広島城入城後も吉田郡山城は存続していた?

毛利輝元と二つの城~広島築城と残された吉田郡山城

戦国時代、中国地方を治めていた毛利輝元が天正19年(1591)正月月8日に本拠地を広島城(現、広島県広島市中区基町)に移して以降、旧本拠地の吉田郡山城(現、広島県安芸高田市吉田町郡山)は毛利氏の本拠としての役割を終えて廃城となり、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住したと云われています。


しかし、吉田郡山城がその後少なくとも3年間は存続していたことが判明したのです。


それは大阪城天守閣に保管されている穂井田ほいだ元清(毛利輝元の叔父)の書状で、文禄3年(1594)に元清が兄の小早川隆景と共に吉田郡山城に出頭したとあるのです。


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縦約30㎝、横約50㎝の書状には「朝鮮(=朝鮮出兵)から帰国した元清が、小早川隆景と一緒に吉田に出頭した」と記されています。


厳島神社(現、広島県廿日市市宮島町)が所蔵する毛利氏関連の文献などから、元清が朝鮮(=朝鮮出兵)から帰国した年が文禄3年(1594)と特定でき、輝元が広島城(現在の広島県広島市中区基町)に入城した3年後であることが判明しました。


広島城に移転後も、元清、隆景ら毛利氏一族や重臣が吉田郡山城にて参集していた事実を見ると、吉田郡山城が何らかの形で維持されていたとも考えられ、広島城から吉田郡山城まで7里の道程があることから、輝元が吉田郡山城を「後詰めの城」と考えていた可能性もあるのでは、との推測されます。


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その後、毛利輝元は周防国・長門国に移封され、慶長6年(1601)3月、安芸国(広島)には福島正則が入封して以降、元和5年(1619)まで治めますが、その間の慶長20年(1615)閏6月13日、一国一城令により、広島城以外は破却されます。


さらに、元和5年(1619)8月に浅野長晟ながあきらが安芸国に入封しますが、寛永14年(1637)に島原の乱が起きた際、その拠点として一国一城令で廃城となった原城跡が使われたため、キリシタン衆徒の決起を恐れた幕府によって、廃城の石垣や堀などの完全破却・撤去が徹底されることとなり、吉田郡山城跡も徹底的に破壊されたようですね。


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※(参考)『毛利輝元と二つの城~広島築城と残された吉田郡山城』(吉田歴史民俗資料館 平成15年度特別企画展・図録)
※(参考)『郡山城―毛利氏260年の城―』(吉田歴史民俗資料館 平成19年度「日本百名城選定記念企画展」・図録)

※(参照)(トピックス)毛利氏時代の広島城天守閣の完成年が判明!



城戸俊三選手と「久軍号」─観客すべてが感銘し賞賛した"愛馬精神":1932・ロサンゼルス五輪にて

昭和7年(1932)7月30日から8月14日までの16日間、アメリカ合衆国カリフォルニア(California)州のロサンゼルス(Los Angeles)で行われたオリンピアード競技大会(通称、オリンピック、Games of the Olympiad)で8月10日から14日までの期間に開催された馬術競技の日本代表選手は次のようなメンバーでした─

  • 総合馬術:城戸俊三選手久軍号
  • 総合馬術:山本盛重選手(錦郷号)
  • 総合馬術:奈良太郎選手(孫神号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):今村安選手(ソンネボーイ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):吉田重友選手(ファレーズ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):西竹一選手(ウラヌス号)
選手の殆んどが習志野原(千葉県千葉郡二宮町薬園台、現在の船橋市薬円台)にあった陸軍騎兵学校(習志野騎兵学校)出身者だそうです。


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競技は3日間をかけて同一人馬により競技が行われ、初日に馬場馬術(調教審査)、2日目にクロスカントリー(耐久審査)、3日目に障害馬術〔障害飛越〕(余力審査)がそれぞれ行われました。


また、これら3種目を同じ人馬のコンビネーションで減点合計の少なさを競う複合競技を総合馬術といいます。


馬場馬術とは、長方形(20m×60m)の競技施設内を演技の正確さや美しさを競う競技で、「常歩なみあし」「速歩はやあし」「駈歩かけあし」といった3種類の歩き方を基本に、様々なステップを踏んだり、図形を描いたりしながら、規定演技と自由演技を行ないます。


