テレビ朝日開局20周年記念作品「蒼き狼」

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昭和55年(1980)、テレビ朝日開局20周年記念作品として制作され、10月6日と7日の二夜連続で放送された「蒼き狼」(※1)が時代劇専門チャンネルにて再び観られます。

原作が井上靖氏の同名小説『蒼き狼』。脚色、企画から完成まで1年半を費やすなど、じっくりと練られた演出で全4部構成、総時間290分にわたる長編ドラマとなっています。

中国の協力を得て、内モンゴル自治区にて大規模なロケーションを敢行、広大な砂漠の風景がドラマに奥行き感を与えているのは確か!

※1「蒼き狼」の番組タイトルについて
のちに「蒼き狼 成吉思汗の生涯」というタイトルでDVDが発売されていますが、当時リアルタイムで視聴していた私としては「蒼き狼」というタイトルの他に何の語句も付されていなかったのをちゃんと憶えているので、「蒼き狼」と掲載します。


  1. 第一部
    12世紀末の蒙古高原。ボルジギン氏族のエスガイ(平幹二郎さん)は、略奪したメルキト族のホエルン(大楠道代さん)を妻にし、誕生した男子をテムジンと名付ける。彼が後の成吉思汗である。9歳になったテムジンは、父と共に母の故郷へ出かけるが、旅の途中でオンギラト氏族の首領に気に入られ、その娘ボルテ(倍賞美津子さん)と婚約、それから5年間、オンギラト氏族と暮らすことになる。14歳になったテムジンのもとに、父エスガイがタタール族に毒殺されたという報せが届く。家族のもとへ戻ったテムジンだったが、モンゴルを統率するようになったタイチウト族に隷属することを拒んだエスガイ一家は孤立し、生活は困窮する。やがて成長したテムジン(加藤剛さん)は、オンギラト氏族を訪ね、待ち続けていたボルテと結婚する。父の僚友だったケレイト族のトオリル・カン(中谷一郎さん)と同盟を結ぶなどして徐々に力を付けていったテムジンだったが、メルキト族に襲われ、ボルテをさらわれてしまう。テムジンはトオリル・カンや親友のジャムカ(若林豪さん)の軍の力を借りて、ボルテを奪い返すが、ボルテは身籠っていた…

  2. 第二部
    ボルテ(倍賞美津子さん)を妻に迎えたテムジン(加藤剛さん)は仲間を増やし、勢力を拡大していた。そんな中、メルキト族によって襲撃を受け、ボルテをさらわれてしまう。親友ジャムカ(若林豪さん)達の協力を得て奪還に成功するが、ボルテは身ごもっていた。自らの運命を直視したテムジンは、悲劇の原因である闘争を終わらせるため部族を統一し、敵対する大国“金”を倒す決心をするのだった…

  3. 第三部
    テムジン(加藤剛)は次々と対立部族を征服し、蒙古高原を三分する大首長となった。テムジンは、対立する最大部族メルキトの娘を側室とし、かつての友であり、よきライバルとなっていたジャムカ(若林豪さん)を倒し、ついに蒙古高原の覇者ジンギスカンとなった…

  4. 第四部
    モンゴルを制覇したジンギスカン(加藤剛さん)は部族の更なる繁栄を手に入れるため、紛争を影で操る大国“金”を攻めることを決意する。こうして、万里の頂上を越え、世界制覇の一歩を踏み出したジンギスカンは、真のモンゴル族“蒼き狼”になったのだった…

主な配役は、以下の皆さん!
  • 鉄木真(テムジン)、後の成吉思汗(ジンギスカン)=加藤剛さん

  • テムジンの父、エスガイ=平幹二朗さん
  • テムジンの母、ホエルン=大楠道代さん
  • テムジンの妻、ボルテ=倍賞美津子さん
  • テムジンの愛妃、忽蘭(クラン)=神崎愛さん
  • テムジンの弟、カサル=河原崎次郎さん
  • テムジンの息子、ジュチ=荒木しげるさん

  • テムジンの部下“四駿”の1人、ボオルチュ=田中邦衛さん
  • ケレイト部族長にして蒙古高原の実力者、トオリル・カン=中谷一郎さん
  • ジャジラト氏族長、テムジンの盟友にしてライバル、ジャムカ=若林豪さん

