戦時下の日本に存在した「非戦闘地区」箱根

「非戦闘地区」―現在、自衛隊の国際貢献活動云々で問題視される場合に屡々登場する用語ですね。


意味的には「直接武力攻撃を受けない地域」という事になります。


ここでは自衛隊云々の話ではなく、第二次世界大戦下の日本において、「非戦闘地区」だった場所が存在した事を述べていきましょう!


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神奈川県の西部、箱根峠の東側に位置する足柄下郡箱根町は、長野県北佐久郡軽井沢町と共に戦時中、アメリカ陸海軍機も上空を通過するだけで一度も爆撃や空襲を受けませんでした。


昭和19年(1944)5月頃、箱根には、大日本帝国と交戦状態にあった連合国との「周旋」役を担ってくれた「利益保護国」(protective power)である永世中立国のスイス、武装中立国のスウェーデン、政治的に中立の立場を採るヴァチカンの人たち、その他にスペイン、ポルトガル、トルコなどが在住していた事もあって、「政府はわが国の利益代表団であるスイスを通じて敵国側に対し『箱根地区を非戦闘地区に指定する』旨通知し」(『神奈川県警察史』中巻、776頁)ていたのです。その結果、外務省は空襲時における在京外交官とその家族の避難に関し、関係諸官庁と協議の結果、疎開場所を箱根と軽井沢に決定します。


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これより先、昭和4年(1929)7月27日付でスイス・ジュネーヴにおいて締結された「俘虜の待遇に関する条約」(Convention relative to the Treatment of Prisoners of War,Geneva July 27,1929.)に対し、日本は署名はすれど、陸軍や枢密院からの「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざる」ことであって、「義務を負う」ものではない、(『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二七日の条約」御批准方奏請に関する件回答』)との反対により批准をしませんでした。


しかし、同盟国側であるドイツ、イタリアなどは批准しているという国際情勢から鑑みて、日本でも昭和17年(1942)1月29日にスイスやアルゼンチンに対して「準用」=適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある」との声明を発表し、その流れから 「政府はわが国の利益代表団であるスイスを通じて敵国側(連合国側)に対し『箱根地区を非戦闘地区に指定する』旨通知し」(『神奈川県警察史』中巻、776頁)ていたのです。


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国立公文書館の資料によると、ハンガリーやイタリア、中華民国、ドイツ、満州国、フィリピン、シャム(現、タイ)、ビルマ(現、ミャンマー)など日本と同盟関係にある枢軸国の外交官とその家族たちは、強羅ごうらホテル(現、「季の湯 雪月花」)を宿舎とし、富士屋ホテルには昭和19年(1944)秋頃にヤコフ・マリク(Yakov・Malik)駐日大使以下、「ソ連大使館」の外交官とそのその家族たちが富士屋ホテルを借り切っていたそうです。


その結果、この時期に箱根に滞在していた外国人は、他にインド、フィリピン、アメリカ、イギリス、ルクセンブルグ、ポーランド、オランダ、オーストラリア、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、ポルトガル、ヴァチカン、スペインなど多岐にわたっており、 「箱根地区に転住した外国人は1500名に達し、東京・横浜所在の大・公使館、領事館、商社などもすべてこの地区に移転した」(『神奈川県警察史』中巻、776~777頁)そうです。


その後、昭和20年(1945)8月15日に日本の無条件降伏が決まり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領が始まると、枢軸国側の外交官は全員強羅ホテルに移され、富士屋ホテルはGHQに接収されます。


もちろん、これだけ多くの外国人が集まって来たのは、箱根が「非戦闘地区」である事を駐日大使館辺りから聞き及んでいたからに違いありませんね。


ところが─


一方で、この事実はほとんどの国民には知らされていませんでした。事実を知っていたのは、政府および陸海軍と警察の一部関係者だけだったのです。


当時、箱根の麓にあった敵性外国人収容所「神奈川第一抑留所」(現、南足柄市)勤務の巡査は次のように述懐しています―


戦争中に宮城野(箱根町)にいたスイスの利益代表者のケルンさんという人を通して収容所あたりを爆撃しないようにと、安全地帯になっていたんです(『戦時下の箱根』)

しかし、昭和20年(1945)7月になると、箱根にも本土決戦用の砲台などが構築され出します。


戦況がもっと長期化していたら、いや昭和20年(1945)5月のドイツ降伏以降は、日本もジュネーヴ条約を無視した形で、「非戦闘地区」の指定が解除されていたかもしれませんね!


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眞木嶋氏研究ノート

わが街・宇治─


宇治市は、京都市の東南に隣接し、京都盆地の東辺部に位置します。市域の東部には山地が広がり、西部には宇治川の氾濫によってできた平野部と広大な巨椋池おぐらいけ干拓事業(昭和8年~16年:1933~1941)によってひらけた平野部が展開しています。


その巨椋池には、東から近畿の水甕みずがめである琵琶湖を水源とする宇治川が、東北からは千頭岳せんずだけ(京都市伏見区醍醐一ノ切・二ノ切・三ノ切=通称、陀羅谷だらだに付近に源流とする山科川(櫃川ひつかわ)が、北からは桟敷ヶ岳さじきがだけ(京都市北区雲ヶ畑くもがはた)付近をその源流とする鴨川を京都市伏見区下鳥羽下向島町付近で合わせた、丹波高地の大悲山だいひさん付近(京都市左京区広河原付近)を水源とする桂川(大堰おおい川、葛野かどの川)が、南からは青山高原(三重県伊賀市東部から三重県津市西部にかけて広がる高原)の山中、すなわち布引ぬのびき山地の一部である笠取山を源流とする木津川(泉川)が直接巨椋池に注がれたのち、淀川を経て難波津なにわつ(大阪市中央区高麗橋こうらいばし辺り、上町台地の北端辺り)で和泉灘いずみのなだ(大阪湾)へと流れ込んでいました。


市域の中央部を南北に貫流している宇治川は、宇治橋の下流付近で幾筋もの流路が網目状に分流しつつ、京都盆地の最も低い部分に存在した巨椋池に直接流れ込まれていました。


古来より何度か流路を変えた宇治川ですが、

  1. 本流は宇治橋下流付近の宇治小桜こざくらから槇島まきしま町の南端付近で二つに分流して北西に向かい、槇島町薗場えんば大幡おおはたおよび幡貫はたぬきの西側を経て、蛭子嶋えびすじま神社(槇島町石橋)の南側を経て、小倉の北側を通って、三軒家・一ノ坪あたりで巨椋池に達する流路(※)
  2. 槇島町吹前ふけまえ付近までは現在の流路に沿って流れ、そこから西側へ転じて中川原・大川原・南落合を経由して三軒家の北で巨椋池に達する流路、
  3. 宇治里尻の北部から西側の槇島町そとから小倉町の東側を通り、巨椋神社(小倉町寺内)の北側を廻って、一ノ坪へ通って巨椋池に達する流路、
など、3本の流路に分かれて巨椋池に直接注いでいたと推定されています。


※三軒家・一ノ坪あたりで巨椋池に達する流路
→大正9年(1920)に京都府土木課と農商務省が、昭和2年(1927)に農林省が巨椋池の地下構造を探ろうと巨椋池の湖中や湖岸数十ヶ所で水深のボーリング調査した結果、三軒家の西方、旧宇治川が巨椋池に落ち込む付近の水深が一番深く、巨椋池に堆積した泥土層を不整合に覆うように二層の地層が分布していたそうです。その地層は砂や栗石、泥などが堆積してできた礫層れきそうで、川の流れによって運ばれてきた砂や栗石などが、長い年月をかけて重なり合い、圧縮されて固まることで形成されます。宇治川の源流部は広大な花崗岩地帯となっていて、宇治川が運んでくる砂、つまり巨椋池に堆積している砂は花崗岩が崩れた砂であるということになります。現在の宇治川河道流域の河床にも全く同じものが見つかっており、旧流路が宇治より小倉を経て、巨椋池まで流れ込んだことを証明していると述べています。

琵琶湖に端を発する瀬田川、宇治川、淀川や木津川には花崗岩地層が多くみられ、大量に運ばれた土砂などが宇治川に流れ込んで堆積した湖岸三角州を形成したため、巨椋池に合流する東側には多くの島嶼とうしょや洲が形成されていたのです。たとえば、養斎島・大島・与五郎島・弾正島・向島むかいじま葭島よしじま・津田島・上林島かんばやしじま・大河原島 (以上、京都市伏見区)・大八木島・雲雀島ひばりじま・槇島・上島・下島・夷島えびすじま・大川原・大島・中川原(以上、宇治市)・相島おじま・中島(以上、久御山町)など現在も島の名がつく小字こあざが二〇余り残っているのは、それらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来します。


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宇治という場所は古代から中世にかけての時期、権門けんもん勢家せいか(天皇を代表とする王朝貴族、すなわち公家勢力や宗教および武家勢力)の中心であった京都と南都・奈良を結ぶ中継地点に位置し、水陸交通上の要衝の地として大きな役割を果たしていました。


陸上交通の面では宇治橋、水上交通の面では巨椋池の存在が大きく、宇治橋は京都と南都・奈良を結び、また北陸や東国へと繋がる幹線道路上に架橋され、巨椋池の位置も同じく京都と南都・奈良、西国や東国に繋がる内陸水運に欠かせない交通ルートでした。


しかし、しだいに平安京の右京側がすたれ(※)、人々が利便性を求めて左京側に集約するのに伴って、左京側から南都・奈良や東国への交通ルートとして宇治橋への往還往来が重要視されるようになります。


※平安京の右京側が廃れ(※)
慶滋保胤よししげのやすたねは平安中期の天元5年(982)に著した随筆『池亭記ちていのき』の中で、当時の右京側の荒廃を「予二十餘年以来、歴見東西二京、西京人家漸稀、殆幾幽墟矣」と叙述している。

倭京(飛鳥京、板蓋宮いたぶきのみや浄御原宮きよみはらのみや=奈良県高市たかいち郡明日香村)や大津宮おおつのみや(滋賀県大津市)、難波京(長柄豊崎宮ながらとよさきのみや・難波宮=大阪府大阪市)、藤原京(奈良県橿原かしはら市・明日香村)、平城京(奈良市佐紀さき町・大和郡山市)、恭仁くに京(京都府木津川市)、紫香楽宮しがらきのみや(滋賀県甲賀こうか市)、長岡京(京都府向日むこう市・長岡京市・京都府乙訓郡大山崎おおやまざき町・京都市南区・西京にしきょう区)、平安京(京都市)などの造都や権門勢家の荘園領主が邸宅や別業、神社仏閣が社殿や伽藍がらんを造営・維持するために伐採された建築資材・用材(=杣木そまぎ)は、山城・大和・伊賀・近江などの畿内地域やその周辺部に設定されたそま(杣山)(※)から河川を通して運搬されていました。


※杣(杣山)
→権門勢家らが自分たちの邸宅や別業などの建築物を造営・建立・維持するための建築資材・用材(材木・薪炭・柴など)を確保する目的として領有した地域の山林の呼称で、主に畿内周辺部に沿った地点に分布されていました。その使役に奉仕する人は「杣人そまびと」と呼ばれ、「杣司そまのつかさ」の下に「杣工そまく」らが従属し、領有者に対して隷属的な関係を強いられていました。代表的な杣としては近江国栗太くりた郡に置かれた藤原京造営用の田上杣たなかみのそま、伊賀国名張郡西北部から大和国山辺郡東北部にに置かれた東大寺造営用に孝謙天皇が寄進した板蝿杣いたばえのそま・ 同じく阿拝あへ郡に置かれた玉瀧杣たまたきのそま、丹波国桑田くわだ郡に置かれた平安京造営用の山国杣やまぐにのそまなどが知られています。なかでも近江国高島郡に置かれた子田上杣こたかみのそまは嘉祥4年(851)に立券され、藤原氏の家領となり、 治暦4年(1068)の太政官牒により不輸不入の権利が認められて氏長者(藤原頼通)に伝領されたのちに山城国宇治郡の平等院に寄進されて修理のための料所となり、平等院の杣となります。

