JR西日本・京都駅を出発し、奈良線に乗車してJR黄檗駅で下車、あるいは京阪電鉄の宇治線に中書島駅で乗り換えて黄檗駅下車すると、そこから徒歩で5~10分ほどした場所に
佇んでいるのが
黄檗山萬福寺です。
萬福寺は中国・大明王朝末期に福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持であった
隠元隆琦禅師によって開基した寺院で、寛文元年(1661)に五摂家の1つ、近衛家の家領で、後陽成天皇の
女御で後
水尾天皇の生母である近衛
前子(中和門院)の大和田御殿があった山城国宇治郡
五ヶ庄大和田村(現在、宇治市
五ヶ庄三番割)の地を賜り、福建省の自坊と同様に
黄檗山萬福寺と名付けます。
江戸期全般は臨済宗黄檗派と称していましたが明治9年(1876)、臨済宗から独立し宗派を黄檗宗と改宗、黄檗宗総本山として現在に至っています。(禅宗は、日本においては臨済(禅)宗、曹洞(禅)宗、黄檗(禅)宗の3派に分類されます)
― ◇ ◇ ◇ ―ちょっと寄り道──
現在、韓国の史劇ドラマ
「武神」を視聴中です。この作品の舞台は高麗王朝期で、ちょうど武臣政権期と呼ばれる時期を描いているのですが、ドラマの中でモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する
大蔵経の回(第29話、邦題タイトル=燃える大蔵経)がありました。
武臣政権はモンゴル(蒙古)軍の侵攻を追い払い、高麗の国教である仏教の力で鎮護国家・怨敵退散の願いを込めて、新たに
大蔵経の制作を計画します。
ところで、第29話で
符仁寺に保管されている
大蔵経がモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する際、
大蔵経を守ろうと
大蔵経と共に焼け死ぬ僧侶の姿が描かれるのですが、これは焼身供養と言って、「己の身を焼き仏に捧げる」といものなんだとか──
一瞬思い浮かべたのが、今年のNHK大河ドラマ
「軍師官兵衛」でも描かれましたが、織田信忠が甲斐武田氏の征伐として武田氏の分国である甲斐に攻め込んだ際に、
恵林寺(山梨県甲州市塩山)の住職であった
快川紹喜禅師は織田軍に敵対した「佐々木次郎」(六角
義定ではないかと云われている)らを匿いました。
中世という時代においては、寺社領は聖域であると同時に治外法権が適用され、どんなに謀反人であっても、手を出せないという、謂わば社会的通念があったのですが、織田軍による再三の引渡し要求を拒んだ結果、全山焼討ちに遭って焼死します。
この時、快川禅師は、
安禅不必須山水
(安禅必ずしも山水を須いず)
滅却心頭火自涼
(心頭を滅却すれば火も自ら涼し)
という
『碧巌録』(=宋代に編まれた仏教書で、仏の教えや仏・菩薩の徳を文章化して讃えたもの)の第四十三則の
偈を発しました。
これが、言わば遺偈(辞世句)を詠った、というシーンで、この折りも快川禅師にとっては「己の身を焼き仏に捧げ」たのかなぁと考えちゃいました。
― ◇ ◇ ◇ ―脱線しちゃったけど──
焼失して5年後、新たに
大蔵経の制作に向けて計画・準備が練られます。
大蔵経の経文の版木として使用するために伐採する木は樹齢100年以上の山桜(バラ科の落葉高木)を5千~1万本ほど必要としました。
伐採した木材は干潟地に3年間ほど埋めておきます。その方がひび割れなど起きない、ほぼ変化が起きない立派な版木用の木材になるからだそうです。
きちんと製材された木材は塩水に浸しては乾燥の作業を繰り返し、保存処理として漆を2~3回重ねて塗っていたといいます。
ただ、こうして文章を読みだけだと経文の版木を作る事は、版木にただ文字を掘るだけだと思いがちかもしれませんが、そこには並々ならぬ苦労があったようです。
