BS日テレにおいて
「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。
私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて
「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。
― ◇ ◇ ◇ ―この
「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、
端宗3年(1455)に起きた「
癸酉靖難」によって叔父である
首陽大君(第7代国王・
世祖)に譲位させられてしまった
端宗が、
世祖2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「
端宗復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「
戊午士禍」(
燕山君4年:1498)や「
甲子士禍」(
燕山君10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「
中宗反正」(
燕山君12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された
燕山君までの物語です。
その間、
端宗・
世祖・
睿宗・
成宗・
燕山君5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた
内侍たちにスポットを当てています。
― ◇ ◇ ◇ ―1.内侍とは?さて、国王が公的な事や私的な事をする場を「宮廷」と云います。(因みに「廷」は「庭」の意味があります)
その「宮廷」内で政治的・公的活動の場を「外廷(外朝)」または「府中」と呼び、国王の私生活としての場を「内廷」または「宮中」と呼称します。このように質的に区分された2つの場において―
- 公人としての国王に奉仕する外廷官(官僚)と、
- 私人としての国王に奉仕する内廷官(内僚)が、
或いは対立し、或いは補完し合って国政が展開されて行ったのです。
― ◇ ◇ ◇ ―朝鮮王朝の初期の頃は、高麗王朝の政策の反省点を活かした官制改革の様態が随所に見られるので、高麗王朝期から遡ってみる必要がありますが…
内廷官、すなわち内僚を構成する役職として、主に次の3つが存在したようです―
〔
内侍〕
高麗王朝初期には首都・
開京(現在の朝鮮民主主義人民共和国・
開城市)へ人質に出された有力家門の子弟たちで構成されていましたが、4代国王・
光宗の時に
科挙制度が初めて導入され、5代国王・
成宗の時以降はその人質にされていた子弟たちのうち
科挙に及第した者が次第に官僚化(知職に輔弼する文官と身辺の警護をする武官)されて構成されます。
高麗王朝期の
内侍は、王命の草案作成や儒教の経典の講義、王室の財政管理全般を担当し、場合によっては、国王に代わって宮廷の外の民性を探る事などもしていました。
任期を終えた優秀な者は新たに地方官や品官に任命される事があったため、人々の間では栄職であると考えられていました。
しかし、高麗王朝末期には武官が
内侍を兼任する様になったり、軍役を忌避しようとした者が争うなど、売官が横行します。
〔
内豎・
宦官〕
宮中の
掖庭署(「掖庭」とは皇宮中の宮女の居住する場所を指し、主に宮女の簿籍の管理などを掌ります)に所属する内廷の員僚で構成されていました。
「王と私」では、
金処善という
宦官を中心に描かれていますが、
燕山君の代に専横を
揮った
金子猿という人物については、『朝鮮王朝実録』によればその身分は
内豎となっており、
宦官と
内豎にはどういった差異があったのか、今後に究明すべき点だと思います。
― ◇ ◇ ◇ ―上記の様に、高麗時代前期においては、宮中の侍従と王命の出納(雑務)を掌る
内侍には、去勢された
宦官ではなく、科挙に合格した名門家子弟など優れた人材で構成された、いわば最高のエリート官職だったのです。
例えば、“韓国の孔子”と呼ばれる
崔冲の孫で、高麗第11代国王・
文宗の代に活躍した
崔思諏、高麗第24代国王・
元宗の代に朱子学を導入し、
成均館(朝鮮時代最古の教育機関で、現在の
成均館大学校)の振興を図った
安珦などが
内侍院に召され、
