(トピックス)備中高松城「水攻め」本能寺の変当日の吉川元春の書状、毛利方の苦境つづる…毛利家の密約説」を否定

戦国時代、織田信長と毛利輝元の軍勢が争った備中高松城(岡山県岡山市北区高松)での戦いで、織田方の羽柴秀吉が毛利方の清水宗治が守備する備中高松城を水攻めによって包囲したことから、「高松城の水攻め」とも呼ばれています。


その際、救援に駆けつけていた毛利方の吉川元春が自らの家臣に備中高松城の厳しい戦況を知らせた書状の原本が今回確認されました。


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書状はいくさの最中である天正10年(1582)6月2日に元春から吉川家の重臣である今田経高つねたかに宛てて書かれたもので、のちに周防国岩国(現・山口県岩国市)を領する吉川家で家老職を務めた今田家の子孫から令和5年度(2023・4~2024・3)に岩国市立博物館・岩国徴古ちょうこ(山口県岩国市)に寄贈された「今田家文書資料」に含まれていました。


縦28㎝、横47㎝。手紙は陣中で書かれたとみられ、6月2日の日付と元春の花押が記されています。同館では、江戸時代に作られたこの書状の写しを所蔵していましたが、寄贈史料群の中に原本が発見されたのです。


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書状には備中高松城の近くに布陣していた元春が経高に戦況を伝えたもので、城から約2㎞の岩崎山(現・庚申こうしん山、岡山市北区新庄上)に5月21日に到着して以降、秀吉軍と対峙していること、秀吉軍が足守あしおり川の水を堰き止めたことで「川の水を流して下手をせき止めて、包囲して責め立てているので、こちらからの加勢も城内の士気を上げることにならず、毎日心配している」と毛利軍の苦戦ぶりを明かし、「この期に及んでは安否の一戦(勝算も定かでない決戦)に打って出るしかない」との切迫した戦況を伝えています。


織田信長が明智光秀にしいされた本能寺の変その日に書かれた書状であることから、秀吉が本能寺の変を知ったのは6月3日深夜から4日未明にかけてであり、信長の死を隠したまま毛利軍と和睦し、信長を討った明智光秀を倒すため、岡山から京都に全軍を向ける「中国大返し」をしたとされていますが、元春の書状からは、すでに毛利側が和睦もやむを得なしというギリギリの状況に追い詰められていたことがうかがえます。


「高松城の水攻め」の状況についてリアルタイムに書かれた史料は秀吉側のものしか知られておらず、敵対した毛利側のリアルタイムな戦況を裏付ける一次史料での確認は初めてだそうです。


また、本能寺の変を巡っては、和睦後に信長の死を知った毛利氏が秀吉の背後を突かなかったことから、本能寺の変以前から秀吉と毛利家との間には事前に密約があったとの説がありますが、元春が最終手段として「安否の一戦(決戦)」を考えていた危機的状況であると考えれば、到底、水面下で交渉が進んでいたとは考えにくく、密約説は否定さた、としています。


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書状は6日から岩国徴古館で展示されます。




(トピックッス)豊臣秀吉の生年「天文6年」説裏付けか:家臣が記した祈禱依頼に「関白様 酉之御年」

出自をめぐる謎の多い豊臣秀吉は、いつ生まれたのか──


「天文6年(1537)」説を裏付ける史料が、福井県文書館(福井市福井市下馬)で公開されています。史料の原本が公開されるのは全国初だそうです。


この史料は「伊藤秀盛願文写がんもんうつし──


伊藤秀盛は天正5年(1577)から秀吉の家臣として名前が確認されており、初期の秀吉政権を支えた「側近六人衆」として、大名領主・城主ではなく、城代や城番あるいは代官として活躍していた吏僚系の武将。


その秀盛が秀吉の命を受け、秀吉の代理で豊臣一族の武運長久や家門安全、息災延命などを当時、越前国大野郡石徹白いとしろ村に属していた白山中居ちゅうきょ神社(現、岐阜県郡上市白鳥町しろとりちょう石徹白に鎮座する神社)の神職である杉本坊に奉納・祈願した願文「伊藤秀盛願文写(白山御立願状之事)」の写しであり、白山中居神社に仕えた「石徹白社人しゃにんの桜井家に伝わる古文書(『桜井大隅家文書』)だそうです。


