日本で最初に飾られたクリスマスツリーは函館だった!

以前、「日本で最初に飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!」というブログ記事を書きましたが、新しい見解がある―とのご指摘を頂き、取り急ぎ調べてみました…

クリスマスツリー (Christmas Tree)が安政5年(1858)、日本で初めて江戸時代末期、すなわち幕末の箱館(「函館」表記は明治9年以降)で立てられた可能性も…

日本で最初のクリスマスツリーは、一般的には154年前の万延元年(1860)に「プロイセンが派遣した東アジア使節団長、オイレンブルク伯爵が飾った」とドイツ大使館広報部はされていますが、箱館の方が2年早い事になるようですね。

安政6年(1859)12月22日付で初代駐日ロシア領事ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich GOSHKEVICH)が箱館奉行所の役人(1)や近隣住民との交流を深めようと、奉行所宛に「ロシアの祭礼」への招待状を出していたそうです。そして、そこには―

「明後日(24日)の祭礼には奉行、副奉行が来て楽しんで欲しい」という内容で、そのために「高い所をきれいに整飾した」クリスマスツリーを思わせる表現があったそうです。

「高い所」には「ヨルカ(もみの木)を立てた」とするロシア側の資料も判明している事―

さらに昨年のように役人の子供たちも来ることを望む」との旨が書かれていたのだとか―

という事は、前年の安政5年(1858)にも催されていた事が分かりますね。

また、これらの裏付けとして、ゴシケーヴィチ自身がロシア海軍省の機関誌『海事集録』において、寄稿したと思われる、赴任した安政5年(1858)に迎えた箱館の年末年始の様子について報告している記事の中に、

「私はここの役人社会に接近するために、クリスマス週間(クリスマスから一月六日の主顕節までの期間)に際して色々な楽しい催し物を考え、そしてその目的に達したように思う。クリスマスの前日に、私の所では、彼等の子供たちのためにツリーが建てられ、それを見ようとすべての子供ばかりか、ほとんどすべての役人たちが訪れた」(佐藤守男「ロシア領事館の函館開設とその活動―一八五九年~一八六二年の『海事集録』を中心に―」第二章第1項「最初の年末年始」より引用)

と書かれた安政6年(1859)2月1日付の「駐日ロシア領事の手紙の抜粋」(『海事集録』第43巻第9号、雑報欄)があったそうです。

(1)箱館奉行所の役人
→箱館奉行は竹内下野守保徳、堀織部正利熈、村垣淡路守範正の3名で、2人が箱館在勤、1人が江戸詰めという交代勤務制を執っていました。なお、ゴシケーヴィチが領事として箱館に到着した時期の奉行は竹内下野守保徳だったようです。


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※(関連)江戸の町に初めて飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!
※(関連)“戦場のメリークリスマス”―戦国時代のクリスマス休戦


※(参照)「日本初のツリーは幕末箱館*市民団体代表木村さん 史実に光*ロ領事の祭礼招待状に記述*『高い所をきれいに整飾した』弥生小付近、スギなど代用か」(2010年12月24日付夕刊『北海道新聞』)
※(参照)「Xマスツリー華やかに…元町ホテル前に設置」、2014年11月25日付『函館新聞』より引用)
※(参照)佐藤守男「ロシア領事館の函館開設とその活動―一八五九年~一八六二年の『海事集録』を中心に―」、北海道大学法学部『北大法学論集』第46巻第3号、1995年9月29日

「鉄眼版」一切経(大蔵経)がもたらしたもの ─日本の印刷技術のパイオニアとして―

JR西日本・京都駅を出発し、奈良線に乗車してJR黄檗駅で下車、あるいは京阪電鉄の宇治線に中書島駅で乗り換えて黄檗駅下車すると、そこから徒歩で5~10分ほどした場所にたたんでいるのが黄檗山おうばくさん萬福寺まんぷくじです。

萬福寺は中国・大明王朝末期に福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持であった隠元いんげん隆琦りゅうき禅師によって開基した寺院で、寛文元年(1661)に五摂家の1つ、近衛家の家領で、後陽成天皇の女御にょうごで後水尾みずのお天皇の生母である近衛前子さきこ(中和門院)の大和田御殿があった山城国宇治郡五ヶ庄ごかのしょう大和田村(現在、宇治市五ヶ庄ごかしょう三番割)の地を賜り、福建省の自坊と同様に黄檗山萬福寺と名付けます。

