NHK大河ドラマ「花神」、新たに2話発掘される!

「春夏秋冬」より吉田寅次郎斬首の場面

私が大好きなNHK大河ドラマとして推すのが昭和52年(1977)1月2日~12月25日に放送された「花神」です。

司馬遼太郎氏の作品のうち、『花神』『世に棲む日日』『伊達の黒船』『酔って候』所収)、『十一番目の志士』『峠』の5作品をベースに脚本化されたもので、村田蔵六(のちの大村益次郎)という人物を通して、幕末・維新期の長州人を捉えた群像劇といえるかもしれません。

現存する映像としては、総集編のVHS版5本組とDVD版4枚組、単発で第19回「上海みやげ」の回のみだったのですが、新たに第24回「奇兵隊」と第39回「周防の人々」の映像が発掘されたようです。

まず、第24回「奇兵隊」はタイトル通り、馬関攘夷戦争で窮地に立たされた、腰抜け上級武士に代わって「儂らの土地は、儂らがこの手で護るんじゃい」と下層民衆たちが起ち上がった回です。この回のシーンの一部は総集編にも高杉晋作(中村雅俊さん)と白石正一郎(瑳川哲朗さん)との件りが収録されていました。

気になるのは、第39回「周防の人々」でしょうか!状況としては、谷梅之助〔高杉晋作〕(中村雅俊さん)ら主戦派(正義派)による馬関挙兵から椋梨藤太(内田稔さん)ら恭順派(俗論派)が退陣し、中間派で第三勢力である鎮静派たちが政権を掌握し、四境戦争(幕長戦争)に向かって最中のお話ですが…恐らく、西山塾の人たちが多数配役されている回なんでしょうねぇー。すなわち、大楽源太郎(井上昭文さん)や神代直人(石橋蓮さん)らが登場する回のはず―

―すごく観たい‼「周防の人々」というタイトルからして、「萩・長門系」の有名人は出てこないでしょうけど、防長二州のうちでも、月性、赤禰武人、大楽源太郎、世良修蔵、大村益次郎…と非業の死を遂げる人物の多い「周防系」の思いを集約されていそうな回の気がします。

他に、1話数ではないけど、1本のテープに録画されてあったものが発掘されました。

「最後の武士」で北越方面にガトリング砲で迎え撃つ河井継之助

そのテープには「火神 北越戦争総集編」というタイトルが付されており、長岡藩の家老・河井継之助(高橋秀樹さん)の活躍姿のみを編集されてあったのです。

すなわち、第48回「決戦前夜」での小千谷談判のシーン、第49回「彰義隊」、第50回「最後の武士」で継之助が死去するシーンが鏤められていたんですね。

総集編第5巻に登場する河井継之助のシーンは残らず使ってあったと思うのですが、これはこれで「花神」の中の『峠』編集分として楽しめそうな感じ―

― ◇ ◇ ◇ ―

余談ですが、この「花神」ですが、配役を観ると、特撮やアニメに携わった役者さんたちが多く見受けられます。

吉田寅次郎(松陰)を演じた篠田三郎さんは「ウルトラマンタロウ」東光太郎役だし、

井上聞多(馨)を演じた東野英心さんも「ウルトラマンタロウ」の荒垣副隊長役、

江幡五郎を演じた三ツ木清隆さんも「ウルトラマンタロウ」の西田隊員役だったり、「光速エスパー」の東ヒカル役、「白獅子仮面」の剣兵馬役、

白石正一郎を演じた瑳川哲朗さんは「ウルトラマンA」のTAC・竜隊長役、

久坂義助(玄瑞)を演じた志垣太郎さんは「ベルサイユのばら」のアンドレ役、

寺島忠三郎を演じた池田秀一さんは「ガンダム」のシャア役、

その従兄弟で寺島秋介を演じた森次晃嗣さんは言わずと知れた「ウルトラセブン」のモロボシダン役、

楢崎頼三を演じた植田峻(うえだ峻)さんは「人造人間キカイダー」のハンペンこと服部半平役、

天堂晋助の父・義助を演じた天本英世さんは「仮面ライダー」の死神博士役、

大楽源太郎役の井上昭文さんは「レインボーマン」のダイバダッタ役、

永井主水を演じた中田浩二さんは「忍風カムイ外伝」のカムイ役、「エースをねらえ!」の宗方コーチ役、

井戸対馬守を演じた金内吉男さんは「マグマ大使」の声の役、

薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)を演じた速水亮さんは「仮面ライダーX」の神敬介役、

土佐藩の岩村精一郎を演じた伊東平山(吾羽七朗)さんは「ジャッカー電撃隊」の東竜=ダイヤジャック役、

新選組隊士の役で登場していた、だるま二郎さんは「秘密戦隊ゴレンジャー」の2代目キレンジャー役、

長岡藩の小林虎三郎を演じた伊武雅刀さんは「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統役、「ドカベン」の犬飼小次郎役、「ザ☆ウルトラマン」のウルトラマンジョーニアス役、