  • タイチュート族に捕らえられたテムジンを救う、ソルカン・シラ=大友柳太朗さん

  • ゴルチ=泉谷しげるさん
  • テップテングリ=財津一郎さん
そして、ナレーションを仲代達矢さんが務めておられます。

放送日時は時代劇専門チャンネルで、以下のとおり―

 第一部 2月26日(土)午後09:00~
     3月 6日(日)午後01:00~
     3月15日(火)午前03:00~

 第二部 2月26日(土)午後10:15~
     3月 6日(日)午後02:30~
     3月16日(水)午前03:00~

 第三部 3月 5日(土)午後09:00~
     3月13日(日)午後01:00~
     3月17日(木)午前03:00~

 第四部 3月 5日(土)午後10:15~
     3月13日(日)午後02:30~
     3月18日(金)午前03:00~

NHKドラマ人間模様「國語元年」

懐かしいドラマが再放映されます―

NHK総合で昭和60年(1985)6月8日から7月6日まで、「ドラマ人間模様」シリーズ枠の中で放送され「國語元年」というテレビドラマです。

故井上ひさし氏による脚本・戯曲で、

明治7年、文部省官吏・南郷清之輔は「全国共通はなしことば」の制定を命じられた。まるで織田信長や太閤秀吉の天下統一にも比すべき大事業!家族や奉公人使う日本各地の方言が溢れる中、共通の話し言葉を作るため、日夜苦心を重ねる南郷の悪戦苦闘ぶりを、彼の家宅を舞台に繰り広げられた悲喜劇を描いた作品です。

主な登場人物としては、
  • 南郷清之輔=川谷拓三さん
    長州出身で南郷家に婿養子。文部省学務局の四等出仕という高い地位にある。全国統一話し言葉の制定を命ぜられ、試行錯誤を重ねるものの、失敗。上司の文部少輔田中不二麿に激しく叱責された事が本で発狂し、東京癲狂院へ収容され、明治27年(1894)秋に病死
  • 南郷重左衛門=浜村純さん
    薩摩出身。清之輔の義父で、薩摩への愛着がひとしお強い。清之輔発狂後、光・重太郎らと共に鹿児島へ戻る。明治10年(1877)に起こった西南戦争に参加、田原坂で討死
  • 南郷光=ちあきなおみさん
    重左衛門の娘で、清之輔の妻。薩摩出身。おっとりした性格をしている。清之輔発狂後、鹿児島へ移住。明治13年(1880)に病没
  • 南郷重太郎=岡田二三くん
    清之輔と光の息子。薩摩の言葉を話す。悪戯好きで、ふみやちよたちを度々困らせる。南郷家離散後、鹿児島へ移住。日清戦争に出征し、明治27年(1894)に旅順口で戦死
  • 秋山加津=山岡久乃さん
    南郷家の女中頭。元は旗本の奥方で南郷家の屋敷に住んでいたが、夫が彰義隊に参加したため没落。江戸山の手言葉を話す。南郷家離散後、重左衛門らに付き従って鹿児島へ移住。裁縫の腕前を活かして和裁教室を開き、明治20年(1887)死去
  • 築館弥平=名古屋章さん
    遠野出身。「い」と「え」の区別ができない。馬丁だったが、明治維新以降は車夫となり、清之輔を役所まで送迎するのが仕事である。清之輔が役所から戻った時、屋敷の皆にそれを知らせる役を担っていた。南郷家離散後、清之輔が収容された東京癲狂院で明治28年(1895)まで雑用係をしていたが、その後は消息不明
  • 広澤修一郎=大橋吾郎さん
    南郷家の書生。尾張名古屋の士族の次男。南郷家離散後、明治14年(1881)に東京で代言業を開業し、翌15年(1882)にとある花魁(=ちよ)と心中
  • 江本太吉=松熊信義さん
    津軽出身らしいが記憶喪失。南郷家離散後、明治16年(1883)に領国で大食い大会に参加した折、突然の心臓病で死去
  • 御田ちよ=島田歌穂さん
    南郷家の女中。江戸の下町出身のため「ひ」と「し」の区別ができない。また、読み書きができない。南郷家離散後、花魁になり、明治15年(1882)に客の若い男(=広澤修一郎)と心中
  • 高橋たね=賀原夏子さん
    南郷家の女中。浅草出身で吉原で働いた過去がある。その為「ひ」と「し」の区別ができない。また、読み書きもできない。口は悪いが人は良いお婆さん。南郷家離散後、再び吉原に戻って飯炊き女として過ごす。没年は不詳
  • 大竹ふみ=石田えりさん
    南郷家の女中。米沢出身のため「い」と「え」の区別ができない。読み書きができ、米沢の両親に手紙を書く。その手紙がナレーションを兼ねている。南郷家離散後、酒造業を営む家に嫁ぐ。昭和14年(1939)、老衰により死去
  • 裏辻芝亭公民=すまけいさん
    京都の公家出身の国学者。全国統一はなしことば作成を聞き付けて南郷家に押し掛け、居候している。お調子者で、居候の割に態度がでかく、清之輔以外の人達からは嫌われている。南郷家離散後、明治35年(1902)に西園寺公望邸の書生部屋で病死
  • 若林虎三郎=佐藤慶さん
    会津出身。元は南郷家に押し込みに入った強盗。全国統一はなしことばを作る事には賛成だが、物事の本質をついた様々な反対意見を述べる。南郷家離散後、自由党に参加。明治15年(1882)に起こった福島事件にて行方不明
各話の構成は、
  • 第1話
    時は明治7年(1874)。南郷清之輔は、全国統一の話し言葉の制定という大事業をお上から命じられる。清之輔の屋敷では、清之輔の長州弁をはじめ、薩摩、名古屋、津軽、江戸など、8つもの方言が飛び交っていた…
  • 第2話
    南郷家の人々のお国訛(なま)りを調べた清之輔は、言葉の大混乱の最大の原因は、各人が勝手に音を発音しているという事を発見する…
  • 第3話
    お国訛りを直すには、口形練習しかないと張り切る清之輔だったが、意外な問題が起ち上がった…
  • 第4話
    清之輔は、各地から集まってくる明治新政府の高官たちの使う訛りを採り入れ、全国統一の話し言葉を決めれば、高官も喜び、その後押しで早く流行らせる事が出来る事に気付くが…
  • 第5話(最終話)
    清之輔が寝食を忘れて作り上げた「全国統一話し言葉」の完成の日が遂にやって来た。京言葉、東京山手言葉、鹿児島言葉、山口言葉を各々200語ずつ選んだ力作であったが…
となっています。