江戸期全般は臨済宗黄檗派と称していましたが明治9年(1876)、臨済宗から独立し宗派を黄檗宗と改宗、黄檗宗総本山として現在に至っています。(禅宗は、日本においては臨済(禅)宗、曹洞(禅)宗、黄檗(禅)宗の3派に分類されます)

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ちょっと寄り道──

現在、韓国の史劇ドラマ「武神」を視聴中です。この作品の舞台は高麗王朝期で、ちょうど武臣政権期と呼ばれる時期を描いているのですが、ドラマの中でモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する大蔵経の回(第29話、邦題タイトル=燃える大蔵経)がありました。

武臣政権はモンゴル(蒙古)軍の侵攻を追い払い、高麗の国教である仏教の力で鎮護国家・怨敵退散の願いを込めて、新たに大蔵経の制作を計画します。

ところで、第29話で符仁プイン寺に保管されている大蔵経がモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する際、大蔵経を守ろうと大蔵経と共に焼け死ぬ僧侶の姿が描かれるのですが、これは焼身供養と言って、「己の身を焼き仏に捧げる」といものなんだとか──

一瞬思い浮かべたのが、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれましたが、織田信忠が甲斐武田氏の征伐として武田氏の分国である甲斐に攻め込んだ際に、恵林寺えりんじ
(山梨県甲州市塩山)の住職であった快川かいせん紹喜じょうき禅師は織田軍に敵対した「佐々木次郎」(六角義定よしさだではないかと云われている)らを匿いました。

中世という時代においては、寺社領は聖域であると同時に治外法権が適用され、どんなに謀反人であっても、手を出せないという、謂わば社会的通念があったのですが、織田軍による再三の引渡し要求を拒んだ結果、全山焼討ちに遭って焼死します。

この時、快川禅師は、
安禅不必須山水
(安禅必ずしも山水をもちいず)
滅却心頭火自涼
(心頭を滅却すれば火もおのずから涼し)
という碧巌録へきがんろく(=宋代に編まれた仏教書で、仏の教えや仏・菩薩の徳を文章化して讃えたもの)の第四十三則のを発しました。

これが、言わば遺偈(辞世句)を詠った、というシーンで、この折りも快川禅師にとっては「己の身を焼き仏に捧げ」たのかなぁと考えちゃいました。

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脱線しちゃったけど──

焼失して5年後、新たに大蔵経の制作に向けて計画・準備が練られます。

大蔵経の経文の版木として使用するために伐採する木は樹齢100年以上の山桜(バラ科の落葉高木)を5千~1万本ほど必要としました。

伐採した木材は干潟地に3年間ほど埋めておきます。その方がひび割れなど起きない、ほぼ変化が起きない立派な版木用の木材になるからだそうです。

きちんと製材された木材は塩水に浸しては乾燥の作業を繰り返し、保存処理として漆を2~3回重ねて塗っていたといいます。

ただ、こうして文章を読みだけだと経文の版木を作る事は、版木にただ文字を掘るだけだと思いがちかもしれませんが、そこには並々ならぬ苦労があったようです。

写字を行うためには数千人の人手を要するし、書体を揃えるためには訓練を積ませる必要があります。剰え、版木を掘る者も育てねばなりません。

このように大蔵経を製作するために高麗の当時の技術と知恵を総動員したのです。

その結果として、新しく製作された大蔵経(高麗大蔵経)は、まるで1人の熟練な職人によって作られたかのように、誤字も脱字もほぼなく、とても良好な出来栄えであったようです。

現在、大韓民国の慶尚南道陜川に在る海印寺に保管されている大蔵経(高麗大蔵経)は、版木の数が8万枚にも至るので「八万大蔵経」とも呼ばれています。

私自身、前職で大学図書館の事務を務めていた時、宗教系の大学の図書館だったので、この大蔵経(高麗大蔵経)を扱った事がありますが、やはり字体が綺麗なので見応えがありましたよ。