クロスカントリー競技は、通常のコースだけではなく、自然に近い状態の地形に竹柵や生垣、池、水濠、乾壕といった障害物が設置され、
32・29㎞というコースの長さに加え、飛越する障害物は50を超えます。選手の技術と騎乗する馬の能力、さらにそのコンビネーションが合わさってコースを走りに抜きます。障害物の前で止まったり、回避したりすると減点となり、選手が落馬すると失権(競技停止)となります。また、既定の時間を超過しても減点となるため、スピードも重要な要素となります。


ハードなクロスカントリー競技の翌日、獣医師によるホースインスペクション(馬が競技への参加を続けるだけのコンディションにあるかどうかをチェック)が行われます。選手やスタッフは、馬のコンディションを維持するためにあらゆるケアをしてインスペクションに臨み、合格した馬がこの競技への参加を許されます。馬の体力は勿論の事、心理状態もかなり追い詰められる競技なので、人が心身ともに元気があっても、馬の調子がよくないと進みません。いかに休ませるかも重要になってきます。


障害馬術〔障害飛越〕とは、競技施設内に設置された10~13個の様々な障害物(高さ160㎝、幅200㎝=大障害)を、決められた順番通りに飛越、走行する競技で、障害物の落下や馬が不従順な態度を示すと減点となる「標準競技」、障害物の落下による過失をタイムに換算したスピード&ハンディネス競技があります。


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さて、選手たちは、同年5月28日に各国選手団よりも一番乗りでロサンゼルスに到着します。


この頃の移動は、現在のように飛行機とかではなく船旅で、日本からロサンゼルスまで2週間余もかかる長旅でした。


しかも、馬術の選手団は競技用の馬を運ばなければならないため、別便として馬用の貨物船を用意しなければなリません。


加えて、選手団は7人の他にも到着後に馬の世話をするためのスタッフ(馬丁など)が必要なため、かなりの大所帯であったと云います。


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2日目に催されたクロスカントリー競技でのエピソードは現在も語り草となっています─


馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手が競技に臨んだのですが、本来の担当馬及び予備馬がロサンゼルス到着以降、2頭とも故障が発生し、完治する見込みがない、という事態が生じてしまったのです。


そこで、翌日の障害馬術〔障害飛越〕用に同行させていた「久軍号」を代替馬として出場します。


実際、城戸選手が初めてオリンピックの馬術競技に参加したのは、前回大会である昭和2年(1928)のアムステルダム大会で、同じく「久軍号」とのコンビで総合競技を完走していました(21位)。


城戸選手は1番出走で出発します。最終障害まで障害無過失で疾走していたのですが、突然「久軍号」の身に異変を感じ取ります。


それでなくても、「久軍号」も年老いており、急なエントリー変更で熟練の技能はあっても鍛練不足は否めません。


最後の障害に向かう事、計3回!しかし、3回目に臨もうとしたその時─


城戸選手は突然、「久軍号」から下馬し、なおも進もうとする「久軍号」を押し留めたのです。


そう、城戸選手は完走を目前にしながら棄権を選択したのですね。


実は「久軍号」は息も絶え絶えで、全身からも汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていた状態で、とうに全力を出し切っているのにも拘わらず、微かに残る力で次に進もうと踏ん張っていたようです。


その状態を2回目の時に感じた城戸選手は無理はさせられない、と咄嗟の判断で下馬したんですね。


城戸選手「久軍号」に「よく頑張った」とたてがみを撫でてやると、「久軍号」も主人の心を知ってか、城戸選手の胸に鼻を埋めてきたそうです。まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているかのように─


結果、最終障害物を目前にして城戸選手「久軍号」は失権となります。


下馬した城戸選手はすぐに「久軍号」のケアを始めます。


疲労著しい「久軍号」をスタッフには任せずに、城戸選手自ら労わり続ける姿に観客やスタッフ、そして取材陣は感銘を受けたといいます。


城戸選手は後にこう語っています─


「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。『久軍号』には気の毒なことをした」と…


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大会後、現地のカリフォルニア動物愛護協会は城戸選手を表彰しようとします。


