(トピックス)秀吉襲来!天下人の総仕上げ―「宇都宮仕置」「奥州仕置」から430年

宇都宮・会津仕置430周年記念宇都宮・会津仕置430周年記念

天正18年(1590)7月13日、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして7月から8月にかけて下野しもつけ宇都宮、続いて陸奥会津に進発し、関東・陸奥・出羽地方の諸領主に対して領土仕置を行ない、配下に収めます。これら戦後措置の事を「宇都宮仕置」「奥州仕置(会津仕置)」といいます。

日本史上の大きな転換点といえる「宇都宮仕置」「奥州仕置(会津仕置)」から430年目の今年、これに関連する地域の資料館・博物館が中心となって「宇都宮・会津仕置430周年記念の連携イベントが企画・実施されます。

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同年7月5日、小田原城主・北条氏直が降伏を申し出て、13日、秀吉が小田原城(神奈川県小田原市城内)に入城します。16日には小田原城を進発し、17日に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下)を参詣します。

19日、宇都宮へ向けて鎌倉を進発する途次、19日~20日には武蔵江戸城(東京都千代田区千代田)、25日、下総しもふさ結城城(茨城県結城市結城)に到着。

下総結城氏は小田原征伐に参陣しており、旧領安堵のうえ、改易された小山氏・小田氏・壬生氏の領地が加増されます。

26日、秀吉が下野宇都宮城(栃木県宇都宮市本丸町)に入城し、28日には伊達政宗が奥州への先導役として宇都宮入りします。

関東地方の諸領主に対に対する領土仕置が28日から8月4日にかけて行われ、佐竹氏と宇都宮氏は小田原~白河間の道普請を命ぜられ、秀吉らが行軍するための軍道を整備したこともあって旧領安堵されます。

7月13日の段階で関東転封が決まっていた徳川氏や与力衆も8月1日に関東の旧北条領へ移封など、関東諸大名の国分がほぼ確定されます。これを「宇都宮仕置」と呼びます。

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栃木県立博物館(宇都宮市睦町)で開催中なのがロビー展示「宇都宮・会津仕置430周年記念 豊臣秀吉の宇都宮仕置」展

ロビー展では豊臣秀吉の朱印状などが展示されている

ロビーを使ったミニ展示ですが、秀吉が宇都宮城に滞在した際の朱印状や伊達政宗の直筆の手紙など8点が展示されています。

政宗の書状は秀吉の側近に宛てたもので、小田原征伐に続き、この「宇都宮仕置」の際にも遅刻してしまい、宇都宮へ向かっている途中の天正18年(1590)7月27日の「戌刻いぬのこく」(=午後8時)に那須野が原周辺で書いた政宗直筆の書状です。

そこには、7月23日に米沢城を発ったが、「人馬ともに疲弊した」状態で宇都宮への到着が遅れていることを説明。26日に予定されていた秀吉の到着に間に合わなかった点について、「覚悟のほかに候」(=予想外でした)とし、「今夜に打ち立ち候いて、明日は四ころに参るべく候」(今夜には出発し、明日午後10時ごろまでには参上できると思います)と、「徹夜で急いでいる」という政宗が必死で弁解をしている興味深い内容。

秀吉の朱印状は宇都宮滞在中に出されたもので、人質として上洛する佐竹義重一行への対応を沿道の諸将に命じたもの。

会期は8月30日まで。開館時間は午前9時半~午後5時。月曜休館(祝日の場合は翌日休館)。一般260円、高校・大学生120円、中学生以下無料。問い合わせは同館まで。

那須与一伝承館(栃木県大田原市南金丸)では、豊臣秀吉と大田原の関わりや、那須衆の動向についての特別企画展「ひでよしが来た!―豊臣秀吉と大田原―」展が10月2日〜11月23日までの期間に開催される予定。大人(高校生以上)300円、中学生以下 無料。

栃木県さくら市ミュージアム(さくら市氏家)では、さくら市の歴史と文化 宇都宮・会津仕置430周年記念行事として秀吉が与えた領地が元となり、幕末まで存続することになる喜連川きつれがわ藩をテーマにした企画展「喜連川足利氏誕生の軌跡〜古河公方・小弓公方~」が11月28日〜12月23日までの期間に開催される予定。

