幕末期に活動した新選組の局長、近藤勇が結成前後に自ら隊士の役割表を記した手紙を写したとみられる史料が、群馬県立文書館(群馬県前橋市)に遺されていました―
手紙の日付は文久3年(1863)9月20日付で、運営方針を巡り対立した芹沢鴨らの暗殺直後とみられます。
新選組の存在が広く知られるようになったのは、攘夷派を襲撃した翌元治元年(1864)6月5日に起こった池田屋事件以降であり、黎明期の様子を垣間見れる貴重な史料となりそうだ。
手紙は、現在の群馬県伊勢崎市で旗本の家臣の家柄だった萩原信之家に残された文書(萩原信之家文書)のうち『
内容は、江戸市中にあった剣術道場、試衛館の創設者で養父だった周助の容体悪化を伝えられながら、京都を離れられない理由を綴ったもので、道場の跡を継いだ近藤に代わり、留守を預かる幕臣の寺尾安次郎へ宛てたものとみられます。
幹部だった芹沢の暗殺を「変死」とした上で、自分ひとりで攘夷派の取り締まりや取り調べを指揮しなければならず「寸暇も無之」と記載。養父の世話などを任せていることを心苦しいとして金を送り、状況が落ち着いたら江戸へ下るとしている。
それに続き、役割表は21人の名前を記している。新選組を所管した京都守護職で会津藩主の「松平肥後守御預り」「右役割被 仰付候」と明記。「局長」に近藤勇、「助役」に山南敬介、土方歳三らが並び、「当番目付」には、後の小隊制でそれぞれ組頭となる沖田総司や永倉新八、井上源三郎、斎藤一らの名前がみられます。
芹沢や同じく暗殺された平山五郎の名前はなく、芹沢の仲間で脱走した平間重介が担っていた「勘定役」は、土方と永倉の2人で兼務とするなど、混乱ぶりも覗えます。
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