文中には「天正拾八年十二月吉日」という日付と秀吉を指す「関白様」について「関白様 とり之御年 御年五十四歳」と記載されており、正確性が必要とされる神仏の願文で秀吉の生年や年齢を誤って記すとは考えにくいため、天正18年(1590)時点で、秀吉が数え歳54歳であり、酉年の天文6年(1537)生まれであることがみてとれるのだそうです。


秀吉の生年には天文5年(1536)説(『公卿補任』、『太閤素生記』、『明良洪範』)と同6年説(『当代記』、『任官之記』、『豊国大明神臨時御祭礼記録』、『豊鑑』)があります。


此度の史料が「天文6年説」を裏付ける有力な根拠となるならば、『任官之記(関白任官記)』に記載された「誕生の年月を算ふれば、丁酉2月6日吉辰(吉日)なり」という記述は信憑性の高いものと思われますね。


テーマ展「白山につかえた人びと ──石徹白社人と桜井家──」は無料、月曜休館。5月27日まで、同館閲覧室で展示中です。


(トピックス)石垣増強命じる浅井久政氏の書状:約100年ぶりに再発見された工事の記録

約100年ぶりに再発見された浅井久政が家臣に宛てた書状。1行目の一番下の文字が「石」で、長らく「衆」だと思われていた

長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町)と長浜市曳山博物館(滋賀県長浜市元浜町)が合同で調査を行ったところ、江北(北近江)を支配した戦国大名・浅井あざいの第2代当主・久政ひさまさが家臣に宛てた書状が約100年ぶりに再発見されたと発表されました。


小谷おだに山城は、近江国東浅井ひがしあざい郡湖北町伊部いべ(現、滋賀県長浜市湖北町伊部)に築かれた浅井家3代(亮政すけまさ・久政・長政)にわたる居城です。


浅井氏は、小谷山(伊部山)西麓の丁野ようの(近江国浅井郡丁野郷=現、長浜市小谷丁野町)を本拠とした国人こくじん領主で、近江国守護・京極氏の被官(「根本当方被官」『江北記』)でした。


大永5年(1525)5月、京極氏の家督争い(京極騒乱)に端を発した内部抗争に乗じた亮政が国人一揆の盟主として勢力を伸ばそうとした際に南近江・半国守護の六角定頼が江北(北近江)に侵攻します。


その際には小谷山(伊部山)の最高峰に位置する大嶽おおづく城(のち大嶽丸)に築かれていたようです。


小谷山城の築城年代は『 浅井三代記』によると、


小谷山に普請可然と相談一圖に決定して九月二十八日より領分の人數を出し小谷山に普請を初められけり…(中略)…十日計の間にはや惣構堀土手出來すれは…(中略)…十月二十日迄に大形城のかたち出來候(『浅井三代記』4、亮政淺井郡小谷山に城を取建上坂の城今濱の城破却の事)

と、永正13年(1516)9月28日に着工、10月20日に完成したとの記載が見られますが、『 浅井三代記』の記述には疑問点も多く、前述の六角定頼による江北(北近江)侵攻の際、亮政が大嶽城に籠城していた点から、大永3年(1523)~大永5年(1525)の期間には築かれていたと思われます。


同(大永)五年、定頼公浅井城大津(具)発向、九月浅井亮政没落、(『長享年後畿内兵乱記』)

による記述から、亮政によって構築された初期の小谷山城であることが知られています。


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明日備前守衆引付て、我等人數悉申付候間、今夕至于大谷、御自身人數悉被召連、可御越候。明曉寅刻、長政可罷出之由候間、聊不御油斷候。恐々謹言。
 五月七日
          下野守
            久政(花押)
(『東浅井郡志』巻4、金光寺文書、〔元亀四年〕浅井久政催促状)

この書状は、浅井家などについて触れた古文書の1通として、昭和2年(1927)に刊行された、滋賀県東浅井郡(現、長浜市の一部)の歴史や地理を記録・編纂した『東浅井郡志』に「金光寺きんこうじ文書」の所蔵として掲載されていましたが、その後所在が不明となっていたところ、令和7年(2025)9月、調査依頼を受けた長浜市内の商家の所蔵品から再発見されたのです。実に、約100年ぶりの発見となりました。


