(トピックス)三浦義明坐像 180年ぶり修復終え帰還 三浦一族ゆかりの満昌寺

三浦大介みうらのおおすけ義明は、平安後期にかけて相模国御浦(三浦)郡御浦(三浦)郷(現、神奈川県横須賀市)に成立した三浦庄の在庁官人です。


三浦氏は桓武天皇の皇孫、高望王たかもちのおうが寛平元年(889)宇多天皇の勅命により朝廷から平朝臣たいらのあそん姓を下賜され臣籍降下し(『日本紀略』)、寛平2年(890)には上総介かずさのすけに任じられます。(『平家勘文録』)


賜平朝臣姓者五人(『日本紀略』寛平元年5月13日条)

昌泰元年(898)に父の平高望が坂東に下向し、自ら開拓した荘園(自墾地系)を子どもたちに分配します。


その子である良文は、延喜11年(911)頃に坂東に下向した(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』)とされ、「村岡」と呼ばれた地(※)を分与されてその地を本拠として村岡五郎を称したといいます。


※「村岡」と呼ばれた地
→村岡の地については、
  • 下総国結城郡村岡郷(村岡荘)(現、茨城県下妻市)、
  • 武蔵国大里郡熊谷郷村岡(現、埼玉県熊谷市村岡)、
  • 相模国高座郡(鎌倉郡)村岡郷(現、神奈川県藤沢市村岡東)、
などの候補が挙げられます。良文が「村岡五郎」と称していたのと同様に、良文の子・忠頼も「村岡次郎」と名乗っています(『尊卑分脈そんぴぶんみゃく』)。また、忠頼は寛和2年(986)7月以前に「陸奥介平忠頼、忠光等、移住武蔵国、引率伴類、」(『続左丞抄』寛和3年正月24日条)とみられるように「移住武蔵国」した、ことが分かります。また、当時の鎮守府将軍は、平時においては相模国に在住することが慣例だったようです。

延長元年(923)、良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて反旗した逆賊を討伐するために相模国鎌倉郡村岡郷渡内村に赴き、そこを拠点に相模国の盗賊・野盗を滅ぼしたと伝わっています。


天慶2年(939)、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し、翌3年(940)、坂東に帰国します。


その後、在地勢力との関係を深め、下総・上総・武蔵・相模国などの未墾地を開発し、坂東におかる桓武平氏の基盤を固めといいます。


平安末期に成立したとされる『二中歴にちゅうれき』には「武者」の項に「村岡五郎吉文」の名がみられます。


○武者…(中略)…説云…(中略)…村岡五郎吉文(『二中歴』武者の項)

良文には5人の子がおり(『二中歴』)、そこから派生した「坂東八平氏」(※)(上総氏・千葉氏・三浦氏・土肥どい氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏)の祖といわれます。


※「坂東八平氏」
→平安後期、相模・武蔵・上総・下総など坂東(関東)一帯に勢力をふるった桓武平氏系の武士団の総称。
  • 上総氏⇒上総国、
  • 千葉氏⇒下総国千葉郡千葉庄、
  • 三浦氏⇒相模国御浦(三浦)郡、
  • 土肥氏⇒相模国足下郡(足柄あしがら下郡)土肥郷、
  • 秩父氏⇒武蔵国秩父郡吉田郷、
  • 大庭氏⇒相模国高座たかくら郡、
  • 梶原氏⇒相模国鎌倉郡梶原郷、
  • 長尾氏⇒相模国鎌倉郡長尾郷、

良文の孫にあたる村岡平太夫為通は源頼義に従った前九年の役に出陣して武功を挙げ、康平6年(1063)頼義から相模国三浦郡の領地を与えられ、三浦半島の中心部に衣笠城(横須賀市衣笠町)を築き、地名から「三浦」の名字(苗字)を名乗るようになります。


ただし、のちに源頼朝によって建立された臨済宗建長寺派の義明山満昌寺(横須賀市大矢部)には三浦氏の祖を平高望の子・良兼とする系図(『満昌寺差上系図』)が存在するそうです。

為通の子である為継も源義家に従って後三年の役で功を立て、三浦氏発展の礎を築いていきます。


のちの子孫たちは、この為継を"三浦氏の初代"とみなしていたようです。(『吾妻鏡』)


建暦三年五月小二日壬寅。陰。…(中略)…曩祖三浦平太郎爲継。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩祿也。(『吾妻鏡』建保元年5月2日条)

