京都御所をぐるりと囲む
その場所は、
江戸時代の末期、すなわち幕末の動乱の時期にこの「鬼門除け」の立地を利用して、何者かが尊王攘夷派の若い公家を殺傷する事件が起きました。
文久3年(1863)5月に起きた襲われた
姉小路公知は当時、三条実美と共に攘夷派の中心人物で、日米修好通商条約勅許について反対派の急先鋒だったり、和宮
それは、5月20日夜の事、御所での会議を終え、
公知は従者に「太刀を!」と求めますが、太刀と提灯を持った従者2人は後ずさりして逃げてしまいます。
仕方なく、公知は手元にあった扇でもって応戦しますが、顔や胸を切られて重傷を負い、その場に残った従者に抱えられて屋敷に戻りますが、間もなく出血多量で息絶えます。(朔平門外の変)
その時の様子を、当時姉小路家と関わりの深かった跡見
廿四日…(前略)…殿様 御事、廿日之夜四ツ時、御所より御退出懸、朔平御門の廻り懸 にて、浪人物三人、面を包(み)、うしろはち 巻にたすきかけにて、向より御胸を切付、此きつ 長(さ)六寸深サ四寸計 、殿様、太刀ヲ太刀ヲとと四度も仰せられ候へとも……(『跡見花蹊日記』文久三年五月廿四日条)
と、事細かに記しています。花蹊の姉が公知の嫡子(のちの
事件後、現場に残されていた刀などの物的証拠から薩摩藩の田中新兵衛などが特定され捕縛されましたが、取り調べ中に田中が自殺したため、真相は“薮の中”に消えました。
さて、この事件。もしも「鬼門除け」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれませんね。
この「鬼門除け」には別な言い回しがあり、「猿ヶ辻」と呼んでいます。ちょうど、「鬼門除け」の築地塀の瓦の軒下に烏帽子を被り、御幣を担いだ木彫りのお猿さんが居てはります。
このお猿さん、比叡山延暦寺の地主神である日吉大社のお使いで、鬼門を守るために遣わされたそうです。それで「猿ヶ辻」と呼ばれるようになったのですが…
ところがこのお猿さん、夜な夜な築地塀から抜け出しては付近をうろついて悪戯が過ぎるので、金網が張られて、閉じ込められたのだそうです(笑)
もしかしたら、事件のあの夜、築地塀から真犯人を見ていたのやもしれませんね。
この記事へのコメント
御堂
そうですね、蛤御門近くの椋の木を見ては、「来島の爺さんはこの辺りで銃弾に斃れたのか~」とか、堺町御門入ってスグの鷹司邸跡を見ては「久坂と寺島はここで自刃したのか~」とか感慨深いです。
怖くて後ずさりするようなボディガードは失格ですね!せめて以蔵や彦斎クラスがいたならば…(笑)
indoor-mama
何度、京都御苑に行っても、この「猿ヶ辻」とあの「蛤御門」の所では少し立ち止まって、物思いにふけってしまいますね~。
やっぱり、当時、夜出歩くなら、もう少し多い人数で、屈強なボディガードが必要だったでしょうね。
おっしゃる通り、襲われて後ずさりするような人たちではちょっと・・・って感じですね。
御堂
鬼門除けにうまく潜まれたのは仕方ないにせよ、逃げ出した従者はいかんでしょうね!何のために雇われてるんや!って感じ…
カーママ