(トピックス)「村八分、まかりならん」─菰野藩のお裁き、意外に民主的か!

種田さんが判読して現代文に直し、解説を加えた古文書『諏訪村入作喜七一件綴』

江戸時代の後期、他所よその村から転入者を「村八分」にして追い出そうと訴えた村人たちに、菰野こもの藩(伊勢国三重郡菰野村、現在の三重県三重郡菰野町大字菰野、に陣屋を構えた藩)が下したのは、逆に重い処罰だった―

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文政5年(1822)、菰野藩の目安箱に奉行所宛の訴状が入っていました。

訴訟は諏訪村の「百姓一同」26人の連名で起こされ、その内容は、近くの村から引っ越してきた喜七という者に対し、「村の風儀になじまない」と主張し、元の村に戻らせるよう求め、それがだめなら、村人全員を別の村へ移住させてくれ、というものでした。

喜七は、諏訪村に持っていた土地に移住したのですが、村人と折り合いが悪く「村八分」にされていたようです。

藩の裁決は訴訟があった翌年の文政6年(1823)4月に出され、村人からの訴えは却下され、村人のうち首謀者1人は「追放」、3人は勤労奉仕と蟄居謹慎、9人は勤労奉仕の処罰を受け、残る13人は“同調圧力”に屈して名前を連ねただけと判断されたのか、「しかり」という処分が下されます。

一見、喜七の全面勝訴のような感じですが、実は喜七に対しても「普段から出すぎている(ところがある)」として「叱」の処分が下ったのです。

当時の慣習でもある喧嘩両成敗にするために喜七も形式上処分したようですね。

藩は「(村人たちは)農業を怠り、強訴ごうそ徒党のような状況で秩序を乱した。人口が少ない村で田畑の耕作をしかねている状況なのに、引っ越してきた者を追放しろとはけしからん」と指摘し、「首謀者に下した『追放』は死罪に次いで重い処罰」といい、徒党を組んでのいじめや差別に、厳しい「お上の裁き」が下されたことが読み取れますね。

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『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』

さて、小さな藩で起きた訴訟についての古文書『諏訪村入作喜七一件綴』を、名古屋市博物館元学芸員の種田祐司さんが読み解きました。

こうした訴訟関係の内容―奉行所宛ての訴状、被告側が出した弁明書、藩の裁決文書など―訴訟に関する一連の文書類を含む約160点が菰野町の旧家で喜七の子孫にあたる横山家の土蔵で見つかった古文書の中に含まれていました。

現在の横山家の当主で前名古屋外国語大学准教授の横山陽二さんが、古文書研究の専門家である種田さんに読み解きを依頼し、『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』を上梓したそうです。

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菰野と言えば、夏の高校野球の三重県代表になった時、話題になった事がありましたね。この地に慶長5年(1600)、土方雄氏ひじかたかつうじが1万2千石の知行分を拝領し、翌6年(1601)入封して陣屋を築きます。以下の史料は、元和3年(1617)の知行宛行状です。

伊勢国三重郡之内十五箇村壱万石余、近江国栗太郡之内四ヶ村弐千石、都合壱万弐千石余目録在別紙事、令扶助訖、可全知行者也、
 元和三年五月廿六日 朱印(徳川秀忠)
土方丹後守(雄氏)トノへ

入封して以降、12代雄永に廃藩置県(明治2年=1869)で藩政を閉 じるまでの約270年間、藩主の転封、移封もなく土方氏の治世下にありました。

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土方義苗

当該期の菰野藩藩主は第9代藩主・土方義苗よしたねでした。

義苗が藩主となる以前、菰野藩の財政は毎年の借入金によって支えられている、といったような現状で、ひどく窮迫し、破綻寸前の一途をたどっていました。

そこでまず義苗は財政改革に乗り出し、緊縮財政による藩財政の再建に取り組みます。

義苗はその打開策として、寛政10年(1798)「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を一割二分の利子で13年間に1500両も積み立てます。

その反面、領内に「御倹約触」と称する勤倹質素を奨励する御触おふれ(※)を出すなど厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減させます。