写字を行うためには数千人の人手を要するし、書体を揃えるためには訓練を積ませる必要があります。剰え、版木を掘る者も育てねばなりません。
このように
大蔵経を製作するために高麗の当時の技術と知恵を総動員したのです。
その結果として、新しく製作された
大蔵経(高麗大蔵経)は、まるで1人の熟練な職人によって作られたかのように、誤字も脱字もほぼなく、とても良好な出来栄えであったようです。
現在、大韓民国の慶尚南道陜川に在る海印寺に保管されている
大蔵経(高麗大蔵経)は、版木の数が8万枚にも至るので「八万大蔵経」とも呼ばれています。
私自身、前職で大学図書館の事務を務めていた時、宗教系の大学の図書館だったので、この
大蔵経(高麗大蔵経)を扱った事がありますが、やはり字体が綺麗なので見応えがありましたよ。
― ◇ ◇ ◇ ―閑話休題、話を戻して──
さて、その
萬福寺が在る黄檗山内にある
塔頭の1つに宝蔵院というのがあります。そこに保管されている重要文化財が今回の主人公です──
その重要文化財とは
「鉄眼一切経版木」というもので、黄檗宗の僧侶である
鉄眼道光禅師が成した成果なのです。
鉄眼禅師は肥後国
益城郡守山村(現在の熊本県
宇城市小川町)に在る守山八幡宮の社僧を父として生まれ、初めは父の影響で浄土真宗を学び、13歳の時、浄土真宗の僧侶として出家します。
しかし、真宗門徒では個人の才徳ではなく、寺格の高下によって僧侶の身分が定まる事に嫌気がさしていた処、26歳の時にまだ長崎に居た隠元禅師に出会った事から臨済宗黄檗派に帰依し、畿内を中心に各地の寺院を巡っては
般若心経の教えを説いてまわります。
― ◇ ◇ ◇ ―そんな彼が一念発起してでも叶えたい夢がありました──
仏教思想には、
釈迦が説いたとされる教えをまとめた「経蔵」、規則や道徳観念・生活様相などで戒めとされる事柄をまとめた「律蔵」、釈迦やその弟子たちが「経」や「律」を注釈、解釈したものを集めた「論蔵」の3種類で構成されており、総称して「
三蔵」呼ばれます。
古来インド(印度)で仏典がまとめられた初期仏教などではパーリ語でまとめられ(パーリ語仏典)、現在でもその原型を留めているのですが、
大乗仏教の流れで伝播した中国仏教やチベット仏教ではこの「三蔵」が原型を留めた形では伝わらず、
「一切経」(「大蔵経」)という形で再編されています。
一切経(大蔵経)とは「三蔵」や高僧伝などを幅広く編集して社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科叢書ともいうべきものです。(中国仏教では南北朝期、北朝の北魏王朝では
「一切経」と、南朝の梁王朝では
「大蔵経」と呼んでいて、統一政権となった大隋王朝や大唐王朝の下で双方が併記されるに至ったそうです)
因みに、インド(印度)から中国へ大量の経典を持参した人物や経典を大量に訳した訳経僧に付した人物は「三蔵法師」と尊称されると云います。著名なところとして、
『西遊記』にも描かれた
玄奘三蔵がいますよね。
鉄眼禅師は、仏教国日本に一切経版木の無いことを残念に思い、一切経(大蔵経)を開版(出版)しようとしたのです―
彼は寛文4年(1664)頃に隠元禅師にその志を相談すると、隠元禅師は感銘を受け、大明王朝の
万暦17年(1589)から大清王朝の康煕15年(1676)にかけて皇帝の勅命で編纂された勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』、6956巻)と黄檗山内にそれを保管する寺地を授かり、蔵版・印刷所としての
宝蔵院を建立、また、洛中・木屋町二条の地に印経房(のちに
貝葉書院)を設け本格的な事業が始まります。
順調に開版事業が進むかのようでしたが、大洪水や
飢饉などの災害被害に
喘ぎ苦しむ人々を目の当たりにした
鉄眼禅師は事業を中止しては、全国
行脚をなどして苦心して募った資金の全てを難民救済に差し出します。