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閑話休題、話を戻して──

さて、その萬福寺が在る黄檗山内にある塔頭たっちゅうの1つに宝蔵院というのがあります。そこに保管されている重要文化財が今回の主人公です──

その重要文化財とは「鉄眼一切経版木」というもので、黄檗宗の僧侶である鉄眼てつげん道光どうこう禅師が成した成果なのです。

鉄眼禅師は肥後国益城ましき郡守山村(現在の熊本県宇城うき市小川町)に在る守山八幡宮の社僧を父として生まれ、初めは父の影響で浄土真宗を学び、13歳の時、浄土真宗の僧侶として出家します。

しかし、真宗門徒では個人の才徳ではなく、寺格の高下によって僧侶の身分が定まる事に嫌気がさしていた処、26歳の時にまだ長崎に居た隠元禅師に出会った事から臨済宗黄檗派に帰依し、畿内を中心に各地の寺院を巡っては般若心経はんにゃしんぎょうの教えを説いてまわります。

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そんな彼が一念発起してでも叶えたい夢がありました──

仏教思想には、釈迦しゃかが説いたとされる教えをまとめた「経蔵」、規則や道徳観念・生活様相などで戒めとされる事柄をまとめた「律蔵」、釈迦やその弟子たちが「経」や「律」を注釈、解釈したものを集めた「論蔵」の3種類で構成されており、総称して「三蔵さんぞう」呼ばれます。

古来インド(印度)で仏典がまとめられた初期仏教などではパーリ語でまとめられ(パーリ語仏典)、現在でもその原型を留めているのですが、大乗だいじょう仏教の流れで伝播した中国仏教やチベット仏教ではこの「三蔵」が原型を留めた形では伝わらず、一切いっさい経」(「大蔵だいぞう経」)という形で再編されています。

一切経(大蔵経)とは「三蔵」や高僧伝などを幅広く編集して社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科叢書ともいうべきものです。(中国仏教では南北朝期、北朝の北魏王朝では「一切経」と、南朝の梁王朝では「大蔵経」と呼んでいて、統一政権となった大隋王朝や大唐王朝の下で双方が併記されるに至ったそうです)

因みに、インド(印度)から中国へ大量の経典を持参した人物や経典を大量に訳した訳経僧に付した人物は「三蔵法師」と尊称されると云います。著名なところとして、『西遊記』にも描かれた玄奘げんじょう三蔵がいますよね。

鉄眼禅師は、仏教国日本に一切経版木の無いことを残念に思い、一切経(大蔵経)を開版(出版)しようとしたのです―

彼は寛文4年(1664)頃に隠元禅師にその志を相談すると、隠元禅師は感銘を受け、大明王朝の万暦ばんれき17年(1589)から大清王朝の康煕15年(1676)にかけて皇帝の勅命で編纂された勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』、6956巻)と黄檗山内にそれを保管する寺地を授かり、蔵版・印刷所としての宝蔵院を建立、また、洛中・木屋町二条の地に印経房(のちに貝葉ばいよう書院)を設け本格的な事業が始まります。

順調に開版事業が進むかのようでしたが、大洪水や飢饉ききんなどの災害被害にあえぎ苦しむ人々を目の当たりにした鉄眼禅師は事業を中止しては、全国行脚あんぎゃをなどして苦心して募った資金の全てを難民救済に差し出します。

そういった艱難辛苦かんなんしんくを経てようやく、延宝6年(1678)鉄眼禅師51歳の時に事業は完成したのです。

1618部7334巻からなる、この一切経(大蔵経)は「黄檗版」あるいは「鉄眼版」と呼ばれます。

翌天和2年(1682)、この一切経(大蔵経)を幕府に献上するため、江戸へと旅立とうとした鉄眼禅師ですが、折りしも、畿内に大飢饉が発生した事を聞き及び、直ぐ様大坂にとって返します。