※こうした御触は、義苗の治世下だけで9回も出されたようで、その内容は、
  • 目上の者を敬愛すること、
  • 風儀を糺すこと、
  • 百姓に似合わざることをしないこと、
  • 村方の倹約をすること、
  • 男女の衣服は木綿を着用すること、
  • 往還道・橋や耕作道の修理をすること、
  • 家中諸士へ無礼をしないこと、
  • 召使い等を領分内から召し抱えること、
  • 火の用心に気を付けること、
  • 怪しく疑わしい者を見掛けたら申し出ること、
  • 竹木や土芝等を取らないこと、
  • 他領へ対して非道をしないこと、
  • 領内での勧進芝居・相撲をしないこと、
  • 若輩者への対応をすること、
  • 庄屋が身上不相応者へ適切な対応をすること、
  • 音信贈答に無益な費用を使わないこと、
  • 仏事・神事を華麗にしないこと、
  • 博奕を禁止すること、
  • 人倫を乱さないこと、
  • 鳥類を鉄砲で殺生しないこと、
  • 庄屋は村の手本であること、
  • 村役人の申し付けに背かないこと、
など22箇条から成り立っていて、それぞれ「御領内村々へ被仰出(おおせいだされ)」と銘打っており、これが菰野藩の領内統治の根本法令であったと思われます。

菰野藩は貧乏しても借金しても、領民を苦しめなかったのが大きな特徴としてあり、年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新での廃藩まで一揆がなかったといいます。

江戸時代、幕府による検地は1間が6尺(約181・8㎝)の検地竿(間竿けんざおともいう)によって一反300歩で測量されるのが基本ですが、菰野藩では領民たちが強く反対したため、反発が強い村落はでは一反360歩で検地を実施し、あとは免率で調節したそうです。

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さらに、民政面では目安箱を設けて優秀な意見を採用したり、教育面では学問を奨励して後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院を設立するなど、人材の育成にも努めます。

こうした成果もあって、義苗は菰野藩中興の名君と云われ、以降の藩主もこうした施政を引き継いだため、菰野藩では江戸時代を通じて一度も一揆が起きたことがないと云います。

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さて、「村八分」とは、村落共同体(村社会)の秩序を維持するために行われた制裁行為のことです。

村落共同体(村社会)では、みんな共同で助け合うべき行為が10個ありました―

①出産、②成人(元服)、③結婚、④葬式、⑤法事(祖先を祀る)、など冠婚葬祭にあたる行事、⑥病気、⑦火事、⑧水害、⑨旅立ち、⑩普請(新築・増改築)、などの手伝いや世話を示します。このうち、葬式の世話と火事の消火活動については、放置した場合に他の人間に迷惑のかかるので交流はするが、それ以外の8つについては、一切の交流を絶つ、というものです。

まさに、「村八分」は村民全体が申し合わせて一人の者に対して、集団で制裁を加える、といった集団行動主義好きな日本社会における代表的ないじめ行為なのです。

但し、この「村八分」という行為は少なくとも江戸時代の寛政年間頃より使われるようになった用語のようですが、江戸時代の村落共同体(村社会)において「村八分」がなされた最大の措置が入会地いりあいちの利用停止と云われています。

入会地とは、村民が村落共同体(村社会)で共同で利用する土地のことで、薪炭・用材・肥料用の落ち葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺く萱などを採取した原野・川原である草刈場の2種類に大別されます。

「村八分」の措置がなされ、入会地の使用が停止されると、落ち葉の入手に窮したり、入会地に属する水源の利用ができなくなるなど、村落共同体(村社会)における生活に困窮することとなるのです。

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この『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』は、菰野町図書館や三重県立図書館で閲覧可能。三重大学、名古屋外国語大学のほか、東京大学史料編纂所、早稲田大学、慶応大学への寄贈が決まり、それぞれの図書館でも読むことができるそうです。

京都にいる私にとっては、閲覧不可能な感じ‼

(トピックス)戦国武将・松永久秀の特徴捉えた肖像画が発見される!