薩摩藩の海江田信義を演じた中丸忠雄さんは「大鉄人17」の佐原博士役、

御堀耕助を演じた堀勝之祐さんは「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」に登場する電線マンの声を担当されていたり、「傷追い人」の茨木圭介役や「トラップ一家物語」のトラップ男爵役、

楢崎龍役の島本須美さんは「スプーンおばさん」のルウリィ役、「夢戦士ウイングマン」のケイ子先生役、「小公女セーラ」のセーラ役、「忍者戦士飛影」のロミナ姫役、「Oh!ファミリー」のフィー役、「オズの魔法使い」のドロシー役、「めぞん一刻」の音無響子役、「天空戦記シュラト」のヴィシュヌ役、

久保清太郎を演じた大塚周夫さんは「ゲゲゲの鬼太郎(第1シリーズ)」のねずみ男役、「ルパン三世(第1シリーズ)」の石川五ェ門役、「バビル2世」のヨミ役、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」「宇宙戦艦ヤマト2」のバルゼー提督役、「ドラゴンボール」の桃白白役、「ピーターパンの冒険」のフック船長役、

などなど、映像が残っていれば是非とも観てみたい皆さんばかりです。

本当に「花神」が全話揃って観られる日が来る事を切に願っています!!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)NHK土曜ドラマ「遠雷と怒涛と」
※(参照)待ちに待った「風が燃えた」、33年ぶりの再放送!
※(参照)映画「獄に咲く花」―松陰先生と久子女史を描いた物語
※(参照)NHK大河ドラマ「花神」第19話「上海みやげ」
※(参照)その時歴史が動いた「奇兵隊~幕末に命を賭けた若き庶民たち~」
※(参照)映画「長州ファイブ」>
※(参照)
NHK少年ドラマシリーズ「幕末未来人」―すべてはここから!

❝天下の嘉農❞―嘉義農林、昭和6年の夏~映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

毎年、夏場になるとお馴染みの“夏の甲子園”、すなわち全国高等学校野球選手権大会が開催されますが、その第1回目の大会=第1回全国中等学校優勝野球大会が催された大正4年(1915)から今年で100周年目を迎えようとしています。

私自身、高校野球ファンで、小学校4年生の夏(=第56回大会・昭和49年=1974)の頃から昭和63年(1988)のは第60回選抜高等学校野球大会までは春夏連続で甲子園球場まで観戦に通ってた程でした。

一番盛り上がっていたのが故尾藤公監督率いる和歌山県立箕島高等学校が活躍した頃である昭和52年(1977)から同55年(1980)の時期でしら。予選の頃から新聞記事をスクラップブックに貼って整理したり、本大会が始まると注目する試合はスコアブックを付けたり、と一番熱中していた感じで…(笑)

そうした状況でも歴史好きな自分の一面が生じてしまうのは仕方のない話で…やはり高校野球の歴史っていうか、過去の大会はどんな盛り上がりを見せたのだろうかというのが気になって調べたりもしたんですよね(笑)

今回はそんな過去の大会の歴史から―

時は中等学校野球大会が開催されていた時分、日本が大日本帝国と名乗っていた頃のお話です。

この頃は、植民地して、朝鮮半島、満洲地区(関東州)や台湾などの外地も領有していましたので、大会には外地からの出場校もありました。
  • 朝鮮代表 → 第7回大会(大正10年=1921)から参加
  • 満洲代表 → 第7回大会(大正10年=1921)から参加
  • 台湾代表 → 第9回大会(大正12年=1923)から参加
これらの地区の代表は戦争のために中断する第27回大会(昭和16年=1941)まで続きました。
そんな外地からの出場校のうち、一際異彩を華って輝いたのが、
  • 第12回大会(大正15年=1926)の満洲代表・大連商業学校(現在の大連三十六中学校)の準優勝
  • 第17回大会(昭和6年=1931)の台湾代表・<台南州立strong>嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)の準優勝
などでした。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、昨年、台湾で1つの映画が上映されました―
KANO(KANO 1931海の向こうの甲子園)
というタイトルの映画です。すなわち、上記に挙げた台湾代表・台南州立嘉義農林学校が準優勝した際のエピソードを取り上げて物語化したものです。


あらすじはこんな感じ―

海を越え、民族を超えて、僕らは同じ夢を見た。
1931年、甲子園、台湾代表。
日本中を感動で包み込んだ伝説の試合。
台湾から、まだ見ぬ甲子園、そして決勝へ。
弱小チームが起こした奇跡の実話。
1931年、日本統治時代の台湾から甲子園に出場し、決勝まで勝ち進んだ伝説のチームがある。嘉義農林学校野球部。KANO。それまで1勝もしたことのなかった弱小チームが甲子園を目指し、大人たちや他校の嘲笑をよそに予選で快進撃を始める。その陰には、かつて名門・松山商業を監督として率いた近藤兵太郎の特訓があった。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人(漢人)、俊足の台湾原住民。それぞれの強みを生かし、分け隔てない指導で育てられた彼らは、ついに甲子園への切符を手にする。
多感な少年時代の叶わぬ恋、夢半ばに去る卒業生、厳しい生活に野球を続けることを悩む者―。様々な思いを背負い、彼らは海を越える。無名のは甲子園でも強豪を破り勝ち進んだ。そのひたむきなプレーは、やがて多くの観客の共感を呼び起こす。迎えた決勝戦。一球たりともあきらめない渾身の姿にスタンドから熱い声援が拡がる。「天下の嘉農、天下の嘉農」。皆が、心からのエールを送りながら、一球一球に固唾をのみ、試合の行方を見守っていた―

