(書斎の窓)現代語訳『吾妻鏡』

現代語訳『吾妻鏡』

鎌倉時代の最も基本的な歴史書といわれる吾妻鏡あづまかがみの現代語訳版が吉川弘文館から刊行されました。

『吾妻鏡』とは、治承4年(1180)の以仁王もちひとおうの挙兵から文永3年(1266)の宗尊むねたか親王の帰洛までを編年体で書かれたものです。

『新訂増補国史大系』本を底本にした全16巻で構成されます。以下、各巻の構成を羅列―

第1巻「頼朝の挙兵」:治承4年(1180)4月~寿永元年(1182)
治承4年(1180)以仁王の平家追討令旨に応じ東国各地に源氏が蜂起する。伊豆の流人頼朝の挙兵、石橋山合戦の敗北、房総半島を経て関東を席巻しての鎌倉入り、富士川合戦の勝利、そして関東掌握へ。89歳の老武者三浦義明の討死、黄瀬川での頼朝・義経の初めての対面など数々のエピソードに彩られた、鎌倉武家政権の誕生を活写する―


第2巻「平氏滅亡」:元暦元年(1184)~文治元年(1185)
ついに頼朝は引き締めていた手綱を放つ。解き放たれた東国武士団はまたたく間に京に殺到し、木曽義仲を撃破。源平合戦は、ここに鎌倉軍と平氏との全面衝突の形勢となる。多くの人々の運命を翻弄しながら、内乱は壇ノ浦での平氏滅亡を迎える。一躍、ヒーローとなった義経であったが、兄頼朝との対立から、呆気なく没落し、全国逃亡の身となった―



第3巻「幕府と朝廷」:文治2年(1186)~文治3年(1187)
頼朝は藤原兼実を摂政に推挙する一方、後白河法皇に人事等の申し入れを行う。諸国で守護や地頭などの武士の土地押領が問題となり、地頭の権限は謀反人の旧所有地に限定される。頼朝に追われる源行家は摂津で討たれるが、義経は逃亡を続け、藤原秀衡を頼って奥州に赴く―



第4巻「奥州合戦」:文治4年(1188)~文治5年(1189)
奥州平泉の藤原氏に匿われている源義経をめぐる京・平泉・鎌倉間の駆け引きと、奥州合戦が焦点となる。秀衡亡き後、奥州藤原氏の家督を継いだ泰衡は、文治5年(1189)閏4月、鎌倉からの圧力に耐えかね、とうとう義経を自害に追い込む。それでも頼朝は泰衡を許さず、泰衡追討の宣旨を待たずに自ら大軍を率いて奥州に向かい進発する―



第5巻「征夷大将軍」:建久元年(1190)~建久3年(1192)
第5巻「征夷大将軍」:建久元年(1190)~建久3年(1192)
奥州藤原氏討滅に続き、その遺臣大河兼任の蜂起を鎮圧した頼朝はついに上洛し後白河法皇と対面、右近衛大将・権大納言への任官と辞任を経て征夷大将軍となる。造伊勢神宮役や有力御家人佐々木氏と延暦寺の対立をめぐり幕府と朝廷・有力寺社との交渉も頻繁となる一方、内乱による「数万之怨霊」を供養する永福寺も完成し、新時代が到来を告げる―



第6巻「富士の巻狩」:建久4年(1193)~正治2年(1200)
関東の王者となった頼朝の開催した富士の巻狩の場で突発した曽我兄弟の仇討ち。東大寺再建供養による頼朝の2度目の上洛。そして頼朝の急死によって重石を失った幕府は、若き鎌倉殿頼家の失政と有力御家人間の対立の激化により、混迷の時代に突入した。まず、頼朝以来の将軍近臣であった梶原景時が、御家人らの糾弾により失脚し、滅び去る―



第7巻「頼家と実朝」:建仁元年(1201)~建保元年(1213)
頼家が将軍となるが、病気を契機に実権を奪われる。これに不満を抱く比企能員は北条時政に討たれ、頼家は出家、程なく修善寺で没する。代わって実朝が将軍になるが、今度は平賀朝雅将軍擁立計画が露見、これに関与した時政は出家し伊豆に隠居。時政の子義時が幕政を主導、和田義盛との合戦に勝ち、義盛の保持した侍所別当の地位を手中にした―



