(トピックス)「公衆衛生」の先駆け後藤新平に脚光!125年前に防疫先進国たらしめた功績を展示

検疫所の写真などを展示する特別展

岩手県奥州市水沢大手町出身の実務官僚、後藤新平が125年前に手掛けた日清戦争帰還兵の検疫事業に関する特別展「日清戦争帰還兵検疫事業~帰還兵23万人への世界史上最大規模の検疫事業~」が、後藤新平記念館(岩手県奥州市)で催されています。

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時は日清戦争直後の明治28年(1895)7月―

当時、戦地である中国大陸や台湾では衛生状態が悪いこともあって、コレラなどの感染症が蔓延していたため、戦地からの帰還兵がそのまま帰国すれば国内での流行が懸念されていました。

台湾平定のために出兵した乙未いつび戦争では、近衛師団長の北白川宮能久親王(輪王寺宮公現入道親王)がマラリアで陣没、近衛歩兵第二旅団長の山根信成も戦病死、国内においても大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁たるひと親王が腸チフスを発症するなど、国内も決して安全ではありませんでした。

戦地入院患者で病死した13216人のうち、

  • コレラ   5211人、
  • 消化器疾患 1906人、
  • 脚気    1860人、
  • 赤痢    1611人、
  • 腸チフス  1125人、
  • マラリア   542人、
  • 凍傷      88人、

であったといいます。(陸軍省編『明治二十七八年戦役統計』第七編 衛生より)

こうした状況の中で当時、陸軍省医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官であった石黒忠悳ただのりは、かつて西南戦争終結後に軍兵たちを輸送していた船内で多数のコレラ患者が発生し、帰国する軍兵たちによって全国的にコレラが大流行し全国を震撼させた経験を踏まえて検疫の重要性を痛感し、戦争では傷者よりも病者の方が多いから、戦地からの凱旋兵に防疫対策として検疫をすべきだと建議していました。

そこで、同年3月に陸軍次官兼陸軍省軍務局長の児玉源太郎を部長とする臨時陸軍検疫部が発足。

さらに石黒は、先にその才能を見い出していた中央衛生会委員の後藤新平を文官資格のまま、臨時陸軍検疫部事務官長に就任させて日清戦争の検疫事業を担当させるのです。

後藤は検疫を行う場所として瀬戸内海の広島湾に浮かぶ似島にのしま(現、広島市南区似島町)に消毒部14棟、停留舎24棟、避病院16棟、さらに事務所、兵舎、炊事場、火葬場、汚物焼却場などの付随施設139棟、彦島(現、山口県下関彦島江の浦町)には153棟、桜島(大阪府大阪市此花区桜島)には109棟、など3カ所に検疫所を設置し、帰還兵全員の検疫を実施します。

戦地などからの帰還兵23万2346人の検疫や687隻の船舶の消毒にあたるなど、当初3カ月と計画していたのがわずか2ヶ月で完了させ、戦後のコレラの国内流入を何とか防ぎました。

こうした検疫事業は『臨時陸軍検疫部報告摘要』として遂次刊行物として世界各国に贈呈されるのですが、その成果についてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から激賞され、日本は防疫の先進国と認識されたといいます。

しかし、検疫事業を成し遂げた後藤は、水際作戦の限界を知ります。

根本的に病原菌の蔓延を防ぐには、街の衛生環境、上下水道や道路、家屋の設計などが重要だとし、公衆衛生の重要性、医療保険の大切さなどを実感するのです。

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特別展では、検疫所の写真や後藤が作成した検疫手順図など9点を展示。新型コロナウイルス感染症が流行する中、その功績が注目されており、4月19日までだった会期を11月1日まで延長しています。入場料200円、高校生以下無料。月曜休館。詳しいい問い合わせは同館まで。

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