城戸選手「久軍号」の光景を観ていた観客たちの「彼は疲労した馬のために走行を止めたのだ!」と大きな感銘と称賛の声が広がった事もあって、当時ロサンゼルスで発行されていた、北米で現存する最古の邦字新聞『羅府(らふ)新報』(Rafu Shimpo)に「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」との見出しで書かれています。


"愛馬精神"に徹した城戸選手「久軍号」のエピソードにアメリカ人道協会は、昭和9年(1934)に城戸選手の行為を讃え、2枚の記念碑を鋳造します。


1枚はカリフォルニア州リバーサイド(Riverside)郡リバーサイド市にそびえるルビドー山(Mt.Rubidoux)にある「友情の橋」に取り付けられ、もう1枚は同じくリバーサイド市内のホテル「ザ・ミッション・イン」に保管されます。


「友情の橋」に取り付けられた記念碑には「情けは武士の道」という文言が日本語で刻まれています。太平洋戦争が勃発し、アメリカ国内で敵国となった日本を讃える石碑が撤去されそうになる事態が生じますが、城戸選手「久軍号」には罪はないのだから…とアメリカ人道協会は撤去ぜす、現在に至っているそうです。


また、「ザ・ミッション・イン」に保管されたいた記念碑は、この大会で城戸選手が使用し、日本馬術チームを親切に世話してくれたアメリカ人に寄贈していた鞍とともに、昭和39年(1964)に東京オリンピック開催の記念として日本オリンピック委員会に贈呈され、現在は秩父宮スポーツ博物館に展示されています。


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エピローグとして─


ところで、戦時中に徴用されたおよそ100万頭の馬が戦場に斃れたと云われています。


そんな彼らの犠牲を悼み、戦後になって記念碑建立の話が持ち上がります。


城戸氏は旧軍人や馬主など多方面への働きかけによって、靖国神社に「戦没軍馬の像」が建立され、現在も毎年4月7日の「愛馬の日」には「戦歿馬慰霊祭」が同神社で行われています。


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※(参照)NHKスペシャルより~ドラマ「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」


槇島(眞木嶋)氏ノート(その3)―槇島(眞木嶋)昭光(2)

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期に南朝方の楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長・義就による内訌、あるいは細川京兆家けいちょうけ内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが眞木嶋まきのしま(槇島)城(館)であり、そこには宇治郡槇島地域を本貫地とする眞木嶋まきのしま(槇島)氏が勢力を張っていました。

元々、眞木嶋まきのしま(槇島)氏は、室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあったようです。

そうした中世期から近世期への移行期に活躍したのが眞木嶋(槇島)昭光です。

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さて、昭光については上述のように、
  • 宇治郡槇島まきのしま地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏である
  • 室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあった

などの記述が多く見られますが、平安後期から連綿と続き「槇長者」「槇島惣官家」と呼称されていた眞木嶋(槇島)氏とは一線を画すものと考えます。

以下に掲げる史料は、室町将軍・足利義昭に祗候していた時期の昭光に関する事項です。

〔史料①〕
今日武家御参内…(中略)…三千計上洛云々…(中略)…御走衆左…(中略)…眞木島孫六(『言継卿記』永禄13年〔1570〕2月2日条)

史料①は足利義昭が禁裏へ参内した際、その御供として随行した幕府軍勢の中に御走衆おはしりしゅうとして「眞木島孫六」の名が見える事から、「真木島孫六」としての初見史料と言えます。

〔史料②〕
飛鳥井中将をどりの歌三色五首つヽ可作与之由被申被来、眞木島来十五六日に可躍用云々、はねおとり、恋のヽヽヽ、すきのヽヽヽ三色遣之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月11日条)

史料②は7月15・16日の両日に催される風流踊の興行を任された「眞木島」のために飛鳥井雅敦まさあつが山科言継ときつぐに「をとりの歌」の作詞の依頼したもの。

〔史料③〕
晩頭…(中略)…今夜武家奉公眞木島興行踊、禁裏北御門拔通之外にて四踊有之 燈呂七十三有之云々、種々結構共不及筆舌也(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月17日条)

