吉良のお殿様

吉良上野介義央像

元禄15年12月14日深夜、旧赤穂藩主浅野内匠頭長矩家来47名が高家肝煎(筆頭)の家柄である吉良義周邸に徒党を組んで襲撃。隠居した前当主・吉良義央(62歳)や家臣26人を殺害せしめました。

吉良家と言えば足利家の流れをくむ名門で、三河地方を領知していました。

また、吉良家は幕府の儀式をつかさどる役目を担う家職でもあり、朝廷への使節や勅使のもてなし等をしていました。

折りしも、時代は江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の治世。それまでの武断政治から文治政治へと転換を計りたい綱吉の政策の一環で、礼典等を改めようとしていた時期でもあり、吉良家はそうした礼典や故実を一番良く知識していた家柄でもあります。

しかし、そうした流れに反発するかのように、いつまで経っても頭の切り替えができない、旧体制、旧思想の、いわゆる乗り遅れの“赤穂の乱暴者”どもは悪逆非道にも乱暴浪籍を働き、御政道に背いたのです。

まったく、弁護のしようがない馬鹿者ぶり―

愛知県吉良町には「吉良の赤馬」伝説があります。粗末な馬に跨って、領地を視察し、親しく領民と接している気さくな殿様の姿…“吉良さん”と慕われています。

領民を洪水から守るため一夜にして築かせた黄金堤。いまも赤馬に跨った吉良のお殿様の銅像が吉良町の随所に存在します。

“赤穂の乱暴者”たちは私怨=自分たちだけの都合で、吉良のお殿様の首を討ち取りましたが、その事で良き領主様を失ってしまった吉良の領民たちの嘆きを知る由もなかったでしょう。

社会というのは、民衆を中心に動いています。武士は暴力という手段で脅威をちらつかせて支配していた、今で言えば広域暴力団のような連中がのさばっていた姿でもあります。

武士とはそんな愚かな馬鹿者たち、それを“赤穂の乱暴者”は後世に証明しています…