嘉義農林の出場登録メンバーは、

嘉義農林、甲子園準優勝メンバー
  • 部 長・濱田次箕
  • 監 督・近藤兵太郎
  • 投 手・呉明捷 選手(台湾人)…主将
  • 捕 手・東和一 選手(アミ族…本名ラワイ)
  • 一塁手・小里初雄 選手(日本人)
  • 二塁手・川原信男 選手(日本人)
  • 三塁手・真山卯一 選手(アミ族…本名マヤウ)
  • 遊撃手・上松耕一 選手(プユマ族…本名アシワツ)
  • 左翼手・平野保郎 選手(アミ族…本名不詳)
  • 中堅手・蘇正生 選手(台湾人)
  • 右翼手・福島又男 選手(日本人)
  • 補 欠・崎山敏雄 選手(日本人)
  • 補 欠・里正一 選手(日本人)
  • 補 欠・谷井公好 選手(日本人)
  • 補 欠・積真哉 選手(日本人)
  • 補 欠・劉蒼麟 選手(台湾人)
の皆さんで、彼らは民族を超えて、"甲子園で力を発揮する"という1つの 夢を目指したんですね!
それでは、嘉義農林の甲子園までの戦績及び甲子園での戦績を詳しく視ていきましょう!

昭和6年(1931)第17回中等学校野球
○台湾予選
1回戦(7/19)○15- 0 台中一中
2回戦(7/21)○17-10 台中二中
準決勝(7/22)○14- 3 台南一中

嘉義農林、台湾大会決勝でのスコアボード

決 勝(7/23)○11-10 台北商業
 嘉義農 123 011 010 2=11
 台北商 000 420 003 1=10
○本大会
1回戦(8/15)○3-0 神奈川商工(甲神静代表=山梨、神奈川、静岡)
 嘉義農 000 000 210=3
 神商工 000 000 000=0
2回戦(8/18)◯19-7 札幌商(北海道代表)
 札幌商 300 010 300=7
 嘉義農 430 004 26X=19
準決勝(8/20)◯10-2 小倉工(北九州代表=福岡、佐賀、長崎)
 小倉工 000 000 020=2
 嘉義農 210 000 25X=10
決 勝(8/21)●0-4 中京商〔現、中京大中京〕(東海代表=愛知、岐阜、三重)
 嘉義農 000 000 000=0
 中京商 002 200 00X=4

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映画の中で使用されている主題歌がすごくいいです。歌詞を載せてみました!

◎主題歌「勇者的浪漫〜風になって〜」
 作曲:Rake
 作詞:Rake、嚴云農(中文)
  歌:Rake、中孝介、范逸臣、舒米恩(中文)、羅美玲(中文)

 一人泣いた 胸の奥
 一個人哭泣的時候 胸口的深處
 ちっぽけな プライド震えてる
 顫動著微小的驕傲
 言葉にしたら 何かが 壊れそうだから
 唯有沉默能讓一切不再崩壞
 音もなく そっと流れてる 涙を握り締め
 我會強忍住眼淚 無聲的泛流
 風になって 僕らは奔り出す
 乘風奔跑的時候
 夢で見た 光の指す方へ
 我們奔向夢中的微光
 いつかきっと キミに出会うために 旅は続いていく
 這旅程將不斷前進 直到與你相遇
 風になった 僕らは空高く
 在高高天際 我們轉瞬為風
 舞い上がって 時の橋を渡る
 飛舞翻越時光之橋
 明日また 君と笑いたくて心 未来を見つめてる
 我的明日 期待有你的微笑陪伴 一起邁向未來

 一つ痛み知るたびに
 痛苦的時候
 優しさにまたそっと包まれる
 總有莫名的溫柔守護著我
 言葉にしたら 思い出になってしまうから
 已述說的都將成為回憶
 今はそっと少し遠くから 昨日に触れていたい
 現在我只想遠遠回顧昨天 再輕輕地被觸動
 風になって 僕らは奔り出す
 乘風奔跑的時候
 夢で見た 光の指す方へ
 我們奔向夢中的微光
 いつかきっとキミに出会うために旅は続いてく
 這旅程將不斷前進直到與你相遇
 風になった 僕らはそうさ ほら
 看吶 轉瞬為風的我們
 愛を知って こんなにも強くなる
 因為學會愛而彌堅
 明日また 君と笑いたくて心 未来を見つめてる
 我的明日 期待有你的微笑陪伴 一起邁向未來