内侍職を歴任した人物たちです。
崔思諏…(中略)…冲之孫自少力学工文文宗朝登第王以思諏名家子博学多聞召入内侍省(『高麗史』巻96、列伝巻第9)
安珦…(中略)…少好学元宗初登第補校書郎遷直翰林院属内侍…(中略)…奉使西道以廉称召喚内侍院(『高麗史』巻105、列伝巻代18)
しかし、武臣政権以降は武臣が
内侍を兼任する様になり、尚且つ軍役を忌避しようとする者の売官行為が
蔓延ったり、更には
宦官が国王の寵愛によって
内侍に任命されるなど、質の低下が見られ出します。
そんな中で高麗王朝後期に至り、
内侍同様に宮中の侍従と王命の出納(雑務)を掌っていた
内豎の存在が目立って大きくなってきます。
内豎は殆んど賤隷民出身者によって構成されており、
「以内僚口伝及内侍院伝請」(『高麗史』巻104、金周鼎伝)とある様に
口伝で王命の出納(雑務)にあたるという点で
内侍とは異なる存在でした。
そもそも、賤隷民出身者による政界進出は、モンゴルへの服属以降に増加していった傾向にあります。
それは、高麗国王の立場が常に不安定なものであったため、国王は側近が絶対の忠誠心を持っている事を最重要視し、賤隷民出身者も寵愛を受けるためにより一層の忠誠を誓い、国王のために必死で功を立てようとするなど、相互の利害関係が一致し深い信頼関係が結ばれた結果、賤隷民出身者はより出世をする事が可能になり、且つ国王は自身の立場の安定を図る事ができたという要因も絡んでいます。
賤隷民出身者の政界進出は、高麗王朝後期のモンゴル服属という背景が国王と忠臣の間の関係をより密接なものにしたために頻繁に起こり得た現象だったのです。
2.宦官とは?宦官とは、去勢(=生殖器を切除する事)を施された官吏の事を云います。「
宦」は「神に仕える奴隷」という意味があり、転じて王宮に仕える者と解され、宮中で用いられた官吏を
宦官と呼称する様になります。
その存在は、古代中国に始まり、朝鮮やヴェトナムなど、主に中国の版図であった東アジア圏に広まりました。
日本においては、一般的風習としては広がりをみせていませんが、男性器(陰茎と陰嚢)を去勢した例(「
羅切」と呼んでいた…)はあった様です。
例えば、『宇治拾遺物語』第6「中納言
師時が法師の男根をあらためた事」での記載や、後鳥羽上皇が熊野参詣中の建永元年(1206)、
法然の弟子で後鳥羽院の女房たちと密通を働き
女犯の罪に処された
安楽房遵西は宮刑として「羅切」されています。
また、『後太平記』によれば「建武式目」には宮刑の記述があり、男性は「ヘノコ(陰核)を裂き」(=陰茎や陰嚢を切除)、女性は膣口を縫い潰して塞ぐとあります。
元々、中国において刑罰によって去勢された者や異民族からの捕虜、或いは献上奴隷の者たちが去勢を施された後、皇帝や後宮に仕えるようになったのが
宦官の始まりと云われています。
皇帝やその寵妃たちに重用され、権勢を誇る者も出現する様になると、
自宮といって、自ら去勢して
宦官を志願する者たちも現れるようになります。(但し、去勢した後の傷口から細菌が入って死ぬケースがみられるなど、生存率は約3割弱であったようですが…)
中国で有名な
宦官といえば、
- 趙高(戦国末期~秦の政治家)
- 司馬遷(前漢の歴史家、『史記』の著者)
- 蔡倫(後漢の宦官、製紙法の製造技術を改良)
- 十常侍(後漢末期に専権をふるった宦官グループ)
- 黄皓(蜀漢の宦官)
- 鄭和(明の武将、南海への大航海を行使)
らが挙げられますね。
ドラマの舞台である朝鮮では、現存する朝鮮最古の歴史書『三国史記』の巻10『新羅本紀』には、
興徳王立…(中略)…冬十二月 妃章和夫人卒…(中略)…王思不能忘 悵然不楽 群臣表請再納妃 王曰 隻鳥有喪匹之悲 况失良匹 何忍無情遽再娶乎 遂不從 亦不親近女侍 左右使令 唯宦竪而己
とある様に、新羅の第42代国王・
興徳王が、王妃の
章和夫人が
興徳王元年(826)に即位後2か月で死去してからは、後妃を迎えず、ましてや後宮の侍女も近づけず、
「宦竪」、すなわち
宦官に身の回りの世話をさせた、記述があり、9世紀頃には既に
宦官制度が存在した事が判ります。
その後の高麗王朝や朝鮮王朝にも
宦官制度は存続しています。
また、自国の官僚として使用しただけではなく、自国民を
宦官にして
