三浦氏は桓武天皇の皇孫、
賜平朝臣姓者五人(『日本紀略』寛平元年5月13日条)
昌泰元年(898)に父の平高望が坂東に下向し、自ら開拓した荘園(自墾地系)を子どもたちに分配します。
その子である良文は、延喜11年(911)頃に坂東に下向した(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』)とされ、「村岡」と呼ばれた地(※)を分与されてその地を本拠として村岡五郎を称したといいます。
→村岡の地については、
- 下総国結城郡村岡郷(村岡荘)(現、茨城県下妻市)、
- 武蔵国大里郡熊谷郷村岡(現、埼玉県熊谷市村岡)、
- 相模国高座郡(鎌倉郡)村岡郷(現、神奈川県藤沢市村岡東)、
延長元年(923)、良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて反旗した逆賊を討伐するために相模国鎌倉郡村岡郷渡内村に赴き、そこを拠点に相模国の盗賊・野盗を滅ぼしたと伝わっています。
天慶2年(939)、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し、翌3年(940)、坂東に帰国します。
その後、在地勢力との関係を深め、下総・上総・武蔵・相模国などの未墾地を開発し、坂東におかる桓武平氏の基盤を固めといいます。
平安末期に成立したとされる『
○武者…(中略)…説云…(中略)…村岡五郎吉文(『二中歴』武者の項)
良文には5人の子がおり(『二中歴』)、そこから派生した「坂東八平氏」(※)(上総氏・千葉氏・三浦氏・
→平安後期、相模・武蔵・上総・下総など坂東(関東)一帯に勢力をふるった桓武平氏系の武士団の総称。
- 上総氏⇒上総国、
- 千葉氏⇒下総国千葉郡千葉庄、
- 三浦氏⇒相模国御浦(三浦)郡、
- 土肥氏⇒相模国足下郡(
足柄 下郡)土肥郷、 - 秩父氏⇒武蔵国秩父郡吉田郷、
- 大庭氏⇒相模国
高座 郡、 - 梶原氏⇒相模国鎌倉郡梶原郷、
- 長尾氏⇒相模国鎌倉郡長尾郷、
良文の孫にあたる村岡平太夫為通は源頼義に従った前九年の役に出陣して武功を挙げ、康平6年(1063)頼義から相模国三浦郡の領地を与えられ、三浦半島の中心部に衣笠城(横須賀市衣笠町)を築き、地名から「三浦」の名字(苗字)を名乗るようになります。
為通の子である為継も源義家に従って後三年の役で功を立て、三浦氏発展の礎を築いていきます。
のちの子孫たちは、この為継を"三浦氏の初代"とみなしていたようです。(『吾妻鏡』)
建暦三年五月小二日壬寅。陰。…(中略)…曩祖三浦平太郎爲継。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩祿也。(『吾妻鏡』建保元年5月2日条)
為継の息・義継の代には、
以降、三浦党は相模国の有力在庁官人として
さて、義明は義継の嫡男として生まれます。義明は父同様、三浦介と号し、三浦荘の在庁官人を務めます。
源義朝の
義明は三浦党の棟梁として、自身の兄弟や息子たちを三浦半島を中心とした周辺部に配し、その地を開拓し、その地の地名を名字(苗字)として地盤を固めます。
治承4年(1180)、頼朝の挙兵にいち早く呼応し、嫡流の矢部次郎義澄が率いた三浦党も頼朝の加勢に向かおうとしますが、悪天候のため河川の氾濫などで手間取っているうちに、石橋山の戦いで頼朝が敗戦し安房に脱出したという知らせを聞き、義明は義澄ら三浦党を海を渡らせて頼朝のもとに合流させ、自身は衣笠城にて籠城します。
治承四年八月小廿日庚子。三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。于今遲參。是或隔海路兮凌風波。或僻遠路兮泥艱難之故也。(『吾妻鏡』治承4年8月20日条)
治承四年八月小廿二日壬寅。三浦次郎義澄。同十郎義連。大多和三郎義久。子息義成。和田太郎義盛。同次郎義茂。同三郎義實。多々良三郎重春。同四郎明宗。筑井次郎義行以下。相率數輩精兵。出三浦參向云々。(『吾妻鏡』治承4年8月22日条)
治承四年八月小廿四日甲辰。…(中略)…三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待曉天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。…(中略)…義澄以下又歸三浦。(『吾妻鏡』治承4年8月24日条)
治承四年八月小廿六日丙午。…(中略)…今日卯尅。此事風聞于三浦之間。一族悉以引篭于當所衣笠城。…(中略)…及辰尅。河越太郎重頼。中山次郎重實。江戸太郎重長。金子。村山輩已下數千騎攻來。義澄等雖相戰。昨〔由比戰〕今兩日合戰。力疲矢盡。臨半更捨城逃去。欲相具義明。々々云。吾爲源家累代家人。幸逢于其貴種再興之秋也。盍喜之哉。所保已八旬有余也。計餘算不幾。今投老命於武衛。欲募子孫之勳功。汝等急退去兮。可奉尋彼存亡。吾獨殘留于城郭。摸多軍之勢。令見重頼云々。義澄以下涕泣雖失度。任命憖以離散訖。(『吾妻鏡』治承4年8月26日条)
しかし、衣笠城に籠った義明は平家方の畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父党に攻められ、討ち死にします。
治承四年八月小廿七日丁未。朝間小雨。申尅已後。風雨殊甚。辰尅。三浦介義明〔年八十九〕爲河越太郎重頼。江戸太郎重長等被討取。齢八旬餘。依無人于扶持也。義澄等者。赴安房國。…(中略)…又指房州解纜。而於海上並舟船。相逢于三浦之輩。互述心事伊欝云々。(『吾妻鏡』治承4年8月27日条)
建久五年九月大廿九日丙辰。三浦矢部郷内。可建立一堂之由思食立。爲被訪故介義明没後也。今日仰仲業。巡檢其地云々。(『吾妻鏡』建久5年9月29日条)
こうした義明の覚悟に対して、頼朝が義明を永代供養するため、衣笠城跡の東側に建久5年(1194)に建立したのが満昌寺で、義明の坐像で国指定重要文化財「木造三浦義明坐像」は寺の守護神として作られ、義明をかたどった等身大の武人俗体彫刻で鎌倉時代後期の制作と考えられ、高さ81・4cm、重さは約70kg。玉眼入り
ちなみに、同寺は創建以来、4度の大火などに見舞われますが、坐像は無傷だったそうです。
三浦一族の中興の祖として知られる三浦大介義明。その姿を今に伝える国指定重要文化財「木造三浦義明坐像」が約10か月かけた修復作業を終え、所蔵している満昌寺に帰還しました。
700年超保存されてきた坐像ですが、近年は腐食などによる経年劣化が進んでいて、修復のために文化庁管轄のもと、古文化財の保存修理を専門とする公益財団法人美術院(京都市下京区)が所有する国宝修理所に頭部や胴体などが解体・搬出され、作業が進められていました。
約180年ぶりとなった今回の修復では、
同寺の宝物殿に安置された姿に、三浦一族の血筋を引き継ぐ30人ほどで構成される三浦一族会の会員も数人も立ち会い、安堵と感嘆の声が漏れたそうです。





