平成25年は会津鶴ヶ城落城から145年目…まずは新春ワイド時代劇「白虎隊~敗れざる者たち」で幕開け!

「白虎隊~敗れざる者たち」

毎年恒例、正月2日にテレビ東京系列で放送される新春ワイド時代劇に「白虎隊~敗れざる者たち」と決まりました。

物語は、会津藩主・松平容保かたもりが京都守護職を拝命し、悲劇の幕が開ける文久2年(1862)から、戊辰戦争を経て会津の地に再び春の予感がし始める慶応4年(1868)頃までの、激動の約7年間を中心に、どちからと言えば悲劇になりがちな白虎隊の物語を会津藩家老・西郷頼母たのもの一家を中心にホームドラマチックに描かれる模様。

番組の概要はこんな感じ―

幕末の会津。会津藩家老・西郷頼母は、妻・千重や自身の親兄弟・子供たちと質素ながらも仲睦まじく暮らし、家老職の一方で藩校「日新館」の指導者としても少年たちの鍛錬に尽力していた。

しかし文久2年(1862)、会津藩主・松平容保が京都守護職に任ぜられた事で状況は一変する。当時、幕府の威信が低下する中、京には尊王攘夷派の過激浪人らが集い、治安は悪化の一途を辿たどっていた。そんな中で幕府は京都守護職を新設し、会津藩の優れた武勇で不逞ふてい浪人を一掃しようとしたのだった。

会津藩の切迫した財政を知る頼母は、京都守護職を返上するよう強固に主張する。会津藩江戸屋敷まで出向き藩主・松平容保に直訴するが、義に厚い容保は聞き入れず、病弱の身を押して京へ向かうのだった。

京都守護職は新選組を配下に置き、攘夷派を厳しく取り締まったが、それは薩摩や長州の激しい憎悪を買うことを意味していた。会津藩は否応いやおうなく、混乱する政局の中心に巻き込まれて行くのだった…

というもの―さて、主な配役陣ですが―
  • 西郷頼母たのも近悳ちかのり(会津藩家老=家禄1700石)=北大路欣也さん
    →西郷家は菊池氏系で西郷隆盛とは同族、維新後は、母方の保科姓に改姓

  • 頼母の妻、千重=黒木瞳さん
  • 頼母の母、律=渡辺美佐子さん
  • 頼母の妹、眉寿みす=国仲涼子さん
  • 頼母の妹、由布ゆふ=前田亜季さん

  • 飯沼貞吉(頼母の甥、白虎隊士中二番隊所属)=中村蒼さん
  • 井深いぶか茂太郎重應(頼母の甥、白虎隊士中二番隊・記録役)=西井幸人さん
  • 篠田儀三郎(白虎隊士中二番隊・嚮導〔=副隊長〕 )=須賀健太さん
  • 日向ひなた内記ないき(白虎隊士中二番隊・中隊頭)=山田純大さん
    →のち、籠城戦では白虎隊の生存者で構成された合併白虎士中隊中隊頭にも再任される
  • 中沢鉄之助(会津藩士、眉寿の許嫁)=渡辺大さん
    →蛤御門の変の際、御所唐門からもん宜秋門ぎしゅうもん〕で戦死
  • 秋月悌次郎ていじろう胤栄(会津藩公用方用人)=山下規介さん
    →維新後は、胤永かずひさと改名

  • 神保じんぼ内蔵助くらのすけ利孝(会津藩家老家禄1000石、内蔵助個人の功績で200石加増=1200石)=石田太郎さん
  • 田中土佐玄清はるきよ(会津藩家老=家禄2000石)=寺田農さん
  • 萱野かやの権兵衛ごんのひょうえ長修ながはる(会津藩家老=家禄1500石)=小林稔侍さん
    →会津戦争を引き起こした責任者として処刑

  • 松平容保かたもり(陸奥国会津藩・第9代藩主、京都守護職)=伊藤英明さん

  • てる姫(容保の義姉、のち照桂院)照姫=水野真紀さん
    →上総飯野いいの藩の第9代藩主、保科正丕まさもとの娘、松平容敬かたたかの養女となり、豊前中津藩・第8代藩主、奥平昌服まさもとの正室となるが離縁され、会津藩江戸屋敷に暮らす、のち容保と共に会津に移る

  • 土方歳三(新選組・副長)=岸谷五朗さん
  • 芹沢鴨(浪士組筆頭局長)=隆大介さん
  • 近藤勇(新選組局長)=梨本謙次郎さん

  • 会津の名主・治兵衛(頼母とは旧知の仲)=中村嘉葎雄さん
らの皆さんが競演されますよ!

― ◇ ◇ ◇ ―

来年は“Year of 会津”って感じですね。まずはテレ東系での放送から!それで日曜日のNHK大河ドラマ「八重の桜」って流れですか(笑)

私自身、会津戦争に関してはNHK大河ドラマ「獅子の時代」(昭和55年=1980)と日テレ系年末時代劇スペシャル「白虎隊」(昭和61年=1986)での映像シーンが基本ですが、まだ発表されていない配役陣としては山川大蔵、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)、中野竹子などに注目でしょうかね!