放送日時は、NHK-BS2で12月27日(月)午前0時20分~4:20(26日深夜)

なお、スタジオゲストとして大竹ふみ役だった石田えりさんが出演されるとか―

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すごく懐かしく、とても面白い作品が再び観られるとは嬉しい限りですね。作品が放送された昭和60年(1985)と言えば、ちょうど一浪中(予備校浪人)だったのですが、昭和のテイストをふんだんに鏤めた脚本・演出だった感じです。さすが井上ひさし氏というところでしょうか!?

清之輔(川谷拓三さん)の実直さは勿論ですが、光(ちあきなおみさん)のすっとぼけた感じも味わいがあって良かったです。

また、加津(山岡久乃さん)や弥平(名古屋章さん)などベテランさんたちが活き活きと立ち回っていたのも観ていて安心できます。

その中でも、一番印象深かったのが虎三郎(佐藤慶さん)ではなかったでしょうか!会津生まれという設定ですが、佐藤慶さんにすればご当地の会津若松生まれでいらっしゃったので、会津弁が一番マッチした配役って感じで、観ていて温かな印象を受けた記憶があります―

「王と私」観賞基礎ノート(4)―於乙宇同事件―

金処善

BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。

私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。

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この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、端宗タンジョン3年(1455)に起きた「癸酉靖難ケユジョンナン」によって叔父である首陽大君スヤンテグン(第7代国王・世祖セジョン)に譲位させられてしまった端宗タンジョンが、世祖セジョン2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「端宗タンジョン復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「戊午士禍ムオサファ」(燕山君ヨンサングン4年:1498)や「甲子士禍カップチャサファ」(燕山君ヨンサングン10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「中宗反正チュンジョンバンジョン」(燕山君ヨンサングン12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された燕山君ヨンサングンまでの物語です。

その間、端宗タンジョン世祖セジョン睿宗イェジョン成宗ソンジョン燕山君ヨンサングン5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた内侍ネシたちにスポットを当てています。

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於乙宇同事件について

「王と私」の中で“毒婦、妖婦、淫婦、悪女”などと蔑称された女性として有名な於乙宇同オウルドンを扱ったシーンがありましたね。

いわゆる於乙宇同オウルドン事件」と呼ばれるものです。

王族の正室であって、「恵人ヘインという称号を与えられていたにも関わらず、 王族や両班ヤンバン、官僚から身分の低い男たちとと関係を持ったため、王室の知るところとなり、死罪に処された女性です。