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戦国時代、斎藤道三・宇喜多直家と並んで“戦国時代の梟雄”に数えられ、下剋上の風潮を代表する武将、松永久秀を描いたとみられる肖像画が見つかったそうです。

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見つかった肖像画は縦108・7㎝、横43・6㎝で、掛け軸に表装されてあり、薄い藍色の直垂ひたたれを着て烏帽子えぼしをかぶり、扇を持って腰刀を差した正装姿という構図は、戦国時代に描かれた武家肖像画の典型的な姿でした。

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腰刀の柄 ( つか )の部分には永禄4年(1561)2月3日に将軍・足利義輝あしかがよしてるから使用を許可され下賜された将軍家の御家紋である桐紋が入っています。

また、膝元には金糸を織り込んだ茶道具をしまう袋も描かれていて、茶人の武野紹鴎たけのじょうおうを師事していた久秀が所有していた茶入の「付藻茄子つくもなす(九十九髪茄子)」や茶釜の「平蜘蛛ひらぐも」など、名物茶器が収まっていたのでは、との推測ができます。

こうした武将の肖像画は、法要や祭祀のために制作される事が多く、本人を偲ぶ事ができるよう、実際の特徴をしっかりと捉えて描かれているのが一般的ですが、この肖像画は美化して描かれる事なく、唇が厚く、前歯が出た独特の顔立ちを描くなど、しっかりと特徴を捉えて写実的に描かれていました。

その事から、久秀の特徴を知っている、久秀に近い人がまだ存命中の時代に描かれた可能性が高いようです。

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それを裏付けるかのように、肖像画の上部には「天正五丁丑年冬十月十日薨 妙久寺殿祐雪大居士尊儀」と、久秀の命日と戒名が記されており、久秀を描いたものと断定し、顔の特徴などを知る子孫らが描かせたのでは、とみられています。

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さて、松永久秀のイメージとして描かれた画像(錦絵など)のほとんどが、江戸時代に備前岡山城主である池田氏に仕えた儒学者・湯浅常山ゆあさじょうざんによって著された逸話集『常山紀談じょうざんきだん』などで創作された「久秀の三悪」などを典拠としていて、

東照宮信長に御對面の時、松永彈正久秀側に在り。信長、此の老翁は世人の爲し難き事三つ成り者なり。將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗を流して赤面せり。

東照宮後長臣等を召して、御物語有りける時、此の事を仰せ出され、先年信長金崎を引き退きし時、所々に一揆起り危かりしに、朽木が淺井と一味を疑ひ進退極りしに、松永信長に告げて朽木が方へ參りて、味方に引き附け候べし。朽木同心せば人質を取りて打具し御迎に參るべし。若し又歸り參らずば、事成らずして朽木と刺違て死したりと知し召されよ、と言ひて、朽木が館に赴き事無く人質を出させ、夫より信長朽木谷にか〻りて引き返されしなり、と仰せられしとぞ。(『常山紀談』巻之四「信長公松永彈正を恥しめ給ひし事」より)

徳川家康(「東照宮」)が織田信長(「信長」)と対面した折り、信長の側にいた久秀(「松永彈正久秀」)を紹介します。

その際、信長が久秀は普通の人間では考えも及ばない仕業をやった奴―しかも3つも―なんだ(「世人の爲し難き事三つ成り者なり」)と、家康に紹介したわけです。

それは「將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる」事で、これらは「久秀の三悪」として酷評されるきっかけとなっていきます。

この「久秀の三悪」とは、江戸時代に至り儒教思想が広まった時代背景もあって、久秀が「悪人」のイメージで語られるようになったきっかけとなった歴史事象を表し、

  • 主家である三好家中かちゅうの実権を握るため、三好家の要人を殺害した、
  • 対立していた将軍・足利義輝を襲撃し殺害に至らしめた、
  • 東大寺の寺院伽藍がらん及び大仏殿を焼き打ちした、

などの悪行から、久秀を「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったイメージで見る風潮が生まれ、自然、小説を始めとした創作物においても、そうした人物像として描かれる事が定着するに至ったわけです。

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そうして生まれたイメージは久秀を「荒々しい極悪人風」に捉えられ描かれていったわけです。

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江戸時代も中頃になると、領主たちの家臣統制に対する倫理感を儒学に求めようとし、過去の故事から理想を追求する朱子学しゅしがくと、現実を見添えて物事を捉えようとする陽明学ようめいがくが普及します。

支配階層である武士層は立身出世という実益に叶った朱子学を重視し、結果として武士道という倫理観が生まれていきます。

そんな倫理観が浸透すると困った弊害が生じます。

江戸時代とは、単純にいえば差別階級が再生産された社会で、支配する者(=武士層)と支配される者(=それ以外の階層)が生まれ、さらに支配する者からも仕官する者と浪人する者が生じます。