史料③は幕府奉公衆(「武家奉公眞木島」)主催で禁裏北門の路次で燈籠73個の随行する風流踊の興行が行われ、その見事さに見物人らが驚嘆したとあります。

「武家奉公」とあるので、昭光だと思われます。

〔史料④〕
(太秦)眞珠院斎に出京、又眞木島玄蕃ヽ所へ礼に被行云々(『言継卿記』元亀2年〔1571〕8月3日条)

史料④は「真木島玄蕃ヽ」とあるので、「玄蕃頭」としての初見史料です。

〔史料⑤〕
大外様続目之儀言上段、被聞食訖、証文分明上者、弥存其旨可抽忠勤、猶昭光可申候也、
    十月廿元亀二年日(花押)
      益田次郎とのへ
(『足利義昭御内書』〔『益田家文書』2-365号、『大日本古文書』家わけ文書22〕

〔史料⑥〕
                     眞木嶋玄蕃頭
      益田次郎殿              昭光

大外様続目之儀、被遂御案内候、証文分明上者、弥被存其旨、可被抽忠功之由、被成_御内書候、尤御面目之至珍重存候、此旨得其意可申入由、被仰出候、恐々謹言、
 元亀貮
  拾月廿日 昭光(花押)
    益田次郎殿
(『眞木嶋昭光副狀』〔『益田家文書』2-366号、『大日本古文書』家わけ文書22〕

史料⑤と史料⑥は足利義昭が石見の益田元祥宛に発給した御内書と、それに添えられた副状ですが、そこには「眞木嶋玄蕃頭 昭光」との署名があり、「昭光」としての初見史料です。

〔史料⑦〕
四日、壬戌、…(前略)…尾州佐久間、向之松田豊前守所借之、武家之大蔵卿局、奉公衆…(中略)…眞木島ヽヽヽ以下数多、…(中略)…音曲囃等有之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕11月4日条)

史料⑦は「奉公衆…(中略)…真木島ヽヽヽ」とあります。史料②において「武家奉公眞木島」との表記が見られますが、奉公衆になっていたと断定しきれないので、この史料⑤が「奉公衆」としての初見史料と思われます。

〔史料⑧〕
十九日、丙子、…(中略)…八幡宮ヘ御代官槇嶋玄詣云〻(『兼見卿記』元亀3年〔1572〕正月19日条)

史料⑧は将軍・足利義昭が自分に代わって、昭光を石清水八幡宮寺に年頭の挨拶として代参したものです。

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(参考文献)
  • 源城政好「槇島昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」(『宇治をめぐる人びと』宇治文庫6〔1995〕、のち『京都文化の伝播と地域社会』思文閣出版〔2006〕に「真木嶋昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」として収録)

  • 木下昌規「真木嶋昭光の地位形成についての基礎的考察―天正元年以降の将軍足利義昭側近として―」(佐藤成順博士古稀記念論文集刊行会編『佐藤成順博士古稀記念論文集・東洋の歴史と文化』、山喜房仏書林、2004)

  • 木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章

  • 高田泰史「信長・秀吉・家康に怖れられた槇島玄蕃頭昭光―最後の将軍足利義昭の忠臣―」(熊本歴史学研究会『史叢』第15号、2011)
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※(参考)禅定寺 熊本藩重臣各家の墓(熊本市中央区)(「ぶらり歴史旅一期一会」のブログサイトより)―
※(参考)禅定寺に祀られている加藤家、細川家の家臣団、その他(禅定寺のブログサイト「歴史遺産の紹介」細川家家臣より)

※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―
※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光

温泉マーク発祥地は安中・磯部温泉 江戸初期、幕府公文書に描写

温泉マーク発祥の地

道後、草津、別府、etc…全国でも名だたる有名温泉地は年間1000万人以上の観光客で賑わっています。

その中でも、群馬県といえば自他共に認める“温泉王国”ですよね―

そうした温泉地を訪れる客を出迎えてくれるのが、温泉マークですよね。

地図記号や絵文字でお馴染みの温泉マークですが、実は群馬県安中あんなか市の磯部温泉が発祥の地ではないか、と云われています。

同市の南西部に位置し、天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響でさらに湧き出す量が増したと云われる磯部温泉界隈を訪れると、そこかしこに「温泉マーク発祥の地」と書かれた案内看板が立ち並んでいます。