第8巻「承久の乱」:建保2年(1214)~承久3年(1221)
将軍実朝の迷走と、その殺害から承久の乱までを描く。承久元年(1219)正月、実朝は鶴岡八幡宮社頭で兄頼家の遺児公暁に殺害される。同年7月、新鎌倉殿藤原頼経が鎌倉に下向。承久3年(1221)幕府の混迷を見た後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発する。政子の大演説により御家人結集に成功した幕府は大軍を派遣、朝廷軍と対決する―



第9巻「執権政治」:貞応元年(1222)~寛喜2年(1230)
承久の乱を乗り越えた幕府では、執権北条義時が没し、義時後家伊賀氏とその兄弟が企てた一条実雅・北条政村の将軍・執権擁立計画を封じ北条泰時が執権に就任する。大江広元・北条政子ら、幕府草創以来の大物が相次いで没するなか、摂関家出身の藤原頼経が将軍に就任し、新御所の造営も行われ、幕府政治は新たな段階へと移行してゆく―



第10巻「御成敗式目」:寛喜3年(1231)~嘉禎3年(1237)
寛喜の大飢饉。繰り返し襲い来る大火・怪異・疫病・地震・洪水。日本最初の武家法典『関東御成敗式目』の制定。評定衆による合議制の確立。天災に、幕府運営に、奮闘努力する執権北条泰時。泰時の主導の下に花開く執権政治。それは鎌倉幕府の黄金時代であった。そして泰時の孫経時・時頼、甥金沢実時ら、次代を担う若者たちが元服を迎える―



第11巻「将軍と執権」:暦仁元年(1238)~寛元2年(1244)
将軍頼経は多くの御家人を供に上洛、内裏や公家の邸宅、周辺の寺社等を訪問して鎌倉へ帰還した。頼経は京滞在中に検非違使別当にも任命された。京、次いで鎌倉に夜間警備のための篝屋が設置される。隠岐では後鳥羽上皇が没する。鎌倉深沢では大仏が造営される。執権北条泰時が没すると、孫経時が後を継ぎ、頼経の子頼嗣を新たに将軍とした―



第12巻「宝治合戦」:寛元2年(1244)5月~宝治2年(1248)
寛元4年(12446)3月、北条時頼が執権に就任する。閏4月、前執権北条経時が死去するや反時頼派の前将軍藤原頼経と名越氏らが策動。これに対して、時頼は7月、頼経を京都に送還することに成功。宝治元年(1247)6月5日、北条氏・安達氏と三浦氏との間に宝治合戦が勃発し、幕府草創からの功臣で幕府に重きをなした三浦氏は全滅した―



第13巻「親王将軍」:建長2年(1250)~建長4年(1252)
執権北条時頼に嫡子時宗が誕生する。宝治合戦の余波である了行法師らの謀叛未遂事件や九条道家の死をきっかけとし、道家の孫である摂家将軍藤原頼嗣の追放と後嵯峨上皇皇子宗尊親王の関東下向と将軍就任が断行され、幕府の体制のみならず、朝幕関係も新たな段階へと移行してゆく。また、幕府による京・閑院内裏造営は、御家人役のあり方を示す―



第14巻「得宗時頼」:建長5年(1253)~正嘉元年(1257)
連署極楽寺重時の出家に続き、病に倒れた執権北条時頼は出家を決意、嫡子時宗が政庁するまでの「眼代」として、重時の子長時に執権職を譲る。回復した時頼は僧形での執政を開始する。それは、執権職と北条氏家督の分離を意味し、得宗専制政治への第一歩であった。やがて人々の期待を一身に受けた時宗が元服。鎌倉幕府は静かに転換点を迎える―



