第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ系難民に発給した日本通過ビザ(査証、以下、ビザ)は"命のビザ"として知られています。
この"命のビザ"は3人の日本人によってバトンリレーされ、多くのユダヤ系難民を救うことになるのですが、今回、旧ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連、現ロシア連邦)・ウラジオストック(ウラジオストク)の日本総領事館の総領事代理だった外交官、根井三郎が発給したビザの実物が初めて見つかりました。
事の発端は、第二次世界大戦中の最中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきたユダヤ系難民が第三国に逃れるために日本への通過を求めて駐リトアニア領事代理だった杉原
リトアニアから国外脱出を目指したユダヤ系難民はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったウラジオストックに到着します。
当時の日本政府は最終的な行き先国の入国許可がない者へのビザ発給を認めておらず、また外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、条件不備で来日しようとするユダヤ系難民への対応に苦慮し、翌16年(1941)3月、杉原が発給したビザを再検閲するように命じ、要件を満たさない者は日本行きの船に乗せないようにせよ、と訓令を出します。
総領事代理だった根井三郎は「日本の公館が発給したビザを無効にすれば、国際的信用を失う」と訓令に抗議、外務省とのやり取りは5回にも及んだそうです。(根井と外務省が交わした電信は外交史料館に残っています)。
根井はビザを持つユダヤ系難民には敦賀行きの船への乗船許可を与え、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書やビザを新たに発給したのです。
リトアニアでユダヤ人たちに"命のビザ"を出した外交官・杉原千畝が発給したビザに、根井が追認して署名したものは既に確認されてはいましたが、根井自身が発給したビザはソ連側の記録(※)に残ってはいましたが、ビザの実物が立証されたのは初めてだそうです。
※ソ連側の記録
根井が昭和16年(1941)3月3日にソ連外務人民委員部(外務省)のウラジオストック駐在員と会談した際、「現地に滞留していた多数の難民に同情して、東京(本省)の許可を得ずに一定数の通貨ビザを発給した」と話した、という記録がロシア外務省の公文書館で発見されています。
今回、ポーランド出身で米国に亡命したユダヤ人の子孫が、根井が発給したビザを持っていることが判明しました。
根井が発給したビザを持っていたのは、ポーランド・ワルシャワ出身の故シモン・コエンタイエルさんで、孫にあたるキム・ハイドンさんから現存するビザの画像データの提供を受けたのだとか―
ビザは昭和16年(1941)2月28日に発給されたもので、「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀 横浜経由『アメリカ』行」と記され、根井の署名と署名の下にウラジオストック総領事代理の公印が押され、パスポートとは別の用紙に記載されていました。
シモンさんはドイツがポーランドに侵攻した昭和14年(1939)9月に妻子と共にリトアニアへ脱出。同16年(1941)2月上旬にモスクワの米大使館で入国ビザを申請したが却下され、シベリア鉄道でウラジオストックに入ります。
根井が発給したビザを使って同年3月に福井・敦賀に上陸。神戸から中国・上海に渡り、昭和22年(1947)8月に米・サンフランシスコに亡命されています。
根井は戦後、外交官当時のことを周囲に語らなかったと云います。自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある精神が貫かれた"命のビザ"バトンリレーの結実した姿ですよね!
※(参照)「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ」
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