杣山より伐採された建築資材・用材(=杣木そまぎ)はいかだ師たちによって筏に組まれて河川によって運び出され、宇治川や巨椋池の川岸に存在した港津─宇治津うじのつ三室津みむろのつ岡屋津おかのやのつ(以上、宇治市域)・与度津よどのつ(京都市伏見区域)・丹波津たにはのつ(久御山町域)─などの集積地に陸揚げされ、それを起点に必要とする建築用地に運搬されているのです。


やすみしし/わが大王おほきみ/高照らす/日の皇子/荒𣑥あらたへの/藤原がうえに/す国を/し給はむと/都宮みあらかは/高知らさむと/かむながら/思ほすなべに/天地あめつちも/寄りてあれこそ/石走いはばし淡海あふみの国の衣手ころもで田上山の真木さく嬬手つまでもののふの八十やそ氏河うじがわ玉藻なす浮かべ流されを取ると/さわく御民みたみも/家忘れ/身もたな知らず/鴨じもの/水に浮きゐて/わが作る/日の御門みかどに/知らぬ国/寄し巨勢道こせぢより/わが国は/常世とこよにならむ/ふみ負へる/あやしき亀も/新代あらたまと/いづみの河に/持ち越せる/真木の嬬手を/ももらず/筏に作り/のぼすらむ/いそはく見れば/神ながらならし(『万葉集』巻1-50「藤原宮之伇民えのたみ作歌」)

万葉の時代、藤原京の造営のために田上杣より伐採された用材(檜材)が田上川(大戸だいど川)で筏に組まれて、瀬田川⇒宇治川⇒巨椋池⇒泉川(木津川)を経由して木津で陸揚げされ、平城山ならやまを越えて、佐保さほ川⇒初瀬はつせ川⇒藤原京へと運ばれたことが「藤原宮之伇民作歌」としてうたわれています。


天平宝字6年(762)7月、前年の天平宝字5年(761)年末から石山寺(滋賀県大津市)の増改築工事が始まり、石山寺の造営を任され、近江の杣を利用するための伐採基地として設置された造東大寺司は、その出張所として造石山寺所を置き、各地の杣には用材の伐採や製材を行なう供給場所として山作所やまつくりどころ(甲賀・田上・高島)が置かれ、また、宇治橋付近には材木運漕の活動拠点として宇治司所が置かれます。


謹解可雇進越雇進越桴流いかだ川道知人等
 右人等雇定可、進越、但食功者常有限、然川水太、故日不廻流來矣
   天平寶字六年七月十九日
              宇治麻呂解
(正倉院文書『宇治麻呂解』)

造石山寺所が造営用材の運漕を担う宇治支所に、桴工ふこう(筏師)の派遣を依頼したもので、宇治司所には専門の桴工たちが数多く集まっていたことが分かります。他にも宇治川は、琵琶湖周辺部からの用材運搬の水路としてだけでなく資材や物資の輸送にも利用されています。


飛鳥時代の舒明天皇6年(634)頃、宇治川の中流域にあたり、宇治橋の北東800mにあった隼上はやあがり瓦窯(宇治市菟道とどう東隼上り)で生産された朝鮮・高句麗こうくり系の瓦が、飛鳥地域の蘇我氏創建の豊浦寺とゆらでら(奈良県高市郡明日香村豊浦)に供給されていますが、宇治と飛鳥では直線距離約50㎞も離れており、大量の物資輸送は陸路により運搬されたとするよりも、宇治から巨椋池を横断して木津川をさかのぼって木津で陸揚げされ、飛鳥へと運ばれたと考えられますね。


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さらに、宇治という場所は京郊(平安京の郊外)として平安遷都以前には古北陸道(山背道やましろぢ、大和大路、奈良街道)の一部を構成し、南都・奈良から東国・北陸への交通線上に位置する要衝の地でした。


大化2年(646)この年、南都・元興寺がんごうじ(奈良市中院ちゅういん町)の僧・道登どうとうが、宇治橋を架けたという。


二年丙午。元興寺道登。道昭。奉勑始宇治川橋。(『帝王編年記』巻第9、孝徳天皇、大化2年)

大同5年(810)9月、薬子くすこの変が起こり、宇治橋山崎橋やまさきばし(大山崎町~八幡やわた市)、予渡よど市津(京都市伏見区淀一帯)に警固の頓兵が置かれる


戊申。…(中略)…被召自平城京來。…(中略)…從平城急來言。…(中略)…卽駕兵馬。又宇治・山崎両橋与渡市津頓兵。…(中略)…射-殺仲成於禁所。(『日本後記』大同5年9月11日条)

承和9年(842)7月、承和の変が起こり、左右京、山城五道の宇治橋、大原道、大枝おおえ道、山崎橋、淀渡よどのわたしなどに警固の兵が置かれる


己酉。…(中略)…亦山城國五道。遣神祗大副從五位下藤原朝臣大津宇治橋。…(中略)…守大原道。…(中略)…守大枝道…(中略)…守山崎橋。…(中略)…守淀渡。(『続日本後記』承和9年7月17日条)

天安2年(858)8月、文徳天皇の死去に際し、東西南三方の要衝である宇治・淀・山崎に警護の兵が派遣される


乙卯。…(中略)…令山城國五道山城國司警-護宇治。与渡。山崎等道。以令山城國五道東南西三方通路之衝也。(『日本三代実録』天安2年8月条)

天慶3年(940)8月、宇治、淀、山崎等の警固使を定める


八月廿七日、庚申、給勅符於國々、召兵師、…(中略)…定所々警固使等、(『日本紀略』天慶3年8月27日条)
(参照)十七日、乙酉、天晴…(中略)…今日定遣所々警固使、宇治、淀渡、山崎等也、(『師守記』貞和3年12月17日条)

宇治橋には、薬子の変や承和の変などの変事に際しては頓兵が置かれて警固がなされたり、天安2年(858)の文徳天皇死去の際には宇治・与渡・山崎などの道が警固され、承平・天慶の乱中の天慶3年(940)には宇治に警固使が配置されている、など宇治はその防衛ラインとして重要な位置を果たすようになります。


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平安時代中期になると、京郊という地の利と宇治川を中心とする風光明媚な景観が王族や貴族たちにでられ、別業(私的な別荘地)が建てられるようになります。


なかでも、その契機になったのが時の権力者である藤原道長が宇治川河畔に別業を構えたことによります。


長徳4年(998)10月、この頃、藤原師輔女(故源重信室、道長義母)から宇治院の土地を買い取った藤原道長がこの地を山荘とし、この日宇治を遊覧する。


二日、…(中略)…此日左丞相遊覽宇治山莊云〻、(『権記』長徳4年10月2日条)

長保5年(1003)5月、藤原道長が宇治において詩歌管弦の宴を催す


廿七日、丙辰 參左府、供奉宇治御共、…(中略)…作文和歌管弦者之外無他人、作文序弼相公、題晴後山川淸、探韻、以言獻之、(『権記』長保5年5月27日条)

廿八日丁巳 午剋讀作文、自舟上洛、入夜著家、(『権記』長保5年5月28日条)

寛弘元年(1004)閏9月、藤原道長が宇治別業で詩歌会を催す


廿一日、壬申、天晴、早行宇治、乘舟、…(中略)…於舟中有聯句、著家有題、於宇治別業卽事、以言(大江)作序、(『御堂関白記』寛弘元年閏9月21日条)

長和2年(1013)10月、藤原道長が公卿らを率いて大堰川に遊んだのち、宇治で舟遊びを行なう


六日、甲子、辰時行宇治、…(中略)…於賀茂河尻乘舟、戌時許至着、舟中管弦・連句・和歌有其數、出題初作文、(『御堂関白記』長和2年10月6日条)

長和4年(1015)10月、藤原道長が宇治で舟遊びを行なう


十二日、己丑、早朝行宇治、…(中略)…從舟道歸來、亥時許、月甚以淸明、舟中有和哥事、(『御堂関白記』長和2年10月12日条)

寛仁元年(1017)10月、藤原道長と倫子りんし(道長室)が宇治で舟遊びを行ない紅葉を見物する


廿五日、庚寅、早朝行宇治女方(倫子)相具、…(中略)…見紅葉、此間有聯句、還來与納言一兩作文、(『御堂関白記』寛仁元年10月25日条)

寛仁3年(1019)10月、藤原道長が宇治別業で詩歌会を催す


廿三日丙午。…(中略)…入道前太政大臣宇治別業文人。題云。漁火知夜永。(『日本紀略』後篇13、後一條院、寛仁3年10月23日条)

─など、藤原道長はおおむね舟を利用して京中から宇治別業へ訪れ、詩歌管弦の宴や涼を求めての川遊び、舟中から望む岸辺の紅葉を愛でたりしたといいます。


道長が宇治別業を訪れるのは、季節としては夏と秋が多かったようで、宇治別業での遊宴には、道長が信頼を寄せる多くの貴族たちが招かれた、と伝えられています。


道長以降も多くの王族や貴族たちが宇治を訪れ、─


寛治7年(1093)2月、故頼通の忌日により、師実(頼通の子)らが平等院に参詣した際、随行していた藤原師通(師実の子、頼通の孫)が、眺望の美と寺中の荘厳に対して「平等院眺望無疆、寺中神妙罔極」と感激している。


二日、己酉、晴、…(中略)…辰剋宇殿〔治ハ〕、到來午時許也、…(中略)…平等院眺望無疆、寺中神妙罔極云〻、(『後二条師通記』寛治7年2月2日条)

また、天承2年(1132)8月、一条全子ぜんし(藤原師通室、忠実母)の見舞いのために小河殿おがわどのを訪れた藤原宗忠が、この地を「田畝渺々、河水茫々、眺望無極、幽奇勝絶」と宇治の風景を評し感激している。


廿四日 天陰、巳時出洛、相具律師未時參宇治小河おがわ御所、御惱只同樣御坐也、(『中右記』長承元年8月24日条)

廿五日 天陰雨下、律師從宇治下向奈良、抑終日在宇治、田畝渺々 河水茫々眺望無極、幽奇勝絶、終日雨下、(『中右記』長承元年8月25日条)

このように、宇治の景観を愛でる風物詩として、春は桜、夏は鵜飼うかい、秋は紅葉、冬には網代あじろ(※)など、四季を通して風流にこと欠かない特色をもった宇治の街並みが形成されていくのです。


その中でも、宇治を語るうえで、特に代表的なのが網代や鵜飼で、─


畿内においては、宇治川や田上川(大戸川)と瀬田川が合流する地点(谷上たなかみ浜=滋賀県大津市南郷・田上黒津くろづ町付近、供御瀬くごのせとも)で設けられており、『延喜式』や『西宮記』、『侍中群要』には、


山城國江御贄者。國司率預入、漁捕進之。
山城國近江國氷魚網代各一處。其氷魚始九月十二月卅日。(『延喜式』巻第39、内膳司)

