バンド」という名称での広告が掲載されたのが初見でしょうか?


昭和4年(1929)には「乳房バンド」以外に「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名称で広告や通信販売欄に掲載され、薬局や小間物店、デパート等で売られていました。


日本においてブラジャーという名称が初見されるのは1930年代に入ってからの事です。


しかし、高価な輸入ブラジャーを着用できる女性はごく一部の階層で、一般の多くは自家裁縫によって類似した形態のものを作って着用するしかなかったのです。


その状況が変化をみせるのはやはり敗戦後で、昭和25年(1950)に和江商事株式会社(現在のワコール)によって、ブラジャーの生産が開始されます。


したがって、日本におけるブラジャーの歴史は、せいぜい60年ほどしか経っていない事になりますね。


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レングベルク城

次に15世紀、それも1440年~85年頃のものという点に注目します!


現在から約600年ほど前、時代背景としてはちょうどイタリア・ルネサンス(Renaissance)に影響を受けた北方ルネサンスの真っ只中ですね。


発見されたレングベルク城があるチロル地方は、中世期を通じて、銀、銅、そして岩塩が大量に採掘され、支配していたハプスブルク(Habsburg)家に因んで“ハプスブルク帝国の財布”と呼ばれるほど長い間ヨーロッパ経済の中心として重要な役割を果たしていた場所です。


細かく観れば、1438年にアルブレヒト(Albrecht)2世が、次いで1440年にフリードリヒ(Friedrich)3世がドイツ王になり、王位をほぼ世襲化する事となった時期に該当し、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝としてまだヨーロッパ世界を席巻する前、ドイツにて力を蓄えていた時期になりますね。


ところで、チロルという地名は、現在のイタリア共和国北部に位置するトレンティーノ=アルト・アディジェ/南ティロル(Trentino Alto Adige/Südtirol)特別自治州ボルツァーノ(Bolzano)自治県のメラーノ(Merano)の郊外にあるチロル村に起源を持っているそうです。


余談ですが、「チロル」と聞いて何を連想されますか?平成生まれも含めてこの質問をすれば、大抵の人は「チロルチョコチョコレート」を思い浮かべるのでは!


実際、「チロルチョコチョコレート」を製作・販売するにあたって、チョコレート会社の社長さんがこのチロル地方に訪れたそうで、イメージ戦略としても適用しているそうですよ。


また、少数派かもしれないのですが、昭和生まれ限定では「チロリアン」って聞いた事がありませんか?


「チロリアン」は洋菓子の老舗「千鳥屋」が製作したもので、こちらは正にチロル地方に古くから伝わっていたロールクッキーをアレンジして作ったものだそうです。TVのCMで「♪チローリアーン」ってフレーズで流れてましたね。あれって、昭和43年(1968)に実際にチロル高原にて撮影されたんですって…


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さて、話を元に戻して──


その地を支配していたチロル伯は算出銀の力で付近の領地を次々と吸収し、さらにオーストリア西部に進出します。


こうして領土の広がったチロル伯領ですが、14世紀の中頃に直系男子が断絶し、血筋が途絶えてしまいます。


そして、唯一の相続者であるチロル女伯マルガレーテ(Margarete von Tirol)は1363年、その領地をハプスブルク家に譲渡します。


こうして、ハプスブルク家はチロル地方の新しい領主となったのです。


1402年、チロル地方はオーストリア公フリードリヒ4世に相続され、1420年には首都機能がをメラーノからインスブルック(Innsbruck)に遷されます。


1463年、フリードリヒ4世の子・ジギスムント(Sigismund)がチロル地方の領主の地位を相続します。


そうした時期にインスブルックの北東、チロル地方の谷の中にあるシュヴァーツ(Schwaz)で銀山が開発され、1477年にはハル・イン・チロル(Hall in Tirol)に銀貨の鋳造所を造ります。