於乙宇同オウルドンという女性は、承文院スンムノン知事であったパク允昌ユンチャン(注1)の子女で、

  1. 「於乙宇同、乃承文院知事朴允昌之女也、初嫁泰江守仝」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

於乙宇同オウルドンという名称は、“男と情を交わす者”という意味を含んだ隠語、俗語だそうです。

漢陽ハニャン(現在の大韓民国ソウル市)に生まれ、正六品程度の官吏の両班ヤンバンの家門に育った於乙宇同オウルドンですが、朝鮮王朝の王族で太宗テジョンの子で、世宗セジョンの直ぐ上の兄になる孝寧ヒョロン大君テグンの孫にあたる正四品泰江守テガンスドンに嫁ぎました(注2)。

  1. (注1)参照

於乙宇同オウルドンは王族に嫁いだ事で、正四品外命婦ウェミョンブ恵人ヘインに封ぜられます。

ところが、夫である泰江守テガンスにはヨン軽飛ギョンビという妓生の愛人がおり(注3)、於乙宇同オウルドンを追い出さんがための口実に家に出入りしていた「銀匠」(銀細工職人)との密通を仕組まれ(注4)、“淫らな女”という烙印を押され、追い出されてしまいます。

一人娘(注5)と共に実家に戻るものの“家門の恥晒し”として受け容れて貰えず、残された唯一の道は、自立する事しかありませんでした―

  1. 「泰江守仝昵愛女妓燕軽飛、而棄其妻朴氏」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗7年丙申〔1476〕9月乙巳〔5日〕条)

  2. 「仝嘗邀銀匠于家、做銀器、於乙宇同見而悦之、假為女僕、出与相語、意欲私之。仝知而即出之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  3. 「但昨日番佐【于宇同女也】(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗19年戊申〔1488〕7月癸未〔22日〕条)

美しい侍女と実家を出た於乙宇同オウルドンは、しおれるどころか寧ろそうした自由を満喫していきます―

夕暮れ時に美しい衣に身を包んだ侍女が、街中で美少年を物色しては於乙宇同オウルドンの所に誘う込んだり、2人で出かける際には、声をかけられるのを待った(注6)と云います。

  1. 「於乙宇同還母家、独坐悲歎、有女奴慰之曰:“人生幾何、傷歎乃爾 呉従年者、曽為憲府都吏、容貌姣好、遠勝泰江守、族系亦不賤、可作配匹。主若欲之、当為主致之。”於乙宇同頷之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

元々名門両班ヤンバンの娘でその容貌は麗しく、高い教養と知性の持ち主だったので、倡妓に引けを取らず(注7)、評判は直ぐに立ったようです。

  1. 「於乙宇同、変名玄非ヒョンビ、行同倡妓」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗14年癸卯〔1483〕10月庚午〔11日〕条)

夫婦同然に仲睦まじく暮らしたり、遊興に親しんだり、詩歌を詠んだり…

そうした於乙宇同オウルドンと関係を持った者の中には、、王族の方山守李瀾(注8)や守山守李驥(注9)、官吏では内禁衛ネグミ具詮(注10)や学録ホンチャン(注11)、書吏甘義享(注12)、その他に典医監生徒である朴強昌(注13)、生員李承彦(注14)、良民李謹之(注15)、奴婢ノビ知巨非(注16)に至るまで関係を持ったようです。

  1. 「(於乙宇同)又嘗以微服、過方山守(李)瀾家前、瀾邀入奸焉、情好甚篤、請瀾刻名於己臂涅之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  2. 「又端午曰(於乙于同)靚粧出游、翫鞦韆戲于城西、守山守(李)驥、見而悦之、問其女奴曰:“誰家女也”女奴答曰:“内禁衛妾也”遂邀致南陽京邸通焉」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  3. 「内禁衛具詮、与於乙宇同、隔墻而居、一日見於乙宇同在家園、遂踰墻、相持入翼室奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  4. 「学録洪璨、初登第遊街、過方山守家、於乙宇同窺見、有欲奸之意、其後遇諸途、以袖微拂其面、璨遂至其家奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  5. 「書吏甘義享、路遇於乙宇同、挑弄随行、至家奸焉、於乙宇同愛之、亦涅名於背」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  6. 「典医監生徒朴強昌、因売奴、到於乙宇同家、請面議奴直、於乙宇同、出見強昌挑之、迎入奸焉、於乙宇同、最愛之、又涅名於臂」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  7. 「生員李承彦、嘗立家前、見於乙宇同歩過、問於女奴曰:“無乃選上新妓”女奴曰:“然。”承彦尾行、且挑且語、至其家、入寝房、見琵琶、取而弾之。於乙宇同問姓名、答曰:“李生員也、曰長安李生員、不知其幾、何以知姓名”答曰:“春陽君女壻李生員、誰不知之”遂与同宿」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条