 LA~LA~LA~
 LA~LA~LA~LA LA LA
 LA~LA~LA~
 LA~LA~LA~LA LA LA
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love Love Love

 起風的時候 我們用奔跑 追逐期待
 qi feng de shi hou wo men yong ben pao zhui zhu qi dai
 チーフェンタシーホウ ウォーメンヨンベンパオ ツゥェイツゥチータイ
 前進的時候 手指向遠方 就該吶喊
 qian jin de shi hou shou zhi xiang yuan fang jiu qai na han
 チェンチンタシーホウ ショウツィーシャンユゥェンファン チウクァイナーハン
 勝利的時候 當我們並肩
 sheng li de shi hou dang wo men bing jian
 ションリータシーホウ タンウォーメンビンチェン
 我不會忘記 那天陽光的燦爛
 wo bu hui wang ji na tian yang quang de can lan
 ウォープーファイワンチー ナーティエンヤンクァンタツァンラン
 想哭的時候 我們用仰望 止住遺憾
 xiang ku de shi hou wo men yong yang zhi zhu yi han
 シャンクータシーホウ ウォーメンヨンヤン ツィチゥーイーハン
 寂寞的時候 手指向天空 就有蔚藍
 ji mo de shi hou shou zhi xiang tian kong jiu you wei lan
 チームォタシーホウ ショウツィーシャンティエンコン チゥーヨウウェイラン
 有你的陪伴 帶著傷與驕傲去
 you ni de pei ban dai zhe shang yu jiao ao qu
 ヨウニーターペイバン トゥァイツェシャンユーチァオアオチュー
 未知的未來 是勇者間的浪漫
 wei zhi de wei lai shi yong zhe jian de lang man
 ウェイツィタウェイライ シーヨンツェチァンタランマン

 LA~LA~LA~
 LA~LA~LA~LA LA LA 
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love

― ◇ ◇ ◇ ―

「KANO 1931海の向こうの甲子園」、大注目です‼

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※(参照)元箕島高校野球部監督・尾藤公氏死去!
※(参照)「幻の甲子園~戦時下の球児たち~」
※(参照)「出口のない海」

NHK土曜ドラマ「遠雷と怒涛と」

CSの時代劇専門チャンネルにおいて、昭和57年(1982)3月から4月のかけて放送されたNHK土曜ドラマ「遠雷と怒涛と」がCS初放送として放映されます。


私は当時、高校2年生になったばかりで、いよいよ大好きな歴史の授業が受けられる、と期待に胸膨らませていた時期で、この作品も観ていたんですよね、実は…


しかし、断片的にしか記憶に残ってません!相当なインパクトがあったはずなのに…


私が小学校6年生の昭和52年(1977)に放送されたNHK大河ドラマ「花神」を観て、歴史にハマり、この時点で将来は歴史の勉強がしたい!と目標が定まったきっかけを与えてくれたのですが、この「遠雷と怒涛と」という作品も実はその方向性を指し示してくれた作品だったのです。


─ ◇ ◇ ◇ ─


「花神」を観て長州藩が好きになり、そこから司馬遼太郎氏の作品を読み出し、原作として引用された『世に棲む日々』、『花神』、『峠』、『十一番目の志士』などを読み漁りますが、同じ時期に父が購入していた小学館の『日本の歴史』シリーズを読み始め、その中の第24巻『明治維新』に出会います。執筆されたのが田中彰先生で、先生が書かれた脱退騒動や“隊中さま信仰”の話に興味が湧いたんですね。


さらに、奈良本辰也先生の著書も読んでいくうちに、奈良本先生が周防大島(山口県大島郡大島町)出身である事を知ります。


京都って、昔は割に部落・同和問題に関する授業が小学校から習ったりするのですが、奈良本先生の著作もその方面に関するものが多く、そこから吉田年麻呂(稔麿)の被差別部落民の登用策や維新団の結成など、武士階級に虐げられてきた下層階級の存在を知っちゃいます。


おかげで、周りの長州好きな連中とは話が合わなくなっちゃいました。みんなはやっぱり、幕末・維新期の幕府に立ち向かっていく長州(基本はもちろん「花神」ですけど…)が好きで、好きな人物は高杉晋作や久坂玄瑞が挙がるんですが、私は上記に挙げた“隊中さま”だったり、名もなき隊士に興味が変わっていき、むしろ維新期以降の長州の動きに注目するようになった訳です。


大学の史学科に進むと、広島や山口出身者と友達になり、彼らを通じて戦国期の周防大内氏や萩藩毛利氏に関する情報や知識を吸収したりして、夏休みには山口県文書館に通って、そこにしかない書籍を読み漁ったりしました。