近江国田上御網代、毎日進氷魚、<自某月某月、見内膳式。>
(○頭書)[始従九月九日新嘗會供之。]
山城国宇治御網代、毎日進鮎魚。(『西宮記』巻10、乙、臨時丁、所引「日中行事文」)

など、宇治・田上の網代は旧暦の9月9日から11月のの日(13日~24日)に催される新嘗会にいなめえまでの連日、天皇への御贄として、田上では氷魚ひおが、宇治では鮎が献上、または下賜された旨が記されています。


※網代
→網代とは、湖や川の浅瀬で魚を獲るために漁網の代わりに置かれていた仕掛けのことで、網代木あじろぎと呼ばれる杙(杭)を水流を横切ってハの字型に打ち込んで、その間に竹や柴、葭や葦などを並べて細かく編み込んだを中央に張り、そこに魚を誘い込んで獲るという漁法を指し、転じて、この漁法を行なう場所自体を網代と呼ばれていました。宮廷での催しである旧暦9月9日の重陽ちょうようの宴や10月5日の残菊の宴などで、晩秋の9月に始まって晩冬の12月晦日までの間にかけて琵琶湖で生まれ宇治川へと流れてくる、見た目が氷のように透き通った半透明色をしている姿から氷魚と呼ばれた体長2~3㎝程の鮎の稚魚を獲る仕掛けを言います。

万葉の時代から「宇治川」を題材にした歌が多く、とくに宇治といえば「網代」、「網代」といえば宇治といった感じで詠まれており、おのずと「網代」に関する歌が宇治の風景、と理解されて宇治の名所の歌枕と考えられていました。


もののふの/八十宇治川の/網代木に/いさよう波の/行く方しらずも●柿本人麻呂(『万葉集』巻3-264)」

宇治川は/淀瀬なからし/網代人/船呼ばふ声/をちこち聞こゆ●作者不詳(『万葉集』巻7-1135)

宇治河の/早く網代は/なかりけり/なにによりてか/日をば暮さむ●中宮内侍(馬内侍)(『後拾遺和歌集』・冬)

朝ぼらけ/宇治の川霧/たえだえに/あらわれわたる/瀬々の網代木●藤原定頼(『千載和歌集』巻6-419)

天平宝字6年(762)7月頃、石山寺(滋賀県大津市)の増改築工事に際し、造石山寺所が造営用材の運漕を担う宇治支所に、桴工の派遣を依頼した文書のなかで、返礼品としての鵜甘(鵜飼)」や網代の状況が記載されています。


後啓  鮮年魚等類
 右、依此日之間川水甚太、此河鵜甘(鵜飼)不住、又不作網代あじろ、仍雖東西走求都不得彼実、伏恐使空進越有无礼歟、誠恐謹啓、

  同日宇治麻呂解(正倉院文書『宇治麻呂解』)


安和元年(968)9月、『蜻蛉かげろう日記』の作者である藤原道綱母が初瀬詣(長谷寺=奈良県桜井市=への参詣)の途次、宇治にある夫・兼家の別業に中宿なかやどりのために訪れた際に、


かくて年ごろぐわんあるを、いかで初瀬にと思ひ立つを、立たむ月にと思ふを、…(中略)…からうして九月に思ひ立つ。…(中略)…しのびて思ひ立ちて、…(中略)…あか月より出で立ちて、午時むまどきばかりに宇治の院にいたり着く。…(中略)…車さしまはして、幕など引きて、しりなる人ばかりおろして、川にむかへて、すだれまきあげて見れば、網代ど(も)さしわたしたり。きかふ舟ど(も)あまた、見ざりしことなれば、すべてあはれにをかし。(『蜻蛉日記』上、初瀬詣で)

と、宇治川で篝火かがりびともした網代の様子などを川岸から鑑賞したと記している。また、天禄2年(971)の二度目の初瀬詣の際には、


あがたありきの所、「初瀬へ」などあれば、もろともにとて、つゝしむ所にわたりぬ。…(中略)…さて、七八日ばかりありて、初瀬へ出でたつ。の時ばかり、家を出づ。人いとおほく、きら〱しうてものすめり。ひつじの時亥ばかりに、この按察使あぜちの大納言のりやうじ給し宇治の院にいたりけり。…(中略)…くらくなりぬれば鵜舟ど(も)かゞり火さしともしつゝ、ひと川さ(わ)ぎたり。(を)かしく見ゆることかぎりなし。…(中略)…目もあはで夜中過ぐるまでながむる。鵜舟どもののぼりくだりきちがふを見ては、
  うへしたとこがるゝことをたづぬればむねのほかにはうぶねなりけり
などおぼえて、な(ほ)見れば、あかつきがたにはひきかへていさりといふ物をぞする。又なく(を)かしくあはれなり。…(中略)…さる用意したりければ、鵜飼かずをつくしてひと川うきてさわぐ。「いざ、ちかくて見ん」とて、岸づらにもの立て、しぢなどとり持ていきて、下りたれば、足の下にうかひちがふ。…(中略)…夜のふくるもしらず見入りてあれば、…(中略)…例の夜ひとよともしわたる。いささかまどろめば舟ばたをこほ〱とうちたゝく(お)とに、われをしもおどろかすらんやうにぞ、さ(む)る。明けてみれば、よべの鮎いとおほかり。(『蜻蛉日記』中、再び初瀬詣で)

と、川岸から鵜飼を見物し篝火を灯した数え切れぬほどの鵜舟が鮎を捕る様子を記している。


永承3年(1048)10月、藤原頼通一行の高野山(和歌山県伊都郡高野町)参詣に際し、宇治と桂(京都市西京区)の鵜匠と鵜舟が随行し、各々篝火を燃やして行路を照らしている。


永承三年十月十一日[丙子]…(中略)…暁更出御…(中略)…遅明於淀渡遷御々船…(中略)…桂鵜飼廿艘、宇治鵜飼十四艘、依召候御共、卯剋、着御山﨑[橋/下]、…(中略)…暫留御船、…(中略)…令参石清水給、…(中略)…(此間)江口神﨑遊女等挙首参進、…(中略)…過御名柄橋下之比、漸及昏黒、鵜飼等各燃篝火、普照行路、入夜着御熊川、…(中略)…十九日[甲/申]…(中略)…入夜着熊川御宿、…(中略)…且為遊淀、移御御船、…(中略)…鵜飼等迎参、各懸篝火互候御船之先後、廿日[乙/酉]天晴、…(中略)…江口神﨑遊女等、…(中略)…過御山﨑橋下之間、…(中略)…其後亦参御船之辺有纏頭事、臨昏令着淀給、入夜入御、(『宇治関白高野山参詣記』)

寛治5年(1091)10月、白河上皇らの一行が鳥羽殿とばどの(京都市南区上鳥羽、伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯)から平等院に移り、宇治川の網代・紅葉などを見物している。


十二日、上皇自鳥羽殿御幸宇治平(等)院、乘御船覽網代、(『中右記』寛治5年10月12日条)

康治2年(1143)8月27日、藤原頼長らが宇治網代を見物、その時、とれた鯉を源行方が調理する。


建久9年(1198)6月、近衛基通が平等院に参詣して所々を巡覧し、夜には船で宇治川の梅島を遊覧、網代などを見物している。


庚寅、天晴、未明殿下渡御宇治…(中略)…午時許殿下參御經藏、被開之、…(中略)…御覽了還御小河、乘船到河上梅島(『猪隈関白記』建久9年6月24日条)

宇治御幸事十三日、戊戌、今旦院自鳥羽殿、俄渡御平等院、歷覽紅葉者、殿下御同車、前駈布衣、予參仕、於泉殿有御儲還御々乘船、覽網代、人定之後還御、(『為房卿記』寛治5年10月13日条)

寛喜3年(1231)9月、九条道家が宇治を遊覧し、網代などを見物している。


太閤宇治入事 六日、已丑、天晴、傳聞、今日大殿内〻入御宇縣云〻、(『民経記』寛喜3年9月6日条)

九月六日、己丑、漢雲遠晴、朝霧始聳、…(中略)…宇治曉更…(中略)…於宇治、…(中略)…歴覽之後御舟網代邊御覽云々、(『明月記』寛喜3年9月6日条)

宝治2年(1248)10月、後嵯峨上皇が平等院に数日間滞在し、紅葉・柴舟・網代などを見物している。


廿一日、午後晴、宇治御幸、「延引了、爲廿一日、」廿日…(中略)…河上浮柴舟、…(中略)…一二三四船等催儲西岸、御船可儲釣臺、…(中略)…長者殿下先御參御堂御所、入御北門、…(中略)…庇御車、下御之後、立北面脇門西腋、…(中略)…未刻上皇著御、…(中略)…御幸、先是、釣臺、…(中略)…長者殿令候儲釣臺邊給、…(中略)…御車至東岸御船寄、…(中略)…此間、御船出釣殿、參向東岸御船寄、已上相從御船渡東、御随身料鴉船幷雜(〔鵜カ、下同ジ〕)船・御車船等、兼可儲東岸橋邊歟、暴雨 乘船此間暴雨如沃、御船寄岸上、偏爲流水、太無便宜、遂下御々車、有御歩、乘御々船、…(中略)…次御乘船、御随身乘鴉船、近候御船邊、…(中略)…次公卿・殿上人・下北面等各乘船、下北面或渡橋參會、下北面或渡橋參會、…(中略)…参會女房出車、渡橋、寄梅壺御所北面車寄、…(中略)…次御船、寄釣殿之間、長者殿令下立透廊北砌給、…(中略)…長者殿・御親昵上達部・下立本堂前庭、…(中略)…此間、上達部已下下船、寄櫻町、入北門參會、上皇下御之間、長者殿經北砌、參御船寄給、…(中略)…次上皇歩、…(中略)…次入御本堂北庇東面簾中、長者殿令候御前船、本堂御座次御于本堂正面御座、…(中略)…誦經次有御誦經事、…(中略)…本堂前庭、兼搆幄屋、…(中略)…次上皇可有御覽御懺法堂幷御念誦堂事歟、長者殿已下近習人々、少々候御共、次渡御阿彌陀堂、御車、寄御懺法堂南面東妻、…(中略)…御車引入自北門、經釣殿・廊・土間・立件妻、上達部・殿上人・御随身等候御共、經潺湲小橋幷鐘樓前橋、繞池岸、至阿彌陀堂、長者殿經舟橋、令參會阿彌陀堂給、…(中略)…次御車、寄阿彌陀堂後廊西面、…(中略)…次下御之後、御于堂前御座、…(中略)…御禮佛了還御、…(中略)…御車如元寄御懺法堂東妻、下御、次入御本堂御所、…(中略)…次入御梅壺御所、…(中略)…入夜東西両岸燃篝、鵜飼等可召儲、網代御覽、(『葉黄記』』宝治2年10月21日条)

弘安元年(1278)10月、亀山上皇が平等院に入り、翌日、梅島などで舟遊びを行なっている


廿四日、甲戌、晴、…(中略)…次御參離宮、亂舞如例、次御參上御社、同亂舞、次還御、被用御船、松屋形、被差上梅嶋有御遊覧、自御船下御、〻歴覽嶋〻、(『勘仲記』弘安元年10月24日条)

明応9年(1500)6月、足利義高(のち義澄)が細川政元と宇治川に遊覧し、漁撈を楽しんでいる


   十二日
一九日公方細川御共申、於宇治川船御遊在之、魚共被取之、(『大乗院寺社雑事記』明応9年6月12日条)