そういった
艱難辛苦を経て
漸く、延宝6年(1678)
鉄眼禅師51歳の時に事業は完成したのです。
1618部7334巻からなる、この
一切経(大蔵経)は「黄檗版」あるいは「鉄眼版」と呼ばれます。
翌天和2年(1682)、この
一切経(大蔵経)を幕府に献上するため、江戸へと旅立とうとした
鉄眼禅師ですが、折りしも、畿内に大飢饉が発生した事を聞き及び、直ぐ様大坂にとって返します。
鉄眼禅師の餓死寸前の人々を救おうとする姿に、口々に「
救世大士」様と崇めたと云います。
しかも彼自身、この救済活動の最中に、疫病に感染して
入寂してしまうのです…
一切経(大蔵経)の初版は後水尾法皇に上呈され、彼に「宝蔵国師」の
諡が贈られます。
鉄眼禅師のこうした救済活動は戦前の尋常小学校の国語読本にも紹介されました―
鉄眼は「一切経を世にひろむるはもとより必要のことなれども、人の死を救うは更に必要なるにあらずや」と難民救済を最優先した、まさに活仏のようだ
― ◇ ◇ ◇ ―鉄眼禅師が遺したもの―日本における印刷技術のパイオニア日本において、平安期から鎌倉期、室町期には殆んどの出版物が仏教関係の著作物や経典類で
木版印刷が主流だったようです。但し、
一切経(大蔵経)に関しては印刷・刊行された様子はなく、写経で模写するのが多かったようです。
木版印刷は、木の板に文章や絵を彫って版を作る
凸版印刷の形態を指し、版に絵の具や墨汁などを塗り、紙をあてて上から
馬楝で摺って制作する作業工程をいいます。
戦国末期の桃山後期から江戸初期にかけては、キリスト教宣教師の布教活動で
活版印刷技術が伝えられ、古活字本やキリシタン版などの活版印刷が一時的に盛んになり、
『伊勢物語』や
『徒然草』など、仏教関係でない漢字ひらがな混じりで書かれた書物が多数印刷されました。しかし、鎖国政策による宣教師の追放に伴い、活版印刷の技術は普及しなくなり、寛永期を境として再び
木版印刷が主流となってきます。
この
「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は現在、宝蔵院の収蔵庫にて一般公開されており、生きた文化財として、現在も版木は現役そのものです。
それ故、多くの印刷業者やデザイン関係者が見学に訪れるのだそうです。
版木には、材料として最適な吉野山の桜の木を用いており、縦約26㎝、横約86㎝、厚さ約1・8㎝、版木の総数はは6万枚を要しているそうです。
文字の字体は大明王朝後半に印刷用書体として適した書体として考案された明朝体が使われていて、そこから
日本における明朝体のルーツと云われる由縁が生まれました。
また、明朝体は太く大きいサイズの文字にも適用でき、強いインパクトが要求される見出しや広告などのデザインに使用されることが多いそうですよ。
明朝体は
“活字文化の象徴”として捉えられているんですね。
また、
「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は裏表2枚ずつ、計4枚の版木が刷られますが、そのレイアウトが1行20文字×20行、すなわち20×20の400字詰め原稿用紙サイズの様式なんですね。
これは鉄眼禅師独自のアイデアなんですよね。実際、元となった勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』)は1行17文字が標準形式であったことが実証されていますから…
すなわち、
「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は
今日における原稿用紙の基本ベースとも言える訳です。
そういう意味では、明朝体といい、原稿用紙サイズ様式といい、
鉄眼禅師は日本における印刷技術のパイオニアと言っても過言ではないかもしれませんね!