ジギスムントはインスブルックの城塞を大幅に拡張し、現在のホーフブルク宮殿の基礎ができあがり、そうした彼の許に優れた芸術家たちが集まったのだとか──


その後、ジギスムントは失政と数々の素行不良がもとで、皇帝フリードリヒ3世により領主の地位を失います。


チロル地方の住民たちもフリードリヒ3世の提案を支持し、1490年、フリードリヒ3世の子で次期皇帝であるマクシミリアン(Maximilian)がチロル地方の領主となり、インスブルックはハプスブルク本家の領地となります。


さらに、神聖ローマ帝国皇帝となったマクシミリアン1世はインスブルックに移り住み、ここを神聖ローマ帝国の首都としたそうです。


まとめ


○従来、服飾史の観点からみて、現代のブラジャーの原型は、20世紀の初頭にコルセットが放棄された後に発明されたもので、19世紀より以前には存在しなかった、と云われてきましたが、今回の発見のように15世紀に現代と同じようなブラジャーが存在したという事は、20世紀のブラジャーは再改良だった可能性が強くなりますね。


○また、それが発見された場所であるチロル地方が“ハプスブルク帝国の財布”と呼ばれ、ヨーロッパ経済の中心として重要地だった事、そうした拠点が芸術や文化の中心として繁栄するのは“世の常”であり、当時のトレンドだったのかもしれないブラジャーの原型が発見されたのも必然性が大いにあったと思われます。


“蛍合戦”─平家物語・宇治拾遺 橋合戦

日本では明治5年(1872)12月2日まで太陰太陽暦たいいんたいようれきを採用していました。

太陰太陽暦とは、通常の太陰暦を採用した場合、12か月を1年とした時に354日となって太陽暦の1年に比べて11日程短くなり、そのずれは3年経つと約1か月のずれとなってしまい、約3年に1回、余分な1か月(=閏月)を導入する事で実際の季節とのずれを補正した暦を言います。

暦が中国から導入された当初は、中国での使用と同じように正月~3月が春、4月~6月が夏、7月~9月が秋、10月~12月が冬としていたようですが、次第に日本風にアレンジがなされ、以下のように区切られます―

 春=立春(2月4日)~
 1月 立春(2月4日)~啓蟄(3月6日)
 2月 啓蟄(3月6日)~清明(4月5日)
 3月 清明(4月5日)~立夏(5月6日)

 夏=立夏(5月6日)~
 4月 立夏(5月6日)~芒種(6月6日)
 5月 芒種(6月6日)~小暑(7月7日)
 6月 小暑(7月7日)~立秋(8月7日)

 秋=立秋(8月7日)~
 7月 立秋(8月7日)~白露(9月8日)
 8月 白露(9月8日)~寒露(10月8日)
 9月 寒露(10月8日)~立冬(11月7日)

 冬=立冬(11月7日)~
 10月 立冬(11月7日)~大雪(12月7日)
 11月 大雪(12月7日)~小寒(1月5日)
 12月 小寒(1月5日)~立春(2月4日)

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで、俳諧を詠む時の季語で初夏を表す語の1つに「蛍」がありますが、宇治に古くから伝わる民話の1つに「蛍合戦」という逸話が残されています。

実際、「蛍合戦」とは交尾のために多くの蛍が入り乱れて飛ぶ事を指すのですが、民話では少し趣が異なり、

昔、都で平家と源氏が争っていた時の事、宇治川で平家の赤旗、源氏の白旗が入り乱れた激しい合戦があり、結局平家が勝ちました。

勝った平家は、都で栄華を一人占めして次第に横暴になって、随分と悪行を重ねるようになってしまいました。

こんな平家一門は倒さなあかんと以仁王が諸国に散らばっていた源氏に呼び掛けたので、また平家と源氏のいくさが始まっちゃいます。

とりわけ宇治橋での戦いはすさまじいもので、源氏も平家も共に矢に射抜かれた者、刀で切られた人、深みにはまって馬ともども溺れ死んだ者など…武者たちのしかばねが累々と重なり合って、川の水も真っ赤に染まるほどだったそうです。

