(トピックス)光秀の妻・煕子「病死説」裏付けか 戒名記した仏画発見!

聖衆来迎寺所蔵「仏涅槃図」「仏涅槃図」の裏面に記された寄進銘。熙子の戒名「福月真祐大姉」が記されている

戦国武将・明智光秀を献身的に支えたことで知られる妻、煕子ひろこが坂本城が落城よりも前に死去していた、という説を裏付ける新たな史料が大津市の寺で発見されたようです。

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発見されたのは、光秀が庇護ひごしたという所縁がある天台宗寺院・聖衆しょうじゅ来迎寺らいこうじ(滋賀県大津市比叡辻)が所蔵する仏画『仏涅槃ねはん図』の裏に寄進者と由来を示す「寄進銘」が記されていて、そこに煕子の戒名といわれている戒名が記されていたのが確認されたため、熙子の死亡時期を想起させる新たな史料として期待されています。

光秀を支えた良妻とされる熙子ですが、正確な事績を伝える史料は極めて少なく、その没年を巡っては、天正4年(1576)に病死したとする説と、同10年に光秀の居城だった坂本城が落城した際に自害したとする説があります。

光秀の菩提寺である天台真盛宗総本山の西教寺(滋賀県大津市坂本)にある墓石や過去帳(『西教寺塔頭実成坊過去帳』)には「福月真祐大姉 明智惟任日向守光秀御臺」と記された戒名と共に「天正4年11月7日」との記載がみられるので、天正4年に亡くなったとするのが有力とされる一方で、後年の編纂物である『美濃国諸旧記』(寛永末期~正保前期)や『明智軍記』(元禄年間)などの軍記物やイエズス会宣教師の報告書の記録では天正10年6月14日、光秀敗死後、坂本城落城の際に親族らとともに自害したと記されてあるからです。

しかし、この『仏涅槃図』は天正9年(1581)に煕子らを弔うため、寺に寄進・奉納されたとの記載があり、今回の発見によって熙子は本能寺の変の前、すなわち天正9年以前に亡くなっていたとが確実となり、天正4年の「病死説」を裏付ける可能性が高くなりました。

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煕子の戒名が見つかった『仏涅槃図』とは、釈迦が入滅した際の様子を描いた仏画で、縦144㎝、横135㎝。同寺が毎年3月15日に営んでいる涅槃会法要の際に使われているようです。

「寄進銘」の裏側には寄進・奉納した者などは不明だが、寄進・奉納された日付「天正九年壬午じんご八月時正じしょうが墨書きで記され、現世安穏や故人4名それぞれの戒名の冥福を願って同寺に寄進・奉納された経緯が記されています。

「時正」とは、秋分の日の前後3日間、合計7日間の秋のお彼岸の時期にあたります。

すなわち、熙子は天正9年8月の「時正」の時期には既に亡くなっていたことが確認できるのです。

但し、1つ気になるのは天正9年の干支えとの存在ですね。天正9年は辛巳しんしでなければならないのですが、翌10年の干支である「壬午」が記されている点が気になりますね。

光秀にとって天正9年8月頃の大事といえば、

去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、(『多聞院日記』天正9年8月21日条)

のように、「御ツマキ」殿の死去(8月7日、または8日)ですね。

とすれば、「御ツマキ」殿の法要も営まれていて、その流れのなかでこの『仏涅槃図』が寄進・奉納されたとも考え得るのですが…


その4名の戒名のうち、西教寺に伝わる煕子の戒名と一致する福月ふくげつ真祐しんゆう大姉だいしが記されていたのです。

西教寺以外で煕子の戒名が確認されたのは初めてだそうで、没年特定の有力な史料となり得るかもしれませんね。

『仏涅槃図』は、大津市歴史博物館(滋賀県大津市御陵町)で現在開催中のミニ企画展「明智光秀と在地土豪」(~10月11日まで)において10月4日まで展示された後、10月10日~11月23日まで催される開館30周年記念企画展「聖衆来迎寺と盛安寺―明智光秀ゆかりの下阪本の社寺―」でも出展される。問い合わせは同博物館へ。

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