江戸っ子の粋、江戸町火消「いろは47組」再編成から400年!

「火事と喧嘩は江戸の華」―

というくらい、江戸の町は他の都市に比べて火災が多発していました。

慶長6年(1601)から慶応3年(1867)の江戸幕府期間中で1798回もの火事が発生したといいます。

その理由として考えられるのが、

①膨大な人口増加による建物の密集・集中

徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入部して以降、江戸城周辺には大名や旗本の屋敷が設けられ、多くの武士が居住するようになります。

さらに、武士の生活を支える商人・職人が町人として流入し、江戸の人口は急速に増加していきます。

慶長14年(1609)頃は約15万であった人口は、寛永17年(1640)頃には約40万、元禄8年(1695)には約85万、享保6年(1721)には凡そ110万に達し、天保8年(1837)には128万と推移していきます。

但し、広大であった武家地(全体の64%)に対し、町人地の面積(全体の15~20%)は狭く密集して立ち並ぶようになり、町人地の人口密度は極めて高くなっていきます。

その上ほとんどが可燃性の材質でできた木造家屋なので、一度家屋に火が点くと、消火活動を行なう間もなく、次々と近隣の家屋に延焼してしまう有様なのです。

慶長6年(1601)からの100年間で269回、元禄14年(1701)からの100年間で541回、寛政13年・享和元年(1801)から慶応3年(1867)までの67年間で986回となり、人口増加に比例して、火事の回数も増加しています。

②江戸という町の独特な気象条件との関係性

江戸の独特な気象条件として、

・冬から春先にかけて、北乃至ないし北西の冷たい季節風(モンスーン)、すなわち極めて乾燥した強風(からっ風)が吹き続け、長期間にわたり降雨がない場合、

・春先から秋にかけて、暖かい空気と冷たい空気が日本の上空でせめぎ合い、日本海付近で低気圧が急速に発達するためにフェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風(「春一番」)が吹く場合、

などで、江戸における火災の多くが旧暦の12月から2月の時期(新暦の1月から3月)に発生しています。

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江戸時代初期には消防組織が制度化されておらず、度重なる火災などを契機として火消の制度を整えていきます。

具体的には武士によって組織された「武家火消」と、町人によって組織された「町火消」で、「武家火消」は大名による「大名火消」と旗本による「定火消」(旗本火消)に分類されます。

寛永6年(1629)、江戸に初めて創られたのが奉書ほうしょ火消」で、火災の都度、老中奉書によって大名を召集し、火事にあたらせます。

同20年(1643)には「大名火消」が創られ、幕府が課役として16の大名家を指名し、火事が起きてから出動を命じるのではなく、あらかじめ消火を担当する大名を定めます。その範囲は江戸城や武家地を火事から守るためのものでした。

明暦3年(1657)には「方角火消」が創られ、参勤交代で江戸に滞在中の大名12名が選ばれ、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組に編成され、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たります。元禄年間には東西南北の4組に、正徳2年(1712)には5方角5組に改編。享保元年(1716)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、主に消火が目的ではなく火元から離れた場所の防火優先でした。

万治元年(1658)9月8日には幕府が旗本に消火を命じるじょう火消」(江戸中定火之番、旗本火消)を制度化します。(但し、「定火消」の消化目的は冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものでした。)

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8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に一環として、火消制度の整備化を提唱した儒者の荻生徂徠おぎゅうそらいによる「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」という進言を受けて、享保2年(1717)に江戸町奉行(南町奉行)となった大岡越前守忠相は翌3年(1718)に名主たちの意見も採り入れて火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出し、翌4年(1719)には住民(町人)の義勇消防組織としてたな火消」(町火消)が制度化されます。

翌5年(1720)8月7日には「店火消」(町火消)を再編成し、地域割りを修正して江戸の町を約20町~30町ごとに分割して1組とし、隅田川を境に西を担当する町火消「いろは四十七組」(後に1つ増えて48組)と、東を担当する「本所、深川十六組」が誕生し、本格的な町火消制度を発足させたのです。

同時に各組の目印としてそれぞれまといのぼりが作られます。これらは混乱する火事場での目印になるとともに、組を象徴するシンボルとして扱われるようになっていきます。

「いろは四十七組」の中でも、へは「屁」、らは「摩羅」という隠語、ひは「火」、んは「終わり」に通じるとされ、組名としての使用を避け、代わりにへ→「百」、ら→「千」、ひ→「万」、ん→「本」、に置き換えられました。

同15年(1730)には、「いろは四十八組」が一番組から十番組まで10の大組に、「本所、深川十六組」も北組・中組・南組の3組に分けられ、より多くの火消人足を現場に動員できるように改編しています。

元文3年(1738)には大組のうち、組名称が悪いとして四は「死」に、七は「質」に通じると嫌われたため、四番組が五番組に、七番組が六番組に合併され、大組は8組となります。

こうして創られた「町火消」ですが、「町火消」に要する費用はそれぞれの町会費をもってまかなわれました。

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享保の改革によって「町火消」制度は確立しますが、「町火消」の出動範囲は町人地限定で、武家屋敷への出動はできませんでした。

享保7年(1722)には町人地に隣接する武家地が火事であった場合、2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば「町火消」が消火するように命じられます。

同16年(1731)には幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことにはじまり、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も「町火消」に命じられます。

元文元年(1736)以降「方角火消」は江戸城より風上で発生した火事か大火の場合のみ出動と改められます。

延享4年(1747)の江戸城二の丸の火災においては、はじめて「町火消」が江戸城内まで出動することとなり、「定火消」「大名火消」が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられました。

寛政4年(1792)には「定火消」は町人地へ出動しないこととなり、文政2年(1819)には出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は完全に「町火消」の担当となります。

天保9年(1838)の江戸城西の丸の出火や同15年(1844)の本丸の出火などに際しても、江戸城内へ出動して目覚しい働きを見せたので何れも褒美が与えられています―

このように、徐々にその功績が認められていき、「定火消」「大名火消」にも勝るとも劣らぬ実力を示していくのです。

幕末期には「定火消」が1組のみに改編されるなど「武家火消」が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に「武家火消」主体から「町火消」主体へと委ねられていくのです。



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