『常山紀談』が著された時代は、身分の固定化が進んでいた一方で、家柄だけで仕官が決まる者と、才覚と能力で仕官への道をつかむ者が現れます。領国支配にとって代々譜代の者が政務を治めていたのに、時代が進むにつれ、才覚と能力で実務に秀でた者が立身出世する、といったように―

この時代で言えば、御側御用人おそばごようにん(=将軍の秘書)として五代将軍・綱吉つなよしに仕えた柳沢吉保やなぎさわよしやすや六代将軍・家宣いえのぶおよび七代将軍・家継いえつぐに仕えた元猿楽師の間部詮房まなべあきふさ、十代将軍・家治いえはるに仕えた田沼意次たぬまおきつぐなどは、その才覚と能力によって立身出世を果たした者たちでした。

柳沢吉保は御側御用人から老中格、大老格の地位に、間部詮房は家継が幼かった事もあって、将軍の意志決定代行者としての地位にありました。田沼意次に至っては、将軍の側近である御側御用人と共に政権運営を担う幕閣(幕府閣僚)の老中も兼任したために、やっかみを持った代々の譜代の者たちの嫉妬が一番集中したといえるでしょう。

実際、こうした御側御用人は家禄が低い下級幕臣が就任するケースが多いのですが、就任した者のうち、約2割が1万石以上の大名や若年寄、側用人、老中などの幕閣に昇進しているのです。

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家柄を重視する風潮のなか、氏素性うじすじょうの判らない、身分の低い者が才覚と能力で立身出世していく様が社会秩序を破壊している、として警鐘を鳴らし、久秀のようにその出自もはっきりしないのに異例の出世を遂げ、将軍からも家臣の身分なのに主君と同じ待遇を受けたのは、主君への敬意を軽視している、として儒学者から「社会秩序を壊す危険な存在」と認識されるようになったんですね。

その結果として、松永久秀は「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったレッテルが貼られてしまったわけですね。

今回の肖像画の発見は従来の松永久秀の粉飾されたイメージを払拭し、新たに再評価される一翼となれば良いと思われます。

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大阪府高槻市のしろあと歴史館において第48回トピック展示「戦国武将・松永久秀と高槻」が6月2日(火)から8月2日(日)まで開催されます。

松永久秀の出自伝承として、

  • 「摂津国島上しまかみ五百住よすみ(現、高槻市東五百住町)の土豪出身」(『陰徳太平記』)という記載がみられる事、

  • 同地域にに「松永屋敷跡」(『郡家村・東五百住村境見分絵図』『摂津志』)と呼ばれる久秀に関連する屋敷跡が存在する事、

などから同地域が久秀の出身地ではないか、との見解もあるようですね。

それに伴い、「戦国武将・松永久秀と高槻」と題して今回初公開となる久秀の肖像画ほかに、久秀を描いた錦絵や高槻における久秀伝承に関する古文書など、久秀にまつわる21点が紹介されています。


(トピックス)平安京の範囲が確定!「羅城」と「九条大路」を初確認 「延喜式」に合致

平安京で初めて出土した羅城の土壇跡。九条大路の側溝や路面も初めて見つかった

京都市埋蔵文化財研究所は、元京都市立洛陽工業高等学校の校舎(唐橋校舎)跡地(同市南区)で行われた平安京(城)跡の発掘調査で、平安京(城)の最南端に当たる九条大路と、平安京(城)と京郊外の境目を隔てていた築地塀ついじべい羅城らじょうの一部の遺構が確認されたと発表しました。

今回遺構が確認された場所は平安京(城)の玄関口であった羅城門跡から西へ約630mの場所にあり、平安京(城)の右京九条二坊四町にあたります。

発掘されたのは、東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面跡と、その南北の側溝跡、さらに南側の側溝の外側に砂利と土を締め固めた土壇跡、何れも平安京(城)が造営された9世紀から10世紀頃の遺構で、路面は九条大路、土壇は「羅城」を築いた基底部分とみられます。

