◇通説は「秀吉」
千利休の高弟で茶人として「利休七哲」(『江岑夏書』)の一人として知られ、その作意や趣向から「ヘウゲモノ」(『宗湛日記』)と称えられた 古田
史料は織部の娘が嫁いだ豊後岡藩中川家の古田家が伝える『本家系譜 古田氏』と題された江戸時代後期に豊後古田家の歴史をまとめたもので、竹田市立歴史資料館に寄贈されています。
それによると、織部はのちに秀忠の茶の湯師範となる訳ですが、秀忠が江戸幕府第2代将軍に就任する直前の慶長10年(1605)年4月5日、京の織部宅を訪れた秀忠から「利休の伝える茶法は武門の礼儀にかなわないので、その旨を考えて茶法を改めて定めるように命じられ、織部は新たに武家流の茶法を定め、諸大名にその茶法を伝えた」と記載されています。
従来の通説では、利休の没後、利休に代表される町衆の茶道に代わり格式を重んじる武家流に改めるように豊臣秀吉が織部に命じた、とされていました。
研究者は「 秀忠が将軍となるにあたり、茶道を重要視し、武家の茶道確立する事で文化的に諸大名を従えようとしたのでは」と話されています。
この史料は、古田織部美術館(京都市北区)で催されている「古田織部の実像―『古田家譜』(豊後古田家伝来)初公開―」展で、織部にまつわる書状や資料、茶道具など約50点と共に公開されています。同展は来年1月15日まで(年末年始は休館)。問い合わせは同美術館まで。
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