為継の息・義継の代には、三浦庄司みうらのしょうじ(荘司)また三浦介みうらのすけを称します。


以降、三浦党は相模国の有力在庁官人として相模介さがみのすけとなり、衣笠城を根拠地として三浦半島一帯と房総半島沿岸部から江戸湾、相模灘に至る地域を一円支配して勢力を振るうのです。


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さて、義明は義継の嫡男として生まれます。義明は父同様、三浦介と号し、三浦荘の在庁官人を務めます。


源義朝の麾下きかとして保元の乱や平治の乱に従いますが、平治の乱で義朝が敗れたため、三浦党は京都から落ち延び、自領で雌伏していましたが、大番役の行き帰りに伊豆の配所にいた源頼朝を訪ねるなど、源氏との繋がりを保っていました。


義明は三浦党の棟梁として、自身の兄弟や息子たちを三浦半島を中心とした周辺部に配し、その地を開拓し、その地の地名を名字(苗字)として地盤を固めます。


治承4年(1180)、頼朝の挙兵にいち早く呼応し、嫡流の矢部次郎義澄が率いた三浦党も頼朝の加勢に向かおうとしますが、悪天候のため河川の氾濫などで手間取っているうちに、石橋山の戦いで頼朝が敗戦し安房に脱出したという知らせを聞き、義明は義澄ら三浦党を海を渡らせて頼朝のもとに合流させ、自身は衣笠城にて籠城します。


治承四年八月小廿日庚子。三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。于今遲參。是或隔海路兮凌風波。或僻遠路兮泥艱難之故也。(『吾妻鏡』治承4年8月20日条)

治承四年八月小廿二日壬寅。三浦次郎義澄。同十郎義連。大多和三郎義久。子息義成。和田太郎義盛。同次郎義茂。同三郎義實。多々良三郎重春。同四郎明宗。筑井次郎義行以下。相率數輩精兵。出三浦參向云々。(『吾妻鏡』治承4年8月22日条)

治承四年八月小廿四日甲辰。…(中略)…三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待曉天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。…(中略)…義澄以下又歸三浦。(『吾妻鏡』治承4年8月24日条)

治承四年八月小廿六日丙午。…(中略)…今日卯尅。此事風聞于三浦之間。一族悉以引篭于當所衣笠城。…(中略)…及辰尅。河越太郎重頼。中山次郎重實。江戸太郎重長。金子。村山輩已下數千騎攻來。義澄等雖相戰。昨〔由比戰〕今兩日合戰。力疲矢盡。臨半更捨城逃去。欲相具義明。々々云。吾爲源家累代家人。幸逢于其貴種再興之秋也。盍喜之哉。所保已八旬有余也。計餘算不幾。今投老命於武衛。欲募子孫之勳功。汝等急退去兮。可奉尋彼存亡。吾獨殘留于城郭。摸多軍之勢。令見重頼云々。義澄以下涕泣雖失度。任命憖以離散訖。(『吾妻鏡』治承4年8月26日条)

しかし、衣笠城に籠った義明は平家方の畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父党に攻められ、討ち死にします。


治承四年八月小廿七日丁未。朝間小雨。申尅已後。風雨殊甚。辰尅。三浦介義明〔年八十九〕爲河越太郎重頼。江戸太郎重長等被討取。齢八旬餘。依無人于扶持也。義澄等者。赴安房國。…(中略)…又指房州解纜。而於海上並舟船。相逢于三浦之輩。互述心事伊欝云々。(『吾妻鏡』治承4年8月27日条)

義明が頼朝の挙兵にいち早く呼応したのは、義朝の長子の悪源太あくげんた義平の母が義明の娘であったこと、平治の乱で源氏勢力の影響が薄れていたことなども関係し、相模国の平野部に勢力を張り大庭御厨みくりやを治める大庭景親への対抗心があったといわれます。源氏方に味方することで得た相模介という立場が有名無実な状態だったので、源氏の再興は三浦氏=義明にとっての宿願でもあったと考えられます。

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建久五年九月大廿九日丙辰。三浦矢部郷内。可建立一堂之由思食立。爲被訪故介義明没後也。今日仰仲業。巡檢其地云々。(『吾妻鏡』建久5年9月29日条)