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平安京右京九条二坊四・五町跡発掘調査現場

桓武天皇が延暦13年(794)に遷都した平安京(城)の規模は、根本法令である律令を補完するため10世紀頃にまとめられた法令集『延喜式』に造営当初の施工計画が記されており、それによると南北1753丈(1丈=3m、約5・3㎞)、東西1508丈(約4・5㎞)で、京域内の南北中心線上にメーンストリートとして朱雀大路が通り、その南端を東西に通る九条大路との接点に玄関口として「羅城門」が建っていました。

九条大路の遺構は路面跡などに残る土器などから9~10世紀のものとみられ、北側の側溝跡、路面跡、南側の側溝跡、側溝と築地塀の間の狭い平地「犬行いぬゆき」(犬走いぬばしり)跡がそれぞれ確認されました。

南北両側の側溝跡は幅が約1・2m、「犬行」(犬走)跡が約1・5mである事が確認され、北側の側溝跡から南側の側溝跡までの幅は約30メートルで、これが路面の幅とみられます。

『延喜式』には「南きわ大路十二丈。羅城外二丈垣基半三尺,犬行七尺。【溝廣一丈。】路廣十丈」(『延喜式』卷第42 左右京職 東西市司、京程)とあり、

 「溝廣」(溝の広さ)は「一丈」なので3m、
 「犬行」「七尺」なので2・1m、
 「垣基半」「羅城」を築いた基礎部分)は「三尺」で0・9m、
 「路廣」(路面の広さ)は「十丈」なので約30m、

合わせると、12丈=36mとなり、『延喜式』で定められた「大路十二丈」と一致することが確認されました。

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平安京の「羅城」推定図

一方で、「羅城」の基底部分にあたる土壇跡は南北方向に幅約3m、東西方向に約4m延び、高さが約15㎝で砂利や小石、土を交互に締め固めた跡が確認されました。

「羅城」とは、都城制を敷いていた古代中国の首都・洛陽や長安において外敵から守るため周囲に築かれた城壁を指し、中国では高い城壁を巡らせて囲っていました。

日本において、平城京(城)では南辺のほぼ全体にあった事が発掘調査などで確認済みですが、平安京(城)「羅城」については見つかっていませんでした。

通説では、京域内を荘厳に見せるためにその玄関口にあたる「羅城門」と周囲、すなわち国家鎮護の官寺・西寺まで設けられていた、としていて、『延喜式』にも「羅城」の規格は南限の九条大路にしか付記されていません。

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発掘を担った同研究所によると、平安京(城)の四辺の境界にあたる道路のうち北、東、西では遺構が確認されていたが今回の南側の発掘で、平安京(城)の南限が考古学的に確定し、『延喜式』に記載された平安京(城)の広さが考古学的に裏付けられたとしています。

また、今回の成果について、西山良平・京都大学名誉教授は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり丁寧に高い精度で造られていた事がはっきりとわかった。今後の平安京研究の基準となる大きな成果だ」と話されています。

(トピックス)「じめさあ」(持明様)にあやかれ 願いをこめて“お化粧直し”

化粧直しされる石像

◇亀寿

鹿児島市城山町、歴史と文化の道と呼ばれる歴史施設が点在する地域の鹿児島市立美術館の敷地内の一角に造られた築山の中、ちょうど西郷隆盛の銅像の真後ろにあたるところに、「じめさあ」(持明院様)と呼ばれる石像がひっそりと佇んでいます。

石像のモデルである「じめさあ」とは戦国期から江戸初期にかけて南九州に勢力をはった島津家第16代・島津義久の娘(三女)で、第18代当主・島津忠恒(島津義弘の三男、のち家久)の妻となった亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と云われていて、 彼女の法名持明彭摠菴主じみょうほううえんあんしゅ興国寺殿」から「持明院様」と呼ばれ、それが薩摩訛りで「じめさあ」と広まったようです。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は島津家の次期後継者と見込まれた島津久保(島津義弘の次男)と結婚し、結婚後は「かミさま」「御上おかみ様」「御つぼね」と尊称されます。

これは亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の地位が「中納言様(=家久)御廉中ごれんじゅう様にて、御本家御相続遊ばされ候」(『末川家文書』口上覚留)とあるように島津家の惣領として家督相続や財産相続などの権利を有していた「ご当主様」としての意味合いを持った尊称と思われ、叔父であり、舅でもある義弘からもこの尊称で呼ばれていたようです。

