天慶の乱―ここでは平将門の乱に限定する―は「武者(武士)の登場」を促進させたと言われています。いったい何が要因だったのでしょう?天慶の乱を経過ごとに観ていきましょう…
承平8年(938)2月中旬頃、武
→律令制度下の官職は、長官・二等官・三等官・四等官の4等級から構成されており、それぞれ、
- 長官(かみ)
- 次官(すけ)
- 判官(じょう)
- 主典(さかん)
- 長官(かみ)=守
- 次官(すけ)=介
- 判官(じょう)=掾
- 主典(さかん)=目
- 大国
- 上国
- 中国
- 下国
その状況を見かねた平将門は紛争調停のため武蔵国府に閲兵行軍して興世王と武蔵武芝との間を取り持ち、両者は和解をみます。(『将門記』)
しかし、源経基は猜疑心から「興世王と平将門らに謀反の動きがある」として、帰京するや、興世王と将門らが共謀して謀反を謀っていると朝廷に告発するのです。(「経基、武蔵の事を告言す」『貞信公記』天慶2年3月3日条)
3月25日、将門の私君であり、時の太政大臣である藤原忠平が、私信として事の真意を問うため、
6月7日、経基の密告に基づいて、
6月16日、朝廷は除目によって、坂東国司の
→坂東の地は治安が悪く、兵乱の地であるというイメージが京にいる貴族全体に共有され、坂東の諸国司に限っては、押領使を兼任する先例がここに生じます。
6月21日付で相模・武蔵・上野権介に太政官符(追捕官府)が下されます。(本朝世紀』)
11月21日、常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点とし広大な私営田を経営していたが、常陸介・藤原
その中に、検交替使といって、前任の国司が任期中に亡くなった場合に都から派遣され、新任の国司との間で事務引き継ぎを執り行う使者がおり、その検交替使までも将門は監禁してしまいます。
朝廷側の認識として、この時期までの将門と敵対する者との争いはあくまでも私戦とみなしていますが、検交替使は詔使(天皇の詔により任命・派遣される使者)であったため、将門の行為は天皇の命令に反する行動となり、これを期に将門の戦いは私戦から国家に対する叛乱という形に政策が転換されていきます。
そうして、12月2日に常陸国府から将門と興世王らが常陸国に損害を与えたとの一報(『日本紀略』)が都にもたらされて以降、同月27日付では、
総国豊田郡武夫、平将門并に武蔵権守従五位下興世王等を奉じて謀反し、東国を虜掠す
という知らせが都の貴族たちを震撼させます。(『日本紀略』天慶3年12月27日条)
そのような中、明くる天慶3年(940)正月11日付で将門を討伐した者に恩賞を与える旨の太政官符(追捕官府)が東海道・
若し、魁帥(賊徒などのかしら、頭目)を殺さば、募るに朱紫の品を以てし、賜うに田地の賞を以て、永く子孫に及ぼし、之を不朽に伝えん。又、次将を斬る者は、その勲功に随いて、官爵を賜らん。(=首領〔→将門を指す〕を殺したならば、朱色や紫色の服を着る事ができる位を授けて田地を賜り、収公する事なく、子孫に伝える事を許し、次将を斬った者には、その勲功に応じて位を賜る事を約束する)
との恩賞を約束した。
服の色については、
- 一位…深紫(濃い紫)
- 二位・
三位 …浅紫の衣(薄い紫) 四位 …深緋 (濃い緋色…朱色)- 五位…浅緋(薄い緋色)
とあるので、朱紫の品とは五位以上の位階を約束した事になります。
さらに14日には坂東八ヶ国の
- 上総掾=平
公雅 - 下総権少掾=平
公連 - 常陸掾=平貞盛
- 下野掾=藤原秀郷
- 相模掾=橘
遠保
そうして18日には、藤原忠文が征東大将軍に任命され、忠文は2月8日に京を出発します。(『貞信公記』『日本紀略』『公卿補任』)
ところが、征東軍使が現地に着く前に―
天慶3年(940)2月14日、平将門が下野掾兼押領使藤原秀郷と常陸掾兼押領使平貞盛に誅されます。(『将門記』)
25日になって、信濃国府より朝廷へ平貞盛・藤原秀郷によって平将門が誅殺された旨(『日本紀略』)が届き、3月5日には藤原秀郷が平将門の誅伐に関する申文(任官を望む自己推薦状)を都に届けます。(『貞信公記』)
これを受けてか、朝廷は矢継ぎ早に9日付で平将門誅伐の恩賞として藤原秀郷を従四位下、平貞盛に従五位下に叙し、位階に見合った衣なども下賜します。(『貞信公記』)
また、18日には征東大将軍・藤原忠文から、
11月16日、朝廷は除目を行い、藤原秀郷を下野権守、平貞盛に
- 藤原秀郷=下野掾(従七位上相当)から従四位下・下野守、武蔵守へ
- 平貞盛=常陸掾(七位相当)から従五位下・右馬助へ