─ ◇ ◇ ◇ ─


室町幕府期、山城国の守護は畠山はたけやま満家の守護職就任以降、宇治川を挟んで北側の下山城五郡(愛宕あたご葛野かどの乙訓おとくに・紀伊・宇治郡)と南側の上山城三郡(久世・綴喜つづき相楽そうらく郡)に統治支配が二分され、それぞれに守護所(※)が置かれ、守護の信頼が厚い守護代が配置され、上山城三郡の守護代には遊佐ゆさ豊後入道が任命されるなど、以降はこの体制が定着し、踏襲されていきます。


管領(畠山)給山城守護入部云々、自宇治南ハ遊佐豊後代官、北ハ神保じんぼ次郎(久吉)左衞門尉云々、(『東院光暁日記抜書』正長元年8月27日条)

※守護所
→守護所とは、守護が任国に設置した役所のことで旧来の国衙こくがの所在地、あるいは国内の交通・商業要地に置かれ、守護の有力な家臣が守護代に任命されて派遣され、諸事の政務を遂行し、守護検断権を行使しました。すなわち、守護所は国衙に代わる一国の中心地として、一国を支配する諸機能の集められた所ということになります。

文明10年(1478)8月、山城守護・畠山政長が、幕府の料所として寺社本所ほんじょ領に課した五分の一ぜい徴収のため、守護代・遊佐弾正長直の代行として久世郡代の遊佐中務なかつかさ弥六が宇治郡代を兼ねて宇治眞木嶋まきのしま(※)に、乙訓郡代の神保与三左衛門尉が紀伊郡代を兼ねて淀に派遣されます。


   十日
一自官領山城郡代宇治・遊佐中務神保弟淀ニ下向、小勢也、(『大乗院寺社雑事記』文明10年8月10日条)

小雨下
十一日、庚子、
山城守護代遊佐彈正(長直)之代彌六(久世郡代)宇治槇嶋へ入部神保與(乙訓郡代)三左衞門淀へ入部云々、(『東院年中行事記』文明10年8月11日条)

眞木嶋には室町期~戦国末期に至るまでほぼ一貫して上山城三郡の守護所として眞木嶋城(館)が重要な拠点として位置づけられます。


諸商人荷物、陸地・河上通路幷宿之事、任 御朱印之旨、於宇治眞木嶋申付候上者、不可有別儀候、然者、國質・所質堅可令停止候、恐々謹言、
                    塙九郎左衞門尉
                     直政(花押)
    十二月(天正二年)十八日
     上林加賀入道殿
     同掃部(久茂)丞殿
         御宿所
      御返報(『上林文書』)

天正3年(1575)12月、室町幕府が崩壊した後に眞木嶋城に配置されたばん(原田)直政も守護所の機能を持った場所として重要視して、眞木嶋城管轄内の商人の交通や運輸、ならびに宿泊統制の権限を与えています


※眞木嶋
→昭和26年(1951)3月1日、京都府久世郡宇治町・槇島村・小倉村・大久保村と宇治郡東宇治町の2町3村が合併し、宇治市が発足するのですが、合併前の槇島村は「まきのしま」と呼称されていました。

歴史を遡ってみても─

伏見院中務内侍なかつかさのないし(藤原永経女、経子けいし)が弘安10年(1286)10月、初瀬詣(長谷寺参詣)の途次に紅葉の平等院や眞木嶋などを訪れ、水車・柴舟などを見物した際の日記にも「まきのしま」と綴られています。

十月十日ころ。はつせにまいり侍れは。…(中略)…まきのしまといふ所。すさきに鷺のゐたる。おほきなる水車にもみちのいろいろ。にしきをかけわたしたらんやうなり。(『中務内侍日記』38)

文明13年(1481)8月、眞木嶋と木幡こはた(宇治市木幡町)の住民の間で宇治川の川堰をめぐって争闘が発生した際、眞木嶋・木幡の双方が合戦に備えて山科七郷(京都市山科区)に加勢を求め、山科七郷は両派に別れて加勢するのですが、それを日記にしたためた中に「まきのしま」と綴られています。

十二日、晴、夕雨下、甲寅、
一、七鄕よりあい、當所之おとな道林所ニ、まきのしまとこわたのゆミやかたらいの事也、(『山科家礼記』文明13年8月12日条)

廿一日、天晴、癸亥、
一、まきのしま就弓矢狀之、七鄕かたらいの事、(『山科家礼記』文明13年8月21日条)

禁裏(宮中)に仕える女官たちによって書き継がれた当番制の職掌日記に記された元亀4年(1573)7月に室町幕府将軍・足利義昭が織田信長に対抗して眞木嶋城に拠ったことを綴った記事にも「まきのしま」と綴られています。


三日。けふひるほとにふけ御のきありて。しろをは。みつふちやまとうけとるよしさたあり。まきのしまのしろへなり。(『御湯殿上日記』元亀4年7月3日条)

十六日。…(中略)…けさのふなかまきのしまへてつかいのよしさたあり。(『お湯殿の上の日記』元亀4年7月16日条)

十七日。…(中略)…けさのふなかまきのしまへとりかけたるよしさたあり。(『お湯殿の上の日記』元亀4年7月17日条)

明治期に内務省地理局が行った地誌編纂事業を編纂した調査書類においても「マキノシマ」と記載されています。


山城國八郡村名(『京都府町村名』)
 久世郡第一區七ヶ村
    槙嶋マキノシマ村(『明治前期 全国村名小字調査書』3)

─ ◇ ◇ ◇ ─


眞木嶋は淀川、巨椋池、宇治川を遡る、いわばその中洲ともいうべき要衝の地であり、極めて古い時代から、網代や鵜飼などの漁撈に携わる贄人にえびと供祭人くさいにん供御人くごにんといった寄人よりうどたちが根拠を置くなど、中世を通じて河川交通の要地でもありました。


永承3年(1048)10月、藤原頼通一行が高野山参詣に際して供奉した宇治と桂の鵜匠と鵜舟のうち、『執政所抄しっせいしょしょう(※)』によれば、


四月
御賀茂詣事、中申日(四月)…(中略)…篝鵜飼等相具。付松可參之由。兼下知眞木嶋贄人等也(『執政所抄』下、4月8日の項)

となっている点が注目でき、宇治の鵜匠と鵜舟、イコール「眞木嶋贄人等」であることが分かります。


※執政所抄
保安3年(1122)頃に藤原忠実によってまとめられた、摂関家の家政機関(政所まんどころ侍所さむらいどころ蔵人所くろうどどころなど)や家政機構に携わった人々(家司けいし家礼けれい家僕かぼくなど)のなすべきこと(正月より12月まで摂関家が関与する祭祀や仏事などの年中行事やその課役に関する内容)が記載されています。

宮廷に献上するために捕獲された氷魚は派遣された氷魚使ひおのつかいによって送られています。


 九月
  ○九月宴
…(中略)…
  ○氷魚使
    遣宇治田上、以所人遣、各給御牃、或付國、(『西宮記』巻9)

宇治橋の由来を記した石碑の断片である『宇治橋断碑』の冒頭部分に「浼浼横流 其疾如箭」と刻まれた宇治川の流れですが、


ちはや人/宇治川波を/清みかも/旅行く人の/立ちかてにする●作者未詳(『万葉集』巻7-1139)」

などのように歌の枕詞としても「非常に荒々しくて速い」と宇治川を象徴する表現として「ちはやふる」と詠われています。


それを考慮すると、宇治に網代木が設置された場所は、宇治川の流れがややゆるやかになっていたであろう、、古代の頃の宇治橋(※)(現在よりも約100m上流にあったといわれている)から眞木嶋辺りに設置されていた、と考えることができます。


※古代の頃の宇治橋
→古代の宇治橋については、
  1. 宇治市の有形文化財に指定されている石仏「石造聖観音菩薩坐像(通称「東屋あずまや観音」、宇治市宇治乙方おつかた)は、元の場所が現在地から南西20mのところにありました。その場所は、宇治橋東詰から市道宇治五ヶ庄線(奈良街道、宇治街道)が北に折れる、その曲り口の西側にそびえ立っていました。その延長戦上にあるのが、市道宇治五ヶ庄線のあがた神社の鳥居とそれに続く縣神社参道(あがた通り)である点、
  2. 最近の発掘調査の結果から、宇治橋よりやや上流の本町通付近からは弥生~奈良時代にかけての遺跡群が見られ、とくに本町通の延長線上である平等院の南門側には連続して集落が営まれていたのが確認されている点、
  3. 平安時代の宇治市街区域は碁盤目状に区画されていて、市道宇治五ヶ庄線の縣神社参道と本町通は一ノ坂までの間で大和大路と呼ばれていた点、
などから、古代の宇治橋は本町通が宇治川の渡河地点であったのではないか、と考えられているようです。

△槇木島 在宇治川西古土人下網或設網代すなど魚爲さへぎ河代網而取魚謂網代(『雍州府志』1、山川門)

その中心として蔵人所所管の御厨子所みずしどころ(※)の下部組織である網代の配下にあたる宇治網代司あじろつかさ目代もくだいの職能を担ったり、天皇や朝廷だけでなく、賀茂社(上賀茂神社=京都市北区)、鴨社(下鴨神社=京都市左京区)、春日社(春日大社=奈良市春日野町)、松尾まつのお社(松尾大社=京都市西京区)、左久奈度さくなど社(佐久奈度神社=滋賀県大津市)などにも供祭物を貢納している贄人や供祭人・供御人らを統括するおさである「眞木嶋村君むらぎみ(邑君)」という立場でもあったのです。


光貞 左近府生 實外孫女子也宇治網代目代内舎人子云〻、理宮長者酒浪友忠子也(『狛氏系図』『體源抄』)

※御厨子所
元は内膳司ないぜんしの配下だったが、のちに蔵人所の配下となります。天皇の朝夕の食事、及び節会せちえの酒肴を担当。また進物所と共に、諸国から貢納された御贄を保管・管理します。下部組織として、蔵人所―御厨子所―あずかり膳部かしわでべ滝口たきぐち(漁業官の長)─鵜飼・江人えびと・網代(漁業官)、などの種類があり、それぞれに長もあったようです。

「眞木嶋村君(邑君)」は、供祭人として宇治網代だけでなく、田上網代にも従事していたようで、


田上や/そのむらぎみに/あらなくに/まづ網代木を/きてぞうらむる●源顕仲(『堀河百首』・冬)

ゆふだたみ/田上川の/網代木の/ゐぐらにひをも/くらすころかな●藤原顕仲(『堀河百首』・冬)

延応元年(1239)10月、近江国栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の住民で冨家殿に奉仕する「冨家殿本殿人とのびと」らが禁制にもかかわらず勢多川(瀬田川)に新規に網代を構えていたため、佐久奈度社供祭人と宇治眞木嶋の「邑君」(眞木嶋邑君)が六波羅探題にその非法を訴え出ている。


左久奈度社供祭人真木島邑君等申、近江国大石庄住人、仮地頭威、以別儀構網代候事、折紙副証文等案如此、早可弁申子細状、如件
  延応元年十月九日       越後守(花押)
                 相模守(花押)
    大石庄地頭代

左久奈度供祭網代事、禁制之条、被院宣之処、甲乙人且近隣土民等乱入好殺生之事、向後被停止畢、依申沙汰、執達如件
  延応元年十月         越後守(花押)
                 相模守(花押)
    佐久奈度社務中(『佐久奈度神社文書』延応元年10月9日付『六波羅探題御教書』)

古代の宇治川では「網代は、人騒がしげなり。されど、氷魚も寄らぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」(『源氏物語』45「橋姫」)と描写されるほどの川漁師たちが宮廷の需要に応えるべく、氷魚の捕獲や貢納作業に精を出していたようです。