この合戦を『平家物語』から「橋合戦」と呼んでいます。

やがて、月日は流れ―

いつの頃か、夏間近の夕暮れ時になると、宇治川では蛍の姿が見られるようになりました。

水草の間から飛び立った二、三の蛍が川面に淡い光を映し出し、さらにおびただしい蛍たちが現れ、蛍火が縦横に交じり合い激しい光の渦になるといいます。

旧暦の5月26日は「橋合戦」で源頼政が平等院内の扇の芝において無念の最期を遂げた日ですが、その夜に現れる無数の蛍の姿は、まるで頼政や源氏の武者たちの亡魂が、あたかも平家に戦いを挑んでいるかのように、低空で乱舞している姿を「蛍合戦」と命名したのだとか―

そして、こうした逸話からゲンジボタル(源氏蛍)やヘイケボタル(平家蛍)と呼ばれるようになったのだそうですよ。

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『都名所図会』より「宇治川の蛍狩り」

平等院から宇治川ラインを天ヶ瀬ダム方面に向かう大津南郷宇治線(府道3号線)の道路の途次、白川と宇治川の合流点付近に「蛍塚」と名付けられた石碑があります。

石碑は平成11年(1999)に建てられたもので、この付近は「蛍ヶ渕」と呼ばれ、「蛍合戦の由来」として、上記の「橋合戦」を掲げて刻まれたものです。

この白川が流れる宇治市白川地区は、平等院の南南東約1・5km、平等院から後鳥羽上皇が藤原氏に建てさせた宇治離宮があったとされる院ノ御所山(槇尾まきのお山)を隔てた場所に位置し、白川と寺川という二河川によって開かれた南北に長い小盆地帯です。

この盆地帯は西側が急峻な丘陵地であるのに対し、東側は棚田や茶畑などの緩やかな河岸段丘が形成されており、江戸時代に著された山城国についての総合的な地誌である『雍州ようしゅう府誌』(「雍州」とは、「都のある地」をさす)にも「山水幽邃の地にて誠に小桃源と謂うべし」と評しているほどです。

白川という地名の由来は、白川と宇治の境界に横たわる折居丘陵群(昔は折居国有林と言ってましたが…)がれき層が浸食してできた丘陵地帯で、随所に白い山肌を晒していましたが、そこから堆積する白砂を洗い清めるほど清流だった事から命名されたものだそうです。

童謡「ほたるこい」にも唄われているように、


ほう ほう
ほたる こい
あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ
ほう ほう
ほたる こい

成虫になった蛍は、水しか飲みません。そして、ゲンジボタル(源氏蛍)は清流に、ヘイケボタル(平家蛍)は満々と張った田植えの後の田んぼに生息するのだとか―

白川の付近はまさに蛍の生息に適した場所だったんですね。

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但し、この白川が「蛍狩り」の地として有名になったのは、江戸時代以降の話だそうで、江戸時代後期にまれた旅行ガイド本ともいうべき『都名所図会』に紹介されています。

ところが、江戸時代以前の「蛍狩り」の名所は別な場所にありました。それについては後日談…

津波にも“残った!残った!”第9代横綱・秀ノ山雷五郎関像

宮城県気仙沼市、岩井崎にある秀ノ山雷五郎関の等身大の銅像、平成23年(2011)の東北地方太平洋沖地震による大津波に呑み込まれたものの流出する事はなかった

◇秀ノ山像は残った
昨年3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震ですが、宮城県気仙沼市は地震発生当日、大津波が押し寄せ、大きな被害をもたらされます。

陸中海岸国立公園の最南端、岩井崎いわいさきは、太平洋の荒波に形造られた海岸がとても美しく、絶好の観光スポットとして有名です。

しかし、そんな岩井崎も周辺にあった一帯の施設や民家は屋根までもがあらかた津波に呑み込まれて大きく損壊してしまいます。

ところが、そんな岩井崎の海岸べりに建つ力士像だけは、周辺と同じ様に津波に呑み込まれたりしたにもかかわらず、、踏ん張り、立ち続けていました。

その力士像こそ、江戸時代に活躍した気仙沼出身の第9代横綱・秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの等身大の銅像なんですね。