そんな私への歴史への興味を促してくれた作品がこの「遠雷と怒涛と」という作品だったのです。


─ ◇ ◇ ◇ ─


さて、前置きが長くなりましたが、本放送時にリアルタイムで観ていた割に断片的な映像しか憶えていないなんて、って感じですが、大学の史学専攻科の時、広島と山口出身者からマツノ書店の存在を知ります。ちょうど『定本奇兵隊日記』を発刊される記事だったかな…


そこで、会員となったら、マツノ書店から古書目録が送られてきました。その古書目録を探ってみると、こんな記載があったのです―(以下、引用)


enrai-to-doto-to.jpg

書名:遠雷と怒涛と
著者:湯郷将和
出版社:日本放送出版協会
価格:500円
刊行年:昭和57年
詳細:B6 248頁 天小口少ヤケ ▼激動の発火点・長州毛利藩には半官半民の鯨組があった。大山市之進は士分を棄ててこれに投じたが…。士族の誇りにこだわって反目しあう同志、妻タツの離別、やがて骨肉血で血を洗う「萩の乱」へと押し流されていく。明治維新史に欠落していた「普通の人びと」の息づかいを活写して、放送文学審査委員の高い評価を受けた力作。

―断片的な記憶で作品タイトルさえ忘れていた私でしたが、「もしかしたらこれじゃないかな?」と思い立ち、購入する事に決めました。


本が手許に届き、内容を読んでいくうちに、「間違いない、これだ!」と確信。


キーワードとなるものが定まると、後は雪崩のように見つかっていくもんで、作品が放送された年月日も把握でき、主な出演者も判りました。


さらに、「NHKって情報紙あったよな?」って事で図書館で調べると、『グラフNHK』を発見!そこでようやく「遠雷と怒涛と」の特集記事にお目にかかれた訳です。


─ ◇ ◇ ◇ ─


以下、「遠雷と怒涛と」の情報データです―


本放送時の日程は、

  • 第1回-昭和57年(1982)3月27日
  • 第2回-昭和57年(1982)4月3日
  • 第3回(完)-昭和57年(1982)4月10日
って感じでした。


原作は、湯郷将和氏による同名タイトルの『遠雷と怒涛と』


ちなみに、湯郷将和氏は昭和63年(1988)に57歳でお亡くなりになっています。


主人公にあたる人物が湯郷将和氏の曽祖父にあたる方をモデルに書きあげられています。


放送文学賞の第3回(昭和55年度=1980・4~81・3)受賞作品で、


幕末・維新期を背景にした物語には、知名度の高い人物にスポットをあてたものが多いが、この作品の主人公は、名も知れぬ長州藩の下級武士。


ドラマでは、長州藩の下級武士・大山市之進を中心に、維新という激動の時代の変革に遭遇し、否応なしに翻弄されていく人々の戸惑いや苦悩を描いた作品。


となっています。


舞台設定としては、慶応2年(1866)に始まる四境戦争で長州藩が石見浜田藩(松平右近将監家=越智松平家)を攻めた石州口の戦い(益田戦争)から、明治3年(1870)の長州藩諸隊脱退騒動を挟んで、明治9年(1876)の萩の乱辺りまでが描かれます。


舞台は江戸時代、長州藩の公設処刑場である大屋刑場地や大屋検問所があった長門国阿武郡大屋村(現、山口県萩市大字椿大屋、萩市笠屋)と、長門市仙崎から北にわずか120m、仙崎湾にかかる仙崎大橋を渡った青海島おおみじまの東側に位置し、古式捕鯨の里でも有名な長門国大津郡仙崎通村(現、山口県長門市通)の通浦かよいうらという場所。


なかでも、通浦は江戸時代から捕鯨基地として発展した地。


通浦の鯨組(数百人を単位とした捕鯨組合組織)は延宝元年(1673)に長州藩に取り立てられて以降、明治41年(1908)まで235年間にわたって、古式捕鯨(網掛け突き捕り法=鯨を網に追い込んで、銛で突いて捕獲する網掛け突き取り方法によつ漁)を続けました。


同市仙崎出身の金子みすゞの詩歌「鯨捕り」の中には次のような一節が見受けられます―

 むかし、むかしの鯨捕 り
 ここのこの海、紫津しずが浦

 いまは鯨はもう寄らぬ
 浦は貧乏びんぼになりました


―通浦の鯨組の網頭(網元)であり、庄屋役を務めていた13代目・早川源治右衛門の家は「早川家住宅」として国の重要文化財に指定され、現存しています。


主な出演者の顔触れは─

  • 大山市之進=勝野洋さん

  • 市之進の父・松三郎=芦田伸介さん
  • 市之進の弟・末松=広岡瞬さん
  • 市之進の妹・ウメ(早川清太郎の妻となる)=宮崎美子さん

  • 市之進の長男・米蔵(タツとの間の子)=大塚利明くん
    →原作者の祖父にあたる
  • 市之進の先妻・タツ(片岡家の出、佐世八十郎の従妹→離別する)=竹下景子さん
  • 市之進の後妻・サヨ=宇都宮雅代さん