  8. 「又有李謹之者、聞於乙宇同喜淫、欲奸之、直造其門、假称方山守伻人、於乙宇同、出見謹之、輒持奸焉」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  9. 「密城君(李琛)奴知巨非居隣、欲乗隙奸之、一日暁、見於乙宇同早出、却之曰:“婦人何乗夜而出 我将大唱、使隣里皆知、則大獄将起。”於乙宇同恐怖、遂招入于内奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

しかし、こうした噂は朝廷にまで届くところとなり、於乙宇同オウルドンは捕縛され(注17)、厳しい詮議や拷問の末、於乙宇同オウルドンと関係を持った者が上記の如く数十人も明るみになります。

義禁府ウィグムブでは彼女の罪状について、「法に照らしても、死刑に処する事はでき兼ねるので(注18)、せいぜい流罪(追放処分)が妥当」(注19、20)だと処断するつもりでしたが、風紀を正すという名目(注21)で、最後は成宗ソンジョン自らが於乙宇同オウルドンに極刑(絞首刑)を言い渡します。(注22)

ところが、於乙宇同オウルドンと関係を持った人物は殆んどが軽い刑罰か、無罪放免となっているのです。(注23、24、25、26、27)

実際、国王が刑の執行を決めて言い渡す事は余程でない限りない事です。成宗ソンジョンの立場からすれば、悪くすれば王族たちを処断しなければならない事態であり、法に則って極刑にすれば、この事件は政治的に利用される可能性がある。そうなった場合、王権を揺るがし兼ねない事態に陥り、結果として王族に官吏が処罰を与えた前例がない事から、国王による直裁で事が収まったのです。

その他にも、方山守の供述により、魚有沼、盧公弼、金世勣、金你、金暉、鄭叔墀などの名も挙がったが、これらは方山守の誣告(注28、29)として扱われ、或いは釈放されたと云います。

  1. 「聞泰江守棄妻朴氏、自知罪重而逃、其窮極追捕」成宗11年庚子〔1480〕6月甲子〔15日〕条

  2. 「於宇同、以宗親之妻、士族之女、恣行淫欲、有同娼妓、当置極刑、然太宗、世宗朝、士族婦女、淫行尤甚者、雖或置極刑、其後皆依律断罪、今於宇同、亦当依律断罪」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  3. 「太宗朝、承旨尹脩妻、奸盲人河千慶、世宗朝、観察使李貴山妻、奸承旨趙瑞老、皆処死、其後判官崔仲基妻甘同、称娼妓、横行恣淫、而減死論断、今於乙宇同、以宗室之妻、恣行淫欲、無所畏忌、雖置極刑可也、然律不至死、請減死遠配」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  4. 「祖宗朝、但尹脩、李貴山妻処死、其後士族婦女失行者、竝用律文断之、況律設定法、不可以情高下、若以事跡可憎、而律外用刑、則任情変律之端、従此而起、有妨聖上好生之仁。請依中朝例立市、使都人、共見懲艾、然後依律遠配」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  5. 「於宇同以宗室之婦、恣行淫欲、苟適於意、勿嫌親戚貴賤、媚悦相奸、傷敗彝綸(人として堂々と守らなければならない道理)、莫甚於此。宜従祖宗朝権制、置諸重典」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  6. 「絞於乙宇同」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  7. 「“方山守(李)瀾、守山守(李)驥、於乙宇同、為泰江守妻時通奸罪、律該杖一百、徒三年、告身尽行追奪。”命贖杖、収告身、遠方付処」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月丁亥〔9日〕条)

  8. 「付処方山守瀾于昆陽、守山守驥于井邑」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月己丑〔11日〕条)

  9. 「於乙宇同所奸金你、鄭叔墀、金暉、皆繫獄、而魚有沼等、独不下獄…(中略)…金你、鄭叔墀、金暉皆服」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月甲辰〔26日〕条)

  10. 「於乙宇同、以士族婦女、不弁貴賤、不計親疏、恣行淫乱、毀汚名教莫甚…(中略)…請鞫魚有沼、盧公弼、金世勣、金你、金暉、鄭叔墀、而有沼、公弼、世勣、則全釈不問」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕8月壬子〔5日〕条)

