主役は北条義時、主演は小栗旬さんが演じられ、脚本は三谷幸喜さんが務められます。
主なストーリーは、
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・ 政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打に乗った。 頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂の時、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。“飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵を取る。源氏の正統が途絶えた時、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ―
って感じ!
番組タイトルにもある「鎌倉殿の13人」ですが、「鎌倉殿」とは、源頼朝が朝廷によって公的に保障された、
- 日本国惣追捕使(惣追捕使、後の守護職)の任免権
- 日本国惣地頭(地頭)の任免権
その「鎌倉殿」頼朝が亡くなった後、嫡子である頼家が朝廷から「鎌倉殿」として頼朝の地位を継承を追認されます。
実際、「鎌倉殿」と家臣である御家人たちとの関係は全く私的なもので、公的に裏付けられたものではありまえん。
新たな「鎌倉殿」となった頼家は、頼家を立てる事で政治の主導権を握ろうとした頼朝側近(大江広元や梶原景時など)の補佐を受けて政務を行ないますが、数名の側近たちの評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す仕組みであったため、側近たちの専横に対する他の有力御家人たちの不満・反発が募ります。
そこで、有力御家人たちは頼家の権力を補完する機能を果たそうとし、そうして誕生したのが有力御家人「十三人の合議制」が導入されます。
- 大江広元(公文所別当→政所別当)
- 三善康信(問注所執事)
- 中原親能(公文所寄人→政所公事奉行人。鎮西奉行)
- 二階堂行政(政所家令→政所執事)
- 梶原景時(侍所所司→侍所別当。播磨・美作守護)
⇒正治元年(1199)梶原景時の変により失脚 - 足立遠元(公文所寄人)
⇒『吾妻鏡』承元元年(1207)3月3日条の闘鶏会参加の記事を最後に史料から姿を消している。安達盛長よりも年長者であり、少なくとも70代の高齢に達していると思われるので、程なく没したと思われる - 安達盛長(三河守護)
⇒正治2年(1200)病死 - 八田知家(常陸守護)
- 比企能員(信濃・上野守護)
⇒建仁3年(1203)比企能員の変として謀殺 - 北条時政(伊豆・駿河・遠江守護)
⇒元久2年(1205)牧氏事件により追放 - 北条義時(寝所警護衆)
- 三浦義澄(相模守護)
⇒正治2年(1200)病死 - 和田義盛(侍所別当)
⇒建暦3年(1213)和田合戦により敗死
「合議制」の13人の構成メンバーをを見ると、北条氏は頼朝の姻戚、比企氏・八田氏は頼朝の乳母、安達氏は頼朝の流人時代からの側近、三浦氏は源氏累代の家臣、梶原・和田・足立は頼朝の家政機関(侍所・公文所)の職員となっています。
この構成メンバーの中から、まず頼朝の信頼が厚かった梶原景時が三浦氏によって失脚(正治2年=1200)。
北条時政は、頼朝の乳母であり、頼家の妻の一族である比企能員を打倒(建仁3年=1203)した後、政所別当に就任。
将軍職を奪われた頼家は、伊豆修善寺に幽閉され、殺害(建仁4年=1204 )。
さらに、北条時政は後妻の牧氏に唆されて畠山重忠を殺害、さらに実朝を廃して牧氏の女婿平賀朝雅を将軍にしようと画策しますが、これを知った時政の子・北条義時は尼御台・政子と謀ってこれを防ぎ、父時政を追放し代わって政所別当になります。(建仁5年=1205 )
次いで義時は、侍所別当の和田義盛を挑発し、これを打倒します。(建暦3年=1213)
こうした権力抗争の果てに最後まで生き残った北条義時が政所と侍所の別当を兼務することになり、この兼務状態の職を「執権」と呼び、この職は代々、北条氏が世襲することとなるのです。
さてさて、ひさしぶりの鎌倉時代モノですね。北条氏を扱った大河ドラマとしては、『草燃える』(昭和54年=1979)、『太平記』(平成3年=1991)、『北条時宗』(平成13年=2001)以来となりますね。
まともに重なるのは『草燃える』ですけど、三谷幸喜さんがどのように仕上げることやら!
※(関連)NHK大河ドラマ「草燃える」、時代劇専門チャンネルにて全話放送決定!