喜連川氏は、室町幕府を開いた足利尊氏の系譜に連なる鎌倉公方の末裔で、戦国時代「古河こが公方」「小弓おゆみ公方」と分裂しましたが、秀吉の「宇都宮仕置」を経て、両公方家が婚姻によって統一され、喜連川氏が誕生。その軌跡が紹介されています。

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秀吉は政宗を先導役として8月4日、宇都宮城を進発。途中、勝山城(氏家城、現・栃木県さくら市氏家)を経て、大田原城(栃木県大田原市城山)に滞在し、6日には陸奥小峰城(白河城、福島県白河市)、7日には長沼城(福島県須賀川市長沼)、8日には御代(福島県郡山市湖南町三代字御代)、もしくは福良(福島県郡山市湖南町福良)にて一泊します。

翌9日、駕籠に乗って出発した秀吉は原(福島県会津若松市湊町原)の肝煎きもいり・坂内家で背炙せあぶり峠越えの服装に着替え、馬に乗り換えて峠を越えます。

秀吉らが行軍する道は、政宗に道普請を命じて整備させた軍道で「太閤道」として現在に伝承されています。

また、背炙山(標高863m)の山頂で休憩した際に見晴らしの良い背炙高原を褒めそやしたのに因んで「関白平」と伝承されているそうです。

黒川の領内に入り、輪王寺(現在の天寧寺、会津若松市東山町天寧)で再び服装を整えた秀吉は馬に乗り、会津黒川城(のちの会津若松城、福島県会津若松市追手町)に入城します。

会津では興徳寺を御座所とし、南部氏、最上氏など旧領を安堵する者、大崎氏、葛西氏など小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収・改易処分とする者らを定め、伊達氏も旧領は安堵されますが、侵犯した旧蘆名領は収公され、奥州の抑えの地である黒川城には蒲生氏郷が配されます。

秀吉の逗留はわずか5日間で、14日には会津田嶋(福島県田島町)から山王峠を越えて再び宇都宮城に帰陣します。

下総古河(茨城県古河市)の古河公方家の改易、安房館山(千葉県館山市)の里見氏の上総領減封などに関する仕置を行なったと考えられます。

その後は、東海道を駿府城、掛川城、清州城などを経て、9月1日は京都に凱旋しています。

秀吉が奥州から去った後、その後を任された奉行たちと豊臣大名となった奥州の諸領主たちと共に、大崎氏の居城・名生みょう城(宮城県大崎市古川大崎字城内)、葛西氏の居城・寺池城〔館〕(宮城県登米市登米町)を収監。

さらに進軍して鳥谷ヶ崎とやがさき城(十八ヶ崎城、のちの花巻城、岩手県花巻市花城町)を収監し、奥州平泉(岩手県平泉町)周辺まで進発します。

これを「奥州仕置」と呼び、ここに秀吉の天下統一は完遂するのです。

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福島県立博物館(福島県会津若松市城東町)では10月まで、秀吉と会津に焦点を当てた展示を繰り広げています。

展示されている道中案内絵図には秀吉が辿ったと考えられる道が示されているouu-shioki_002.jpg

常設展示のポイント展(同館収蔵品を中心に特別に公開する資料などを紹介する小規模展)では、「宇都宮・会津仕置430周年記念② 秀吉がやってきた!」が8月21日まで、それ以降は「宇都宮・会津仕置430周年記念③ なるほど!太閤検地」が8月22日〜10月25日まで催されます。観覧には常設展観覧料が必要。大学生以上280円、高校生以下無料。

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小峰城歴史館(福島県白河市郭内)では、小田原征伐に参陣しなかったために秀吉から改易された、白河結城氏を採り上げた「奥羽仕置と白河結城家」展が9月6日まで催されます。

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豊臣秀吉は自らの強大な軍事力と関白職が有する公権力(公儀)を背景に、秀吉へ臣従した者に対しては"和与"による国分、抵抗した者には"征伐"あるいは"仕置"による強制執行の要素が強い国分が行使されたわけですね。

「宇都宮仕置」「奥州仕置(会津仕置)」は、そうした秀吉の天下統一政策が完遂し、関東・奥羽地方の戦国時代が終わりを迎えるのです。

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