  • 市之進の叔父、松三郎の兄・又一(萩・明倫館の剣術師範)=下条正巳さん
  • 大山家の使用人・キヨ=鳳八千代さん
  • 庄屋&網頭・早川権左衛門=金田龍之介さん
    →おそらく、13代目・早川源治右衛門のモデル

  • 権左衛門のせがれ・清太郎=永島敏行さん

  • 鯨組の若年寄・勘助(磯部勘助)=北浦昭義さん
  • 勘助の妻・フク=木村夏江さん

  • 大屋検問所の番役人・周助=岡本信人さん

  • タツの実父・片岡伝右衛門=大木実さん
  • タツの実兄・片岡内蔵太=村野武範さん

  • サヨの実父・孫兵衛=加藤嘉さん

  • 大村益次郎=米倉斉加年さん
  • 神代こうじろ直人=深水三章さん
  • 木戸孝允=河原崎長一郎さん

  • 山田えい太郎(前原一誠の弟)=浜田晃さん
  • 奥平謙輔=内田勝正さん
  • 横山俊彦=伊藤高さん
  • 一誠の妻・綾子=千北谷和子さん

  • 市之進の従兄・佐世八十郎(前原一誠)=近藤正臣さん
の皆さんが配薬されます。


放送日時は、

  • 第1回=3月17日(土)22:00~23:13
    (再放送:4月7日〔土〕25:00~)

  • 第2回=3月24日(土)22:00~23:13
    (再放送:4月7日〔土〕26:20~)

  • 第3回(完)=3月31日(土)22:00~23:13
    (再放送:4月7日〔土〕27:40~)
となっていますよ。


ホントに、ホントに待ち望んで、実に35年!1コマ1コマを鮮明に瞼に焼き付けようと思います!


─ ◇ ◇ ◇ ─


※(参照)NHK大河ドラマ「花神」、新たに2話発掘される!
※(参照)待ちに待った「風が燃えた」、33年ぶりの再放送!
※(参照)映画「獄に咲く花」―松陰先生と久子女史を描いた物語
※(参照)NHK大河ドラマ「花神」第19話「上海みやげ」
※(参照)その時歴史が動いた「奇兵隊~幕末に命を賭けた若き庶民たち~」
※(参照)「長州ファイブ」
※(参照)すべてはこの時から―昭和52年!


特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」テーマ展「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」展

羽柴於次秀勝像

特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」(~12月4日(日)まで)が催されている長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)で現在会期中のテーマ展の第5回目、「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」(~7月18日(月)まで)を観覧して来ました。


ちょうど、テーマ展の展示説明会が6月26日(日)午後1時30分から催されるとの事だったので観覧に行くと…


◎「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」


秀吉の子息といえば、淀殿とのあいだに出来た「鶴松」と「秀頼」が有名である。しかし長浜城時代の秀吉には、『実子が生れたが夭折した。』という伝承が現存し、追善のための肖像画(後に焼失)と、墓石や位牌が現存している。この「本光院朝覚居士」が天正4年(1576)10月14日に没した後に、信長の四男を養子に迎え「於次秀勝」と名付けている。この「於次秀勝」が、天正13年(1585)に18歳で病死すると、秀吉は姉「とも」の次男「小吉」を迎え再び「秀勝」と名付けている。「小吉秀勝」は、「於次秀勝」の領地を引継ぎ、丹波亀山城主となる。秀吉の九州攻めに従軍し、越前敦賀城主から小田原の役後は甲斐国が与えられた。その後に、岐阜城主となる。文禄元年(1592)5月に秀吉が策定した三国国割計画では、朝鮮全土の統治者となっている。同年9月9日に朝鮮出兵中に、唐島(巨済島コジェド)で病死した。享年24。


浅井三姉妹の「江」が二度目に嫁ぐ夫が、この「小吉秀勝」である。「江」は、『徳川幕府家譜』や『柳営りゅうえい婦女伝系』によれば、20歳の時に秀勝に嫁入る。天正20年(1592)2月で、「小吉秀勝」は岐阜城主であった。しかし夫の秀勝は、前述したように同年9月9日に朝鮮出兵中に病死する。「江」と秀勝の間には、一女(のちの九条完子さだこ)が生れていたが、淀によって養育され、その養女となって公卿九条幸家に嫁いだ。


この展覧会では、「朝覚」ゆかりの位牌や秀吉寄進状、「於次秀勝」の木造を始め、「於次秀勝」の判物などを展示する─


といった趣旨の展示会でした。以下、展示資料を観てみると、─


〔次郎秀勝について〕

  1. 豊臣秀吉朱印状 妙法寺宛 1幅(妙法寺蔵)


    秀吉が妙法寺(長浜市大宮町)に寺領を寄進した朱印状。坂田郡南小足村(長浜市南小足町)と北小足村(長浜市新栄町の一部)で30石を寄進している。寺伝では、早世した「朝覚」の菩提を弔うために寄進されたと伝えている。天正14年(1586)12月8日付けであるため、没後10年が経過しての寄進である。なお、昭和27年(1952)の火災によって本堂が焼失した際、下部に焼損が生じている。


