「名古屋コーチン」とは、愛知県特産である鶏の肉用品種です。後に「名古屋種」と改名されますが、現在も「名古屋コーチン」という名称のままで流通がなされています。
「名古屋コーチン」は、愛知県農業総合試験場で改良された品種で、愛知県畜産総合センター種鶏場から供給された種鶏から生産された鶏を指し、愛知県周辺部を中心に日本各地で飼育されています。
その「名古屋コーチン」を作出し、“生みの親”とされるのが、尾張名古屋藩士、
明治以前の日本では、闘鶏用の
ただ、尾張名古屋藩に限っては、古くから卵や肉を売るための養鶏が行われていた節があった様なのです。
江戸時代後期の安政年間にもなると、地鶏や軍鶏を掛け合わせて改良させ、卵をよく生む雑種を作出していた人がいたようです。
明治維新後、維新政府は版籍奉還に伴う禄制改革 、廃藩置県に伴う秩禄処分を断行。士族の大多数が失業を余儀なくされます。
維新政権の初期段階では、地租改正に反対する農民一揆や秩禄処分に反対する士族の反乱が悩みの種でもありました。
その様な中で、最終段階の秩禄処分によって家禄収入さえも失った士族たちを転業させ、何らかの職業に就かせるために生活救済を図った維新政府の政策を士族授産といいます。
現在でいえば、ハローワーク(職業安定所)で募集されている求職者支援制度の教育訓練制度とか職業訓練制度に該当するのかな―
士族授産で成功する例としては、静岡の茶園、岡山の紡績、広島の綿糸紡績、鹿児島の薩摩縞、福岡の久留米
尾張名古屋藩も同様に士族授産を試むのですが、職を失った士族の転業を支援するための各種支援講習の中には養鶏部門があった様で、藩士の中には養鶏業を始めた人が多くいた模様です。こうした士族たちを“名古屋のサムライ養鶏”と呼んでいたとか―
そうした“名古屋のサムライ養鶏”の中に
海部家はその先祖・海部定右衛門正親以来、海部流砲術を伝来し、代々尾張名古屋藩の砲術指南役を務めていました。
兄の壮平は明治4年(1871)、25歳の時に父・
弟の正秀は幼い頃に同族で尾張国愛知郡桑名町(現、愛知県名古屋市中区錦、栄、広小路辺り)に住む海部市郎の許に養嗣子となり、兄の壮平より早くから養鶏に取り組みます。
どうやら、壮平らが幼い頃、自宅近くの武士が内職で鶏を飼っていた事もあり、その影響を受けて養鶏業に関心があったようです。
当初は名古屋在来の地鶏を育てていたのですが、体格が小さく(→雌で1kg弱)、産卵数も少ない状態でした。
そこで「九斤」(一説には、中国より輸入した「バフコーチン」)という品種の鶏と交配をして体格を大きくし、卵をたくさん産む品種を作ろうと考えたのです。
その甲斐あってか、明治15年(1882)頃、体が大きく、卵もたくさん産む「薄毛」が誕生したのです。
ところが、その矢先に「家
しかし、明治21年(1888)に正秀らは同志たち6名と「愛知種鶏場」を設立し、こので洋種鶏10種類を飼育し、改良を図った結果、改良「薄毛」が誕生します。
壮平と正秀にとって、養鶏の方法も品種改良の仕方も教えてくれる人がいないし、全く手付かずで臨んだ養鶏業ですが、そんな血の
壮平はこうした努力とその経験を『養鶏方案』という著書にまとめ、明治23年(1890)に東京・上野で催された第3回内国勧業博覧会で三等有功賞を受賞します。
壮平はまた近隣の農家にも養鶏を奨めて種々の便宜を図ったため、池之内地区は一大養鶏地として全国に知れ渡る様になり、その広がりは全国各地からの問い合わせが殺到するなど、各地から数多くの人々が見学や購入に訪れたそうです。
こうして改良「薄毛」は「海部鶏」、或いは「海部の薄毛」と呼称され、普及していきます。
そんな最中の明治28年10月1日、海部壮平は過労死で死去します。享年49歳。
その後、「海部鶏」「海部の薄毛」は、名古屋地方を中心に京都や大阪にまで広く普及し、何時の頃からか「名古屋コーチン」と呼ばれる様になり、明治30年代前半頃には定着をみます。
その後、明治38年(1905)には日本家禽協会によって、初の「国産実用鶏」第1号に認定されるのです。
ちなみに、大正8年(1920)にさらに改良(育種)され「名古屋種」と改名し現在に至っていますが、現在に至っても「名古屋コーチン」として流通しています。
私が住む京都は鶏肉の消費量が日本で2番目に多いとされています。
我が家のカレーライスにいれる肉にも決まって鶏肉が入ってます。
お店に買い物に行く際でも、「かしわ
そして、お店自体も「かしわ専門店」(=かしわ以外の肉は売ってません!)に買いに行ってます。
調べてみたら、鶏肉の事を「かしわ」と呼んでいるのは、名古屋以西の東海圏と関西圏までなんだそうです。
「かしわ」って表現自体が元々「名古屋コーチン」を指していて、それこそ、「名古屋コーチン」の普及度を端的に表したのが「かしわ」の呼称に通じる様ですね!