鉄眼禅師の餓死寸前の人々を救おうとする姿に、口々に「救世ぐぜ大士だいし」様と崇めたと云います。

しかも彼自身、この救済活動の最中に、疫病に感染して入寂にゅうじゃくしてしまうのです…

一切経(大蔵経)の初版は後水尾法皇に上呈され、彼に「宝蔵国師」のおくりなが贈られます。

鉄眼禅師のこうした救済活動は戦前の尋常小学校の国語読本にも紹介されました―

鉄眼は「一切経を世にひろむるはもとより必要のことなれども、人の死を救うは更に必要なるにあらずや」と難民救済を最優先した、まさに活仏いきぼとけのようだ

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鉄眼禅師が遺したもの―日本における印刷技術のパイオニア

日本において、平安期から鎌倉期、室町期には殆んどの出版物が仏教関係の著作物や経典類で木版印刷が主流だったようです。但し、一切経(大蔵経)に関しては印刷・刊行された様子はなく、写経で模写するのが多かったようです。

木版印刷は、木の板に文章や絵を彫って版を作る凸版とっぱん印刷の形態を指し、版に絵の具や墨汁などを塗り、紙をあてて上から馬楝ばれんで摺って制作する作業工程をいいます。

戦国末期の桃山後期から江戸初期にかけては、キリスト教宣教師の布教活動で活版印刷技術が伝えられ、古活字本やキリシタン版などの活版印刷が一時的に盛んになり、『伊勢物語』『徒然草』など、仏教関係でない漢字ひらがな混じりで書かれた書物が多数印刷されました。しかし、鎖国政策による宣教師の追放に伴い、活版印刷の技術は普及しなくなり、寛永期を境として再び木版印刷が主流となってきます。

この「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は現在、宝蔵院の収蔵庫にて一般公開されており、生きた文化財として、現在も版木は現役そのものです。

それ故、多くの印刷業者やデザイン関係者が見学に訪れるのだそうです。

版木には、材料として最適な吉野山の桜の木を用いており、縦約26㎝、横約86㎝、厚さ約1・8㎝、版木の総数はは6万枚を要しているそうです。

文字の字体は大明王朝後半に印刷用書体として適した書体として考案された明朝体が使われていて、そこから日本における明朝体のルーツと云われる由縁が生まれました。

また、明朝体は太く大きいサイズの文字にも適用でき、強いインパクトが要求される見出しや広告などのデザインに使用されることが多いそうですよ。

明朝体は“活字文化の象徴”として捉えられているんですね。

また、「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は裏表2枚ずつ、計4枚の版木が刷られますが、そのレイアウトが1行20文字×20行、すなわち20×20の400字詰め原稿用紙サイズの様式なんですね。

これは鉄眼禅師独自のアイデアなんですよね。実際、元となった勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』)は1行17文字が標準形式であったことが実証されていますから…

すなわち、「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は今日における原稿用紙の基本ベースとも言える訳です。

そういう意味では、明朝体といい、原稿用紙サイズ様式といい、鉄眼禅師は日本における印刷技術のパイオニアと言っても過言ではないかもしれませんね!

山城国宇治郡と久世郡の境界線 ─中世期の平等院は宇治郡だった!―

現在の宇治市域は、昭和26年(1951)に宇治郡の東宇治町と久世郡の宇治町・槇島村・小倉村・大久保村が合併して成立しました。

宇治郡久世郡の境界線は?というと―

宇治川を挟んで川筋の

 右岸(東部)が宇治郡
 左岸(西部)が久世郡

になっていたんですよね。

ところで、こんな云い伝えがあります―

宇治に宇治なし、久世に宇治あり
すなわち、宇治郡には宇治郷がなく、久世郡には宇治郷が存在する、といったものです。

平安中期の承平年間(931~938)にしたごう撰による和名類聚抄わみょうるいじゅしょう(あるいは倭名類聚抄、和名抄、倭名抄とも)という、今でいうと国語辞書や漢和辞書など、百科辞書の要素を含んだ書物の最古の写本で平安末期に写された高山寺こうざんじ本には宇治郡宇治郷のみが記載され、久世郡には宇治郷の記載がありません。

ところが、同書の慶長古活字本(古活字本とは、文禄年間〔1592~96〕から慶安年間〔1648~52〕頃までの間に日本国内で刊行された活字印刷本の総称)には宇治郡にも久世郡にも宇治郷が記載されているのです。