宦官を宗主国(=歴代の中国王朝)や従属を認めた北方民族(契丹→遼)などに朝貢品の1つとして貢進していた事でも知られています。
元王朝の順帝(トゴン・テムル)時代に
奇皇后の腹心となり、後宮に権勢を振るった
朴不花という人物は、高麗王朝から貢進された
宦官であり、また
太宗3年(1403)には、
乙亥朔/朝廷使臣韓帖木児、与還郷宦官朱允端来。有宣諭、選年少無臭気火者六十名以遣。上郊迎、至闕設宴。(『朝鮮王朝実録』太宗実録、太宗3年(1403)11月乙亥(1日)条)
庚申/使臣韓帖木兒還。率被選火者三十五人而赴京也。上餞于西郊、宦者等皆涕泣。(『朝鮮王朝実録』太宗実録、太宗3年(1403)閏11月庚申(17日)条)
の様に、明王朝の皇帝(永楽帝)より「年齢が若く、容姿閑雅、性質利発な
「火者」(=
宦官の別称)60名を選抜して貢進せよ」との聖旨が奉られ、まず35名が選ばれ、以降も人数が選ばれたという記録が残されている。
宦官になる者には、
- 異民族の捕虜に対して雑役に使うために去勢してしまう場合
- 外国からの貢進や奴隷貿易によって得た奴隷を労役に使うために去勢してしまう場合
- 罪によって宮刑に処せられ、罰として宮廷に送り込まれる場合
- 個人的な理由から自ら志願、或いは親の命令によって手術を受け、宮廷に入る場合
などに分別できますが、
「王と私」の場合、貧しい者でも
内侍になれば王宮に勤める事ができるため、生活に困窮した庶民が幼い息子を
内侍に差し出す様子が描かれています。また、
宦官になって運良く出世すれば、一気に富貴の身になれるし、形式的に妻を娶り養子をとる事で家門を繁栄させている様が描かれていましたね。
去勢の方法としては、
- 完全去勢
中国(陰茎と睾丸を切除)、日本(陰茎と陰嚢を切除)、イスラム諸国(陰茎と陰嚢及び睾丸を切除)
- 不完全去勢
朝鮮(睾丸のみ切除)、イスラム諸国(陰嚢または両方の睾丸のみ切除)
がありました。朝鮮での去勢は不完全去勢(睾丸のみ切除)だったので、実際に性交渉は可能だったようですね。
現在の大韓民国ソウル特別市
永登浦区を流れる
漢江の中州・
汝矣島の
龍湫という池の傍に、
「王と私」でいう
内子院(私設内侍養成所)とまではいかないけど、
内侍が量産された施術所があったそうです。そこでは、
- 政府公認の去勢手術を行う施術者である刀子匠という職人が従事していた
- まず白い紐などで志願者の下腹部と足の付け根部分を紐で縛り、次に熱い胡椒湯で性器を念入りに洗う
- 刀子匠は志願者に対して最後の念押しをする(「後悔するか?、しないか?」とか…この時、少しでも躊躇いの表情が顔に出れば施術は行われない)
- 本人が納得していれば、刀子匠は鎌状にやや反り返った小さな刃物で根元を緊縛して勃起させた性器を切除し、熱した灰で止血します熱い砂の中に埋めたり、油を塗って止血をする
- 白蝋(銅と亜鉛の合金)などの金属の針などを尿道に押し込んで栓をし、傷口は冷水に浸した紙で覆い、注意深く包み込む(傷口が盛り上がって尿道を塞いでしまうのを防ぐため)
- 介助者に抱えられて2~3時間、部屋の中を歩き回った後、横臥させられる
- 術後、水を呑まないまま3日間寝たままで過ごす(喉の渇きや傷の痛みのため、相当な苦痛を経験するのだとか―)
- 3日経って尿道から栓を抜いた時に噴水の様に尿が出れば成功(尿が出ないと場合、施術は失敗で尿毒症による死が待っている…)
- 刀子匠はかなり高い技術水準だったようで、成功率は97~98%だった模様
- 術後、傷が癒えて起き上がるまでに100日程度を要したらしい
- 切除された性器は、刀子匠により腐敗しない様に加工され、小さな壺に収められる(この壺が宦官にとっての身分証明になる)
- 施術料には身元保証人が必要で、希望者が貧困民の場合、出世払いというケースが多かった
- 施術料が払えない場合、性器が入った壺が未払いの担保として没収されるという
- 8歳より前に性器を切除された場合、稀に新しい性器が成長する可能性があるらしい
「王と私」で
内子院の生徒の中では唯一、
鄭漢守だけが去勢手術を受けていますよね。去勢後3日間は水が飲めず、地下牢で苦しんでいたシーンが想い出されます。
そんな
漢守は生存率約3割弱を克服した強者と云えましょう(まぁ、お母さんに楽をさせたい一心ってのもあったし…)…しかし何と言っても、
刀子匠が腕の確かなケドチだったのも幸いしたのかな!