さて、この海部壮平らと共に養鶏業を行おうとした同藩士の「帰田願」というものが発見されたそうです。
発見されたのは尾張藩士・平井理右衛門の「帰田願」。
「帰田願」とは、尾張名古屋藩が明治3年(1870)11月に、武士に俸禄を返上させ、不毛地に入植させる代わりに支払う手当金制度について説明した「帰田の御触」に伴い、希望する者が提出した願書。
「帰田」は帰農と同義語で、武士が俸禄を返還する代わりに土地を持ち、農業に従事する事を指します。家禄が十分に支給されない士族たちに、土地(田畑)の所有を許可し、地主や自作農として生計を立てさせるのを目的としています。藩側としては、家禄の返還などで藩の財政負担が軽減される事を見込んで、藩士たちが帰田する事を認めます。現代風にいえば、大幅なリストラの前の早期希望退職を募ったものと言えるでしょう。
方今之時体を相弁、帰田相願候段奇特之至ニ付、速ニ施設可致候得とも猶銘々暮方之都合も可有之与帰田均禄両様を以朝廷江奉伺候処、伺之通被仰出候付帰田相願候者ハ、別紙之通従前之高ニ随ひ年限を以御手当被下置其余ハ従前之高ニ不抱、悉皆現石拾七石五斗之均禄ニ相成筈候、最帰田之者与いへとも士格ハ是迄之通可被成下候間、最前之願ニ不抱(拘)、今一応篤与致勘考両様之内取極、当月晦日迄ニ可申出事意味合いはこんな感じ―
但帰田之上士格を離、農商之籍ニ帰度志之者ハ、書付を以可願出候
且卒之内帰田いたし度者ハ右ニ准シ御手当可被成下事
一帰田不相願均禄相成候輩在住いたし度志有之候ハヽ、其段願出不苦事
庚午
十一月 名古屋藩庁
帰田を願う者は、…(中略)…これまでの禄高に従い、年限をつけ手当金を下され…(中略)…るはずである。…(中略)…今一度十分に考え、両方の内どちらかを決め、今月末までに申し出ること。
ただし、帰田の上、士格を離れ農商の籍になりたい者は、文書で願い出るように…(下略)…
(『御触留』より明治3年11月に出された“帰田に関するお触れ”「古文書解読講座-名古屋藩庁の記録-」より『愛知県公文書館だより』第13号、平成20年12月25日)
海部壮平や正秀、そして史料が発見された平井理右衛門らが「名古屋コーチン」作出に尽力していた場所は、これまでも小牧市が発祥の地とされてきましたが、具体的な場所は特定されていませんでした。
しかし、今回発見されたこの史料には、事業に従事する土地の詳細な地番などが記されており、その事から「名古屋コーチン」養鶏場のあった場所は裏付けられたとの事です。
余談ですが、
(参考)愛知の養鶏史編纂委員会編『愛知の養鶏史』
(参考)入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語 海部壮平は聖人となり小牧の池之内は聖地となる ~「養鶏も武士道なり」-海部兄弟の大いなる挑戦~』
(参考)落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』(中公新書)
この記事へのコメント
住兵衛
今回の記事を拝見して、大変勉強になりました。
折角ですから、この記事を参考にして周りの人間に、名古屋コーチンのうんちくを傾けてやろうかと目論んでいます。
今後ともよろしくお願いします。
御堂
ビジネスマナーの講座
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
御堂
士族授産については、私も最初は秩禄処分の例から、退職金はちゃんとやるから、後は自分で何とかしろよ、って感じで一切タッチしてなかったと思ってましたが、バックアップをしっかりしてたんですね。
今でいう名産がある場所は、商才次第で上手くいったのでしょうが、何せ「武士の商法」で行き詰った士族が多かったのではないかと感じます。
ps.ホント、私も「かしわ」って全国各地で呼称しているんだと思ってましたよ!
しばやん
私の母親も鶏肉を「かしわ」と呼んでいましたが、東京ではそのような呼び方をしないことを知って驚いたことがあります。
「かしわ」と呼ぶのは東海圏・関西圏だけだったのですね。