『蝦夷種痘図』にみる危機管理意識

蝦夷えぞ種痘しゅとう図』という絵がある。幕末の安政年間に行われた幕府のアイヌへの集団種痘の様子を描いた絵だ。和人やロシア人から感染した天然痘てんねんとうで、免疫のないアイヌに多数の死者が出ていた時代だった▲絵には並んで順番を待つアイヌに種痘を施す幕府派遣の医師2人、上座の奉行ら3人の役人、記録する書記役などが描かれている。種痘を終えたアイヌたちはいろりを囲んで懇談し、会場には食器や布など種痘の報奨品も積まれている▲同じような絵は何種類かあり、ほうびの菓子であやしても泣きじゃくる子の姿もある。医師らは各地の居住地を回り当時のアイヌ人口の半数以上に種痘を施したといわれる。多くの命を病魔から救った幕末の一大プロジェクトだった▲…(以下、略)…(余録「蝦夷種痘図」という絵がある…(『毎日新聞』令和3年(2021)1月28日付朝刊より)

種痘とは、天然痘の予防接種の事で、ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種します。

世界的には昭和55年(1980)に天然痘ウイルスは撲滅されたとされ、日本でも昭和51年(1976)を境に予防接種が行われていません。

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安政3年(1856)7月、箱館奉行に就任した村垣むらがき範正のりまさは幕府直轄領であった蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進し、同年12月17日から翌4年(1857)3月24日までの間、蝦夷地を巡回視察します。

そこで観たのが、疱瘡ほうそう(天然痘の事、痘瘡とうそうともいう)が蔓延していたアイヌ人たちの姿でした。

その当時、疱瘡自体が和人(江戸幕府が「アイヌ人以外の日本人」の事を指して用いた歴史用語)が蝦夷地に持ち込んだ病気だった事もあってか、免疫力のないアイヌ人たちの間に大流行してしまったためようで、一時はアイヌ人総人口の4割近くが死に至ったそうです。

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こうした惨状を改善しようと村垣は巡回視察中の安政4年(1857)正月19日に幕府に対して蝦夷地に住むアイヌ人への種痘願を建言。

幕府も事態を重く受け止め、翌月に種痘の出来る医師として江戸から桑田立斎りゅうさいと弟子3人、そして箱館出身の深瀬洋春を御雇医師として蝦夷地に派遣します。

5月5日に箱館に着いた桑田立斎は東蝦夷地側(太平洋側から千島列島にかけての地域)を、深瀬洋春は西蝦夷地側(日本海からオホーツク海にかけての地域)を巡って、アイヌ、和人の別なく種痘を実施。

翌5年(1858)には北蝦夷地(樺太)や千島でも実施され、当時のアイヌ人の人口の半数以上が種痘を受けたといわれ、これがわが国初の強制種痘でした。

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こうした状況を描いたのが『蝦夷種痘図』です―

上記のような種痘の様子を箱館(函館)の豪商「福島屋」の2代目である杉浦嘉七(井原忠三郎)がその知遇を得ていた、アイヌ絵師・平沢屏山びょうざんに描かせ、安政4年(1857)10月21日頃に村垣に献上したものだそうです。

村垣が記した公務日記には「(安政四年)十月二十一日 種痘之図嘉七出す。順庵江讃頼之」(『村垣淡路守公務日記』)とあり、安政4年(1857)10月21日までには図が完成したことが判ります。


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