鎌倉時代の最も基本的な歴史書といわれる『
『吾妻鏡』とは、治承4年(1180)の
『新訂増補国史大系』本を底本にした全16巻で構成されます。以下、各巻の構成を羅列―
第1巻「頼朝の挙兵」:治承4年(1180)4月~寿永元年(1182)
治承4年(1180)以仁王の平家追討令旨に応じ東国各地に源氏が蜂起する。伊豆の流人頼朝の挙兵、石橋山合戦の敗北、房総半島を経て関東を席巻しての鎌倉入り、富士川合戦の勝利、そして関東掌握へ。89歳の老武者三浦義明の討死、黄瀬川での頼朝・義経の初めての対面など数々のエピソードに彩られた、鎌倉武家政権の誕生を活写する―
第2巻「平氏滅亡」:元暦元年(1184)~文治元年(1185)
ついに頼朝は引き締めていた手綱を放つ。解き放たれた東国武士団は
第3巻「幕府と朝廷」:文治2年(1186)~文治3年(1187)
頼朝は藤原兼実を摂政に推挙する一方、後白河法皇に人事等の申し入れを行う。諸国で守護や地頭などの武士の土地押領が問題となり、地頭の権限は謀反人の旧所有地に限定される。頼朝に追われる源行家は摂津で討たれるが、義経は逃亡を続け、藤原秀衡を頼って奥州に赴く―
第4巻「奥州合戦」:文治4年(1188)~文治5年(1189)
奥州平泉の藤原氏に匿われている源義経をめぐる京・平泉・鎌倉間の駆け引きと、奥州合戦が焦点となる。秀衡亡き後、奥州藤原氏の家督を継いだ泰衡は、文治5年(1189)閏4月、鎌倉からの圧力に耐えかね、とうとう義経を自害に追い込む。それでも頼朝は泰衡を許さず、泰衡追討の宣旨を待たずに自ら大軍を率いて奥州に向かい進発する―
第5巻「征夷大将軍」:建久元年(1190)~建久3年(1192)
第5巻「征夷大将軍」:建久元年(1190)~建久3年(1192)
奥州藤原氏討滅に続き、その遺臣大河兼任の蜂起を鎮圧した頼朝はついに上洛し後白河法皇と対面、右近衛大将・権大納言への任官と辞任を経て征夷大将軍となる。造伊勢神宮役や有力御家人佐々木氏と延暦寺の対立をめぐり幕府と朝廷・有力寺社との交渉も頻繁となる一方、内乱による「数万之怨霊」を供養する永福寺も完成し、新時代が到来を告げる―
第6巻「富士の巻狩」:建久4年(1193)~正治2年(1200)
関東の王者となった頼朝の開催した富士の巻狩の場で突発した曽我兄弟の仇討ち。東大寺再建供養による頼朝の2度目の上洛。そして頼朝の急死によって重石を失った幕府は、若き鎌倉殿頼家の失政と有力御家人間の対立の激化により、混迷の時代に突入した。まず、頼朝以来の将軍近臣であった梶原景時が、御家人らの糾弾により失脚し、滅び去る―
第7巻「頼家と実朝」:建仁元年(1201)~建保元年(1213)
頼家が将軍となるが、病気を契機に実権を奪われる。これに不満を抱く比企能員は北条時政に討たれ、頼家は出家、程なく修善寺で没する。代わって実朝が将軍になるが、今度は平賀朝雅将軍擁立計画が露見、これに関与した時政は出家し伊豆に隠居。時政の子義時が幕政を主導、和田義盛との合戦に勝ち、義盛の保持した侍所別当の地位を手中にした―
第8巻「承久の乱」:建保2年(1214)~承久3年(1221)
将軍実朝の迷走と、その殺害から承久の乱までを描く。承久元年(1219)正月、実朝は鶴岡八幡宮社頭で兄頼家の遺児公暁に殺害される。同年7月、新鎌倉殿藤原頼経が鎌倉に下向。承久3年(1221)幕府の混迷を見た後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発する。政子の大演説により御家人結集に成功した幕府は大軍を派遣、朝廷軍と対決する―
第9巻「執権政治」:貞応元年(1222)~寛喜2年(1230)
承久の乱を乗り越えた幕府では、執権北条義時が没し、義時後家伊賀氏とその兄弟が企てた一条実雅・北条政村の将軍・執権擁立計画を封じ北条泰時が執権に就任する。大江広元・北条政子ら、幕府草創以来の大物が相次いで没するなか、摂関家出身の藤原頼経が将軍に就任し、新御所の造営も行われ、幕府政治は新たな段階へと移行してゆく―