─ ◇ ◇ ◇ ─


眞木嶋氏は朝鮮・高句麗系の渡来人とらいじんの末裔という狛宿禰こまのすくね氏の系譜を引く氏族と云われています。


狛氏には、大宰府だざいふ庁(福岡県太宰府市・筑紫野ちくしの市)の舞師まいし首(大宰府庁で舞楽ぶがくを演奏していた舞楽師の長)だった狛好行や、冷泉天皇が興福寺(奈良市登大路のぼりおおじ町)を再興した際に同寺の雑掌(寺院の運営に関わる雑事などをつかさどる職)の地位を得た狛衆行が南都の社寺の祭儀や楽舞に参与します。


長保3年(1001)には一族の狛光高が南都楽所なんとがくそ(興福寺などの法会ほうえに参勤した奈良の舞楽集団)の左舞さまい(※)方の舞と楽の奉行に初めて任ぜられます。


※左舞
→仁明天皇の承和年間(834~848)に施された楽制改革で雅楽と舞楽が整理・統合され、宮中の武官である近衛府の官人たちが大陸系(中国・アジア系)の舞楽(唐楽)を源流とする左舞と朝鮮半島系の舞楽(高麗こま楽)を源流とする右舞うまいに分かれます。

長保三年 辛丑 十月九日、丙午、東三條院ノ四十ノ御賀セサヒオハシマシケルニ、宇治殿ノ若君ニテ陵王ヲアソハシケルニ、入綾ノ手ヲシヘマイラセタリケル、サテ御師 狛光高、其勸賞左方ノ奉行始給タリ、(『教訓抄』1)

寛弘7年(1010)には左方舞楽の長たる者という意味を持つ「左方一者いちのもの」に任じられ、これによって、狛氏は宮廷行事での雅楽ががくの奏楽などにも従事するようになり、以降狛氏は蔵人所管轄の楽人がくじんとして世襲していくのです。


さらに、この光高から何代目かの子孫である光助の時分、すなわち久寿元年(1154)に大内楽所おおうちがくそ(内裏で催される舞楽などに参勤した舞楽集団)に転じ、狛姓から酒波さかなみ(浪)姓に改まります。


光助 以姓於酒波 左府生(『楽所系図』三条西実隆筆本)

光助の曽祖父にあたる光季には男子がおらず、娘が嫁いだ山城国宇治郡の宇治離宮社(宇治神社・宇治上神社=宇治市宇治山田)の長者である酒波(浪)友忠の子たち─光貞・光則・友光─ら外孫を養子に迎えており、光助の改姓は実家筋にあたる酒波(浪)姓へ改姓したものと思われます。


左舞人光末申ケルハ。…(中略)…光末又子ナシ。女子ノ子ニテ、光貞光則アレドモ。光貞ニハ舞ミナヲシヘタレドモ。ソノ身中風シテ目ミエズ。光則ニハワヅカニ半分ヲシヘタリ。光末七十ニアマリニタリ。ヲシヘハツベカラズ。左右ノ舞タエナントスト申ケル。…(中略)…左ノ舞光近マデハサスガニ傳タリシカドモ。其後タエニケリ。(『続古事談』5 諸道、狛光末、左舞と右舞の由来を語る事)

しかも、実父である酒波(浪)友忠は藤原姓だったのか、光助の子・光行以降は藤原姓を名乗っていくようです。


光貞 左近府生 光季外孫也 父内舎人藤原ヽヽ(『楽家系図』)

光行 光助子刑部丞改姓藤原。(『催馬楽師伝相承』)

それが縁で宇治離宮社の脇神主を務める一方で、摂関家が主催する宇治平等院の舞楽(宇治一切経会いっさいきょうえなど)を担わせるために、狛光季の次男・光則が宇治に招聘され、彼らの生活基盤として摂関家より眞木嶋地域の祭祀を統括する刀禰とね(長者)職が保証され、「宇治まきの長者則助」「まきの長者わくの神主光助」「槇長者 社官槇嶋事」と呼ばれるようになり、「槇長者」(眞木嶋長者)として氏子地域である五ヶ庄ごかのしょう(※)眞木嶋みょう、すなわち眞木嶋の地を治めていくのです。


  陵王。
ちかくは。めでたきもの十れつのも。光則が陵王とこそは人の手ずさみにもあむめれ。むかしは亂聲の正このあしぶみといふめでたきたいはいなどもありけり。宇治まきの長者則助めでたくつたへたるものにてありけり。それが子にてまきの長者わくの神主光助といふものちかうまでまいたるも。まことになべてならずいきほんなりき。そのすぢいまだあれども。手はさだめてつたわりたるらむ。…(中略)…光助が子にいや三郎光行といふものあり。それにたうじの舞人近貞ならひたり。(『雑秘別録』陵王の項)

八日 戊戌 朝晴、未刻以後陰、入夜雨下、…(中略)…是日平等院鎭守離宮祭也…(中略)…神輿三基、次社官四人馬布衣上、次槇長者布衣社官槇嶋事也馬上、次宇治長者布社官云々衣馬上也、(『後法興院記』応仁2年4月8日条)

こうした眞木嶋地域の祭祀を統括する「槇長者」(眞木嶋長者)と贄人や供祭人・供御人ら寄人を統括する長である「眞木嶋村君(邑君)」という立場が合わさった形が「眞木嶋惣官」と考えられます。


※五ヶ庄
→五ヶ庄地区は昭和26年(1951)3月1日の宇治市発足以前、前述の明治期に内務省地理局が行った地誌編纂事業を編纂した調査書類には「ゴカノショウ」と記載がされています。

山城國八郡村名(『京都府町村名』)
 宇治郡第二區十四ヶ村
    五ヶ庄ゴカノショウ村(『明治前期 全国村名小字調査書』3)

五ヶ庄とは藤原摂関家(五摂家)の近衛家の所領である冨家殿ふけどのの呼称が変化したもので、眞木嶋名・岡屋おかのや名・岡本名・福田名・小厩名・庵主名を指した総称でした。


冨家殿 号五ヶ庄(『後法興院雑事要録』11、長享二年)

冨家殿
…(中略)…
同眞木嶋
…(中略)…
同岡屋名
…(中略)…
同岡本名
…(中略)…
同福田分
同小厩名
同庵主名(『雑々記』大永三年)

─ ◇ ◇ ◇ ─


摂関家より宇治に招聘された狛光則とその一族は大内楽所を構成する重要な一翼となりましたが、結果的には楽頭職がくとうしき(長官)には任命されてはいません。光則の子・則助については、近衛府の官人としての立場もあってか、藤原頼長の随身として身辺警護をしたり、水練の訓練を施されています。


十三日乙亥、向或所、…(中略)…左近曹將狛則助、帶弓箭、橫釼在車後、依武勇也、(『台記』久安3年5月13日条)

十四日、庚午、…(中略)…深更、伴女房等、歩行至舟津一、乘舟浮河上左近將曹狛則助、依余命、游水、能爲水練、又垂鉤取魚及曉歸了、(『台記』久安4年閏6月14日条)

こうした様相をみたうえで、大内楽所も蔵人所の所管であって「凡藏人所ハ攝政家禮也」と称せられていたことからも、狛光則とその一族は摂関家に被官化されたか、摂関家の「家楽所いえがくそ」(摂関家で催される個人的な法会や舞楽などに参勤する舞楽集団)として取り込まれたのでは、とも考えられます。


九日、壬寅、晩頭從關白殿有召、則參入、今日藏人所・侍所被相分也、…(中略)…凡藏人所ハ攝政家禮也、(『中右記』嘉承元年正月9日条)

藤原頼長が保元の乱(保元元年=1156=7月)で敗死した後、その子どもたちも失脚・追放の憂き目に遭うが、頼長の遺児である師長もろながが長寛2年(1164)6月に赦免されて京都に戻って官位を復し、安元元年(1175)には内大臣に任じられると、頼長に仕えていた家司(やその子弟たち)が師長の下に再集結する動きがみられますが、頼長の敗死の前年、久寿2年(1155)6月に狛則助は死去している事もあってか、その中に則助の子孫たちはいなかったようです。


一日丁丑、今朝左近將曹狛則助死、年卅二、深更病者氣、以下恐闕文、(『台記』久寿2年6月1日条)

─ ◇ ◇ ◇ ─


保元2年(1157)正月、春日祭上卿しょうけいである藤原成通の南都下向に際し、宇治川を船で渡るために眞木嶋で船が調達されています。


十二日戊寅 春日祭、…(中略)…大納言殿爲上卿令発向給、…(中略)…午刻着御宇治橋、上渡瀬、寺家艤御船、本二瓦((ママ))、前駆以下船同相儲、眞木嶋雜船雜人、(『兵範記』保元2年正月12日条)

弘安元年(1278)5月、鷹司兼平が宇治離宮祭への参列で離宮社を訪れるの際し、宇治川を船で渡るために眞木嶋住人に屋形船を調進させています。


九日、辛卯、晴、…(中略)…次御參離宮、被用松屋形御船、二艘、寺家兼用意了、下船御領幷眞木嶋進之、御船差眞木嶋住人召之、(『勘仲記』弘安元年5月9日条)

弘安2年(1279)2月、仁和寺門跡性仁しょうにん法親王が受戒のため東大寺(奈良市雑司ぞうし町)に下向の際、宇治川渡河のための舟が眞木嶋から徴発させています。


三日庚辰、晴、仁和寺宮於東大寺可有御受戒、今日御下向、…(中略)…今日宇治御渡事自殿下被相渡((儲))、予所申沙汰也、御船八幡檢校行凊法印借進、但船寺家儲之、下船御領等儲之、長吏御房一艘、鹿田庄一艘、眞木嶋雜船少〻又雜人科被用意、兼日所催沙汰也、且代〻例云〻、後聞、被用橋云〻、(『勘仲記』弘安2年2月3日条)

文明16年(1484)3月、大乗院門跡尋尊じんそんが上京の途次、平等院に参詣し、また宇治橋の橋桁が引かれていたため、船橋の用意を眞木嶋氏に依頼して眞木嶋を通過しています。


   十六日
一予今日京上、…(中略)…仍無爲、般若寺・平等院等巡礼、大橋引之間馬等難通也、通槇嶋了、船橋等事槇嶋之内方ニ仰之、(『大乗院寺社雑事記』文明17年3月16日条)

これらの事例から、眞木嶋では舟の調達が任されていたと思われます。その中心的なのが眞木嶋氏で、宇治川の交通路を押さえて舟運との関わりを持っていた有力な一族として戦国期まで勢威を保っていたようです。


─ ◇ ◇ ◇ ─


以降、眞木嶋城(館)は畿内における地政学上要衝の地として重要視されるようになり、その領主である眞木嶋氏の存在も文献上で知られるようになっていくのです。


眞木嶋氏として文献上に初見される(※)のは眞木嶋新左衛門尉光経で、南北朝動乱期の正平8年・文和2年(1353)10月、世尊寺せそんじ勘解由小路かでのこうじ経尹つねただ(二位入道寂尹)の寄進によって成立した東山光明寺の荘園である美作国みまさかのくに豊田東庄(岡山県美作市)内の田地三段を動乱の混乱にまかせて押領しようとして、訴えられています。