その後、文禄年間に豊臣秀吉による宇治川の河道改修が行なわれて以降、江戸期から現在に至るまで、上記のように宇治郡久世郡の境界線は宇治川を挟んで、右岸(東部)が宇治郡、左岸(西部)が久世郡とされました。

そのために「宇治に宇治なし、久世に宇治あり」というように皮肉めいた云い伝えが生じたようです。

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さて、かく申す私も宇治市民のはしくれですが、宇治郡久世郡の境界線は宇治川を挟んでのもの―と信じて疑いませんでした。

しかしながら、槇島まきのしまの事を調べていくうちに面白い発見をしたのです。

それは、平等院が少なくとも中世期宇治郡に所在していたという事実です。(ちなみに、槇島地域も宇治郡なんですよ…)

次の史料は治暦4年(1068)3月29日付で出された『太政官牒案』で、ちょうど時期的に藤原氏腹の後冷泉天皇が崩御する直前の緊迫した時期であり、次期帝に藤原氏腹でない後三条天皇が即位するとなると、摂関家も整理の対象となる荘園整理令延久の荘園整理令)が実施行される事が判っていたため、宇治殿=藤原頼通が先手を打って、自領の荘園と寺領(平等院境内地)を私領から整理令の及ばない官省符荘荘園にしたうちの平等院に関するものですが、

治暦4年(1068)3月29日付『太政官牒案』(『禅定寺ぜんじょうじ文書』、『平安遺文』所収第1024号)

太政官牒  平等院

 …(中略)…

 四至 東限近江国  南限□□  
    西限久世郡堺 北限浄妙
その中で平等院を含んだ寺域が記載されているのですが、注目するのは「西限久世郡堺」とある点です。

すなわち、宇治郡の郡境は宇治川を渡って平等院の西端であって、そこより以西から久世郡であるという事―

という事は、宇治郡宇治郷は宇治川の両岸にまたがっていた事―

が判明しました。まとめると、

中世期において、宇治川上流(宇治橋より)では宇治川を境に宇治郡久世郡が分かれていたのではなく、平等院の西端(現在の宇治市宇治蓮華れんげ)が宇治郡久世郡の境界、すなわちあがた通りを挟んだ宇治市宇治妙楽みょうらくより以西が久世郡だったという事になります。
それが、文禄年間の豊臣秀吉による宇治川の河道改修や槇島築堤などで宇治川左岸の宇治郡の一部が久世郡に編入された事で、宇治郡久世郡の境界線は宇治川を挟んで、右岸(東部)が宇治郡、左岸(西部)が久世郡とされて現在に至っている訳です。

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では、宇治川左岸の宇治郡の一部が久世郡に編入されたのは何時の時期でしょうか?

そのヒントとなる史料を見つけました―

江戸期に入った正保3年(1646)12月に摂関家近衛家の当主・尚嗣ひさつぐ平等院の諸堂の修造に関して記した『平等院由緒書』というものがあり、その中の冒頭部分で「山城國宇治郡平等院」(陽明文庫蔵、『開創九五〇年記念 国宝 平等院展』図録、図版85)と記載しているんですね。

―という事は、 この時点ではまだ平等院の所在は宇治郡にあった事になりますね。

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※(参考)藤本孝一「山城国宇治郡と久世郡境界考―二つの宇治郷を中心にして―」(『中世史料学叢論』思文閣出版)
※(参考)藤本孝一「平等院の創建と位置附け」(『鳳翔学叢』第3輯)
※(参考)『開創九五〇年記念 国宝 平等院展』図録

“道は好む所によって安し”―“好きこそ物の上手なれ”って言うよね!

こんな記事を見つけました!