    この「朝覚」の夭折に当たっては、妙法寺をはじめとして、長浜周辺の幾つかの寺院に対し、秀吉から供養料が寄進された形跡があり、知善院(長浜市元浜町)には、天正4年(1576)10月22日付けで供養料として伊香郡井口村(現在の高月町大字井口)で30石が寄進され、徳勝寺(長浜市平方町)の前身寺院の1つである医王寺にも天正4年(1576)10月15日付けで伊香郡井口村(現在の高月町大字井口)に供養料として30石の寄進がみられる。


    しかし、書状自体にはその目的が表記されておらず、「朝覚」の菩提を弔うための寄進で、その供養料なのかどうかは判別できない。


    妙法寺に埋葬された人物が、秀吉の実子だという伝承があります。


    享保19年(1734)に成立したとされる『近江輿地史略』の中で「妙法寺 長浜にあり…(中略)…豊臣秀吉公の末子、次郎早逝そうせいすなわち当寺に葬る、本光院朝覚居士おくりなす」とあり、「朝覚」「次郎」と呼び、秀吉の男子であると記載している。


    また、長浜における曳山ひきやまの起源に関する伝承で、寛文6年(1666)に書かれた『江州湖東八幡宮勧請並祭礼之由来』には「其後若様御誕生ニつき、町々へ砂金頂戴ス、是ヲ基トシテ曳山造営の志願ヲ発ス」と、長浜城主であった秀吉に男子が出生し、それを喜んだ秀吉が、長浜の町衆に砂金を振舞ったのを元手に長浜曳山祭の12基の山が建造されたという伝承です。


    しかしながら、実際に秀吉が長浜の町衆に対し「町屋敷年貢米300石免除」や諸役免除の特権を与えるなどの経済的な恩恵を与えたのは、天正19年(1591)の出来事(『(天正19年)5月9日付長浜町人中宛豊臣秀吉朱印状』下郷共済会蔵)であり、ここで云う男子誕生は棄丸(のちの鶴松)だと考えられ、矛盾を感じますね。


  2. 秀吉・秀勝位牌 1基(徳勝寺蔵)


    浅井氏三代の菩提寺として知られる徳勝寺(長浜市平方町)に伝来した位牌。右側に「國泰寺殿雲山峻龍大居士 台閣秀吉公」という秀吉の法名と、左側に朝覚 大禅定門 次郎秀勝君と妙法寺に葬られる「朝覚」の法名が刻まれ、その裏面には「天正四子年十月十四日」と命日が刻まれている。


  3. 竹生島奉加帳 1帖(竹生島宝厳寺蔵)


    秀吉とその家族・家来たちが天正4年(1576)から同16年(1588)まで、竹生島ちくぶしま宝厳寺に金品を奉納した記録。冒頭の秀吉による「百石」の寄進に続いて、「御内方」(のちの北政所・おねね)「大方殿」(のちの大政所・なか)など上段に家族の寄進記録がある。その三番目の箇所に「石松丸」と記され、ち(乳)の人」の注記がある。秀吉の家族に乳幼児がいた事が伺えるが、だからと言って、「石松丸」秀勝と名乗っていたという証拠は何一つない。


  4. 妙法寺境内図(『近江農商工便覧』) 1冊(長浜歴史博物館蔵)


    明治22年(1889)に発刊された『近江農商工便覧』に掲載された妙法寺の図で、「秀勝公御廟」が明記されている。しかし現在、描かれた形での現存はない。


〔於次秀勝について〕

  1. 木造 羽柴於次秀勝像 1躯(京都・瑞林院蔵)


    秀吉の養子で信長の四男にあたる羽柴於次秀勝の肖像彫刻。伝来した瑞林院は、浄土宗大本山百万遍ひゃくまんべん知恩寺創建時から塔頭たっちゅうとして存在していたと云う。瑞林院は蒲生氏郷夫人の「冬姫」が、早世した弟の「於次秀勝」の菩提を弔うために創建したと伝えている。開基は、知恩寺第30世「岌州上人」の弟子「岌方行西」で、信長の家臣で小谷の方(お市の方)が浅井家に輿入れした際、お供の者として随従した藤懸永勝の一族だと伝えている。寺名は、「於次秀勝」の法名「瑞林院殿賢巖才公大禅定門」から付けられている。この像は、江戸時代前期頃に「於次秀勝」の菩提を弔って造立されたと考えられる。作風から京仏師の作品と推定される。若くして死んだ「於次秀勝」の容貌を伝えていると思われる。この他に、本像とそっくりの画像が知恩寺と大徳寺に所蔵される。


  2. 羽柴於次秀勝禁制 1枚(長浜八幡宮蔵)


