“西の長崎 東の佐倉”

とある番組で、千葉県は佐倉市民に“西の長崎”と問えば“東の佐倉”と返すというシーンがありました。

よくよく説明を聴いてみると、蘭学、蘭方医学の先進地として長崎と並び称されていたのを表したフレーズなんだとか…

そこでチョット、調べてみました!

千葉県佐倉市出身で有名な人物といえば、プロ野球ファンなら誰もが知ってなきゃいけない長嶋茂雄さんがいますよね。

しかし、歴史的にみてもっと重要で、知っておかなきゃおかしい偉人がいます…

それは佐藤泰然たいぜんとその一族およびその門下ではないでしょうか!

順天堂大学って皆さんご存知でしょうか?陸上・競走競技好きな私としては、箱根駅伝の常連校のイメージが強かったりしますが、この順天堂大学の創始者が佐藤泰然と云われているんですよね。

蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ。というのが東日本のその道の志望者の常識になりはじめているが、その塾は、良順の実父佐藤泰然のひとりの手で興った。ただ、佐倉十一万石の領主堀田正睦が江戸城の茶坊主あたりのあいだで『西洋堀田』というあだなをつけられたほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつとなっている。(司馬遼太郎氏『胡蝶の夢』より)

佐藤泰然信圭のぶかどは、天保元年(1830)、蘭方医を志し足立長雋ちょうしゅんや高野長英に師事。同6年(1835)、長崎に遊学して蘭方医J・ニューマンに西洋医学を学び、江戸に戻った天保9年(1838)、江戸両国薬研堀やげんぼり(現、東京都中央区東日本橋)の薬研堀不動院内に蘭方医学塾「和田塾」を開設。この塾こそが日本最古の西洋医学塾であり、現在の順天堂大学の起源とされています。

天保14年(1843)、泰然は下総しもうさ佐倉藩主・堀田正睦まさよしに招聘され、佐倉に移り住み、佐倉本町に病院兼蘭医学塾「順天堂」を開設。「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極め、全国に名声が及びました。

この「佐倉順天堂」から多くの人材が育つ事になります。主だったものとして―
  • 養嗣子・佐藤尚中たかなか(私立の「順天堂医院」、すなわち東京順天堂の創設者)
  • 次男・松本順(良順)(松本良甫の養子、将軍侍医、初代陸軍軍医総監)
  • 五男・林董三郎(ただす)(林洞海の養子、外交官・政治家・外務大臣)
  • 長女・つると結婚する林洞海どうかい(蘭方医、幕府奥医師)
  • 孫・佐藤百太郎ももたろう(佐藤尚中の長男、ニューヨークで明治9年(1876)に日本で最初の百貨店「日本米国用達社」(Japanese American Commission Agency)を営業する)
  • 孫・榎本多津(林洞海とつるの長女、榎本釜次郎=武揚)に嫁ぐ)
  • 孫・赤松貞(林洞海とつるの次女、赤松則良に嫁す。長女の登志子は森鴎外の先妻で於菟の母にあたる)
  • 孫・西紳六郎(林洞海とつるの六男、西にしあまねの養子となる、海軍中将、貴族院議員、宮中顧問官)
といった顔ぶれです。泰然は実子は他家に出して、優れた弟子を後継者に選ぶという不文律があったようです。

因みに、私が初めて佐藤泰然の名前を知ったのが、日テレ系年末時代劇スペシャル「五稜郭」でした。主人公は里見浩太朗さん演じる榎本釜次郎(武揚)ですが、上記のごとく、その妻・多津が泰然の孫娘なんですね。その時、順天堂大学の由来やそれこそ、松本良順や林董の閨閥の凄さを感じた訳です。

佐倉城主堀田氏

江戸時代初期の慶長15年(1610)に徳川家康の命を受けた土井利勝が下総国印旛いんば郡佐倉(現、千葉県佐倉市)の領主になり、翌16年(1611)から7年の歳月をかけて、佐倉城が築城され、その周辺に城下町が形成されます。

以来、佐倉城は江戸防衛の東の要衝&西国大名により江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代の有力大名たちが封ぜられる要地となり、幕藩体制期を通じて幕府の要職(老中職など)に就いた者が多数を占めた事から“老中の城”とも呼称されます。

幕藩体制下の258年間の佐倉藩政で、実に12家23代の城主が就任。その中で141年近く城主を務めたのが堀田家です。

その所領範囲は、下総国の印旛、千葉、埴生はぶ、海上、匝瑳そうさ、香取各郡の内、上総かずさ国の山辺、武射むしゃ、長柄、夷隅いすみ望陀もうだ、市原各郡の内、合わせて6万石。さらに出羽国村山郡の内、蔵王の山麓付近である蔵王、長谷堂、村木沢、飯塚、船町など46か村、合わせて4万3千石余などの飛地を陣屋(柏倉かしわぐら陣屋)を構えて入り組み支配し、それに幕府要職としての役知料1万石の計11万石が領知高として宛行あてがわれました。

