(トピックス)「信長平氏説」に一石!―始祖の墓発見 没年が判明

法楽寺で60年以上前に見つかっていた親真を供養した五輪塔の一部。親真の没年が刻まれている

福井県越前町教育委員会は1日、戦国武将、織田信長のルーツとされる福井県丹生郡越前町織田おたつるぎ神社に近い法楽寺で信長の十数代前の先祖と云われる親真ちかざねを供養した石造物が見つかったと発表しました。

見つかった石造物は60年以上も前に見つかっていたものですが、これまでは詳しく調べられておらず、改めて調査が施された結果、親真ちかざねを供養した五輪塔と呼ばれる墓の台座部分に当たる「地輪じりん」の破片(一辺が約22cmの立方体だったが、半分欠けていた)である事が判明しました。

法楽寺で60年以上前に見つかっていた親真を供養した五輪塔の銘文

側面には、
喪親真阿聖霊正應三年庚刀かのえとら二月十九日未尅ひつじのこく
裏面には、

孝子七月吉日
と銘文が刻まれており、親真ちかざねは正応3年(1290)2月19日に死去。孝行な子どもが5か月後の7月に建造した―」と読めるようです。

越前町教育委員会は石材の材質が鎌倉期から南北朝期に地元でよく使われた石材に酷似している点や、五輪塔の構造、銘文の文字の配列が鎌倉後期の特徴と合致する点を確認。親真ちかざねの没年を記載したものと判断されたようです。

一般に流布している、江戸時代に書かれた織田氏の系図では親真ちかざねの没年は正元2年(1260)とされていましたが、今回の発見から没年がそれよりも30年後と判明し、少なくとも壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した元暦2年(1185)の頃には生まれていない可能性が高くなりました。

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さて、織田氏のルーツには諸説ありますが、20種類以上も伝わる織田氏の系図のその多くが、親真ちかざねは壇の浦の戦い(元暦2年=1185)で死んだ平資盛たいらのすけもり清盛きよもりの孫)の実子で、壇ノ浦の前年、資盛すけもりは子を身籠っていた親真ちかざねの母を近江蒲生郡津田庄(現、滋賀県近江八幡市南津田町)に隠したと云います。

親真ちかざねの母はそこで親真ちかざねを産み、やがて津田庄の土豪の妻となり、親真ちかざねも津田の苗字を名乗りますが、その後、『古語拾遺こごしゅうい』という平安時代の神道資料を編纂した斎部いんべ(忌部)宿禰すくね広成ひろなりの子孫で、越前国丹生郡織田庄の剱神社の神官だった斎部いんべ(忌部)親澄ちかずみの養子となって斎部いんべ姓(※1)へ改め、神職につき、貞永2年(1233)剱神社神主となった折りに織田を苗字とし「織田三郎権大夫」と名乗ったという説です。

※1 斎部姓
斎部いんべ氏は延暦22年(803)に「忌部」姓から「斎部」姓に改姓している。


一方で、親真ちかざねを剱神社神官の斎部いんべ(忌部)氏の直系の出目とする説があり、同町織田に伝わる斎部いんべ(忌部)氏の系図では、親真ちかざね斎部いんべ(忌部)親澄と富田とみだ三郎基度もとのり(※2)の娘との間の子としています。この富田とみだ三郎基度もとのりが伊勢平氏の出自だったと云うんですね。

※2 富田三郎基度
富田とみだ三郎基度もとのりについては、伊勢国富田庄(現、三重県四日市市東富田町茶屋町)を本貫とした一族で、元暦元年(1184)7月から8月にかけて、平家継・平信兼によって引き起こされた伊勢平氏の乱に参加し、19日に近江国大原荘で討ち取られた侍大将の中に富田進士平家資(家助)の名が見られる。

また、元久元年(1204)4月10日から12日の3日間にかけて起こった三日平氏の乱にて進士三郎基度がその居館である富田館に籠城したという記載がみられる。(『吾妻鏡』)


また、織田庄の庄官だった藤原信昌、藤原将広父子が織田庄に土着した事で出自が始まったされる藤原氏説もありますが、これは明徳4年(1393)6月17日に劔神社に奉納し、置文を記した「藤原信昌・同将広置文」という古文書に由緒を求めているようです。

実際、織田信長は天文18年(1549)11月に熱田神宮に宛てた書簡に自ら「藤原信長」したためたり、天文23年(1554)6月11日に熱田神宮に対し、「菅原道真画像」を寄進した際にも「藤原織田勘十郎」と認めている事実が見られますが…

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越前町教育委員会の堀大介学芸員は「親真ちかざねが壇ノ浦の戦いの頃に生まれたとすると105歳近くで死亡した事になり、『信長平氏説』は理論上あり得ず、信長を作為的に繋げるため、親真ちかざねを系図上で利用したと考えられる」と指摘。

また、「劔神社の神官だった斎部いんべ(忌部)氏が織田氏の先祖である可能性が高くなった」と話している。

「信長平氏説」の否定に繋がる発見として一石を投じそうな感じですね!

この石造物は6日まで、同町の織田文化歴史館で公開されます。


この記事へのコメント

  • 御堂

    赤堀さん、こんばんは!

    歴史って面白いもので、理数系の学問のように「1+1=2」とは言い切れない所が好きです。

    今回の織田氏のルーツに関する発見によって、波及効果が現れると嬉しいのですが…

    >信長は、余程平家になりたかったのですね。

    そうですね。この時代、実力が伴っていても出世するための現実的要素はやはり「家格」「家柄」だと思います。

    信長の場合、足利氏に対抗する必要性があったのでしょう。但し、「源平交替思想」は足利氏が創作したものだというのが判っています。

    足利氏自身が源氏の嫡流ではなかったので、「過去を紐解いて、政権担当者は源氏と平家が交替で担って来ているんだ」という発想を世間に流布させてのだとか―

    のち江戸幕府が崩壊し、明治維新が始まった当初、廃藩置県までの期間は幕府があった頃は幕藩体制と呼ばれていましたが、維新政権の下では朝藩体制と言っていました。

    その維新政権での基本ベースとなったのが、旧態依然かもしれませんが、氏姓だと云われています。

    例えば、伊藤博文などは朝廷に参列する際には彼の姓名である越智氏を名乗っていたとか―

    いつの時代でも大事なのは「家格」「家柄」なんだな、と感じますよ!
    2011年11月03日 02:15
  • 赤堀芳男

    今日の読売新聞で読んだのですが、(三十年後の没年)がよく分かりませんでした。御堂さんの記事で良く理解できました。有り難うございます。それにしても信長は、余程平家になりたかったのですね。その時代は、氏姓が大切であったのだと思いました。
    2011年11月02日 16:35

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