「洛東高、『地歴研究の甲子園』で優秀賞 府内初」

といったもの―

歴史や文化財、地理に関する研究成果を競う「全国高校生歴史フォーラム」(奈良大学主催)という催しで、京都府立洛東高校(京都市山科区)の女子生徒4人のグループ「人文社会コース研究会」が、優秀賞を受賞したそうです。

この催しは、“地歴研究の甲子園”とも称され、6回目の今年は全国から75件の応募があったのだとか…

彼女たちが研究したテーマは「安祥寺あんしょうじ下寺の所在地」というもの―

彼女たちは地元の>安祥寺を見学し、平安時代には上寺と下寺があったという記録を基に同校近くにあったとされる下寺の所在地を探求。

専門的な文献や古地図を読み解き、学校のグラウンド内に地番界(住所表記が変わる境界線)がある事を発見し、周囲の地名や史跡を史料と照合した結果、下寺の位置を推定したようです。

受賞の知らせを聴いた彼女たちは、「難しい論文や史料と向き合う研究だったが、調べてまとめる事を学べた」と語り、「歴史の道に進み、将来に活かしたい」とも言っています。

指導した教諭は「内容は学術的にも通用するレベル。研究発表は専門家に聞いてもらう良い機会にもなる。難しい要求に応えてくれた生徒たちに感謝したい」と話しています。

彼女たちの研究成果は、24日に奈良大学で行われる表彰式で発表されます。

個人的には、同じく優秀賞を受賞した大分東明高校(大分県)郷土史研究部の「高田輪中の野鍛冶・入鎌師と水害―輪中集落の歴史・くらし・文化 3―」や、佳作だけど西大和学園高校(奈良県)地理歴史部の「大和郡山城下町の歴史と変遷」も面白そう!!

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実を言うと、私も大学4回生の時、『地方史研究』の発行で有名な地方史研究協議会が主催している「日本史関係卒業論文発表会」の存在を知って、応募してみようかな?なんて無謀な事を考えてた過去があります。

結局、色々と調べていくうちに応募してる学生の殆んどが関東圏の大学生である事に疑問を感じたので、思い直しました。

京都で歴史の勉強をしている以上、京都(京都学派)で認められなければ何の意味もありませんからね…

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吉祥山安祥寺あんしょうじは京都市山科区御陵みささぎにある高野山真言宗の仏教寺院で、定額寺じょうがくじの1つでした。

古代天皇制度下において、官大寺・国分寺(国分尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院を指し、神仏に鎮護国家や皇室繁栄などを祈願して創建され、王家(治天の君)の私寺的色彩が強いのが「勅願寺」、これに対し、有力貴族や地方豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けたのが「定額寺」と言います。

嘉祥元年(848)、仁明天皇女御にょうごで文徳天皇の母である五条后藤原順子のぶこの発願により、入唐にっとう僧・恵運によって、山城国宇治郡に創建された。天皇の母に関係した寺である事から斉衡2年(855)に定額寺となります。

しかも、五条后順子の御陵は『延喜式』によると山科の地にあるとされるので、この寺との深い関係がうかがえます。

安祥寺には醍醐寺同様に「上醍醐」「下醍醐」と呼称するように、裏山に「上寺」が、麓に「下寺」が存在したと云います。

恵運が貞観9年(867)に作成した『安祥寺伽藍縁起資財帳』によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万㎡の寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされます。

しかし、五条后順子が死去した後は朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』では既に上寺に行く参道が非常に荒れている事が記述されています。

その後、上寺の方は延文年間(南北朝期の北朝年号、1356~60、正平11~16年)まではかろうじて存続していたみたいですが、応仁・文明の乱(1467~77)により、上寺・下寺ともに廃塵に帰し、完全に廃寺となります。

江戸時代になり、現在地に移転して本堂、地蔵堂、大師堂、多宝塔が再建されますが、上寺の方は全く再建されず廃絶。明治39年(1906)の多宝塔焼失後、再建されていません。

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このニュースを見て、自分の高校時代を想い出しました。

私自身も、小学校高学年の頃から“将来は歴史の勉強がしたい”という思いで目標を定めていたのですが、いざ高校に入学し課外活動クラブを「古典歴史」クラブと定めて、素地を固めていこうというプランだったのですが、入学した年に「古典歴史」クラブが廃部になり、入部が叶いませんでした。

まぁ、他に「古典文学」系のクラブがあったので、そちらに籍を置いたのですが、私としては大学受験に向けて、個別に独学で歴史の素養を培っていくしかないな、という感じだった訳です。

幸い、高校2年生で初めて日本史を習った際の先生も、担任で世界史の先生もどちらかと言えば、暗記、穴埋め式の授業ではなく、文章表現や論文・記述式のテストをなさる方だったので、結果として鍛えられたんですけどね(笑)

例えば、担任で世界史の先生のテスト形式は、すべて記述式で、問題は4問。問1は10マス10文字以内で回答しなければならない、問2は20マス20文字以内、問3は30マス30文字以内、問4は40マス40文字以内…といった感じで、100マス100文字以内に文字を埋めて回答する、というものでした。つまり、誤字脱字など許されないし、感想文やレポートにありがちな、漢字で表記すべきを文字数を増やそうとわざと平仮名で表記してマス目を増やそうとするテクニックなど、通用しないんですね(笑)

御蔭さまで、文章力&表現力が鍛えられました!

