江戸時代の慶長12年(1607)~文化8年(1811)までの間、計12回にわたって朝鮮から日本にやってきた外交使節・朝鮮通信使―
その朝鮮通信使が日本に初めて訪れてから今年で400年目という事で、通信使が足を進めて行程にあたる各地では様々なイベントが催されています。
朝鮮から国書を携えてやって来たその行列群は、日本の文化に様々な影響をもたらしています。
ところが、初期の朝鮮通信使は、単なる親善大使の役割だけではではなかったのです。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)では、朝鮮半島のほぼ全土を蹂躪し、約2~3万人の朝鮮半島の人々=位の高い者(王族、
そうした被虜たちを故国に連れ戻す(=
それ故、当初は「朝鮮
この番組では、そうした人々の足跡を辿っています。
なかでも、「小麦様」の存在に目を惹きました!
「小麦様」とは慶長3年(1598)、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)の際に、小麦畑に潜んで隠れていた所を松浦鎮信に捕らえられた女性で、松浦軍の帰国と共に連行されます。その素性は、朝鮮王族の姫とも云われています。
帰国の船中で鎮信の子・信正(松浦蔵人・西口松浦家の祖)を出産したとされ、鎮信の側室となります。
その後、平戸藩の重臣となった息子の信正の領地である
番組の中で、その「小麦様」の子孫だという女性が、そのルーツを巡る旅として平戸を訪れておられ、松浦家が遺した古文書の中の「法印(=鎮信)公妾小麦君」との記載を確認され、また「小麦様」の墓も参られました。
実は、このお墓も代々、墓守の子孫の方々が守られているとか―
そして、第1回目の朝鮮通信使(慶長12年=1607)の際の接待役を仰せ付かった息子の信正は通信使から母である「小麦様」の出身地を聞く事ができたそうです。
こうした文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)での女性の悲劇については、他にもジュリアおたあという女性のエピソードなどは知っていましたが、この「小麦様」のエピソードももっと深く知りたいと感じますね!
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