- 源経基=武蔵介(六位相当)から大宰少弐(正五位相当)へ
- 平公雅=上総掾(七位相当)から安房守(正六位下相当)へ
- 平清幹=上野介(六位相当)から因幡守(従五位下相当)へ
この結果、こうした者たちは「承平天慶勲功者」と呼ばれ、以後、「承平天慶勲功者」の子孫のみが「
では、当時の人々は「武者(武士)」をどう観ていたのでしょうか?貴族の日記や説話集に書かれたエピソードを見る事にします―
また、鎌倉時代中期に成立した説話集『
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に収められた説話によると、『尊卑分脈』に「強盗張本本朝第一武略、追討宣旨十五度」と記された盗賊・袴垂が夜道を一人で笛を吹きながら道を行く者の着衣を奪わんとしたが、恐怖から気押されて結局は襲えなかった…と言う逸話(『今昔物語』巻第25、第7話「藤原保昌朝臣、値盗人袴垂語」『宇治拾遺物語』第28話「袴垂、合保昌事」)が記されています。
保昌朝臣ハ家ヲ継タル兵ニモ非ズ、□ト云人ノ子也。而ルニ、露家ノ兵ニモ不劣トシテ心太ク、手聞キ、強カニシテ、思量ノ有ル事モ微妙ナレバ、公モ此ノ人ヲ兵ノ道二被仕ルニ、聊心モト無キ事無キ。然レ、世二靡テ此ノ人ヲ恐ヂ迷フ事無限リ。但シ子孫ノ無キヲ、家二非ヌ故ニヤ、卜人云ケルトナム語り伝へタルトヤ
『今昔物語集』では保昌の事を「「兵ノ家ニテ非ズト云へドモ、心猛クシテ弓箭ノ道二達レリ」(『今昔物語集』巻第19、第7話「丹後守保昌朝臣郎等、射テ母ノ成鹿ト出家語」)と「
以上の2人には共通項があって、源頼信や平致頼・平維衡のような「
この時代というのは、藤原北家、その中でも摂関家となった御堂流が“わが世の春”な時期であり、他の藤原氏と言えども御堂流と縁戚関係を結ばぬ限り、出世など見込めなかったほどです。
そういえば、今年の大河ドラマ「平清盛」でも同じく藤原南家の出である藤原通憲(のちの信西)が平家軍が海賊討伐に出向いた際に潜り込んで、「この国の政治は門閥主義だから、人材登用主義な彼の国〔=中国・宋〕に渡りたい」と語らせてましたね。
いかに武芸に優れていた藤原範基や藤原保昌であっても、「
天慶の乱から半世紀を経た頃、一条天皇の治世に輩出した有能な人材のうち、武者として源満仲・源満正(政)・平維衡・平致頼・源頼光を挙げています。彼らこそ、その時代を代表する武者であり、典型的な「家ヲ継タル
佳句既多悉在人口、時之得人…(中略)…武者則満仲、満正、維衡、致頼、々光、皆是天下之一物也
同じく、一条天皇の治世の長徳2年(996)5月に起こった藤原伊周・隆家父子が失脚した長徳の変の際に内裏の警固として動員された「つわ物ども」として、「陸奥国前守
「承平天慶勲功者」の家が「
こうしてみると、武者(武士)の条件とは、個人的に武芸が優れている事ではなく、特定の“家”、すなわち「
そして、その「
(参考)佐藤哲「今昔物語集における『兵ノ家』の位置―巻ニ十五の構成意識を中心として―」(『語文』72)
(参考)高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会)
(参考)川尻秋生『平将門の乱』(『戦争の日本史』4)(吉川弘文館)
(参考)木村茂光『中世社会の成り立ち』(『日本中世の歴史』1)(吉川弘文館)


この記事へのコメント
御堂
>出自を重んじる傾向は昔も今も同じということなのでしょうか
私が思うのには、そういった風潮こそが日本らしい所ではないのかな、と考えます。
ただし、あと10数年かしたら、この風潮も変わる可能性があるかも…
日本の教育の学習指導要領に「個人主義の促進」がはっきりと明文化されたのが、昭和60年(1985)の指導要領改訂からだそうです。
それまでの学習指導要領には「団体生活の意義」だったり、「グループ社会の尊重」などが盛り込まれていたのですが、昭和60年(1985)の指導要領改訂を境にがらりと変わっちゃいましたね。
おかげで「ゆとり世代」という悪弊も生じてしまいました…
私個人の思いからすると、“昔の方がどんなに良かったか!”という感じです。
しばやん
「武者(武士)の条件とは、個人的に武芸が優れている事ではなく、特定の“家”、すなわち「兵つわものの家」と呼ばれる、武芸を家業とする特定の家柄の出自に属している事が重要」だったということは初めて知りました。いつも勉強になります。
いまの政治家は二世議員や三世議員だらけですし、芸能界も経営者も同様のように思います。
出自を重んじる傾向は昔も今も同じということなのでしょうか。