「非戦闘地区」―現在、自衛隊の国際貢献活動云々で問題視される場合に屡々登場する用語ですね。
意味的には「直接武力攻撃を受けない地域」という事になります。
ここでは自衛隊云々の話ではなく、第二次世界大戦下の日本において、「非戦闘地区」だった場所が存在した事を述べていきましょう!
神奈川県の西部、箱根峠の東側に位置する足柄下郡箱根町は、長野県北佐久郡軽井沢町と共に戦時中、アメリカ陸海軍機も上空を通過するだけで一度も爆撃や空襲を受けませんでした。
昭和19年(1944)5月頃、箱根には、大日本帝国と交戦状態にあった連合国との「周旋」役を担ってくれた「利益保護国」(protective power)である永世中立国のスイス、武装中立国のスウェーデン、政治的に中立の立場を採るヴァチカンの人たち、その他にスペイン、ポルトガル、トルコなどが在住していた事もあって、「政府はわが国の利益代表団であるスイスを通じて敵国側に対し『箱根地区を非戦闘地区に指定する』旨通知し」(『神奈川県警察史』中巻、776頁)ていたのです。その結果、外務省は空襲時における在京外交官とその家族の避難に関し、関係諸官庁と協議の結果、疎開場所を箱根と軽井沢に決定します。
これより先、昭和4年(1929)7月27日付でスイス・ジュネーヴにおいて締結された「俘虜の待遇に関する条約」(Convention relative to the Treatment of Prisoners of War,Geneva July 27,1929.)に対し、日本は署名はすれど、陸軍や枢密院からの「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざる」ことであって、「義務を負う」ものではない、(『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二七日の条約」御批准方奏請に関する件回答』)との反対により批准をしませんでした。
しかし、同盟国側であるドイツ、イタリアなどは批准しているという国際情勢から鑑みて、日本でも昭和17年(1942)1月29日にスイスやアルゼンチンに対して「準用」=適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある」との声明を発表し、その流れから 「政府はわが国の利益代表団であるスイスを通じて敵国側(連合国側)に対し『箱根地区を非戦闘地区に指定する』旨通知し」(『神奈川県警察史』中巻、776頁)ていたのです。
国立公文書館の資料によると、ハンガリーやイタリア、中華民国、ドイツ、満州国、フィリピン、シャム(現、タイ)、ビルマ(現、ミャンマー)など日本と同盟関係にある枢軸国の外交官とその家族たちは、
その結果、この時期に箱根に滞在していた外国人は、他にインド、フィリピン、アメリカ、イギリス、ルクセンブルグ、ポーランド、オランダ、オーストラリア、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、ポルトガル、ヴァチカン、スペインなど多岐にわたっており、 「箱根地区に転住した外国人は1500名に達し、東京・横浜所在の大・公使館、領事館、商社などもすべてこの地区に移転した」(『神奈川県警察史』中巻、776~777頁)そうです。
その後、昭和20年(1945)8月15日に日本の無条件降伏が決まり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領が始まると、枢軸国側の外交官は全員強羅ホテルに移され、富士屋ホテルはGHQに接収されます。
もちろん、これだけ多くの外国人が集まって来たのは、箱根が「非戦闘地区」である事を駐日大使館辺りから聞き及んでいたからに違いありませんね。
ところが─
一方で、この事実はほとんどの国民には知らされていませんでした。事実を知っていたのは、政府および陸海軍と警察の一部関係者だけだったのです。
当時、箱根の麓にあった敵性外国人収容所「神奈川第一抑留所」(現、南足柄市)勤務の巡査は次のように述懐しています―
戦争中に宮城野(箱根町)にいたスイスの利益代表者のケルンさんという人を通して収容所あたりを爆撃しないようにと、安全地帯になっていたんです(『戦時下の箱根』)
しかし、昭和20年(1945)7月になると、箱根にも本土決戦用の砲台などが構築され出します。
戦況がもっと長期化していたら、いや昭和20年(1945)5月のドイツ降伏以降は、日本もジュネーヴ条約を無視した形で、「非戦闘地区」の指定が解除されていたかもしれませんね!
※(参考文献)
- 小宮まゆみ「太平洋戦争下の『敵国人』抑留―日本国内に在住した英米系外国人の抑留について―」第四章「抑留第四期と抑留政策の破綻」第三節「首都圏の外国人の箱根、軽井沢への集住」(『お茶の水史学』43)
※この記事は「戦時下の日本に存在した「非戦闘地区」箱根」(2010年8月11日執筆)を加筆修正したものです。

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