また、
崔自治みたく、男性器が生来の不具だったり、切除したのにも拘らず、新しく性器が成長しちゃった挙句に、
宦官の中には女官と密通しちゃう(=「テサリ」)ケースもよく見かけられたとか―
※余談ですが、ヴェトナムでは1945年に廃止されるまで
宦官制度が残っていたそうですよ。
3.その後の内侍と宦官最終的に、
内侍府=
宦官の職となっていく過程を見ると、
内侍府、恭愍王五年,改宦官職、…(中略)…辛禑罷之、恭譲王復之、階三品(『高麗史』巻77、百官志)
- 恭愍王の代、すなわち恭愍王5年(1356)に宦官職が改変され、成立した官衙(官庁)であった
- 王禑の代になり、廃止したが、恭譲王の代になり、復活した
恭愍王が
宦官たちを重用するのに対し、
凡宦官職、…以宦官参朝官、無古制…(中略)…宦者、自国初、至慶陵朝、不得参官、近来、以宮中伝命之任、…(中略)…願遵慶陵之制、不許拝朝官、…(中略)…祖宗之制度、宦寺無官、文廟之世、宦寺給事、不過十数人、亦未嘗食禄、忠烈王朝、亦不拝参官、至于玄陵、使宦寺、…(中略)…今復立内侍府、階三品、…(中略)…願宮中給事者、只給衣食、罷内侍府、判曰、自今、不許朝官、毋革内侍府(『高麗史』巻75、選挙志、銓注)
宦寺、本以宮内掃除為職、無与外事、…(中略)…在我祖宗之制、宦官給事、不過数十人、亦未嘗食禄、至于玄陵、刑余熏腐、布列朝班、卒致万生之変、亦殿下之所親見也、殿下即位、復立内侍府、階三品、是殿下以中興之主、復踏亡国之轍也、願自今、宮中宦官給事者、只給衣食、罷内侍府、不聴(『高麗史節要』巻34、恭譲王元年12月条)
として、
- 宦官は制度上の職制にはなかった
- 宦官は数十人しかおらず、無給だった
- 宦官は宮中の掃除など、雑役を担っていた
などを引き合いに立て、
内侍を廃止するようにと上疏する者もいたが聞き入れられず、
恭愍王の代で
宦官が国政を議する様になったのです。
定文武百官之制…(中略)…文武流品之外、別置内侍府為宦官職、掖廷(庭)署為内豎職…(中略)…皆別其散官職事之号、不使雑于流品(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖元年(1392)7月丁未(28日)条)
やがて、朝鮮王朝が開かれると
太祖元年(1392)に官制改革が施され、
掖庭署は内豎のみの職務となり、宦官の職務として新たに内侍府が設置されます。
これによって、
内侍たちによる
内侍院と、
宦官たちによる
内侍府が並び立つ訳ですが、
「大王与、内侍院;王后与、内侍府」(『朝鮮王朝実録』世宗実録、
世祖15年癸丑(1433)5月甲寅(2日)条)の様に、
内侍院は国王に所属する官衙、
内侍府は後宮に所属する官衙とされたのです。
議政府拠吏曹呈啓「内侍院与内侍府、名号相同、請改内侍院為内直院」従之(『朝鮮王朝実録』世宗実録、世祖27年(1445)4月庚午(27日)条)
ところが、
内侍が勤務する
内侍院と
宦官が勤務する
内侍府が名称が混同するので、
内侍院が
内直院という名称に改められます。この内直院の主な職務は、
宦官の権力を牽制、監視するために設置された機関です。
吏曹啓「内直司樽院別監、皆已革罷、其所任諸事、請令兵曹、用忠義、忠贊衛差定」從之(『朝鮮王朝実録』世祖実録、世祖12年(1445)正月壬子(9日)条)
しかし、結局のところ、行政刷新の波により、
内直院の職務分掌の全てが丞政院、忠義衛、忠贊衛にそれぞれ分離され、高麗初期から続いた
内侍院は役割を終える事になります。
4.まとめ朝鮮王朝における
宦官は
「去勢された男子が内侍府に所属し、宮中にて使役される内官」と規定できます。その内容は国王(大殿)・王妃(中宮)・
大妃・(王)
世子(世子宮)に配置され、使命と雑務を担うものでした。初期の頃は僅か数十人に過ぎませんでしたが、その数は140人にも達した程でした。
朝鮮における
宦官制度は
光武皇帝=
高宗の時代に行われた
甲午改革(
高宗31年~
光武元年:1894~97)によって廃止されるのです。
― ◇ ◇ ◇ ―※(参考)
宦官列伝※(参考)矢木毅「高麗時代の内侍と内僚」『高麗官僚制度研究』
※(参考)朴孝信「高麗時代の『内侍』―その独自性と別称―」『駿台史学』19
※(参考)西川孝雄「高麗時代の『宦者伝』研究―立志人物の分析―」『愛知学院大学文学部紀要』34