    秀吉の養子となった「於次秀勝」が、長浜八幡宮の遷宮での千部会にあたって出した禁制。千部会は、祈願や追悼のために、同じ経典を1000人の僧が1部ずつ読む法会である。この八幡宮での千部読経は、秀吉による八幡宮の社殿復興の完成に伴って行われたと推定される。この時秀吉は、因幡鳥取城を包囲中で、太閤ヶ原にて対陣中だったため、秀吉に代わって湖北支配を代行していた「於次秀勝」が、長浜八幡宮の求めに応じて、禁制を掲げたものと思われる。


  3. 羽柴秀吉・於次秀勝判物 称名寺宛1通(称名寺蔵)


    秀吉と「於次秀勝」が連署して、称名寺(長浜市尊勝寺町)に対し、寺領63石が与えたもの。本能寺の変の際、長浜城内にいた秀吉の家族は美濃国広瀬(岐阜県揖斐郡坂内村)へ避難するが、この避難には称名寺の僧・性慶せいきょうも助力していた。称名寺は元は美濃国安八あんぱち郡津布良庄奥村(現在の岐阜県大垣市津村町付近)にあった天台宗系の寺院だったが、戦国期に浄土真宗系の寺院に改まり、天文年間(1532~1555)頃に湖北地方に移ったとされる。姉川の戦いで始まった元亀争乱(1570~73)の際、浅井氏に味方したため、浅井氏滅亡後、信長により追放の憂き目に遭う。しかし、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の際に、光秀が長浜城にいる秀吉の家族などの殺害を企てている情報を知った、同寺5世の性慶が美濃へ避難させた功績で秀吉に帰郷を許され、寺院の復興が認められた。


  4. 羽柴秀吉・於次秀勝判物写 広瀬兵庫助宛1通(浅井歴史民俗資料館蔵)


    秀吉と「於次秀勝」が連署して、広瀬兵庫助に浅井郡高山村(長浜市高山町)・坂田郡甲津原村(米原市甲津原)・伊香郡杉野村(長浜市木之本町杉野)で500石を宛行ったもの。天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の時に、長浜城内にいた秀吉の家族を広瀬兵庫助は美濃国広瀬(岐阜県揖斐郡坂内村)に匿った。この連署状は、その礼として領地を宛行ったもの。但し原本は紛失してしまったらしいが、江戸時代に作られた写しが浅井歴史民俗資料館に所蔵されていたと云う。本能寺の変の際における秀吉の家族の動向が判る貴重な文書


  5. 羽柴於次秀勝判物 徳昌寺宛1幅(徳勝寺蔵)


    秀吉の養子となった「於次秀勝」が出した、徳勝寺への寺領安堵状。天正10年(1582)6月27日の清洲会議において、長浜城の領有権は柴田勝家に移り、勝家は長浜城主に養子・勝豊を置いている。それに伴う勝豊の長浜入城は7月下旬と考えられるが、「於次秀勝」は清洲会議の後、北庄に帰還する勝家の人質となったり、長浜城に在城し、7月15日に勝家方への城明け渡しの責任者として残っていたのではないかと考えられている。


〔小吉秀勝について〕

  1. 羽柴小吉秀勝書状 安岡寺宛1幅(安岡寺蔵)


    「小吉秀勝」が摂津の安岡寺あんこうじ(高槻市浦堂本町)の寺領を安堵したもの。「小吉秀勝」は秀吉の姉・ともの次男。秀吉の養子となって、秀勝と名付けられたのだが、従来、「於次秀勝」の死後に養子となったと考えられていたが、本状によって天正13年(1585)9月には秀勝を名乗っていた事が判明した。「於次秀勝」が亡くなるのが同年の12月10日である事から、9月から12月10日までの期間、秀勝を名乗る人物が2人いた事実が確認された事になる。



Eテレ 直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー

「直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー」

6月からEテレ(NHK教育テレビ)で始まる趣味講座において、「直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー」(全8回)と題したシリーズが放送されます。

テーマとしては、「鎖国の江戸時代、日本は独自の科学技術が発展、目を見張るものであった。その極意を伝える」という事です。

その概要は以下の通り―

【直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー】
○毎週木曜日午後10時25分~10時50分(再放送は翌週の火曜日午前10時30分~10時55分)

  • 第1回 田中久重(1) からくり人形の極意
    =6月7日/再:6月14日

  • 第2回 田中久重(2) からくり人形の極意
    =6月14日/再:6月21日

  • 第3回 大野弁吉-箱形写真機の極意
    =6月21日/再:6月28日

  • 第4回 華岡青洲-全身麻酔手術の極意
    =6月28日/再:7月5日

  • 第5回 渋川春海-日本初!「暦」の極意
    =7月5日/再:7月12日

  • 第6回 関孝和-円周率解法の極意
    =7月12日/再:7月19日

  • 第7回 国友一貫斎-反射望遠鏡の極意
    =7月19日/再:7月26日

  • 第8回 伊能忠敬-日本地図225枚の極意
    =7月26日/再:8月2日