  11. 「泰江守棄妻於宇同、奸守山守驥、方山守瀾、内禁衛具詮、学諭洪燦、生員李承彦、書吏呉従連、甘義亨、生徒朴強昌、良人李謹之、私奴知巨非罪、律該決杖一百、流二千里」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  12. 「方山守窺免其罪、誣引者多」((『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕7月壬辰〔14日〕条)

  13. 「請刑訊方山守瀾、於乙宇同、幷鞫魚有沼、金偁…(中略)…有沼、金你、皆出於方山守誣引、不可鞫也。方山守乃宗屬、亦不可刑訊」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕8月辛亥〔4日〕条)

― ◇ ◇ ◇ ―

◆於乙宇同は本当に妖婦だったと言えるのか?

文書に記録されてくる内容が全て事実ならば、於乙宇同オウルドンは“毒婦、妖婦、淫婦、悪女”と蔑称されても仕方のないかもしれません。

於乙宇同オウルドンが生きた時代は、儒教思想を支配の論理として掲げた朝鮮王朝にとって、全てのものが道徳的規範を基に構成されていく過渡期だったと思います。

朝鮮王朝の王室だけでなく、その支配階層である両班ヤンバン社会の中では、宮廷女官たちも国王1人のための消耗品であり、妓生キーセンらも詩歌や書画に風流を楽しんだしても、両班ヤンバンたちのための装飾品に過ぎないのです。

両班ヤンバンの男たちの女子供への淫行に対しては寛大で、女性や身分の低い者たちのそれは非常に厳しいというのが、朝鮮王朝での階級社会の実情だった訳です。

仁粹大妃

同時代の女性で成宗ソンジョンの母である仁粹インス大妃テビ昭恵王后ソヘワンフ韓氏)は学識が高く、当時の女性たちの教育書であった中国古典書『烈女』『小学ソハク』『女教』『明心宝鑑』などを整理し直して“朝鮮の女性のため”の教育書『内訓ネフン』を編纂します。

この『内訓ネフン』を読むと、徹底した男尊女卑ぶりが窺えます。女必従夫、三従之道、七去之悪など男性中心の儒教思想を反映した社会を体現するために『内訓ネフン』に記載された内容通りに実践し、儒教思想的女性観を貫こうとしたのです。

  • 「夫が百人の妾を置いても妻たる者は見ないふりをし、嫉妬もせず、夫に尽くさなければならない」
  • とが」は自分にあるのではなく夫にあるのに、儒教的倫理観の前では嫉妬と言われてしまえば「咎」は女性のものになってしまう」

など、儒教社会における典型的な良妻賢母を『内訓ネフン』ではいている訳ですね。

於乙宇同オウルドン泰江守テガンスにより婚家を追い出されますが、それは銀匠(銀細工職人)と対話しただけだった様です。

しかし、それが男性中心の儒教的倫理観の前では「既婚の女性であるにも係わらず、夫以外の男性と話した」と苦言を呈されるという、社会秩序からの疎外感を被ってしまう訳です。

於乙宇同オウルドンについては「淫乱で、風紀を乱した女」や「才能はあったが、身持ちが悪かった」と酷評されるケースが稀です。

確かに、於乙宇同オウルドンの行状は褒められたものではなかったかもしれませんが、閉鎖的な社会制度の中、男性中心の倫理観に一石を投じたのは間違いないでしょう。

儒教のイデオロギー下にあって、外出禁止、男女交際禁止などの男女差別の仕来たりで、生活の隅々まで女性は監禁生活を強いられた朝鮮王朝時代。女性が人間扱いされない時代において、その一生を自らの欲望のまま「恋」に生きた、稀有けうな女性であったと思います。

於乙宇同オウルドンは、朝鮮王朝が要求する儒教的な女性像には収まりきれない、独立した人間としての個を確立した女性だったのでしょう。

― ◇ ◇ ◇ ―

於乙宇同オウルドンが刑死して後の30数年後、国王も中宗チュンジョンの時代に代わっていますが、朝議の中で「成宗ソンジョンの時に於乙宇同オウルドンを死刑に処したのは、やはり合理的に失敗したもの」(注30)と改められています。

於乙宇同オウルドンを極刑に処した事は行き過ぎた栽定と認めたんですね…既に後の祭りだけど…

  1. 「成宗朝、以於乙于同処死者、亦未得其宜也」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、中宗7年壬申〔1512〕10月丙辰〔16日〕条)