東山光明寺雜掌寛勝謹言上
 欲早被停止眞木嶋新左衞門尉光經非分妨、全寺用同所田地三段事
  副進
 二通 寄進狀 同目錄等案
右、田地者、爲正安年中南阿寄進之地、寺家管領之處、寄事於動亂、無謂押領之條(冥カ)慮尤難測者哉、然早被止彼光經之濫妨、全寺領、彌爲致御祈禱之忠勤、粗言上如件、
  文和二年十月 日(『紀氏系図紙背文書』文和2年10月 光明寺雑掌寛勝言上状)

建徳2年・応安4年(1371)3月6日、勘解由小路(広橋)兼綱が家記や文書・書籍・家地・所領などを記した譲状を作成して子息である仲光に譲与しようとした書簡の中で、その所領の1つである夷島にある衣比須嶋えびすじま庄(宇治市槇島町石橋)の預所故眼阿遺跡については、建武以来近辺の眞木嶋長者に押領されていた、と記載しています。


  遺跡條々
一家記・文書・々籍・家地所領等、相副證文、忝所讓與仲光也(勘解由小路)、爲一子之上者、旁所謂勿論、且家記等事、父祖二代(兼仲・光業)御讓狀等、同所副渡也、
…(中略)…
一朝恩地等事
   此外
…(中略)…
山城國衣比須嶋庄事
…(中略)…
但宇治邊者、以高有緣、就中眞木嶋長者、建武以來振猛威、武家猶以近邊及押領、有不拘武家成敗(事歟)、同心彼輩拘惜下地勿論歟、以和與之儀、以高下地管領如元許之、
…(中略)…
    應安四年三月三日            (花押(兼綱))(『勘解由小路兼綱譲状土代』)

室町時代初期の応永3年(1396)11月には眞木嶋光忠が大徳寺如意庵(京都市北区)に対し書面を送り、宇治辺のことについてはすべて自分にお尋ねありたい(=相談するように)と要求します。


貴札之旨畏以拜見仕候 、御寺領事不可有子細候、態御狀返〻恐存候、自然此邊之御領、可預御尋候者、本望候、於向後如何樣細〻可申入候
恐惶謹言、
   「應永三年丙子」
     十一月廿四日
          光忠(花押)
   侍者御中 貴報(『大徳寺文書』第1584号、応永3年〔応永3年(1396〕11月24日付「光忠書状」)

応永6年(1399)10月21日、関白・一条経嗣が、大徳寺如意庵領眞木嶋内寺田四反の知行妨害停止を眞木嶋惣官に命じています。


紫野大德寺雜掌申眞木嶋内寺田四反事、就本㪽(寄)進、寺家當知行間、先度被仰之處、不事行云〻、太不可然、嚴密可被止其𮈽也、若有子細者、可被注申之由候、仍執達如件、
   応永六年十月廿一日
                     幸長(花押)
                     長友(花押)
  眞木嶋惣官殿(『大徳寺文書』第1585号「幸長・長友連署奉書」)

文明18年(1486)12月20日、眞木嶋氏が東寺領播磨国赤穂郡矢野荘やののしょう(兵庫県相生あいおい市矢野町)の代官職を望みますが、東寺側の「武辺の代官、然るべからざる也」という方針により拒絶されます。


「一口方評定引付 文明十八年丙午」
 同廿日
…(中略)…
矢野庄代官職槇嶋望申武辺之代官不可然分也、(『東寺百合文書』『廿一口方供僧評定引付』文明18年12月20日条)

眞木嶋六郎光通は延徳2年(1490)7月、北野社領山城国池田庄(京田辺市宮津・江津えづ)代官となっています。


廿五日、雨降、大雷也、
…(中略)…
一、池田請文今日到來、
    請申
北野御神領城州池田庄御代官職事、於御公用者、爲請切之地上者、不謂旱水風損之不熟、毎年玖拾石宛、但依年米違者以䉼足玖拾貫文十一月中ニ可致社納候、此外毎年夫錢壹貫文宛在之、雖爲少事未進之懈怠之儀在之者、爲請人其明可申者也、仍此在所事、先規者雖爲參百五拾石年貢、一亂以來或百姓等致緩急怠、或田地少〻河成等在之由被仰候、御代官職事、申請上者、涯分毎年以連〻儀可致調法者也、仍請状如件、
  延德貮年七月十三日          光通眞木嶋六郎
                     廣長(請人小原右京進)(『北野社家日記』延徳2年7月25日条)

─など、眞木嶋氏が宇治の地において相応の力を有していたと感じられる様子が見受けられます。


※眞木嶋氏として文献上に初見される
→建長6年(1254)10月頃、検非違使けびいし源判官康仲が「小殿」という元盗賊を使い、「真木島の十郎」を捕縛するという事件が起きているが、この「真木島の十郎」が眞木嶋氏の一族ならば、文献史上の初見ともいえる。

大殿・小殿とてきこえある强盗がうだうの棟梁ありけり。大殿は、後鳥羽院の御とき、からめられけり。…(中略)…徳大寺(実基)殿に祗候の源判官康仲こそ、當時ことに高名かうみゃうをたてんとする人なれ、…(中略)…かゝる程に真木島の十郎といふ强盗の張本あり。…(中略)…康仲、この小殿に云樣いふやう、「汝が…(中略)…かの十郎からめさせよ」といふ。小殿すなはち承伏しにけり。…(中略)…まきの島へむかひぬ。(『古今著聞集』巻第12「偸盗」第19、441 強盗棟梁大殿小殿事)

─ ◇ ◇ ◇ ─


また、山城国守護、あるいは幕府管領の被官、とくに畠山氏の被官としてその名が見えます。


侍所頭人兼山城国守護である畠山基国が相国寺(京都市上京区)供養に参加したときに付き従った被官の中に「槇嶋次郎左衛門尉光基」「槇嶋三郎光貞」の名が見られます。


路次行列。
…(中略)…
先侍所畠山右衞門佐源基國。
…(中略)…
 郎等三十騎。皆總鞦。着甲冑
…(中略)…
槇嶋次郎左衞門尉光基。 萌黄糸。鹿毛。
槇嶋三郎光貞。 萌黃糸。鴾毛。(『相国寺塔供養記』明徳3年8月28日条)

伏見庄と下三栖しもみすの庄(以上、京都市伏見区)の間で草刈争論が起こった際、その仲介者に管領畠山満家の被官として「槇島惣官」の名が見られます。


當所下三栖堺相論事。槇島惣官爲仲人(『看聞御記』応永29年9月4日条)

槇島惣官管領家人(『看聞御記』応永29年9月5日条)

また、畠山持国の被官「槙崎(嶋)掃部」が東寺(京都市南区)に使者として赴いています。


畠山殿より以(嶋)掃部可召返舞田北方補任状之由被仰之間、披露了(『鎮守八幡宮供僧評定引付』嘉吉元年12月9日条)

管領畠山持国の被官である「牧嶋」氏が、東寺領九条散所さんじょ(京都市南区九条町)に対する将軍家築地ついじ役免除につき、東寺へ使者として赴いています。


一散所事
 爲牧嶋御使、自管領(持國)被仰出之趣、九条散所可出公方築地之由、被仰之間、此子細令披露之處、免除之支御目可申、雖然、不可叶者、無力次第也、先可參申、治定了、御使節牧嶋百疋可随身之由、治定了、則參申子細、長日伽藍掃除散所免除他役之由令申、當職之間、可免除之由、可有御下知之由、被仰出了、(『東寺百合文書』『廿一口方評定引付』嘉吉3年7月5日条)

― ◇ ◇ ◇ ―


その後、長禄2年(1458)頃には、将軍家直臣団として再編された奉公衆の交名きょうみょう(=名簿)に名を連ねています


長享元年九月十二日常德院殿樣江州御動座當時在陣衆着到
…(中略)…
  四番衆。
…(中略)…
雍州木嶋六郎藤原光通。(『長享元年九月十二日常徳院御動座當時在陣着到』長享元年)

宇治牧嶋も四番衆ナリ(『蓮成院記録』延徳3年8月27日条)

大名外様奉公方之着到
…(中略)…
四番 次第不同
…(中略)…
眞木嶋山寄人不勤番衆也城守
 同次郎(『東山殿時代大名外様附』大名外様奉公方之着到、明応元年5月19日以降、同2年正月17日以前)

光源院殿御代當參衆並足輕以下衆覺。
…(中略)…
 詰衆番衆。
…(中略)…
五番。
眞木嶋(『永禄六年諸役人附』永禄6年)

また、少なくとも長禄2年(1458)~延徳2年(1490)の間、毎年正月11日に将軍に拝謁して年頭の賀を述べています


同十一日…(中略)…眞木嶋
…(中略)…
一御對面之次第事。眞木嶋
一…(中略)…まきのしまと申入て。眞木嶋御目也。(『長禄二年以来申次記』)

   十一日
一…(中略)…
眞木島も參也。
   御對面之次第ハ。一番ニ眞木島。(『長禄年中御対面記』)

   十一日
一御對面之次第は。一番眞木島
一…(中略)…眞木島出仕。
一御對面次第は。…(中略)…次眞木島掛御目。(『年中恒例記』)

  十一日。
一…(中略)…眞木嶋も參也。御對面之次第。一番ニ眞木嶋と申入(『殿中申次記』)

─ ◇ ◇ ◇ ─


宇治離宮社は、上社(宇治上神社)と下社(宇治神社)が存在します。上社は宇治郡眞木嶋郷を産土うぶすなとして三室村・大鳳寺たいほうじ村・眞木嶋東部を氏子地域とした「槇長者」(眞木嶋長者)が、下社は久世郡宇治郷を産土として神明村・羽拍子はびょうし村を氏子地域とした宇治長者がそれぞれを統轄していました。


長承2年(1133)5月、宇治離宮祭が行なわれ、眞木嶋と宇治辺の住人による競馬くらべうまが奉仕されている。


八日 朝間甚雨、巳時天晴、時々雨下、今日宇治鎭守明神離宮祭也、宇治邊下人祭之、未許行向平等院透廊見物、巫女馬長一物、田樂散樂如法、雜藝一々、遊客不可勝計、見物下人數千人、着河北岸小船數千艘、如竝瓦、田樂法師原其興無極、笛無定曲、任口吹、鼓無定聲、任手打、皷笛喧嘩、人驚耳目、神輿之所(至カ)如在禮、或四月八日御輿迎、渡御他所、今還御本宮也、供神膳、臨晩頭競馬十番、左眞木島住人、右宇治邊住人、一番左勝、次々番勝負相決、人馬競馳、日入後事了、歸小河殿、今日又留宇治、(『中右記』長承2年5月8日条)

弘安元年(1278)5月、鷹司兼平が平等院に参詣し、翌日、宇治離宮祭が行なわれ、離宮社左右方長者に競馬を催促する。


殿下入御平等院事七日、己丑、晴、殿下入御平等院、…(中略)…參會六條東洞院邊、…(中略)…少時御出、殿上人諸大夫參會、各供奉御車前、…(中略)…午斜着御寺家、先御參本堂、…(中略)…次御參阿彌陀堂、…(中略)…次御參五大堂、次第御巡禮畢入御大湯屋御所、…(中略)…次…(中略)…大湯殿(屋カ)御所、今日可被開御經藏也、…(中略)…次第御覽重寶等、…(中略)…今日法定院前有内競馬先例、…(中略)…今日被召大湯屋令定之條如何、…(中略)…重寶御覽今日不被晝淵底、明後日又可被御覽云々、少時還御御大湯屋御所、予催促競馬、件競馬離宮左右方長者沙汰也、十番競馬也、宇治内住人乘之、頗有其興、兩度競馳可謂比興、(『勘仲記』弘安元年5月7日条)