こうした義明の覚悟に対して、頼朝が義明を永代供養するため、衣笠城跡の東側に建久5年(1194)に建立したのが満昌寺で、義明の坐像で国指定重要文化財「木造三浦義明坐像」は寺の守護神として作られ、義明をかたどった等身大の武人俗体彫刻で鎌倉時代後期の制作と考えられ、高さ81・4cm、重さは約70kg。玉眼入り寄木造よせぎづくり(複数の木材を組み合わせて1つの仏像を構成する日本伝統の木彫技法)で、頭頂には冠をのせ、鋭い眼差しで気迫のこもった表情、しゃくを持ち、腰には太刀を携えている、などの写実的な彫技は老将のありし日の威厳と風格を伝えているようです。同寺本堂裏にある、義明をはじめ良文から5代の三浦氏の菩提を弔ったとされる満昌寺の総鎮守である御霊明神社の宝物殿に祀られており、平成5年(1993)には国指定重要文化財に指定されました。


ちなみに、同寺は創建以来、4度の大火などに見舞われますが、坐像は無傷だったそうです。


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三浦一族の中興の祖として知られる三浦大介義明。その姿を今に伝える国指定重要文化財「木造三浦義明坐像」が約10か月かけた修復作業を終え、所蔵している満昌寺に帰還しました。


700年超保存されてきた坐像ですが、近年は腐食などによる経年劣化が進んでいて、修復のために文化庁管轄のもと、古文化財の保存修理を専門とする公益財団法人美術院(京都市下京区)が所有する国宝修理所に頭部や胴体などが解体・搬出され、作業が進められていました。


約180年ぶりとなった今回の修復では、さびが進んでいた接合用の釘を鉄から銅へ変更。底面の継ぎ目の隙間には尾州檜を差し入れて補強を施した。また、台座はほぼ全て解体し、埋木や真鍮釘による接合で強度を高めるなどの長期の保存に適した修復作業を施したといいます。


同寺の宝物殿に安置された姿に、三浦一族の血筋を引き継ぐ30人ほどで構成される三浦一族会の会員も数人も立ち会い、安堵と感嘆の声が漏れたそうです。



(トピックス)伊達政宗がスペイン国王やローマ教皇に宛てた書状の「案文」 仙台市博物館が一般公開中!

陸奥仙台藩主・伊達政宗がイスパニア(現在のスペイン)国王フェリペ(Felipe)3世やローマ教皇パウロ(Paulus)5世、ヌエバ・エスパーニャ(Virreinato de Nueva España)副王(現在のメキシコ)ディエゴ・フェルナンデス・デ・コルドバ(Diego Fernández de Córdoba)らに宛てた案文あんもん(控え文書)(※)10通などが仙台市博物館(宮城県仙台市青葉区川内)が一般公開中です。


※案文(控え文書)
→元々律令制の下では、実際に命令として出された文を「文」、役所に留めておいたものを「案」と称し、両者は区別されていましたが、中世になると案文(草案)と正文(清書)とに区別されるようになり、正文は相手側にに渡し、案文は自らの手元に置くようになります。

およそ400年前、政宗が仙台領内でのキリスト教の布教を認めることと引き換えにイスパニア領の植民地との貿易を求めて、イスパニア国王やローマ教皇のもとに派遣した外交使節で、支倉常長はせくらつねなががイスパニア国王と交渉するも、結果的には正式な外交、貿易協定は結べす、「派遣は失敗だった」というのが、通説とされています。


この通説の裏で、当時、政宗が思い描いた、外交をめぐる「壮大な計画」を明らかにする書簡が仙台伊達家の重臣として、伊達家の家臣の二十四人衆にも数えられ、その時期に渉外奉行を担っていた石母田いしもだ宗頼むねよりの子孫の方から仙台市に寄贈されたました。


仙台市に寄贈されたのは「慶長十八年元和二年 南蛮へ之御案文」という政宗の外交戦略を明らかにする重要な資料で、政宗の名を受けて海外へ派遣した「慶長遣欧使節」に託した書簡。