NHKスペシャルより~ドラマ「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」

「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」

第二次世界大戦中、約10万頭もの犬が訓練を施され、“軍犬”として戦場に出兵させられます。

しかし、そうした“軍犬”たちの多くは地雷を踏んだり、狙撃手の標的となって命を落としています。

また、運良く生き残っても終戦と共に戦地に置き去りにされてしまった…など多くの“軍犬”が戦争の犠牲になったのです。

「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」というドラマは、

戦時の犠牲者は人間ばかりではない…戦時中、出兵した多くの“犬”がいた…
穏やかな子供たちとの生活を引き裂かれ、戦争という運命に翻弄された“無言の兵士・アルマ”
激動の時代にともに命をかけて戦った犬・アルマと兵士の友情の物語

を主題として、シェパードのアルマが“軍犬”の訓練士・太一と出会い、立派な“軍用犬”として育成されて戦地に送り込まれ、そのアルマを追って戦地に赴いた太一との心の触れ合いを描いた物語です。

原作は水野宗徳さんの『さよなら、アルマ』(サンクチュアリ出版)。

「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」 「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」

主な配役は、
  • 朝比奈太一(専門学校=現在の私立大学=の獣医学部に通う学生だったが、アルマの出征後に中退し、満洲に渡って犬の訓練士となる)=勝地涼さん

  • 高橋史子(健太が通う国分寺第一国民学校の教諭で担任を務める)=仲里依紗さん

  • 川上健太(アルマの元飼い主)=加藤清史郎くん
  • 川上千津(健太の妹)=松本春姫ちゃん

  • 渡辺道子(小料理屋の女将)=東てる美さん

  • 山田勝利(肉屋、典型的な軍国主義者)=石原良純さん

  • 高橋寛子(史子の妹、軍需工場で働き、銃後(※)の意思が強い)=西内まりやさん

  • 銃後
    「銃後」とは、銃の後ろ、すなわち戦場の後方で働くという意味合い。戦場において戦闘に参加したり、支援したりする男性に代わっり、女性が労働力を担い、軍需工場などで勤労奉仕する事によって戦争の遂行と勝利に貢献するという考え方。“銃後の守り”

  • 光塚秀行(犬の訓練士)=斎藤工さん

  • 真田誠太郎(満鉄=南満洲鉄道株式会社=警戒犬訓練所での太一の上司)=小栗旬さん

  • 有川直哉(史子の許嫁、太一がアルマと共に従軍する特殊部隊(※)に所属)=玉山鉄二さん

  • 特殊部隊
    関東軍特8118部隊第三班=満洲の治安維持と匪族ひぞく(ゲリラ化した反体制派武装集団)討伐を目的とした部隊

  • 緒方清治(特殊部隊の軍曹。第三班班長)=小泉孝太郎さん
  • 工藤軍曹=蟹江一平さん
  • 大久保正(特殊部隊の伍長)=池内博之さん
  • 加藤守(特殊部隊の兵長)=やべきょうすけさん
  • 河村上等兵=足立理さん

  • 久賀沢上等兵=阿部亮平さん
  • 福島上等兵=吉田智則さん
  • 妹尾一等兵=鈴之助さん
  • 富田一等兵=白倉裕二さん
  • 松下一等兵=馬場徹さん
  • 王華峰・通訳=颯太さん

  • 松原義冨(関東軍(※)高級参謀)=中村獅童さん

  • 関東軍
    「関東」とは山海関(中華人民共和国河北省と遼寧省の省境に位置する万里の長城の東端にある要塞)の外側であった大連、旅順などを中心とする遼東半島(営口・鳳凰城・鴨緑江を結ぶライン以南)の先端にあった日本の租借地に駐留した軍隊組織を指す

  • 立原登美子(満洲国首都・新京(※)の料亭の女将)=萬田久子さん

  • 満洲国首都・新京
    新京は、満洲国の首都で新京特別市。現在の中華人民共和国吉林省長春市にあたる

  • 朝比奈カツ(太一の祖母)=草笛光子さん

  • 朝比奈太一(晩年)=大滝秀治さん
の皆さんです。

さて、靖国神社には戦争によって散っていった“軍犬”たちの慰霊像あり、そこにはこう記されているそうです―

昭和6年(1931)9月満州事変勃発以降、同20年8月大東亜戦争終結までの間、シェパードを主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友として第一線で活躍し、その大半はあるいは敵弾に斃れ、あるいは傷病に死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった…


