(トピックス)信長側室「生駒の方」の生家や古文書など寄贈され 愛知・江南で生駒家の歴史をひもとく展示も!

戦国武将、織田信長の側室となり、信長との間に長男・信忠と次男・信雄、長女・五徳(徳川家康の長男・岡崎三郎信康の妻、見星院)を儲けたとされる「生駒の方」の生家で、愛知県江南市辺りを治めていた生駒家に伝わる所有する古文書1221点、掛け軸29点、位牌など57点を含む約1300点が江南市に寄贈されたそうです。


それを記念して「生駒家文書展」江南市歴史民俗資料館(江南市北野町)で催され、寄贈された約1300点のうち、古文書や位牌など25点が展示されています。26日まで


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古文書は、生駒家に与えた領地などを記した豊臣秀吉の朱印状など19点を展示。生駒家の系譜を記した『生駒家系譜』や菩提寺であった「久昌寺きゅうしょうじ」(江南市田代町)と生駒家の歴史をまとめあげ、信長が「生駒の方」の死を悲しみ、小牧城から西を眺めて涙を流したという伝承が伝わっている『久昌寺縁起』などが展示されています。


家宗──女子
一永禄九年寅五月十三日卒 號久菴桂昌大禅定尼葬小折久昌寺
(『生駒家系譜』)

信長公常哀慕妻女登小牧城楼遙望西方悲涙數行歎惜未已云、(『久昌寺縁起』)

生駒家は室町期の文明から明応年間(1469~1501)に大和国平群へぐり郡生駒郷谷口村(奈良県生駒市谷田村)から尾張国丹羽郡稲木庄いなきのしよう柳橋郷小折村(江南市小字小折)に移住して屋敷を構えていました。


生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘である「生駒の方」が弘治2年(1556)頃、小折城(生駒屋敷)にて信長と出会い、側室となったのが転機となります。


やがて、清州きよす城主である織田信雄、豊臣秀次、福島正則に仕え、関ヶ原の戦い後は清州に入った徳川家康の四男・松平忠吉、名古屋に入った家康の九男・徳川義利(のち義直)に仕え、以降、尾張名古屋藩で4000石を領します。


「生駒の方」が永禄9年(1566)に病没、荼毘だびに付された後、埋葬され、「生駒の方」の戒名となった「久庵桂昌大禅定尼」の法名を採った久昌寺は生駒家の菩提寺でもあったのですが、現在では老朽化が進んだために取り壊され、久昌寺公園として整備され、本堂の西側にあった「生駒の方」の墓や生駒家歴代当主の墓は「久昌寺墓地」(江南市田代町)としてそのまま残されており、これらは平成25年(2013)に「生駒家石造群」として江南市の文化財、指定史跡に指定されています。


上記の『久昌寺縁起』など数々の史料は、生駒家の現当主が設立した一般社団法人「生駒屋敷歴史文庫」で保存されています。


生駒家現当主によれば本尊や位牌などを収めるお堂を近くに建てる意向だそうです。


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