昭和11年(1936)8月1日から8月16日までの16日間、てドイツ第三帝国の首都・ベルリン(Berlin)で行われたオリンピアード競技大会(通称、オリンピック、Games of the Olympiad)で8月2日から9日までの期間に開催された陸上競技の男子棒高跳競技の決勝で5時間半にも及ぶ激闘があり、日本人選手が大活躍しました。
棒高跳競技の決勝は8月5日に催されました。
この日は朝から天候が悪く、8月とは思えないくらいの寒冷えの様相でした。
競技は午後4時から始まり、5時間半にも及ぶ激闘となるや、周囲は夕闇に包まれ、スタジアムでは照明が灯ります。
競技開始から4時間が過ぎた頃には、日本代表のの西田修平選手(写真左)、大江
高さは4m35㎝―
1回目の試技は全員ともにが失敗。2回目の試技でメドウス選手が成功し、3回目の試技で他の3人がバーを落とした事でメドウス選手の金メダルが確定します。
順位決定のために4m15㎝に下げられた試技では西田選手、大江選手ともに跳び、セフトン選手が落とした事で、西田選手、大江選手の表彰台(メダル獲得)が確定します。
規則通りならば決着がつくまで順位決定戦を続けねばならないのですが、5時間以上にも及ぶ激闘で2人ともすでに疲労が限界に達していた事もあり、西田選手が順位決定戦の辞退を申し入れ、審判団もそれを了解します。
西田選手は複数の選手が同じ高さを跳んだ場合に試技数に関係なくすべて同じ順位とする、という慣例を考えての発言だったようです。
しかし、公式結果では、決勝競技で4m25㎝を1回目の試技で成功させた西田選手が2位、2回目の試技になった大江選手が3位となります。
翌日の表彰式において、西田選手(写真左)は大江選手(写真右)に対し「これからの活躍、ひいては次の東京五輪での健闘を願う」という激励の意味を込めて2位の表彰台に登るように、そっと送り出します。
帰国後、代わって2位の表彰台に立った大江選手が銀メダルをそのまま持ち帰ったため、間違いに気づいた大江選手のお兄さんが改めて西田選手の許に銀メダルを届けるのですが、西田選手は知人の経営する宝石店でお互いのメダルを半分に切断し繋ぎ合わせたメダルに作り直します。これが「友情のメダル」としてで知られ、道徳の副読本に掲載されました。
その後、大江選手は同15年(1940)に開催が予定されていた東京五輪への出場を目指しましたが、日中戦争の影響で開催は返上。
戦時色が強まる中、大江選手も昭和14年(1939)陸軍に召集され、福知山の歩兵第20連隊に入隊。同16年(1941)12月24日にフィリピン・ルソン島南部ラモン湾の上陸作戦での戦闘で戦死されます。27歳の生涯を閉じました。。
余談ですが、私の大叔父(母の叔父)にあたる方も福知山の歩兵第20連隊で、その方は昭和20年(1945)3月、フィリピン・セブ島の洞穴の中で戦死されたようです。アメリカの陸軍兵士が大叔父の遺体から戦利品として幾つかのファイルに入った写真を持ち帰ったそうですが、平成4年(1992)に返還してこられたんですね。それで大叔父が亡くなった場所が「セブ島の洞穴」と確定できたわけです。
大江選手の遺品からベルリン五輪でのメダルや履いていたスパイクシューズが見つかり、これをきっかけとして2人がメダルを分け合ったエピソードが広く一般に知られるきっかけとなったんですね。
さて、大江選手の地元・舞鶴市では大江選手の活躍を顕彰する記念碑が大聖寺(舞鶴市北吸)に完成しました。
大江選手の記念碑は大江選手の功績を故郷に残そうと、今年2月に同寺の住職や檀家さんたちが企画し、賛同を得て建立されたもの。
記念碑は高さ1・5mで上段に大江選手の肖像、下段に「故郷の地 とこしえに…」との言葉とともに大江選手の功績と大江選手同様に五輪での活躍を夢見ながら戦場に散っていったアスリートたちを追悼し、平和への祈りが込められています。
大江選手といえば、旧制舞鶴中学(現、西舞鶴高校)出身で、校舎内には大江選手の銅像が立っていますが、新たに記念碑が建ったわけですね。
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