「王と私」観賞基礎ノート(3)―内侍と王妃の愛―

金処善

BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。

私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。

― ◇ ◇ ◇ ―

この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、端宗タンジョン3年(1455)に起きた「癸酉靖難ケユジョンナン」によって叔父である首陽大君スヤンテグン(第7代国王・世祖セジョン)に譲位させられてしまった端宗タンジョンが、世祖セジョン2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「端宗タンジョン復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「戊午士禍ムオサファ」(燕山君ヨンサングン4年:1498)や「甲子士禍カップチャサファ」(燕山君ヨンサングン10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「中宗反正チュンジョンバンジョン」(燕山君ヨンサングン12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された燕山君ヨンサングンまでの物語です。

その間、端宗タンジョン世祖セジョン睿宗イェジョン成宗ソンジョン燕山君ヨンサングン5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた内侍ネシたちにスポットを当てています。

― ◇ ◇ ◇ ―

「王と私」は、宦官ファングァン内侍府ネシブに勤務するキム処善チョソンと廃妃ユン氏(斉献王后、ユン素花ソファ)の精神的な愛をモチーフにしたドラマですが、こうした内侍と王室の女性との間のスキャンダルが実際に存在した可能性があるようです。

『朝鮮王朝実録』の『太祖実録』太祖テジョ2年(1393)6月19日条を見ると、

癸巳/誅内竪李万、黜世子賢嬪柳氏(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖2年癸酉(1393)6月癸巳(19日)条)

という記載が見られます。

太祖テジョ2年(1393)6月19日、太祖テジョ(李成桂)が、宦官内豎ネスである李萬を殺害し、王世子セジャ・宜安大君(李芳碩)の妃(世子嬪)である賢嬪ヒョンビン柳氏ユシを追放し廃妃するという、将に青天の霹靂へきれきともいうべき命令を下します。

賢嬪ヒョンビン柳氏ユシという女性は、太祖テジョの末子ですが王世子に任ぜられた宜安大君(李芳碩)の妃(世子嬪)で、2人は恭譲王元年(1390)に、王世子9歳、世子嬪20歳で結婚していました。賢嬪ヒョンビン柳氏ユシは宜安大君(李芳碩)よりも11歳年上だったんですね。

この突然の太祖テジョの命令に対し、台諌テガンたちが賢嬪ヒョンビン柳氏ユシの事件について、「国民たちの間に様々な憶測がが飛び交っているので、真相を明らかにするように上疏したところ、

乙未/台諫、刑曹上言:窃見内竪李万伏誅、賢嬪柳氏黜还私第、国人未知所以、疑惧不已。愿殿下将左右亲近之人、下法司鞫問、以絶国人之疑。上怒、下右散騎常侍洪保、左拾遺李慥、司憲中丞李寿、侍史李原、刑曹正郞盧湘于巡軍(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖テジョ2年癸酉(1393)6月乙巳(21日)条)

と、太祖テジョは大いに憤慨して、台諫たちを巡軍獄スングンオク(巡軍万戸府)に投獄してしまったのです。

太祖テジョ(李成桂)は台諌たちに対し、

宮中小竪嬪媵黜罰、我家私事、非外人所得知也(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖テジョ2年癸酉(1393)6月丙申(22日)条)

と、宮中の小竪(李萬)と嬪媵ビンイン(=嬪と媵妾インチョプ、すなわち賢嬪ヒョンビン柳氏ユシ)を追放して処罰する事は私たちの家(王室=李家)の事だから、外部の人々の知るところではないと返しています。

つまり、太祖テジョ(李成桂)の宦官に対する意識には高麗王朝時代の国王と同様に「汝是家奴」(『高麗史』巻第122『宦者伝』金玄の項)といった感じで、“王室、すなわち李家の使用人”という扱いなのですが、台諫たちにとっては、国王たるべきは例え身内の者であっても、法に基づいて処断してこそ、国の規範が正しく成り立つのだ、と意見が食い違ったんですね。

実際に、これ以降は賢嬪ヒョンビン柳氏ユシに対する記録は何一つ残されていません。本当にスキャンダルがあったのか?どうかは“薮の中”に隠されてしまいました。

しかしながら、太祖テジョ(李成桂)のこうした唐突な行動から、若しかしたら世子嬪と内侍との愛があったのかも?という推論の可能性を導かせてくれるのです。