第15巻「飢饉と新制」:正嘉2年(1258)~弘長元年(1261)
将軍宗尊親王の上洛準備が進められる。出家・隠居した北条時頼は最明寺内の邸宅で過ごすが、依然政治にも関与し、将軍もしばしば最明寺邸を訪れた。諸国で暴風等の被害が大きく、将軍上洛は延期。園城寺の戒壇設置をめぐり、延暦寺との抗争が発生する。弘長新制と呼ばれる政治改革の幕府法令も出される。時頼を支えてきた北条重時が没した―



第16巻「将軍追放」:弘長3年(1263)~文永3年(1266)
弘長3年(1263)11月、北条時頼が没する。文永元年(1264)8月、時頼嫡男北条時宗が連署となり、いよいよ政治の表舞台に現れる。文永3年(1266)6月、時宗・北条政村・金沢実時らは将軍宗尊親王側近の陰謀について密議し、7月4日、宗尊親王は京に送られる。同月20日、親王入洛の記事を以って『吾妻鏡』は全巻の筆を止める。



― ◇ ◇ ◇ ―

『吾妻鏡』、懐かしいですね―

私は中世史を専攻したのですが、そうなると自然、ゼミのメンバーたちの文献購読の題材はこの『吾妻鏡』だったりする訳ですが、思い起こせば大抵のメンバーが『全訳吾妻鏡』を使ってましたね(笑)。

ただ、ゼミ教授はそんなの全部お見通し!しかも、苦労したのは、ゼミ教授が“京都学派”だった点にありました。

『全訳吾妻鏡』ってのは“東京学派”が作成した出版物だったので、“京都学派”の訳し方と異なっちゃうんですね。

ちょうど僕が当たった箇所は一の谷の合戦前後のくだりでしたので、そんなに苦労はなかったんですけどね…

中山忠光

中山忠光は攘夷過激派の公卿で、文久3年(1863)の八・一八の政変(堺町御門の変)によって政局が一変し、長州藩に逃れ、下関の豪商・白石正一郎の宅に身を潜め、藩内の僻地に流寓の生活を続けていました。

元治元年(1864)7月19日の禁門(蛤御門)の変で長州藩の情勢も変わり、長州藩は俗論派の勢いが強くなり、藩の意見は恭順謝罪に傾きつつあり、幕府の探索も厳しくなったので、三田尻から転々と住居を移し、8月、田耕(豊浦郡豊北町田耕)に来ました。

しかし、この地の庄屋の1人、山田幸八は何時しか刺客に買収され、11月8日の夜遅く忠光を欺いて無腰のまま近くの渓谷に誘い出し、そこに待機していた刺客(長府藩士6名)のために撲殺され、忠光は波乱の20年の生涯を終えます。忠光の遺体はその後綾羅木(下関市綾羅木)の浜に葬られています。

また、山田幸八の子孫はその後狂人が続出し家名断絶しており、付近の人々は天の報いと噂して言ます。やがて、奇兵隊らの手により慶応元年(1865)11月、長府藩は墓の上に社殿を建て「中山社」と称しました。これが中山神社創立の由来です。因みに中山忠光の墓の墓標には「藤原忠光卿」と書いてあります。これは長府藩が中山忠光を埋葬した事を隠したかったからだと言われています。

明治になって、華族制度により、旧大名家にも爵位が与えられた際、長州藩本家には公爵が与えられました。分家である長府藩主は立場からいえば伯爵を授けられても良いはずが、子爵止まりでした。或る者がその事を明治天皇に話したところ、「あれは中山を殺したから」と仰られたと言います。睦仁(明治)天皇の母方の叔父が中山忠光で、睦仁天皇の養育係でもあったので、睦仁天皇は長府藩主>を嫌ったんですね。