その他にも大学受験科目以外に、歴史に必要不可欠な科目は単位修得に関係なくても授業を受けて、古文・漢文、美術(史)、書道(史)など…知識も蓄えていった訳です。

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その甲斐もあってか、大学に入学できましたが、現在いまから想えば、4月の開講時点でうまくスタートダッシュをきれた友人と、少しだけ後方に置いて行かれた感じの友人とにグループ分けされちゃったなぁ、と感じる事があります。

関西私学の大学入試は2月上旬から中旬に集中されます。私などは一般入試で入学した人なので、モチベーションというか、学習意欲のピークが4月の開講時点もまだ残っていた感じなのですが、一方で推薦入試で入学した友人たちは10~11月がピーク絶頂で、下手をすれば4月の開講時点はモチベーション上げるのに苦労していたようです。

しかし、そうは言っても、皆が歴史の勉強をしたいからと入学して来た連中ばかりなので、周回遅れになる奴などいませんでした。

完全に遅れちゃう人って、とりあえず大学に入学したとか、日本史は暗記モノとして点数が採りやすいから…って感じで、入学したからの目的意識がないっていうか、モチベーションが低かった気がします。

― ◇ ◇ ◇ ―

しかも当時は、バブル全盛期で中学から高校を通じて友人の誰もが、就職時に有利になるように経済学部とか、経営学部、産業社会学部とかを目指していて、そういう連中から私などは「何のために文学部に行ってねん?」って感じで揶揄やゆされたもんです。

「何のために…」って言われてもねぇ…

正直、私は高校までは引っ込み思案で、自己主張しないタイプの人間でした。そんな私が歴史という科目に出逢って、自己主張できるような個性を持てるようになった訳です。

但し、高校までは理数系が得意な連中と同じクラスだったため、なかなか芽は息吹ませんでした(笑)

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大学に入学して以降、歴史の勉強に明け暮れるわけですが、友人の中には、折角4年間の大学生活を歩むんだから、空いた時間に他の学科で面白そうな講義を聴こうよ、って誘ってくれた友人が居ました。

確かに、単位修得の仕方にもよるけど、3回生次や4回生次になると、かなりカリキュラムも空く訳で、他の学科、例えば仏教学科での(仏教学科から視た)禅宗史の科目、或いは国文学科や社会福祉学科(家族社会学など)の講義などを聴講しました。

現在いま想えば、こちらの経験がかなり役立っています。

禅宗史などは、就職・転職などの面接時に禅宗系の学校出身って事で、「只管打座」とか「色即是空、空即是色」の意味を意地悪く聴いて来られた面接官もいらっしゃったので、十分に役立てられたし、歴史学の知識にしても、在学当時は歴史上に名を残した偉人たち、即ち“個”の歴史ばかり追求してた感じですが、寧ろ“個”じゃなくて、史料にも名が残らないような一般大衆たちの歴史、即ち“社会史”の方が遣り甲斐があると感じたんですよね。

やがて、学校事務に就職したのですが、そこで同じく史学科を出られた先輩の方にも“社会史”の価値をよく聴かされたんですね。

その事があってから、図書館へ調べ物に行った際も歴史の書棚(200番台)ばかり物色するのではなくて、社会の書棚(300番台)も注意深く物色するようになったんですよ。

