
「石山の秋月」や「三井の晩鐘」で知られる“近江八景”(※)は、「寬永の三筆」で知られる五摂家の近衛
“近江八景”の選定者を巡っては従来諸説があり、室町時代後期の関白で三藐院信尹の
史料は、江戸時代初期の元和10年(寛永元年、1624)に儒学者で藤原徨窩門人の高弟、
“近江八景”をそれぞれ詠み込んだ和歌8首を写して「この和歌は、信尹公が膳所城からの八景を眺望して紙に写し、城主に賜れた」(意訳)と記されていました。
※ “近江八景”
近江国(現・滋賀県)、琵琶湖周辺にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って選んだ、風景評価図。
山水画で知られる中国湖南省の景勝地で、長江流域の洞庭湖及び、湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた『
鎌倉時代後期より来日した禅僧により伝えられ、室町時代には京都五山の禅僧たちによって水墨画や五山文学と
得庵は、近江膳所藩第2代藩主の戸田
※ 近江膳所藩第2代藩主の戸田氏鉄
戸田氏鉄は慶長8年(1603)、近江膳所藩の藩主となり、元和2年(1616)に摂津尼崎藩に移封され、寛永12年(1635)、美濃大垣藩へ移封されています。
“近江八景”をめぐっては、上記の記載した如く、近衛政家が明応9年(1500)8月13日に室町幕府・近江守護職の六角高頼の招きで、近江に滞在した際に“近江八景”の和歌8首を詠んだのが始まりだという説が江戸時代の中期に編纂された地誌などで広まり、現在もこの説を採用する文献が多いと云います。
その一方で、政家の
江戸時代の後期、享和元年(1801)に近江商人で歌人・文筆家の
これについては、政家が当時書いていた日記(『後法興院記』)を調べた結果、この日、つまり明応9年(1500)8月13日は、
加えて、“近江八景”を題材とする作品が室町時代にはまだ見当たらず、ほとんどが江戸時代以降にならないと確認できない事などからも「信尹説」の方が
今回、三藐院信尹が生きていた時代とほぼ同時代の信頼性の高い史料が発見された事を踏まえ、“近江八景”に詳しい大津市歴史博物館の横谷賢一郎学芸員は「信尹による選定が決定的となった。信尹が“近江八景”を和歌で詠んで公家たちに受け容れられ、江戸中期以降、絵画化によって日本を代表する名所として広まった」と述べておられます。
◎近江八景における8つの風景

石山秋月(いしやまのしゅうげつ)⇒石山寺
石山や/
勢多夕照(せたのせきしょう)⇒瀬田の唐橋
粟津晴嵐(あわづのせいらん)⇒粟津原
雲はらふ/嵐につれて/百船も/千船も浪の/粟津に寄する
矢橋帰帆(やばせのきはん)⇒矢橋
真帆ひきて/八橋に帰る/船は今/打出の浜を/あとの追風
三井晩鐘(みいのばんしょう)⇒三井寺(園城寺)
思うその/暁ちぎる/はじめとぞ/まづきく三井の/入あひの声
唐崎夜雨(からさきのやう)⇒唐崎神社
夜の雨に/音をゆづりて/夕風を/よそにそだてる/唐崎の松
堅田落雁(かたたのらくがん)⇒浮御堂
峯あまた/越えて越路に/まづ近き/堅田になびき/落つる雁がね
比良暮雪(ひらのぼせつ)⇒比良山系
雪ふるる/比良の高嶺の/夕暮れは/花の盛りに/すぐる春かな
※(参考文献)鍛冶宏介「近江八景詩歌の誕生」(京都大学文学部国語学国文学研究室編『国語国文』第81巻第2号)
※(参照)五山の送り火
※(参照)ハイビジョン特集「銀閣よみがえる~その500年の謎~」
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