しかし、久保が朝鮮出兵後の文禄2年に朝鮮・巨済島コジェドで病死したため、久保の弟・忠恒と再婚します。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は最初の夫・久保とは仲睦まじかったのですが、次の夫・忠恒とは非常な不仲で次第に疎んじられていきます。

慶長16年(1611)に父・義久が死去するや、後ろ盾を失った亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は正室の座を追われて本城である鶴丸城(鹿児島城)から父・義久の隠居城だった舞鶴城(国分城、鹿児島県霧島市国分)に別居させられ、(これ以降は「国分様」「国分御上様」などと呼ばれるようになります)寛永7年(1630)10月5日、この城で生涯を終えます。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は、器量に優れなかったが、その心優しい人柄で人々に慕われていたとの伝承が残っていますが、史実的には島津家の歴代夫人の中でも別格の扱いであったらしく、島津家の女性としては珍しく肖像画が残っていたそうです。

◇「じめさあ」

さて、「じめさあ」の石像があるこの場所は明治25年(1892)から昭和12年(1937)までの間、鹿児島市役所があったそうです。

昭和4年(1929)、当時の樺山かばやま可也かなり市長の頃にこの石像が発見されるのですが、発見された一帯がかつ鶴丸城の一部だった事から、石像は亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫、すなわち「持明院様」と考えられ、「じめさあ」と称するようになり、 化粧直しの風習が始まったのはそれ以降のようですが、いつの頃から始まったのかは定かではないようです。

現在では亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の命日にあたる10月5日に鹿児島市役所の女性職員 市の広報課職員が化粧を施すのが恒例となっています。

◇「白地蔵」

実は、この石像ですが、元々は嘗て島津家の祈願所だった大乗院の境内にあったであろう「白地蔵」と呼ばれる石像ではないかと云います。

その所在は幕末・維新期の廃仏毀釈のあおりで大乗院が廃寺になって以降、行方不明となっていました。

また、この「白地蔵」には 願い事を叶えるために白粉が塗られていた風習があったようですね。

江戸後期、講釈師である伊東凌舎りょうしゃという人物が鹿児島を旅した際に書いた『鹿児島ぶり』という紀行文の中で、凌舎が大乗院を訪れて時に「白地蔵」を見学した様子を「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉おしろいをぬるなりと云う」と記しています。

さらに、凌舎はその「白地蔵」の絵も描いているのですが、その姿はまさに「じめさあ」の石像に酷似しており、その絵には「女子のよく参詣するなり」との説明も付しているそうです。

この「白地蔵」「じめさあ」、すなわち亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と関連付けられた理由として、亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫が大乗院に深く帰依していた事も関係しているではないか、と考えられています。

◇願い事を叶えてくれるパワースポット

鹿児島市吉野町に在る鶴嶺つるがね神社では、御祭神の1人として亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫が祀られています。

昔、島津家の祈願所であった大乗院にあった「白地蔵」は、何時いつしか「じめさあ」の名で親しまれるようになり、鶴嶺つるがね神社にお参りし、神社で分けてもらった紅でお化粧を施せば美しい女性になれる、という信仰が知られるようになり、最近では「じめさあ」の石像と共に亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫を祀った鶴嶺つるがね神社と共に、理想の女性像に近づきたいという思いを持つ女性が多く参拝に訪れているそうですよ。

(トピックス)奈良の都にペルシア人の役人がいた!:「破斯」木簡に記載

平城宮跡で出土した木簡、ペルシア人を示す文字が確認された
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◇国際的知識で登用か


奈良市佐紀町の平城宮跡で出土した8世紀中頃の木簡に、古代ペルシアを意味する破斯はし(Bōsī)」という名字を持つ役人の名前が書かれていた事が奈良文化財研究所の調査で判りました。


同研究所によると、木簡は昭和41年(1966)8月に、平城宮跡・東南隅の築地塀の「雨落ち溝」で出土されたもので、長さ268㎜、幅32㎜。発掘当時は文字が薄く肉眼では一部が判読できずにいたが、今年8月に赤外線撮影をしたところ、文字を判読できたようです。


記載された内容は「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」となっており、「天平神護元年(765)」当時の人事を扱う式部省の管轄下にあった役人養成機関である「大学寮」での宿直勤務に関する記録と判明しました。