「アジア古都物語」第6集「京都 千年の水脈たたえる都」

わが街・京都―

桓武天皇によって平安京(城)がこの盆地に出現したのは、今から1200年も前の事。

江戸時代末期の儒者・頼山陽は京の都を山と水と2つの自然がマッチした「山紫水明」と表現しています。

「山紫水明」とは、山の翠色が陽ざしに映えて紫にかすみ、川の水も明るく澄みきっていて美しい、と自然の景色を形容しているのです。

北東から鴨川、東から白川、西から桂川が流れ込み、やがて淀川へと合流。これに、琵琶湖疏水の通水も加わる事で京都の人々の文化や生活を支えて続けています。

加えて、中央部一帯は無尽蔵ともいわれる豊富な地下水盆地が存在が存在し、至る所で名水が湧き出ているのです。

そんな地下水盆地の構造を科学的に検証したのが、NHKスペシャル「アジア古都物語」第6集「京都 千年の水脈たたえる都」という番組です。

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番組の中では、関西大学工学部・楠見晴重教授の研究グループが「京都盆地の地下の砂礫層に存在する地下水の量を211億tと試算。琵琶湖の貯水量である約275億tに匹敵する数値である」と解析されました。

― ◇ ◇ ◇ ―

南北約33㎞、東西12㎞の京都盆地は三方を山に囲まれ、しかも南側も男山(八幡市)と天王山(大山崎町)に挟まれた形で絞り込まれ、まるで満々と水を湛えたお盆みたく天然の貯水ダムのような構造になっています。

京都の地下水は適度なミネラルを含んで美味しく、「金気」が少ない性質なため、この豊富な水から多種多様な文化を創造してきました―伏見に代表される日本酒造り、豆腐や湯葉などの食文化、京友禅などの工芸、そしてなによりお茶やお花など…京文化のほとんどは良質で豊かな水の賜物なんですよね。

その中の1つとして―

京都市左京区下鴨、賀茂川に架かる葵橋東詰の北に明治初期まで賀茂御祖みおや神社(下鴨神社)はふり(神官)を務めた鴨脚いちょう家の屋敷があります。

今年の2月、この鴨脚家の屋敷内にある庭園が京都市指定名勝に決まったのですが…

京都市指定名勝に決まった鴨脚家庭園

実はこの庭園内にある泉というのが、鴨川の伏流水による湧水で、この泉に貯まる水量が、イコール平安京(城)内の貯水量と測定できたのだそうです。

そして、

この泉の構造がよくできていて、凡そ3段階で貯水量が測れるのだとか―

(1)泉全体に水が溢れている
(2)泉の中底あたり、人工的に丸く作られた箇所までしか水嵩がない
(3)泉の奥底あたり、人工的に四角く作られた箇所までしか水嵩がない

つまり、(3)の状態になっていると、かなりの水不足だというわけです。

このように、鴨脚家の当主は代々、水量の変化を家職として管掌していたのだそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

京都は勿論、隣国の滋賀や三重の一部などに降った雨は京都盆地に集まっているそうです。その量は年間約120億tほど―

そのうちの約30億tは蒸発し、残りの約90億tの半分が川に流れ、半分が地下に浸透するといいます。

京都の地下水は非常に豊かで、枯れる心配はないと言われていますが、近年では急速なマンション建設や道路のアスファルト舗装など都市化の波によって、地下に浸透する水の量が減ってきているそうです。

マンションの建設は地下水を生活用水として利用するため、豊富な地下水も汲み上げられ過ぎて空洞化し、地盤沈下の波が押し寄せてきているようです。

道路のアスファルト舗装化にしても、土の上にアスファルトを覆い被せる訳ですから、自然に呼吸できていたのが、人工的に窒息させられている状態と同じで、水の量も水質さえも変化が起きるんですよね。

京都の風光明媚な装いも風前の灯火の様相ですね!

「知るを楽しむ」 拝見・武士の家計簿

7月期のNHK教育テレビ「知るを楽しむ」の“歴史に好奇心”には「拝見・武士の家計簿」だそうです。

東京は神田神保町の古書店で偶然見つけた古文書、実は加賀金沢城主である前田家の家臣・飯山家の会計記録でした。

そして、その記録は詳細、かつ完成度の高いものだったのです。

猪山家は加賀前田家の御算用者おさんようもの、すなわち会計係でした。

猪山家は下級クラスの家柄だったので、家老職を代々務める「加賀八家」のような上級クラスみたく世襲で襲職することもなく、家中での職務は実力本意で就職するしか道はありません。