想い起こせば、良きアドバイスを頂いたと想います。

毎年、年齢を重ねるたびに歴史という大衆社会に埋(うず)もれた人たちの叫び声を掘り起こそうとする自分がいる訳ですから…

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※(参照)全国高校生歴史フォーラム

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(トピックス)新陰流の創始者・上泉伊勢守が木像に

室町後期の新陰流の創始者・上泉伊勢守の復元木像

日本の代表的な剣術流派「柳生新陰流」の原型を編み出し、「剣聖」と称される上泉かみいずみ伊勢守信綱のぶつなの生誕500年祭が10日、前橋市上泉町で催され、上泉伊勢守のテレビドラマの実現に向けて活動する「上泉伊勢守ドラマ化推進委員会」が、伊勢守の木像を完成させたそうです。

伊勢守の銅像は、伊勢守が自ら考案した割れ竹を革袋に入れた「袋竹刀」を手に、どんな状況にも応じられる「無形の位」の立ち姿の50歳位の伊勢守で強さの裏に優しさを備えた「剣聖」を意識したもの。

設置された場所は、前橋市上泉町1区集会所の庭で、木像は全長は約180cm、重さは300㎏ほど、持ち運びが可能でお祭りやイベントなどで展示できるように造られたようです。

上泉自治会館にある上泉伊勢守の銅像

同委員会は、桂萱地区にのぼりばたを立てるなど、伊勢守の映像化に向けて活動されていて、平成20年(2008)の生誕500年祭には伊勢守の銅像(全長約215cm、重さ約400㎏で黒御影石の台座に乗っている)が造られ、上泉町自治会館の庭に建っています。

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上泉伊勢守信綱は、上野こうずけ国勢多郡桂萱かや郷の上泉(現、群馬県前橋市上泉町)を拠点とし、同郡の大胡おおご郷(現、群馬県前橋市堀越町)にった大胡氏の一族( 『前橋市史』第1巻)である上泉氏の第4代目の城主です。一族は城主であると共に、代々が兵法家として知られ、陰流、神道流、念流などの諸流派を学ぶなかで、新陰流を創始します。

大胡氏は藤原秀郷の子孫で藤原姓足利氏("橋合戦”での田原足利忠綱が有名)の庶流にあたります。平安時代から大胡城を拠点として、鎌倉、室町時代にかけて勢力を張りますが、戦国の騒乱の中で衰微してゆき、室町幕府の重臣・一色いっしき家がその名跡を継ぎ(←恐らく、幕府か関東公方の傘下に入り、旗本株を一色家が買ったのでしょう)、大胡氏宗家を立て直した後に上泉に拠って上泉氏を興したものと考えられます。

その後、大胡城は後北条氏からの攻撃を受けて陥落。大胡氏宗家は後北条氏の傘下に組みしますが、上泉氏は群馬郡厩橋まやばし(現、群馬県前橋市)に拠った長野氏に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、“長野の16人の槍”と称えられ、上野国一本槍の感状を長野業盛からもらったと云います。

長野氏の本拠である箕輪城落城後は、長野氏旧臣を取り立てようとする武田信玄からの再三にわたる仕官の勧めにも応じず、新陰流を普及させるため門弟たちと共に諸国流浪の旅に出たそうです。

上洛した際、公家の山科言継ときつなとは交流があったようで、言継が書いた日記(『言継卿記』)に「大胡武蔵守」もしくは「上泉武蔵守(信綱)」との記載が多々みられます。

伊勢守は剣聖とうたわれ、多くの流派の祖とされ、宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄や新陰流の柳生石舟斎にその技と心を伝えるのです。

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そんな上泉伊勢守信綱を扱った時代劇ってないのかな、って調べてみると面白うそうな作品が見つかったので、以下に照会しておきますね!

上泉伊勢守信綱を映像化した作品(主役級)
「日本剣客伝」第3話「上泉伊勢守」(配役:長門勇さん)
昭和43年(1968)5月29日~6月19日放送、NET(現、テレビ朝日)制作
→池波正太郎『上泉伊勢守』(『日本剣客伝』1所収)をベースに制作されたもの
「雲のごとく水のように 剣聖 上泉伊勢守信綱」(配役:若林豪さん)
平成4年(1992)3月28日放送、群馬テレビ制作
←余談ですが、映画「二百三高地」で若林豪さんは上泉伊勢守信綱の11世子孫である上泉徳弥海軍中佐を演じてられています。何か因縁めいてますよね!