弘安元年(1278)10月、亀山上皇が、春日社参詣よりの帰途平等院に入り、翌日、梅島などで舟遊びを行ない、これに離宮社左方長者光有が同行する。


廿四日甲戌 晴、早旦參大湯屋御所、御入堂諸堂、…(中略)…次御參離宮、亂舞如例、次御參上御社、同亂舞、次還御、被用御船、松屋形、被差上梅島有御遊覽、自御船下御、〻歴覽嶋〻、殿下・前殿・大納言殿・御方等所御覽向也、離宮左方長者光有乘小船、從後塵、…(中略)…今夕可有御出離宮、可歸參由被仰下、(『勘仲記』弘安元年10月24日条)

弘安4年(1281)5月、楊宮やなぎのみや馬上役の平等院勤仕をめぐり、同院寺官と宇治離宮社神人が争論し、鷹司兼平が同宮長者光康に神事の遂行を命じる。


六日、辛丑、參殿下、平等院寺官等列參、楊宮(山城國)祭馬上役、平等院(鎰)取倉光男、自社家差之、先例寺官不勤仕、而可勤仕之由被仰下之條、鬱訴相貽之由申之、條〻尋承所申入也、寺官勤仕有先例由、社家注進之間、被仰下了、所詮有御尋揚宮所存可被仰、仲兼今日可參也、暫可相待之由被仰含、離宮右方神官巫女神人等(又)列參、是者去年祭使于今無沙汰上者、明後日祭礼不可隨神事由、一同申之、不堪鬱訴列參之由申之、召長者光康、問答重〻子細、円滿院宮(圓助法親王)自南山御歸山之後、於挾山住人者、殊可有其沙汰、然者明後日祭禮無爲可遂行之由、被仰下之間、再三召仰此由(『勘仲記』弘安4年5月6日条)

─ ◇ ◇ ◇ ─


『雑秘別録』によると「宇治まきの長者」として狛則助が、「まきの長者」して酒波光助が記載されています。さらに、『狛氏系図』や『勘仲記』などの記述からその子孫として酒波光康が「右方長者」として名前が挙がっています。


この事から、眞木嶋郷は右方長者、と考えられているのですが、『勘仲記』での「離宮左方長者光有」の記載や、天文13年の銘文に記述された「左方長者光基」の記載、それとほぼ同時期の眞木嶋氏には「眞木嶋次郎光基」という人物の存在を考えた時、眞木嶋氏は「左方長者」だったのでは、という考察もあり得ますね。


一永正十三年丙子九月十日棟札之写御座候、則左方長者光基と御座候御事(元禄9年8月25日付、宮村掃部他峯順宛『口上書〔上下両社につき〕』、『宇治上神社文書』第153号)

永正17年(1520)3月、近江へ敗走した足利義稙が、細川澄元勢の接近に伴い、奉公衆真木島光基を槇島館に帰還させ、伏見荘百姓に支援を命じる。
真木島光基、山城真木島を退去するに依り、幕府、之に帰還を命じ、是日、伏見荘名主百姓等をして、光基に合力せしむ、


三月十三日、辛丑、晴、眞木嶋次郎光基事、
去月忩劇砌、依雜説、不慮相退彼島云々、爲奉公者身、曾以無謂、早立歸而可□踏之旨、被仰付訖、於自然儀者、可令合力之由、所被仰出之、狀如件、
   三月十三日                基雄(齋藤)
                        時雄(齋藤)
    伏見庄名主百姓中(『守光公記』永正17年3月13日条)

さらには、「酒浪光遠」や「酒浪宿禰光貫」の存在も併せて考えた時、この人物たちも眞木嶋氏と関係があるのではないか、と推察されるのです。


保元元年(1156)5月、僧義尊が紀伊郡柿木二坪の地二反を能米三十六石で酒浪光遠に売る


沽却 私領田壹處事
 合貳段者
  在山城國紀伊郡柿木二坪西縄本也
右、件私領田者、大法師義尊之先祖相傳領田也、多年領掌之間無他妨、雖然依有直要用、能米參拾陸斛九合斗定、限永年酒波光遠相副本驗文、所沽却渡實也、但於所當者、稻荷下社御油壹升壹反別、令究濟也、仍爲後日證文、立新券文放狀如件、
    保元元年五月十六日      大法師義尊(花押)
                   嫡子大中臣国安判(花押)(大法師義尊田地売券案)

刑部省
判事
 大判事
 少判事
 (判事)大属 正七位下酒浪連
 (判事)少属
…(中略)…
外従五位下
□□□酒浪宿祢光貫
    弘安十一年正月六日
…(中略)…
叙外従五位下者也
        酒浪宿禰光貫
         □間可□行(弘安11年正月6日付『除目秘抄』)

─ ◇ ◇ ◇ ─


※左方長者
→離宮社には氏子地域として左方・右方といった区別があり、祭礼に氏子が参列する場合、参道から北に当たる方を左方、南を右方と称して区別して神事に関与していました。それに基づくならば、参道から北に当たる上社(宇治上神社)が左方にあたることになります。

─ ◇ ◇ ◇ ─


しかし、不幸な事に天文18年(1549)7月9日、三好長慶の入京にともなう京中神祇伯邸の戦闘において、足利義藤(のち義輝)の奉公衆「槇島」氏が戦死するという事態が襲います。


七月日。…(中略)…同月九日。…(中略)…同月日。伯卿許江夜打入。槇島打死大曲事在之(『厳助往年記』天文18年7月9日条)

ここにおいて、「眞木嶋」惣官家の血脈は途絶えたものと思われます。


その後、慶長4年(1599)9月27日、離宮社の遷宮式が行なわれますが、その際に修復の記録として作製された板書の写しが残されており、その中で「真木嶋一ノとね」(〔離宮社修復につき板書写〕慶長5年正月朔日付『奉加板之写』)として神主らが列記されています。


さらに、元禄9年(1696)8月25日には、


上之宮ニは真木嶋一ノとねと申長者御座候得候共八九十年以前ニ絶申候、(〔離宮社神体につき留書〕元禄9年8月25日付『口上書』)

との記述があり、上記の元禄9年(1696)から「八九十年以前」となると慶長4年(1599)頃が該当するので、この時期をもって「真木嶋一ノとね」=槇(眞木嶋)長者は消えたものと考えてよいでしょう。

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封建社会の下でみられた武士の介護休暇制度

江戸時代後期のお話で、丹波亀山藩(のち亀岡藩)形原かたのはら松平家の武士が国許に暮らす祖母が重病のため、その介護するために休暇届を申し出たところ、許可されて帰国したそうです。


その人物は「京火消詰」(※)という勤番職に就いていた伊丹孫兵衛という藩士で、文政3年(1820)4月19日付で亀山藩の家老や年寄らに宛てた「奉願口上之覚」が介護休暇願に該当するようです。


※「京火消詰」
「京火消詰」とは、京都の消防を担当する大名火消で別に「京都火消役」とも言われます。丹波亀山藩は、山城淀藩、大和郡山藩、近江膳所藩ら譜代4藩のうち藩主が在国中の2藩が半年交替で、それぞれの京屋敷に詰めて勤め、京都の消防=とくに御所・二条城周辺の消防=に重点が置かれた軍役の1つであり、禁裏の軍事防衛という性格を有していた。


一、  奉願口上之覚
  私祖母義従先此病気之處此其節不相勝候段申越候、
  然處老人之義ニ付全快之程無覚束、何卒存命
  中暫茂看病仕度詰先之義御暇奉願候義、
  甚以恐入候得共、以御憐愍看病之御暇被下置候様、
  奉願候、此段不苦思召候者可然様御執成可被下候奉頼候、以上、
   辰四月十九日
                 伊丹孫兵衛 印
    坂部四郎右衛門殿
    西郷八大夫殿

その内容を要約すると、─


私の祖母が、先頃から病気で、今も調子がよくないと国許(亀山)から連絡がありました。老人の事ですから、全快するとは思えません。なにとぞ、祖母の命があるうちに、暫くでも看病をしてやりたいので、火消詰の休業をお願いします。はなはだ恐れ入りますが、看病のためお暇を下さりますようお願いいたします…

と祖母が重病になったため、介護休暇(「看病之御暇」)を願い出て、「奉願口上之覚」という介護休暇申出書を重役らに提出したというものになっています。


― ◇ ◇ ◇ ―


日本では近い将来に訪れるであろう少子高齢化社会問題に伴い、平成11年度から介護を必要とする家族のある労働者が、一定期間仕事を休業して、介護を行い、再び職場に復帰する制度を法律により企業に義務づけています。いわゆる介護休暇制度ですね。


介護休暇を申し出る際には介護休暇申出書を提出しますが、上記の「奉願口上之覚」はまさにそれに相当するものといえます。


この「奉願口上之覚」は前触れもなく突然に出されたものではなく、事前に伊丹の親類が藩の重役たちに内々に申し出があって、協議されていました。


その協議では、介護の対象者が親でなく祖母である事が問題となったようです。


幕府は寛保2年(1742)、武士が身内に病人が出た際に、出仕遠慮を願い出て、届出書を出せば即退勤できる看病断かんびょうことわりという制度がありました。


但し、「看病断」は父母と妻以外は認められないとし、近親者については願い出れば検討するというもので、亀山藩では過去に江戸藩邸に詰めていた藩士が大病を患った祖母の看病のために帰国を許されたという先例があった事から認められることになりました。


― ◇ ◇ ◇ ―


この時、伊丹は「京火消詰」の1人として、火災現場で警備を取り仕切る責任者と思われる長柄(鑓)奉行を勤めていました。


伊丹にとっては、勤務を後11日残しての申し出ですが、祖母の命があるうちに看病をしたいと余程切羽詰まっていたのでしょうね。「奉願口上之覚」を提出した4月19日に国許へ帰国します。


その間、介護休暇中の仕事(長柄〔鑓〕奉行の役務)は、残り日数が少ない事から国許から交替者は派遣されませんでしたが、他の火消詰の藩士により代行されました。


伊丹が介護に専念した結果、祖母は快方に向かい、伊丹は5日後の24日には現場復帰したそうです。


─以上の事から、少なくとも 丹波亀山藩は二度にわたる介護休暇を認めていたという事です。


もちろん、現在の労働者と武士の立場は異なると思いますが、 丹波亀山藩の藩士には祖母まで対象とした現在のような介護休暇制度があったといえるではないでしょうか。


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「看病断」に代表される武士の介護休暇制度には諸藩にも同様の仕組みがあったようです。


諸藩ではそれぞれ「看病願」(上野高碕〔高崎〕藩、阿波徳島藩)、「看病御暇願」(相模小田原藩、陸奥仙台藩、陸奥八戸藩、出羽秋田藩)、休暇は「介抱御暇願」(陸奥森岡〔盛岡〕藩)、「付添御願」(陸奥弘前藩)などと呼ばれていました。


江戸時代、親の介護や看取りは家長たる男性の責務でした。


それ故、その責務を放棄したものは家産の相続を放棄した、と考えられていたようです。


さらに、こうした実態は武士階級の上下階層によって異なった状況があったようで、下級武士のなかには介護のために奉公を辞めざるをえない事態に追い込まれ、窮乏を余儀なくされた者もいたそうです。


また、介護や看取りの中心となっていた家長の後継である跡取りの者も結婚難・離婚・再婚難に直面して、あらたな家族形成に支障をきたす事態も生まれたようです。


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江戸時代の武士階級も現代に通じるものがあったようですね。明治以降、令和に至る近現代の日本社会では失くしてしまった社会概念が、まだ江戸時代の方が寛容だった気がします。