何故、磯部温泉に発祥の由来があるのか―

江戸時代の万治4年(1661)3月25日、上野こうづけ碓氷うすい郡の各村々の百姓たちが草刈り場の入会権をめぐって争った際、江戸の評定所がその収拾をつけるために下した裁定である評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」群馬県立歴史博物館所蔵)には、いさかいを収めた後の境界線が明示されていました。

その覚書おぼえがきに添付されていた絵図(裁許絵図)上で磯部温泉と記された箇所に温泉を表すための記号、すなわち温泉マークらしき記号が2か所描かれていたのです。

昭和56年(1981)、『磯部温泉史』の編集委員がその記号の存在に気付き、専門家に鑑定を依頼したところ、記号は磯部温泉を示し、その形は温泉が流れる泉から湯気が上がっている様子を具象化されている、とされ、温泉マークとしては日本最古のものではないか、と判断したそうです。

日本温泉協会によると、温泉マークは明治時代に、当時の内務省の地理調査などで使用され、泉質によって様々な形があったが、「最も分かりやすい形」として、明治後期頃、現在の形になったと云います。

JR磯部駅近くの磯部公園内にある赤城神社には「日本最古の温泉記号」と書かれた石碑が建ち、同じく駅前近くに設置されている足湯の傍らには「上野国碓氷郡磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の裁許絵図に描かれていた温泉マークがデザインされた石碑と共に発祥の由来の説明をした案内板が設置されています。

◇温泉マーク なぜ変える?

ところが、この温泉マークのデザインを見直そうという動きがあるようです。

外国人にとっては、この温泉マークを見てもそれとは判らないと反応する人たちが多いのだとか―

昔に比べて、多くの外国人が日本各地を訪れる事が増えたから、それに対応していこうとの考えでしょうが、「日本ではこうなんだよ!」って日本が発信して世界に根付かせるって考え方があってもいいんじゃないかな?

「公暁」の法名は?「クギョウ」でいいのか?

建保7年(1219)正月27日、相模国鎌倉郡小林郷北山において、鎌倉殿(鎌倉幕府の長、棟梁、のちに日本国惣追捕使及び日本国惣地頭の任免権を持つ者)であり、征夷大将軍、右大臣でもある源実朝が甥(実朝の兄・頼家の子)で猶子(後見人)でもあった「公暁」によって暗殺されました。

さて、この「公暁」ですが、一般的に「クギョウ」と呼ぶ事が周知されていますが、最近の研究でこれに疑義を唱える説があるんですよ。

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まずは。「公暁」の略歴を列挙すると―

「公暁」は幼名を「善哉ぜんざい」と言いました。

父である頼家が建仁4年(1204)に北条氏の手によって暗殺された後、祖母である北条政子が引き取り、叔父である実朝の猶子となります。

建暦元年(1211)9月、12歳で鶴岡つるがおか八幡宮寺の別当職であった定暁の下で得度し、「頼暁」の法名を受けます。

その後、園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)において公胤の門弟として入室して灌頂を受け、「公暁」の法名を受けるのです。

建保5年(1217)6月、18歳で鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺の別当職に就任します。

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「公暁」が園城寺(三井寺)で師事する公胤は公家源氏の長である村上源氏の出自で、その師であり、叔父である公顕も同じ出自です。

公顕は「コウケン」、公胤は「コウイン」と鎌倉期の史料において呼ばれていた事からすれば、公顕―公胤―公暁、と続く法流である以上、「公暁」の「公」もその流れを相承したものでなければ辻褄が合わないはず―

事実、江戸期以前の史料において「公暁」「コウキョウ」と呼んでいる史料もあるようで、そうであるならば「コウキョウ」と呼ぶのが相応しいのではないかと指摘されています。

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※(参考)舘隆志「公暁の法名について」(『印度学佛教学研究』第61巻第1号)