支倉常長慶長遣欧使節が海外の要人に届けた政宗の文書の控えにあたるもので、当時の政宗の思いを知るうえで極めて重要な資料だそうです。


「慶長十八年元和二年 南蛮へ之御案文」

  1. イスパニア国王宛て政宗書状(慶長18年)
  2. イスパニア国王宛ておよびヌエバ・エスパーニャ副王宛て政宗協定書(慶長18年)
  3. ローマ教皇宛て政宗書状(慶長18年)
  4. ローマのフランシスコ会総会長宛て政宗書状(慶長18年)
  5. イスパニアのフランシスコ会インディアス宗務総長宛て政宗書状(慶長18年)
  6. ヌエバ・エスパーニャ副王宛て政宗書状(慶長18年)
  7. ヌエバ・エスパーニャのフランシスコ会宗務総長宛て政宗書状(慶長18年)、
  8. ヌエバ・エスパーニャのフランシスコ会サント・エバンヘリヨ(聖福音)修道会管区長宛て政宗書状(慶長18年)
  9. ヌエバ・エスパーニャ副王宛て政宗書状(元和2年)
  10. ヌエバ・エスパーニャのフランシスコ会宗務総長宛て政宗書状(元和2年)

冊子は縦25・8㎝、横19・4㎝。このうち8通は慶長18年(1613)9月15日に使節団が出発する直前にあたる9月4日付書状案など8通と、使節船「サン・ファン・バウティスタ(San Juan Bautista)号」が再び太平洋航海を目指す時期の元和2年(1616)7月24日付書状案の2通の案文が、日本語で綴られています。


使節派遣の意図を探る上で、現地で渡したとされる書状は1通しか残っておらず、この案文は現存しない日本語文のイスパニア国王宛て、およびヌエバ・エスパーニャ副王宛てなどの政宗書状や協定書の内容を確認できる現存唯一の資料であり、研究史上、政宗の当時の意図を探るうえで極めて重要な手掛かりになるようです。


近年、これらの案文の比較研究が進み、こうした政宗の外交戦略により、実際にヌエバ・エスパーニャとの貿易は実現しており、「派遣は失敗」ではなく、「一部は成功していた」とみなされています。


寄贈を記念して博物館常設展示室で常設展の一部として、パネルでの解説を交えた特別公開が2月15日までなされています。詳細は同館まで。


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※(参照)(トピックス)仙台市博物館で「支倉常長帰国400年」展 慶長遣欧使節団の足跡たどる


(トピックス)高島屋が新選組から商品代金の受領記録を初公開!高島屋史料館で企画展

高島屋は、天保2年(1831)正月10日、京都・烏丸高辻(京都市下京区烏丸通高辻さがル)に古着・木綿商「たかしまや」を開いてから今年で創業195年に及ぶ歩みを、創業史料や美術品、呉服、広告宣伝物など多彩な資料によってたどるシリーズ企画の第Ⅰ期目にあたる展覧会を開催中です。


創業から大正5年(1916)12月1日にそれまで東京府東京市京橋区西紺屋町(東京都中央区日本橋)にあった東京店(のち日本橋店)を京橋区南伝馬町(東京都中央区日本橋にほんばし)に新築移転する頃までが取り上げられています。


展示では、初代である飯田新七の肖像や創業家に伝わる古文書、商い初めからの取引を記録した帳簿などを公開するほか、新選組に関連する新発見資料も紹介されています。


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注目は、─


新選組の隊旗は「高島屋でこしらえた」―と故子母澤寛しもざわかん氏がその著書『新選組遺聞』で紹介したエピソードですね。


このときの帳簿による(「くわしき事ハあつらえ帳ニあり」、実際には「誂帳」は所在不明らしい…)と、高島屋からの商品代金約6両(「六両壱歩壱朱」)の請求に対し、新選組(「シンセくみ」)からは5両の支払い(「五両受取」)はあったが、残り分である1両11朱については未払い(「金壱両壱歩一朱不足」)な状況で、納めた品物の詳細も不明なようです。


高島屋史料館(大阪市浪速区日本橋にっぽんばし)企画展示室で、企画展「タカシマヤ クロニクル 百・華・繚・乱 第Ⅰ期:百の時代」が開催中。3月30日まで。入館料は無料。


(トピックス)信長側室「生駒の方」の生家や古文書など寄贈され 愛知・江南で生駒家の歴史をひもとく展示も!