今回、再発見された久政から家臣に宛てて送られたとされる書状には、織田信長の襲来に備えて、小谷山城を囲む石垣の増強工事について、「石引き」(石垣用の石を運ぶ作業)を行う際、家臣たちに協力を命じた内容が含まれており、当時の緊迫した状況を裏付ける貴重な史料として注目を集めています。


書状は、縦13・1㎝、横36・5㎝。冒頭には「明日備前守石引付て」という文言、「五月七日」という日付と久政花押かおうがありました。


書状の作成時期については不明ですが、久政から家督を相続した後に長政が名乗った「備前守」や、差出人である久政が永禄3年(1560)10月頃、長政に当主を譲った後に名乗っていた「下野守久政」の記載があることから永禄4年(1561)から小谷城落城に伴って自刃した天正元年(1573)の間に出されたものと推定されます。


また今回の再発見で『東浅井郡志』では「衆引」と読まれていた書状の1行目最下段の文字が「石引」と判明し、再発見後の調査で石垣に関する書状だったことが判明したそうです。


小谷山城の増築に関する古文書はこれまで確認されておらず、城が徐々に増強されていく過程を実証できる史料とみなしています。


長政が元亀元年(1570)4月に織田信長から離反して以降、信長の小谷山城攻めに備えた可能性、あるいは信長が同年6月に小谷山城を一時包囲したが堅固で退却した際に再びの織田信長軍の来襲に備えて居城の石垣を増強した可能性、姉川の戦い後に織田信長軍の来襲に備えて居城の石垣を増強した可能性、などが推測できるそうです。


戦国時代の石垣に関する文書はほとんど残されておらず、小谷山城が総石垣(ほぼ全域が石垣で覆われた構造)の城であった可能性が高いことが最近の研究でも判明されているので、小谷山城が「総石垣」であったことが裏付けられる大きな発見といいます。


この書状から小谷山城での石垣構築の様子が具体的に記載されているので、それが文献によっても裏付けられる極めて重要な発見といえそうですね。


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今回発見された書状は、4月24日(金)から5月11日(月)まで小谷城戦国歴史資料館(小谷郡上町)で催されるテーマ展「浅井長政と小谷城」の中で一般公開される予定です。詳細は長浜城歴史博物館まで。





(トピックス)九鬼家が拠点とした「綾部陣屋」を冊子にて紹介:綾部市観光協会

江戸時代の幕藩体制期に綾部藩を治めた九鬼くき家が拠点とした「綾部陣屋」を紹介した冊子を綾部市観光協会(京都府綾部市)が2千部ほど作成されました。


令和7年(2025)10月に初めて開催された「九鬼氏ゆかりのまちサミット in 綾部」を契機に企画されただそうです。


このサミットでは、綾部藩九鬼氏の末裔で現在は熊野本宮大社くまのほんぐうたいしゃ(現、和歌山県田辺市本宮町本宮)の宮司を務める九鬼家隆さんのほか、九鬼氏ゆかりのまちである鳥羽市(現、三重県鳥羽市)や三田さんだ市(現、兵庫県三田市)の関係者などが招かれ、九鬼家菩提寺の隆興寺(綾部市神宮寺町)や正暦寺(同市寺町)など市内の九鬼氏ゆかりの地を巡ったそうです。


綾部藩九鬼氏の歴史資源を活用し、ゆかりのまち相互の交流等を進めることにより、綾部市の魅力を発信する事と観光振興などにつなげることが目的だったようです。


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綾部藩は丹波国何鹿いかるが郡のうち8か村・天田あまた郡のうち19か村、両郡27か村を幕府より拝領して立藩した藩で、藩庁には陣屋(綾部陣屋)が置かれました。


藩を治めたのが、志摩国答志とうし郡鳥羽城(現、三重県鳥羽市鳥羽)から綾部藩に転封し、幕末まで治めた九鬼家──


大名家としての九鬼家は嘉隆よしたか守隆もりたかと続いたが、守隆の三男・隆季たかすえを支持する一派と五男・久隆ひさたかを支持する一派との間に御家騒動おいえそうどう(九鬼騒動)が起こり、徳川幕府の裁定によって鳥羽を追われ、隆季は丹波綾部に、久隆は摂津三田にに転封されます。この結果、綾部・鳥羽・三田の3市は、九鬼を介しての貴重なつながりができる訳ですね。