第10巻「御成敗式目」:寛喜3年(1231)~嘉禎3年(1237)
寛喜の大飢饉。繰り返し襲い来る大火・怪異・疫病・地震・洪水。日本最初の武家法典『関東御成敗式目』の制定。評定衆による合議制の確立。天災に、幕府運営に、奮闘努力する執権北条泰時。泰時の主導の下に花開く執権政治。それは鎌倉幕府の黄金時代であった。そして泰時の孫経時・時頼、甥金沢実時ら、次代を担う若者たちが元服を迎える―
第11巻「将軍と執権」:暦仁元年(1238)~寛元2年(1244)
将軍頼経は多くの御家人を供に上洛、内裏や公家の邸宅、周辺の寺社等を訪問して鎌倉へ帰還した。頼経は京滞在中に検非違使別当にも任命された。京、次いで鎌倉に夜間警備のための篝屋が設置される。隠岐では後鳥羽上皇が没する。鎌倉深沢では大仏が造営される。執権北条泰時が没すると、孫経時が後を継ぎ、頼経の子頼嗣を新たに将軍とした―
第12巻「宝治合戦」:寛元2年(1244)5月~宝治2年(1248)
寛元4年(12446)3月、北条時頼が執権に就任する。閏4月、前執権北条経時が死去するや反時頼派の前将軍藤原頼経と名越氏らが策動。これに対して、時頼は7月、頼経を京都に送還することに成功。宝治元年(1247)6月5日、北条氏・安達氏と三浦氏との間に宝治合戦が勃発し、幕府草創からの功臣で幕府に重きをなした三浦氏は全滅した―
第13巻「親王将軍」:建長2年(1250)~建長4年(1252)
執権北条時頼に嫡子時宗が誕生する。宝治合戦の余波である了行法師らの謀叛未遂事件や九条道家の死をきっかけとし、道家の孫である摂家将軍藤原頼嗣の追放と後嵯峨上皇皇子宗尊親王の関東下向と将軍就任が断行され、幕府の体制のみならず、朝幕関係も新たな段階へと移行してゆく。また、幕府による京・閑院内裏造営は、御家人役のあり方を示す―
第14巻「得宗時頼」:建長5年(1253)~正嘉元年(1257)
連署極楽寺重時の出家に続き、病に倒れた執権北条時頼は出家を決意、嫡子時宗が政庁するまでの「眼代」として、重時の子長時に執権職を譲る。回復した時頼は僧形での執政を開始する。それは、執権職と北条氏家督の分離を意味し、得宗専制政治への第一歩であった。やがて人々の期待を一身に受けた時宗が元服。鎌倉幕府は静かに転換点を迎える―
第15巻「飢饉と新制」:正嘉2年(1258)~弘長元年(1261)
将軍宗尊親王の上洛準備が進められる。出家・隠居した北条時頼は最明寺内の邸宅で過ごすが、依然政治にも関与し、将軍もしばしば最明寺邸を訪れた。諸国で暴風等の被害が大きく、将軍上洛は延期。園城寺の戒壇設置をめぐり、延暦寺との抗争が発生する。弘長新制と呼ばれる政治改革の幕府法令も出される。時頼を支えてきた北条重時が没した―
第16巻「将軍追放」:弘長3年(1263)~文永3年(1266)
弘長3年(1263)11月、北条時頼が没する。文永元年(1264)8月、時頼嫡男北条時宗が連署となり、いよいよ政治の表舞台に現れる。文永3年(1266)6月、時宗・北条政村・金沢実時らは将軍宗尊親王側近の陰謀について密議し、7月4日、宗尊親王は京に送られる。同月20日、親王入洛の記事を以って『吾妻鏡』は全巻の筆を止める。
『吾妻鏡』、懐かしいですね―
私は中世史を専攻したのですが、そうなると自然、ゼミのメンバーたちの文献購読の題材はこの『吾妻鏡』だったりする訳ですが、思い起こせば大抵のメンバーが『全訳吾妻鏡』を使ってましたね(笑)。
ただ、ゼミ教授はそんなの全部お見通し!しかも、苦労したのは、ゼミ教授が“京都学派”だった点にありました。
『全訳吾妻鏡』ってのは“東京学派”が作成した出版物だったので、“京都学派”の訳し方と異なっちゃうんですね。
ちょうど僕が当たった箇所は一の谷の合戦前後のくだりでしたので、そんなに苦労はなかったんですけどね…