「出口のない海」という映画が公開されています。
(1)「人間兵器」で“海の特攻兵器”と呼ばれた人間魚雷「回天」に搭乗した青年…
(2)野球をこよなく愛し、中等野球で優勝投手になった青年…
それが、市川海老蔵さん演じる主人公・並木浩二のキャラクターです。
(1)だけで言うなら、
東京帝国大学法学部出身のの和田稔氏という海軍士官がモデルの様ですね。
彼は昭和20年(1945)7月25日、回天の訓練中浮上できず行方不明となってしまいます。米軍の空襲が激しく救助もままならないので殉職とされるのです。享年23歳という人生でした。
その年の9月、枕崎台風の波により岸に回天が海岸に浮上し、潮流にのって近くの長島に打ち上げられます。
占領軍の監視下で、その打ち上げられた回天は旧日本兵の手で蓋が開けられると、胡坐姿で眠っているかのような和田稔氏の姿があり、回収された後、荼毘に付されたと云います―
(2)のようなエピソードを絡めた時、
映画の予告編や宣伝広告などを見て、「甲子園の優勝投手で、明大出身?」と知った時、ある人物の姿が頭に浮かび上がりました。
その人物とは、嶋清一選手です―
嶋選手は海草中(和歌山県、現向陽高)時代の昭和14年(1939)の第25回夏の選手権で出場した全5試合を完封シャットアウト。しかも、準決勝の対島田商(静岡県)戦と決勝の対下関商(山口県)戦で連続ノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成した投手です。(記憶に新しいところでは、平成10年=1998=の第80回夏の選手権の決勝の対京都成章=京都府=戦でノーヒットノーランを達成した松坂大輔選手(神奈川県、横浜高、現西武ライオンズ)を想い出されますね)
ちなみに、「巨人の星」の星飛雄馬は、この嶋選手をモデルにキャラクターされたのだそうですよ。
なるほど、並木浩二のキャラクターイメージは、嶋選手なのか…と感じたわけです。
ただ、嶋選手だけがキャラクターイメージではなさそう…と思ったのは、並木浩二は六大学に入ってから、肘を壊してしまい、新しい「魔球」を完成させて再びマウンドに!と夢見ていたのですが、回天に搭乗する寸前の並木浩二と整備員のキャッチボールのシーン―
このシーンって特攻隊員として沖縄の海に散った石丸進一選手を思い起こしてしまいます。
石丸選手は佐賀商(佐賀県)出身で、「名古屋軍」(現在の中日ドラゴンズ)に所属していたが、日大の夜学にも在学していました。
石丸選手は学業優先での事でしょうが、当時の大日本帝国憲法下では軍に入りたくない(徴兵忌避)の手段の1つに大学に入っておれば安全、って事がありました。
しかし、軍国主義の下ではそれが良しとされなくなり、結局は学徒出陣が生まれちゃいます。(何せ、国家総動員、国民徴用ですから…)
石丸選手も学徒出陣により召集され、神風特攻隊作戦で零戦に搭乗して沖縄に出撃し、還らぬ人となります。プロ野球では唯一の特攻での戦死者です。
その石丸選手が、特攻出撃を前に仲間を相手にキャッチボールしたエピソード(「最後のキャッチボール」)があって、それが思い浮かんでしまいました。(以前観た映画で、石丸選手を描いた「人間の翼―最後のキャッチボール」などから…)
戦後61年、野球が好きで甲子園や神宮や職業野球の場での活躍を嘱望されながら、戦争という荒波にその命を散らせた選手が数多居られます。
僕が特に印象的なのは、昭和11年(1936)の第22回夏の選手権に優勝した岐阜商(岐阜県、現県岐阜商)のメンバーの方々で、実に6人が戦争で亡くなっておられます。
投手だった松井栄造選手。
松井選手は昭和8年(1933)の第10回春の選抜、同10年(1935)の春の選抜、同11年(1936)の夏の選手権の優勝投手で、岐阜商優勝4回のうちの3回が松井選手の怪腕によって成されました。しかし、昭和18年(1943)5月、中国湖北省宣昌県桃家坊で頭部貫通銃創で戦死されます。享年25歳。