「医は仁術」小石川養生所と赤ひげ先生

享保7年(1722)12月13日、江戸幕府立「小石川養生所」が開設されます。


徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗が享保6年(1721)8月、江戸城辰ノ口の評定所(当時は「寄合場」と呼称していた)前(現、東京都千代田区丸の内)に将軍への直訴制度として設置された目安箱(※1)を設置していたのですが、同年12月、漢方医で町医者の小川笙船が江戸市中の身寄りのない貧民たちの救済のため、施薬院のような無料の医療施設の設置を求める意見書を投じます。


そこで幕府は、小石川御薬園おやくえん(現、小石川植物園)内に「小石川養生所」を開設し、享保年間以降、幕末期まで146年間貧民救済施設として医療活動を実践していきます。


※1 目安箱
→「目安箱」という呼称は、「藩」という歴史用語と同様に明治政府が使用した用語であって、当時(江戸時代)においては、単に「箱」と呼称していたようですね。(『徳川実紀』や『御触書寛保集成』には「名もなき捨て文を防止するために、評定所に『箱』を設置した」とあります。)

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幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に薬園を設置します。


やがて大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684)には麻布の薬園も館林宰相だった徳川綱吉の小石川にあった下屋敷で白山御殿と呼ばれていた跡地に移設され、その後この地に小石川御薬園が設置されるのです。この場所で様々な薬草の栽培や、国外から持ち込んだ植物の移植を行わせ、本草学(※2)の実験場とします。


※2 本草学
→中国古来の植物を中心とする薬物学で、薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問。日本では自生する植物・動物などの研究に発展し、博物学・植物学などに受け継がれた。

享保7年(1722)12月、小川笙船の意見書により、江戸町奉行(南町奉行)の大岡越前守忠相に検討させ、御薬園内の約1000坪の地所を区切って「小石川養生所」が開設されますが、貧民救済を目的とし、入所者は病苦に悩む貧窮者に限られ、治療その他一切の費用は官費による負担でまかないました。御薬園内で生成された薬を市民に施すことから「施薬院」とも呼ばれていたようです。


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その後、慶応元年(1865)9月、医学館の管轄に移った形で「小石川養生所」は一旦廃止されるのですが、維新後、慶応4年(1868)6月、「貧病院」と改称され存続しますが、漢方医廃止の方針により閉鎖されてしまいます。


その後、小石川御薬園と「小石川養生所」の施設は、管轄が東京府(現、東京都)→文部省(現、文部科学省)と移り、明治4年(1871)9月には博物局に所属します。


明治10年(1877)には東京大学に払い下げられて最終的には同大学理学部に組み込まれ、小石川御薬園は「小石川植物園」(正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)となり、「小石川養生所」は東京大学医科大学附属医院(のち東京大学医学部附属病院)小石川分院となります。


園内には当時「小石川養生所」で使われていた井戸跡が保存されており、水質が良く、水量も豊富で、実際に関東大震災(大正12年=1923=9月)の折りには命からがら避難し、家を亡くした3万人もの被災者たちの飲料水として大いに役立ったと云います。


「小石川養生所」が担っていた貧民救済を目的した施設は、明治5年(1872)10月15日に設立される養育院(現、東京都健康長寿医療センター)によって引き継がれていきます。


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意見書を出した小川笙船は、戦国時代~安土桃山時代の武将で伊予国府城国分山こくぶやま、愛媛県今治市国分)城主だった小川土佐守裕忠すけただの子孫で、江戸時代の町医者で漢方医でした。


笙船は「小石川養生所」(以下、養生所肝煎きもいり職(幕府の職名で、同職中の支配役・世話役)に就任し、以降笙船の子孫が代々幕末まで7代に渡り世襲します。


山本周五郎氏の小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督の作品「赤ひげ」では「赤ひげ」こと新出去定にいできょじょうがこの小川氏の下で働く医長として描かれています。


実際、「赤ひげ」の舞台設定として、少なくとも天保14年(1843)以降と考えられます。養生所の番医は当初定員が9名で本道(内科)、外科、眼科に分かれていましたが、享保18年(1733)9月に7名に、天保14年(1843)の制度改革によって7名から5名に削減され、全て町医者が担当するように切り替えられています。『赤ひげ診療譚』および「赤ひげ」では養生所の番医の定員が内科医、外科医、婦人科医から成る5名となっていますので…

「小石川養生所」は柿葺の長屋で薬膳所が2か所に設置され、収容規模は享保7年(1722)の開所当時40名でしたが、翌8年(1723)建物が増築されて100人、同14年(1729)ついで150人となりますが、同18年(1733)から120人→117人となり、以後幕末まで変わらなかったようです。


当時の医療は漢方(東洋医学)が主流で、勤務形態は肝煎を除いて、本道(内科)・外科・眼科の医師が医療行為に従事していました。


その後、医師として長崎で南蛮外科を学んだ杉本家の第3代・杉本良英よしふさが勤務するようになり、幾分か西洋医術も採り入れられたようです。


勝手な解釈だけど、映画やドラマになった「赤ひげ」に登場する長崎で修行した見習医・保本登(やすもと・のぼる)は杉本良英、あるいは杉本家の人だったら面白いよね。

享保7年(1722)の開所から安政6年(1859)に至る137年間の全入所者数は、累計3万2000人以上であり、そのうち1万6000人が全快退所とされているので、かなりの治療実績があった医療施設であったのではないでしょうか。



江戸っ子の粋、江戸町火消「いろは47組」再編成から400年!

「火事と喧嘩は江戸の華」─


というくらい、江戸の町は他の都市に比べて火災が多発していました。


慶長6年(1601)から慶応3年(1867)の江戸幕府期間中で1798回もの火事が発生したといいます。


その理由として考えられるのが、


①膨大な人口増加による建物の密集・集中


徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入部して以降、江戸城周辺には大名や旗本の屋敷が設けられ、多くの武士が居住するようになります。


さらに、武士の生活を支える商人・職人が町人として流入し、江戸の人口は急速に増加していきます。


慶長14年(1609)頃は約15万であった人口は、寛永17年(1640)頃には約40万、元禄8年(1695)には約85万、享保6年(1721)には凡そ110万に達し、天保8年(1837)には128万と推移していきます。


但し、広大であった武家地(全体の64%)に対し、町人地の面積(全体の15~20%)は狭く密集して立ち並ぶようになり、町人地の人口密度は極めて高くなっていきます。


その上ほとんどが可燃性の材質でできた木造家屋なので、一度家屋に火が点くと、消火活動を行なう間もなく、次々と近隣の家屋に延焼してしまう有様なのです。


慶長6年(1601)からの100年間で269回、元禄14年(1701)からの100年間で541回、寛政13年・享和元年(1801)から慶応3年(1867)までの67年間で986回となり、人口増加に比例して、火事の回数も増加しています。


②江戸という町の独特な気象条件との関係性


江戸の独特な気象条件として、

  • 冬から春先にかけて、北乃至ないし北西の冷たい季節風(モンスーン)、すなわち極めて乾燥した強風(からっ風)が吹き続け、長期間にわたり降雨がない場合、
  • 春先から秋にかけて、暖かい空気と冷たい空気が日本の上空でせめぎ合い、日本海付近で低気圧が急速に発達するためにフェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風(「春一番」)が吹く場合、
などで、江戸における火災の多くが旧暦の12月から2月の時期(新暦の1月から3月)に発生しています。


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江戸時代初期には消防組織が制度化されておらず、度重なる火災などを契機として火消の制度を整えていきます。


具体的には武士によって組織された「武家火消」と、町人によって組織された「町火消」で、「武家火消」は大名による「大名火消」と旗本による「定火消」(旗本火消)に分類されます。


寛永6年(1629)、江戸に初めて創られたのが奉書ほうしょ火消」で、火災の都度、老中奉書によって大名を召集し、火事にあたらせます。


同20年(1643)には「大名火消」が創られ、幕府が課役として16の大名家を指名し、火事が起きてから出動を命じるのではなく、あらかじめ消火を担当する大名を定めます。その範囲は江戸城や武家地を火事から守るためのものでした。


明暦3年(1657)には「方角火消」が創られ、参勤交代で江戸に滞在中の大名12名が選ばれ、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組に編成され、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たります。元禄年間には東西南北の4組に、正徳2年(1712)には5方角5組に改編。享保元年(1716)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、主に消火が目的ではなく火元から離れた場所の防火優先でした。


万治元年(1658)9月8日には幕府が旗本に消火を命じるじょう火消」(江戸中定火之番、旗本火消)を制度化します。(但し、「定火消」の消化目的は冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものでした。)


― ◇ ◇ ◇ ―


8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に一環として、火消制度の整備化を提唱した儒者の荻生徂徠おぎゅうそらいによる「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」という進言を受けて、享保2年(1717)に江戸町奉行(南町奉行)となった大岡越前守忠相は翌3年(1718)に名主たちの意見も採り入れて火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出し、翌4年(1719)には住民(町人)の義勇消防組織としてたな火消」(町火消)が制度化されます。


翌5年(1720)8月7日には「店火消」(町火消)を再編成し、地域割りを修正して江戸の町を約20町~30町ごとに分割して1組とし、隅田川を境に西を担当する町火消「いろは四十七組」(後に1つ増えて48組)と、東を担当する「本所、深川十六組」が誕生し、本格的な町火消制度を発足させたのです。


同時に各組の目印としてそれぞれまといのぼりが作られます。これらは混乱する火事場での目印になるとともに、組を象徴するシンボルとして扱われるようになっていきます。


「いろは四十七組」の中でも、へは「屁」、らは「摩羅」という隠語、ひは「火」、んは「終わり」に通じるとされ、組名としての使用を避け、代わりにへ→「百」、ら→「千」、ひ→「万」、ん→「本」、に置き換えられました。

同15年(1730)には、「いろは四十八組」が一番組から十番組まで10の大組に、「本所、深川十六組」も北組・中組・南組の3組に分けられ、より多くの火消人足を現場に動員できるように改編しています。


元文3年(1738)には大組のうち、組名称が悪いとして四は「死」に、七は「質」に通じると嫌われたため、四番組が五番組に、七番組が六番組に合併され、大組は8組となります。

こうして創られた「町火消」ですが、「町火消」に要する費用はそれぞれの町会費をもってまかなわれました。


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享保の改革によって「町火消」制度は確立しますが、「町火消」の出動範囲は町人地限定で、武家屋敷への出動はできませんでした。


享保7年(1722)には町人地に隣接する武家地が火事であった場合、2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば「町火消」が消火するように命じられます。


同16年(1731)には幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことにはじまり、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も「町火消」に命じられます。


元文元年(1736)以降「方角火消」は江戸城より風上で発生した火事か大火の場合のみ出動と改められます。


延享4年(1747)の江戸城二の丸の火災においては、はじめて「町火消」が江戸城内まで出動することとなり、「定火消」「大名火消」が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられました。


寛政4年(1792)には「定火消」は町人地へ出動しないこととなり、文政2年(1819)には出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は完全に「町火消」の担当となります。


天保9年(1838)の江戸城西の丸の出火や同15年(1844)の本丸の出火などに際しても、江戸城内へ出動して目覚しい働きを見せたので何れも褒美が与えられています─


このように、徐々にその功績が認められていき、「定火消」「大名火消」にも勝るとも劣らぬ実力を示していくのです。


幕末期には「定火消」が1組のみに改編されるなど「武家火消」が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に「武家火消」主体から「町火消」主体へと委ねられていくのです。