この江戸時代、下級クラスの子弟が出世するための糸口といったら算術に長ける事でした。

無能でも家老や上級官僚になれた者たちからすれば、そういう実力者の事を妬みをこめて「算勘しわき者」と言っていました。

しかし、こうした実力が江戸幕府が倒れ、明治維新が成ったのちに猪山成之をして海軍主計に立身できた礎となったのです―

放送内容は、
  • 第1回「武士にもいろいろありまして」
  • 第2回「知行七十石、切米四十俵~年収千二百万でも借金だらけ」
  • 第3回「武士が貧乏だった理由わけ~「身分費用」という浪費」
  • 第4回「勝ち組」と「負け組」~維新激動期を分けたもの

※(参照)映画「武士の家計簿」
※(参照)「仕事は経理、小遣い6000円 東京で加賀藩士の家計簿見つかる 下級武士の暮らし伝え 磯田慶大非常勤講師が分析 2代37年、克明に記録」(北國新聞2003-04-03)

「知るを楽しむ」 チャップリン なぜ世界中が笑えるのか

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NHK教育テレビにおいて6月期に放送された「知るを楽しむ」の「私のこだわり人物伝―チャップリン なぜ世界中が笑えるのか―」を観返しました。

第4回目の「チャップリンの愛した日本」の回ですが、興味を惹いたのは、

“歌舞伎になったチャップリン”という命題!

歌舞伎とチャップリン…「えっ?」って感じですが―

実は、「街の灯(City Lights:1931年=昭和6)がそうなんだそうです。

ちなみに、「街の灯」は街角で花売りをする盲目の少女とチャップリン演じる浮浪者の恋を描いたストーリーで、

街角で花売りをする盲目の娘は、なけなしのコインで一輪の花を買ったチャーリーを金持ちの紳士と誤解してしまいます。

浮浪者は大金持ちの紳士を精一杯装って、娘のために一所懸命働いて尽くし、娘もそんな彼に恋心を抱くのです。

しかし、ある日、浮浪者は娘の眼を治療するために大金を盗み、逮捕されてしまいます…

月日が流れ、釈放された浮浪者は、眼が治って街角で花屋を営んでいる娘と偶然再会します。

娘は目の前の薄汚い浮浪者を見ても、自分の恩人だとは気付きません。

娘は浮浪者を哀れに思って小銭を恵んでやろうと、彼の手をとった瞬間、娘の表情は変わります。

「眼は見えるの?」「ええ、見えます」…じっと見つめ合う2人の表情

―でエンディングロール!

この作品は、音響は音楽と効果音のみ、セリフも字幕というサイレント映画です。

僕はこういったサイレント映画が好きです。

例えば、「街の灯」でのラスト、見つめ合った後はどうなん?ってイメージ欲が描き立てられますもんね!(それが、観る人によって喜劇にもなり、悲劇にもなりますが…)

さて本題に!

この「街の灯」は日本では昭和9年(1934)に公開されたのですが、実は昭和6年(1931)8月に東京の歌舞伎座で「蝙蝠こうもりの安さん」という演目で上演されていたんだそうです。

脚本家の木村錦花氏が映画雑誌に載った筋書きをもとにして歌舞伎化したんだとか―

例えば、舞台を江戸時代の両国に置き換えたところや、映画の冒頭の記念碑の除幕シーンを大仏の開眼供養に置き換えたり、キャバレーのシーンを芸者遊びのシーンに、有名なボクシングのシーンは賭け相撲のシーンに、と上手く置き換えているのだとか―

「蝙蝠の安さん」とは、歌舞伎作品の「与話よわなさけ浮名うきなの横櫛よこぐし」に登場する人物だそうで、役どころがそのままチャップリンの演技に似ている―として引用したのだとか―

これって、例えば、明治19年(1886)に「ハムレット」を「葉武はむ列土れつとやまとの錦絵にしきえ」に置き換えた浄瑠璃の作品での主人公・ハムレットを「葉叢丸はむらまる」って名前に置き換えたのと違ってすごく“粋な”感じがしちゃいました。