戦国武将、織田信長の側室となり、信長との間に長男・信忠と次男・信雄、長女・五徳(徳川家康の長男・岡崎三郎信康の妻、見星院)を儲けたとされる「生駒の方」の生家で、愛知県江南市辺りを治めていた生駒家に伝わる所有する古文書1221点、掛け軸29点、位牌など57点を含む約1300点が江南市に寄贈されたそうです。


それを記念して「生駒家文書展」江南市歴史民俗資料館(江南市北野町)で催され、寄贈された約1300点のうち、古文書や位牌など25点が展示されています。26日まで


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古文書は、生駒家に与えた領地などを記した豊臣秀吉の朱印状など19点を展示。生駒家の系譜を記した『生駒家系譜』や菩提寺であった「久昌寺きゅうしょうじ」(江南市田代町)と生駒家の歴史をまとめあげ、信長が「生駒の方」の死を悲しみ、小牧城から西を眺めて涙を流したという伝承が伝わっている『久昌寺縁起』などが展示されています。


家宗──女子
一永禄九年寅五月十三日卒 號久菴桂昌大禅定尼葬小折久昌寺
(『生駒家系譜』)

信長公常哀慕妻女登小牧城楼遙望西方悲涙數行歎惜未已云、(『久昌寺縁起』)

生駒家は室町期の文明から明応年間(1469~1501)に大和国平群へぐり郡生駒郷谷口村(奈良県生駒市谷田村)から尾張国丹羽郡稲木庄いなきのしよう柳橋郷小折村(江南市小字小折)に移住して屋敷を構えていました。


生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘である「生駒の方」が弘治2年(1556)頃、小折城(生駒屋敷)にて信長と出会い、側室となったのが転機となります。


やがて、清州きよす城主である織田信雄、豊臣秀次、福島正則に仕え、関ヶ原の戦い後は清州に入った徳川家康の四男・松平忠吉、名古屋に入った家康の九男・徳川義利(のち義直)に仕え、以降、尾張名古屋藩で4000石を領します。


「生駒の方」が永禄9年(1566)に病没、荼毘だびに付された後、埋葬され、「生駒の方」の戒名となった「久庵桂昌大禅定尼」の法名を採った久昌寺は生駒家の菩提寺でもあったのですが、現在では老朽化が進んだために取り壊され、久昌寺公園として整備され、本堂の西側にあった「生駒の方」の墓や生駒家歴代当主の墓は「久昌寺墓地」(江南市田代町)としてそのまま残されており、これらは平成25年(2013)に「生駒家石造群」として江南市の文化財、指定史跡に指定されています。


上記の『久昌寺縁起』など数々の史料は、生駒家の現当主が設立した一般社団法人「生駒屋敷歴史文庫」で保存されています。


生駒家現当主によれば本尊や位牌などを収めるお堂を近くに建てる意向だそうです。


(トピックス)参勤交代中、大名が急死!そのとき本陣はどうした?草津宿本陣、最大の事件を紐解く資料展

「佐土原藩主急死事件」に関わる新資料が並ぶ特別展

江戸時代、幕府が定めた制度の中に「参勤交代」という制度がありました。

「参勤交代」とは、全国の諸大名や交代寄合などを交替で江戸に出仕させる制度です。

寛永12年(1635)3代将軍・徳川家光の時代に「武家諸法度」が改定(寛永令)され、その第2条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されたことにより徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的として「参勤交代」が明文化されます。

「参勤」とは自分の領地から江戸へ赴くこと、「交代」とは自分の領地に帰還することを指し、鎌倉幕府から続く慣習としては、武家の棟梁(=征夷大将軍)である徳川将軍に「御恩」として領知を宛行われた事に対して、「奉公」として将軍の許に出仕する、との意味合いがあります。

但し、「参勤」は実際に、「参」(まい)って「覲」(まみ)える(=目上の人に会う)」という意味で、正しくは「参覲交代」と表記すべきところ、誤って「参勤交代」と記載してしまったために、慣例化してしまったのだとか―

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東海道と中山道なかせんどうが分岐・合流している交通の要衝である近江栗太くりた郡草津町にある草津宿じゅく(現在の滋賀県草津市草津)には大名らが休泊する本陣が2軒ほどありました。その1つ、田中七左衛門本陣は現在も江戸後期の建物が現存しており、「史跡草津宿本陣」として国史跡に指定されています。

kusatsujukuhonjin_003.jpg約40室を有する草津宿本陣 草津宿本陣に保存されている数々の宿札

寛永12年(1635)6月、田中七左衛門が本陣役(本陣職)を拝命して以降、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として明治3年(1870)10月に本陣としての名目が制度廃止されるまで務めました。

