源融と河原院(六条院)

京都・本覚寺が所有する源融像

源融という人物は平安期の公卿で、嵯峨天皇の皇子。兄宮・仁明天皇の猶子。河原左大臣と呼ばれていました。源氏の姓をうけ臣籍に下り、斎衡3年(856)に参議、貞観6年(864)に中納言を歴任、貞観8年(866)閏3月10日、応天門が炎上、全焼した際(応天門の変)に大納言・伴善男が「これは左大臣・源信(の兄宮)の仕業」と申し出たため、これに連座する形で、一時失脚をします。(『宇治拾遺物語』巻10)

この事件は藤原良房・基経が、政敵である藤原良相・大伴氏・嵯峨源氏(主に源信・源常・源融の3兄弟)を政治中枢から駆逐しようと企んだ陰謀でした。

のちに政界に復帰し、貞観12年(870)に大納言、貞観14年(872)、51歳で左大臣に昇進します。

元慶8年(884)、陽成天皇が譲位の意向を表した際に、新帝(時康親王=光孝天皇)擁立をめぐって藤原基経と争い、「ちかき皇胤をたづねば、融らもはべるは」(『大鏡』藤原基経伝)と自らを皇位継承候補になぞらえるが、退けられます。

仁和3年(887)、宇多天皇即位直後の「阿衡の紛議」に際しては、宇多天皇に対し藤原基経に味方するような意見を述べたため、信用をなくし、政界から退き、六条院(東六条院)や嵯峨棲霞観(のち清涼寺)、宇治の別荘(のち平等院)、河原院など耽美的な美の世界に執着するようになっていきます。

なかでも河原院は、平安京に営まれた邸宅の中でも、最もその豪壮さをうたわれました。南を六条大路、北を六条坊門小路、東を東京極大路、西を萬里小路に囲まれた4町(一辺250m)の広大な敷地を占めていました。

また、陸奥の名所塩竃(塩釜)の浦の景観を模した庭に、難波津から海水を運ばせては塩焼きの真似事をしたり、鴨川の水を引き入れて、大きな池を造り、その中に人工の島を作って「まがきの森」と名付けたりして、その風情を楽しむなど、その暮らしぶりは豪奢を極め、在原業平をはじめ多くの歌人や文人たちの遊興の場(サロン)でもありました。

「小倉百人一首」にも、河原左大臣の名で「みちのくの/しのぶもぢすり/たれゆえに/みだれそめにし/われならなくに」という歌が残っています。

また、『源氏物語』における六条院のモデルとなったのも河原院であると云われています。実際に、自身が「六条院」(東六条院)(『本朝文粋』巻14)と呼ばれていたそうです。

の死後、河原院はその子の昇が譲り受けましたが、昇はそれを寛平法皇(宇多法皇)に寄進したので、仙洞御所となりました。つまり、昇は、宇多天皇に入内した妃の1人である娘の貞子とその子依子内親王のために河原院を寄進したのです。

ところが、残念ながら宇多天皇の寵愛を一身に受けたのは、藤原時平の娘・褒子でした。

その後、寛平法皇(宇多法皇)はこれを僧仁康(融の三男)に与え、寛平法皇(宇多法皇)没後に寺院に改まりましたが、長保2年(1000)に仁康が祗陀林寺を開創するに際し河原院の本尊を移して以降は、数度の火災に遭うなど荒廃が進み、建仁3年(1203)3月2日には、六条坊門富小路あたりから出火し、河原院は全焼し、灰燼に帰してしまいます。

現在、京都市下京区木屋町通五条下ルに「河原院址」の石碑と榎の老木が茂っています。

この榎にはいわれがあり、かつて、この辺りは「籬の森」と呼ばれ、もと河原院の邸宅内の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没し、森として残ったものであると伝えられているのです。明治初年頃まではあったそうですが、押し寄せる都市化の波には逆らえず、今、この森を偲ばせるものと言えば、石碑の横の老木だけになってしまったそうです。また、石碑が建つ位置も、平安京復元図にあてはめてみると、ほんの少しでだけ、河原院の東側にはみだしているそうです。

この記事へのコメント

  • 御堂

    戸田ANRIさん、こんにちは!

    源融がはっきりりとした光源氏のモデルというのではなく、光源氏のキャラクターイメージの1人と思って下さい。
    あと、「六条院」や平等院の前身である「宇治別院」などが元々は源融の住居だったって事もイメージの1人として考えられている要因だと思いますよ。
    2010年08月10日 14:53
  • 戸田ANRI

    私は源融の子孫ですが、光源氏のモデル説が強いというのは本当ですか?
    2010年08月07日 21:19

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