なかでも、綾部藩は寛永10年(1633)3月5日に立藩。翌11年(1634)11月4日に綾部に入部した初代綾部藩主・隆季が綾部庄下市場しもいちば・堀の内付近(現、綾部市川糸町堀ノ内)に居館(前期綾部陣屋)を構えますが、その後、大火災に遭って焼失したため、慶安4年(1651)、南方の本宮山の西麓にあたる上野(現、同市上野町)の台地に新たな陣屋(後期綾部陣屋)を築き、その後、版籍奉還や廃藩置県を経て綾部藩が消滅するまでこの地を城地としたのです。


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冊子「綾部陣屋」はオールカラーのA4判で4ページ。戦国武将の織田信長や豊臣秀吉に仕えた九鬼家の歴史や陣屋の変遷、九鬼家ゆかりの地などが紹介されています。


綾部市役所やあやべ観光案内所(綾部駅南口を出てすぐ)などのほか、九鬼家とゆかりが深い三重県鳥羽市と兵庫県三田市でも無料配布されています。


(トピックス)秀吉の死後に豊臣政権支えた五大老の連署状、原本を発見:北庄城主を特定

豊臣秀吉の遺言で豊臣政権を支えた前田利家や徳川家康ら五大老が、越前国足羽あすわ北庄きたのしょう(現、福井県福井市)城主を任命した連署状が新たに見つかったそうです。


連署状の内容はこれまでも知られていましたが、原本の発見により「いつ」「誰が」任命された書状なのかが判明し、豊臣時代の北庄城主の研究で重要な基礎資料になるとの事。


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連署状は縦22・6㎝、横56・8㎝で、福井県外の古書店で見つかり、福井県立歴史博物館(福井県福井市大宮二丁目)が購入されたそうです。


秀吉の死後、秀吉の遺言に従い、豊臣政権を支えた五大老の毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康の直筆じきひつ花押かおうとともに記載されています。


連署状の存在は、毛利家文書に残る写しで判明していましたが、宛先は「羽柴北庄侍従じじゅう殿」とだけ記され、年号も書かれていませんでした。


北庄城は、天正3年(1575)に柴田勝家が築城した「柴田氏北庄城」と、慶長6年(1601)に結城秀康が現在の県庁がある場所に再築した「結城氏北庄城(のち福井城)」(ともに福井市大手三丁目)とがありますが、この間に、城主が目まぐるしく交代していたため、この連署状が誰に宛てたものかは、写しではわかりませんでした。


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今度越前北庄
城付弐拾万石之事
太閤様以被仰置旨
被宛行事畢如帳面全
可有御知行之状如件
慶長四
 二月五日  輝元(花押)
       景勝(花押)
       秀家(花押)
       利家(花押)
       家康(花押)
 羽柴北庄侍従殿
(『毛利家文書』3-1118号)

だが、今回新たに見つかった見つかった連署状の原本には「(慶長四年)二月五日」という日付の記載があり、当時越前北庄城主に任命されたのが、秀吉の従兄弟で直臣(じきしん)だった青木重吉に宛てられた連署状と特定できたそうです。


秀吉が死去したのは慶長3年(1598)8月18日。利家もその約8か月後の同4年(1599)閏3月3日に利家も亡くなっているので、この書状が青木重吉に送られたのは利家が亡くなるわずか2か月前になります。


利家を含めた五大老の連署で所領を給付する文書の原本が確認されたのは、3例目だそうです。


同館によると「越前における北庄が豊臣政権にとって日本海流通の重要拠点ととらえられていたことを示す貴重な資料」と話されています。


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この「豊臣家五大老連署状」は5月からのミニ企画展で公開されるそうです。


ミニ企画展は、「秀吉と越前の武将たち~新収蔵古文書を中心に~」と題して、初公開となる青木重吉宛て「豊臣家五大老連署状」をはじめ、福井県立歴史博物館が近年収集した古文書を中心に、柴田勝家、丹羽長秀・長重、堀秀政・秀治、青木重吉など、秀吉時代の越前の武将たちを紹介するそうですよ。


開催期間は、5月15日(金)~7月7日(火)
開催場所は、福井県立歴史博物館 2階特別展示室