大属だいさかんとは役職名を示し、「かみ/すけ/じょう/さかん」のうちの四等事務官に当たります。


「員外」は定員の枠外で任じられ事を示すので、恐らくは特別枠で任命されたのだと考えられますね。


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注目すべきは、破斯はしの清道きよみちと記載された人名です。


破斯はしという名字は、イランの旧称で6世紀頃から唐代まで繁栄したササン朝ペルシアが勃興した、現在のイラン高原南西部に位置したパールサ(Pârsâ)地方(現在のファールス地方:Fārs)から転じたペルシア(Persia)を意味する波斯はしと同音である事から、木簡に記された人物はペルシア人ではないかと判断したようです。


◇平城京 多様な民族往来


国内での出土品でペルシア人を示す木簡が見つかるのは初見であるため、外国人が来日した平城京の国際性を示す史料となりそうです。


『続日本紀』には天平8年(736)8月に第10次遣唐使の副使であった中臣なかとみの名代なしろが帰朝した際、日本に連れ帰ってきた「唐人三人、波斯一人」を率いて、聖武天皇に拝謁したとの記載(『続日本紀』天平8年8月23日条)(史料1)や、同年11月に法華寺での法要で唐楽を演奏した唐人・皇甫こうほ東朝とうちょうらと共に、波斯はし密翳みつえいに位階を授けたとの記載(『続日本紀』天平8年11月3日条)(史料2)がみえます。(但し、密翳は以後の動向は不明)


史料1
八月庚午。入唐副使従五位上中臣朝臣名代等。率唐人三人、波斯人一人拝朝。(『続日本紀』天平8年8月庚午条)

史料2
十一月戊寅。天皇臨朝。詔、授入唐副使従五位上中臣朝臣名代従四位下。故判官正六位上田口朝臣養年富。紀朝臣馬主並贈従五位下。准判官従七位下大伴宿禰首名。唐人皇甫東朝。波斯人李密翳等、授位有差。(『続日本紀』天平8年11月戊寅条)

第12次遣唐使の副使の大伴おおともの古麻呂こまろ「大唐天宝十二載」、日本では天平勝宝5年(753)正月、各国の使節団が唐の玄宗皇帝臨御の朝賀に出席した際、東西2列に並んだ東側の第1席は「新羅」(統一新羅)、第2席は「大食」(アッバース朝イスラム)。西側は第1席は「吐蕃」(チベット)、第2席が「日本」でした。(『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条)(史料3)

史料3
丙寅。副使大伴宿禰古麻呂、自唐国至。古麻呂奏曰。大唐天宝十二載。歳在癸巳正月朔癸卯。百官・諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日。以我、次西畔第二吐蕃下。以新羅使、次東畔第一大食国上。(天平勝宝6年正月丙寅条)

天平8年(736)の時点では波斯はしと呼称していたペルシアですが、天平勝宝5年(753)の段階では「大食」となっているのです。


実際、ササン朝ペルシア期の唐の文献史料では波斯はしという語が使われていた事から、波斯はしは「ササン朝ペルシア期のペルシア人」と解釈され、641年(舒明天皇13)にササン朝がイスラム勢力の侵攻によって滅亡し、ペルシア地域がイスラム勢力の支配下に治められて以降は「大食」〔タージ(Tāzī)、あるいはタヂーク(Tāzīk)〕と表記される事が多いのです。(『旧唐書』『新編東洋史辞典』)


この事から、イスラム勢力の侵攻によってペルシア地域を追われた人たちが東方へと移動して唐の長安まで亡命し、その中の数人が来日したのではないかとも考えられますね。


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調査した奈良文化財研究所は「正倉院にシルクロードを経てもたらされた西域の宝物が数多く残るように、当時の奈良の都が中国や朝鮮だけでなく、インドやヴェトナム、そしてペルシアなど西方の肌の色が違う様々な国の人々が分け隔てなく役人に登用する国際色豊かな都市だった事が分かる貴重な資料」としています


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この木簡は同研究所平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で開かれる秋期特別展「地下の正倉院展 式部省木簡の世界─役人の勤務評価と昇進─」(10月15日~11月27日)の会期中、第2期目の11月1日~13日の間展示公開される予定。