「黒田官兵衛博覧会」の「歴史館」としての会場が長浜城歴史博物館3階展示室となっているのですが、現在、4月から本格的な博覧会展示イベントが催されるに先立ち、プレ展示イベントとして「秀吉・官兵衛の戦いを支えた武将たち」が開催中なのを観覧するためです。
その1回目のテーマ展である「長浜城主秀吉と家臣たち」の最終日(23日)と第2回目のテーマ展「石田三成と秀吉奉行たち」(~4月6日〔日〕まで)の初日を観たのですが―
「長浜城主秀吉と家臣たち」においては、豊臣秀吉の家臣の中でも北近江の出自である宮部継潤、田中吉政、新庄直頼など、あまり知られていない人物が採り上げられていました。
「石田三成と秀吉奉行たち」では、石田三成や五奉行関係の史料、及び大谷吉継に関連した史料等が展示されていました。
今回の観覧で私が一番注目したのは、田中吉政の出自が浅井郡の人だった―て事を証明する史料を拝めた事です。
◎慶長9年(1604)竹生島宛田中吉政書状(宝厳寺蔵)
従来、田中吉政の出生地は、江戸幕府編纂による『寛
従来、この『寛政重修諸家譜』は各大名家の家伝や家譜などをそっくりそのまま書き写して編纂されたものである事から、こちらの説が信憑性を持っていました。
しかし、その一方で吉政の出身地を浅井郡
- 田中家は大名家としては廃絶しますが、江戸幕府の旗本として家が残ります。このうち、吉政の三男・吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)で、吉政の父・重政の項に「江州浅井郡三河村に蟄居、病死」したとの記載がみられる事
- 米原市飯の徳善寺に伝来した「新庄福永順光寺図」には「此田中筑後守者近江国浅井郡三河村出生大名也」と見える事
- 吉政が宮部村
の地侍で ある宮部継潤に仕えた事 - 吉政の母が浅井郡国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の地侍・国友与左衛門の姉で、国友与左衛門は宮部継潤の家臣であった事
- 慶長9年(1604)正月に筑後柳川城主となった吉政が同国
三潴 郡大善寺村(現在の福岡県久留米市大善寺町)の玉垂宮 に寄進した梵鐘の銘文に「大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部縣 子也」とある事
それがこの「慶長9年(1604)付竹生島宛田中吉政書状」によって裏付けられたようなんですね。
詳細は、慶長9年(1604)5月12日、吉政が翌慶長10年(1605)の竹生島の行事・蓮華会という弁財天の祭礼の頭役を夫婦で務める事を申し出ている内容でした。その蓮華会の構成メンバーは浅井郡の住人に限られていた訳です。それ故に、田中吉政は浅井郡の出自である事が確証立てられた感じですね。
※(関連)「田中吉政とその時代」展
※(参照)太田浩司「田中吉政の出生と立身」(『秀吉を支えた武将田中吉政 近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』所収)
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