捕手だった加藤三郎選手。
昭和20年(1945)4月、最初の神風特別攻撃隊として沖縄の艦船目指して出撃し、戦死。享年26歳。
二塁手だった長良治雄選手。
昭和20年(1945)5月、沖縄へ弾薬を輸送する船舶隊を指揮して米軍機に攻撃され戦死。享年26歳。
三塁手だった加藤義男選手。
昭和17年(1942)12月、ビルマ(現在のミャンマー)・ラングーン郊外で乗っていたトラックが転覆、野戦病院で手当てを受けたが、ほぼ即死していた。享年22歳。
遊撃手だった近藤清選手。
昭和20年(1945)4月、2度目の神風特別攻撃隊として沖縄の艦船目指して出撃し、戦死。享年22歳。
マネージャーだった市川清美さん。
昭和16年(1941)に中国方面(満州か?)で戦死。享年22歳。
―以上6人の方々です。現在、高校野球は毎年盛り上がりを見せていますね。毎年8月15日には、無念にも戦争で命を散らせた大先輩の球児の方々の冥福を1分間の黙祷で悼みますよね。(その日の試合に重なった現代っ子である高校球児たちは、インタビューにおいて「試合の事を考えていました」とか言ってるけど、自分たちが何不自由なく、野球ができる幸せの影にこういう方々の大きな犠牲があった事を感じてほしいものです。おそらく無理な話でしょうけど…)
チョット脱線しますが、僕自身、「戦争を知らない子どもたち」の部類に入ります。
ただし、僕の両親、昭和8年(1933)生まれの父、同10年(1935)生まれの母などは疎開や空襲を経験しています。
父の兄はレイテ島で脚を貫通銃創したのですが、不自由な身がらも農作業をしていたのを僕も憶えています。
母の叔父は美術家になりたい夢がありました。
でも、山師で大谷鉱山で指導していた母の祖父が反対したため夢を断念。
柔道の大会やスキーのジャンプ大会で優勝するなど体格も良かったがため、兵役検査で甲種合格になり、同じくレイテ島で戦死したそうです。(もちろん、遺骨だと渡された中身には遺骨など入ってませんし、遺髪もありません。だから靖国神社自体が“お墓”なんですけどね)
学校で教わった先生方も両親と同じような世代であったり、両親が学生時代に新任の教師になり立てだった先生に習っていました。(ちょうど僕が卒業した年に定年退官されましたが…)
…こんな風にまだ僕は体験談を話してくれる人が身近にいた分だけ、不謹慎ですが“戦争の恐怖”を一部分実感できています。
しかし今では、“「戦争を知らない子どもたち」の子どもたちの子どもたち”の世代であり、ましてや教師自体がそういう世代だったりします。
ますます“戦争の恐怖”が希薄化されてきているのが実情ですね。
でもそれはいけない事―
「出口のない海」はある意味、それを教えてくれそうな作品なのかもしれません…
つい先だっての話です。何気に新聞記事を読んでいたら、上記に記した、レイテ島で戦死した母の叔父の遺品らしき物…が写っていたのです。その遺品とは、母の祖父が写っている写真が入ったクリアファイルみたいな物を戦利品として持ち帰ったアメリカ兵が遺族に返還してくれ、と依頼した物なんだとか―(今頃になって何だよ、って思うけど…)
それで、母や叔父、叔母に話したところ(母たちは祖父母と一緒に暮らしていたから一番顔を知っているし…)写っていた写真の人は母の祖父であり、その持ち主が戦死したであろう母の叔父の遺品に間違いないと判明しました。
確実な遺品ではなかったので、ちょっと残念な感じですが、戦死されて60年が過ぎ、改めて母の叔父の本当に亡くなった場所が判明しただけでも、すごい事ですよね。(本当はもっと早くに判明して欲しかったけど、やっぱりこれだけの歳月を要さなきゃいけなかったのかな?とも感じました)
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