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そんな田中七左衛門本陣で大変な騒動があったのです。

江戸時代後期の天保10年(1839)4月7日、江戸への参勤途中だった日向佐土原さどわら(現在の宮崎県宮崎市佐土原町)第10代藩主・島津しまづ忠徹ただゆきが到着したその日の夜にしゃく(何らかの内臓疾患)のため急死してしまったのです。

突然の忠徹の死に随行の家臣たちは慌てふためきます。

忠徹は享年43歳。世継ぎである忠寛ただひろ忠徹の次男)はまだ12歳と幼かったため、跡目相続自体申請しておらず、幕府に知れると事態は一転して佐土原島津家は御家断絶、佐土原藩は改易・お取り潰しの危機に直面したのです。

家臣たちは、忠徹の死を伏せたまますぐさま急飛脚を出し、江戸藩邸には「病気の為、草津にて逗留中」、国許には「殿様死亡」を知らせ、善後策を講じます。

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忠寛への跡目相続の許可を得るには急飛脚を使っても約50日は掛かります。

家臣たちはは本陣当主の田中七左衛門忠徹の遺体安置の協力を求め、忠徹の死を隠し、忠徹が存命しており、本陣で病気逗留中であるかのように装って時間を稼ぎます。

その間、田中七左衛門本陣も窮地に陥り、他の大名たちの宿泊予定を、別の本陣や脇本陣に振り替えたり、前後の宿場町に変更するよう要請したり、と交渉や工作に難渋したようです。

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また、跡目相続のための願書には現藩主であるに忠徹の判と花押が必須なのですが、「手が震えるので花押は省略する」との一文を添えるなど、家臣たちの苦心が窺えます。

家臣らの奔走もあって忠寛への跡目相続の書類が全て揃ったのが翌月の5月25日、忠徹の死は翌日の26日に公表され、田中七左衛門本陣の表門前に掛かる札が「島津飛騨守遺骸宿」に替えられたとあります。

関札(関所手形)が出て、忠徹の遺体が本陣を出発したのが6月25日。この日までの77日間、本陣は大切に安置されたのです。

さらに出発の際、忠徹に随行していた家老が心労で倒れてしまったため、代わりに田中七左衛門愛知川えちがわまで見送った、という記録も残っています。

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佐土原藩は改易・お取り潰しの危機を脱し、その感謝の礼として田中七左衛門に金300両や「丸に十文字」の家紋入りのかみしもを下賜するとともに、忠徹の遺体を安置した上段の間の改修をも行っています。

また、その後明治に至るまでの30年近く、毎年5月に米10俵を贈り続けたそうです。

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上記の島津忠徹の急死事件を扱った特別展「本陣職はつらいよ~佐土原藩主急死事件とその後~」「国指定史跡草津宿本陣」で催されています。

同展では七左衛門忠徹ひつぎの装飾などを京の職人に発注した文書や、藩主の最側近である「側御用人」が七左衛門に当てた感謝状など、平成30年(2018)6月から始まった草津宿本陣歴史資料調査でこの夏新たに発見された史料3点を含む計24点を展示。客を守るために協力した田中七左衛門本陣の姿勢も窺えます。

急死した藩主の家臣から本陣当主にとどいた礼状「田中七左衛門宛狩野勇書状」

新たに発見された史料は、本陣の調査で今年7月に見つかったもので、忠徹の参勤に付き従った家臣の狩野勇が七左衛門に宛てた礼状「田中七左衛門宛狩野勇書状」といい、「こまやかな心遣い誠にありがとうございました…(中略)…来春に帰国する際には1泊お願いの予定でおりますので、積もる話はその時まで残しておきます」などと感謝の気持ちが丁寧に綴られています。

天保十年大福帳

さらに特別展では、「四月七日御逝去」と実際には4月7日に亡くなった忠徹の死亡日時を「御病に付き御滞留遊ばされ候」と病気療養を装い続け、5月26日と記載した表向きの大福帳(宿泊簿)や、七左衛門が事態の一部始終を記録した留書とどめがき、宿泊予定日を当初の1泊2日から77日間へと書き直した宿割帳などが展示されます。

また、この事件を機に佐土原藩は定宿をこの田中七左衛門本陣に代えたそうです。七左衛門の役割や苦労などに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

開催期間は11月29日まで。詳細は史跡草津宿本陣まで。