秀の山雷五郎関像 秀の山雷五郎関像

昭和63年(1988)に秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの功績を顕彰しようと市民有志の手によって、太平洋を望む岩井崎の先端に建立されたそうですが、大津波でそばにあった秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうを紹介する碑文などは流され、地面も陥没してしまいましたが、等身大の銅像や10トン以上あるという台座は残ってのだとか―

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秀ノ山雷五郎関は、陸奥国本吉郡最知村(現、宮城県気仙沼市最知)出身の力士で、秀ノ山ひでのやま部屋に所属、初め出雲松江藩、後に陸奥盛岡藩のおかかえ力士として江戸時代に活躍し、第9代横綱となります。本名は菊田(のち橋本)辰五郎といいます。

文化5年(1808)に生まれ、次兄が草相撲の大関だった影響から力士を志したという。

仙台に居た3番目の兄を頼りに魚問屋に奉公、15歳の文政6年(1823)、江戸に出て相撲部屋の門を叩きます。

しかしながら、小柄であったためになかなか芽が出ず、一度は諦めて油問屋に奉公に出たのが文政5年(1822)の事。

下野国八木宿じゅく(現、栃木県足利市福居町八木)に在ったこの油問屋は、江戸にも商才を鳴り響かせていた高木源之丞の店で、源之丞は油を搾る辰五郎の怪力ぶりを見て、もう一度、相撲取りを目指せと勧め、江戸の秀の山伝次郎のもとに送り出します。

再び江戸に出て秀ノ山傳治郎親方の門を叩いたのが文政10年(1827)の事。

翌11年(1828)3月、北山辰五郎の四股名しこなで前相撲から取り始め、10月には序ノ口に顔を出します。

天保2年(1831)三段目の時、、出雲松江藩のおかかえ(“雲州力士”)となり天津風と改名。

同3年(1832)閏11月には下の名も雲右衛門とします。

同8年(1837)正月、幕の内入り。しかし、松江藩の財政事情が悪くなったため、翌9年(1838)頃におかかえを解かれます。

翌10年(1839)11月に小結、翌11年(1840)2月には関脇に昇進。陸奥盛岡藩のおかかえとなり、立神と改名。

同12年(1841)閏正月、大関に昇進しますが、翌13年(1842)10月に関脇に陥落し、岩見潟丈右衛門と改名。

同15年(1844)10月再び大関となって3日目の土俵から亡き師匠の跡を襲って秀ノ山雷五郎を襲名します。

弘化4年(1847)9月、39歳の時に横綱に推挙されます。入門してから横綱の栄誉に浴するまで19年の歳月でした。

秀の山雷五郎関が描かれた浮世絵 秀の山雷五郎関の横綱土俵入り

秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうは、五尺四寸(163・6cm)という歴代横綱の中では一番低い身長で体重も四十二貫(161・5㎏)という体格。

優勝相当成績6回。幕内通算27場所112勝21敗33分2預96休(免許後の江戸相撲での戦績はは24勝7敗10分1預48休)、その姿は多くの浮世絵に残されていいます。

引退後は、四股名のまま年寄となり、第12代横綱・陣幕久五郎ら多数の力士を育てました。

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今年の2月に第45回NHK福祉大相撲が両国国技館(東京都墨田区横網)で開催されましたが、ちびっこ豆力士が大関の把瑠都関らに胸を借りる「ちびっこ力士関取に挑戦」ののコーナーで、秀ノ山雷五郎関の末裔という小学生が登場しました。

小学生の父方の祖母が秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの子孫にあたるのだそうです。わんぱく相撲の全国大会にも出場するなど、「将来は横綱になりたい」と角界入りを目指しているとの事。

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第9代横綱・秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの銅像は震災後、“大津波に耐えて残った、残った”という感じで報道された事で、被災した人たちに復興への象徴として勇気や希望を与えています。

右手を挙げ、目の前の海に仁王立ちする姿は、第10代横綱・雲龍久吉関が行った雲龍型、第11代横綱・不知火しらぬい光右衛門関が行った不知火型、というそれぞれの土俵入り姿よりも泰然たいぜん自若じじゃくとしていて、まさに“東北魂、ここにあり”って感じですね。