そうした中で、幕末期に藩主の座にあった堀田正睦は「蘭癖らんぺき大名」と称されるほど蘭学を奨励し、文武両道だけではなく、医学を加えた、いわば総合大学としての機能を持たせた藩校「成徳書院せいとくしょいん」を創ったり、杉田成卿(杉田玄白の曾孫)や佐久間象山らに蘭学・兵学を学んだ木村軍太郎を勤仕させて藩の兵制改革を断行したり、長崎の高島秋帆に砲術、江戸の坪井信道に蘭学を学んだ手塚律蔵を蘭学・英学の教官として招聘し、江戸藩邸で教育を勧めます(のちの又新塾)。

そうした人脈の中に、佐藤泰然もいて、彼も堀田正睦の招きに応じて「佐倉順天堂」を開く事になり、その結果として、多才な人材が育成され、明治初期の学問分野をリードする訳ですね。

調べていて、特筆すべき点は、本藩・佐倉領の藩校「成徳書院」の分校が柏倉陣屋にも築かれ(「北庠ほくしょう」)、そこでは武士身分だけでなく領地内の百姓たちも学んでいたと云います。これって、当時としてはかなり開明的な教育方針ですよね。堀田氏は家臣団の人材育成だけではなく、領民たちの(村役人への)人材育成も尽力していたんですね。そう考えると、明治以降、民権運動が盛んになりますが、この地域はどうだったのだろう?って新たな興味が芽生えそう!

維新後、最後の藩主・堀田正倫は華族令によって伯爵を授爵します。その孫である正久は昭和34年(1959)に第3代佐倉市長に当選、昭和50年(1975)まで四期に亘って務め、彦根市長となった井伊直愛氏共々、“殿様市長”と愛された。

“西の長崎、東の佐倉”

「佐倉順天堂」における医療ですが、
  • 当時の「順天堂」には病室がなく、患者の宿泊する旅館を病室としていた、
  • 手術をする際、『手術承諾書』と手術により死亡した場合、佐倉に埋葬するために必要な書類などを患者に提出させていた、
  • 往診も行っており、藩領外や長期にわたる場合は藩からの許諾を受けていた、
など、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が入門しため、「佐倉順天堂」は「日新の医学、佐倉の林中より生ず」と謳われました。

そもそも、幕末の、しかも開国以前の西洋医学の普及は、長崎では直接外国人医師から教授を受け、江戸では翻訳書から学習する、という状況だったので、地方に住む医師たちは江戸や長崎に遊学して学問を究めようとしました。

開国以降、江戸幕府が公式に招聘した蘭方軍医・ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)(以下、ポンペ)が長崎奉行所西役所医学伝習所(のちに精得館)において医学伝習を開講します。

「佐藤順天堂」からも万延元年(1860)に藩命で佐藤泰然の養継子・尚中や松本良順、司馬凌海りょうかい、関寛斎かんさい、佐々木東洋らが遊学し、ポンペから系統的な蘭医学を学び、西洋近代医学を教授されたのです。

尚中たちは佐倉に戻るや早速、佐倉藩医として医学改革を実施。「佐倉順天堂」での教育だけでなく、佐倉の医療制度の改革も行いました。

実際、佐藤尚中の長崎遊学に泰然は反対していたようですが、こうして西洋医学発展の中心は長崎から江戸へ移行していき、当時の蘭学の東西の双璧として“西の長崎、東の佐倉”(東の佐倉「順天堂」、西の長崎「精得館」)という語が生じたのですね。

明治に入り、明治6年(1873)に下谷したや練塀町ねりべいちょう(現、千代田区神田練塀町)に順天堂医院(現、順天堂大学医学部付属病院)を開院。その後、同8年(1875)、下谷練塀町から湯島、本郷(現、東京都文京区本郷)に移転します。すなわち東京順天堂の創設です。

一方、「佐倉順天堂」は尚中の養子となった佐藤舜海が受け継ぎ、医療活動を続けられました。

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現在、佐倉市では“蘭学のまち”として小学校の頃から副読本『みんなのさくら』などに佐藤泰然や「佐倉順天堂」の事を記載して、教えているそうです。

なかなか良い事ですね!“わが街”自慢もできないのって寂しいし…

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※(参考)木村礎「堀田佐倉藩の家臣団と藩領」(村上直編『木村礎著作集』第3巻所収、名著出版)
※(参考)木村礎・杉本敏夫共編『譜代藩政の展開と明治維新 下総佐倉藩』(文雅堂銀行研究社)

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