「白虎隊~敗れざる者たち」から西郷家の女たち

その中でも一番の注目は、このドラマ的には西郷頼母の親族を中心に登場している様なので、慶応4年(1868)年8月23日に鶴ヶ城下の頼母やしきで親族21名が自決したシーンは外せないでしょう。

頼母の母・律(58歳)、妻・千重(34歳)、妹・眉寿(26歳)、妹・由布(23歳)、長女・細布たえ(16歳)、次女・瀑布たき(13歳)、三女・田鶴たづ(9歳)、四女・常盤とわ(4歳)、五女・すゑ(2歳)、そして祖母(80余歳)の9名は、戦争するにあたって、戦力にならない婦女子は足手まといにしかならないからと、壮烈な自決を果たすのです。

しかも悲しみの連鎖は続くもので、城内に籠もる会津兵らは攻城戦をするにあたり、戦略的にみて武家屋敷が攻撃に支障をきたすとみて、城内から火矢を放ち、頼母邸周辺の武家屋敷をことごと焼き払ったのです。

不幸にも、飯盛山麓からその黒煙を見た白虎隊士たちは鶴ヶ城が炎上している、と見誤ってしまい、“白虎隊の悲劇”が生じてしまったのです。

話を戻して―

私がこの一族自決のシーンを初めて観たのが、上記したようにNHK大河ドラマ「獅子の時代」の第9話「アームストロング砲」という回です。

この時は西郷頼母の親族という設定ではなく、一方の主人公である平沼銑次の一族が自決を果たすというもので、“ばばさま”である浦辺粂子さんが銑次の母である嫁に介錯されるシーンは何とも言えず涙が止まらなかった事を憶えています。

それが、頼母の親族として場面に登場したのが、同じく日テレ系年末時代劇スペシャル「白虎隊」です。

この時のイチ押しのシーンが頼母の長女である細布が自決するも、急所を外していてまだ息があり、その状況を目撃した土佐藩士の中島信行(※)が介錯する―というシーンでした。

※ 土佐藩士の中島信行
実のところ、中島信行、すなわち当時「中島作太郎」「明治改元をまたず、徴士にとりたてられ五月十九日外国官権判事を仰せ付けられる。その四日後の二十三日には開港問題のくすぶり続ける兵庫の県判事として…(後略)…」(『中島信行(作太郎)伝』)と、また「明治元年五月廿七日、兵庫県ヲ置カル、判事伊藤俊助(博文)ヲ以テ県知事ニ任シ、東條慶次・中島作太郎(信行)ヲ以テ判事ト為ス」(『兵庫県史料第2編 県治第1冊』(国立公文書館所蔵)とあるように、慶応4年(1868)5月23日に新設された兵庫県の県判事(=副知事クラス)に任官しており、会津へは出征していません。

つまり、西郷細布を介錯したのは「中島作太郎」ではないという史実が確証立っている訳です。

この場面が知られた原本資料は、明治29年(1896)に頼母自身が執筆した私家版『栖雲せいうん記』で、そこには土佐藩士でなく「薩摩国人・中島信行」と書かれてあったのです。

頼母没後の大正2年(1913)に『栖雲記』は公刊されるのですが、その際に編者が註書きとして「土佐の人(故人、男爵)中島信行」と訂正しちゃったようで、これが後々まで誤解を生じさせたのです。

昭和8年(1933)、山川健次郎が監修した『会津戊辰戦史』では『栖雲記』からの引用と断わって「土州藩・中島信行」と記されています。

では、一体誰が西郷細布を介錯したのか?

高知の郷土史家でおられる平尾道雄氏は迅衝隊の差使役(斥候?)だった「中島茶太郎説」を採っておられます。

東山道方面軍を任され、会津に出征した土佐藩の主力部隊は乾(板垣)退助率いる迅衝じんしょう隊。

その迅衝隊に大軍監として行動を共にした谷干城が執筆した『谷干城東征私記・日記』の中にも「中島茶太郎」の名が記されていますが、真相は如何に!

…とは言っても、一般的に流布して来たのは「中島信行」なので、ドラマ的には問題なしですけどね(笑)

歴史ドラマっていうのは、歴史小説を原作に、モチーフに脚本・アレンジした作品であって、新たな史実をドラマの場面に反映させたいのなら、新たな史実を踏まえた原作を制作したモノを脚本・アレンジすればいいのですから(笑)


西郷頼母をベースに描くのならば、この西郷一族の悲劇はやはり外せないですよね!

脚本もジェームス三木さんという事ですので、盛り込める要素はふんだんにあると期待してますが…

テレビ東京系時代劇「白虎隊~敗れざる者たち」は、来年1月2日(水)午後5時から一挙7時間かけての放映です!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「白虎隊」
※(参照)新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛~」
※(参照)新春ワイド時代劇「柳生武芸帳」
※(参照)新春ワイド時代劇「寧々~おんな太閤記」
※(参照)新春ワイド時代劇「徳川風雲録」
※(参照)新春ワイド時代劇「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」
※(参照)新春時代劇ワイド「国盗り物語」

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック