
ロシア・サンクトペテルブルクの国立砲兵、エンジニアや信号隊の軍事歴史博物館(砲兵博物館)に収蔵・展示されている大砲が、日本で初めて大砲の量産化に成功した戦国時代の豊後国(大分県)の切支丹(キリシタン)大名、大友宗麟(義鎮)が所有していた、国内最古の1門「
ロシア国内に残る日本関連資料を調査している東京大学史料編纂所の保谷徹教授(幕末軍事外交史)らが昨年7月、同博物館に青銅製の大砲が収蔵されている事を確認し、今年9月に現地調査をしたところ、大砲は青銅製で、全長264cm、口径80㎜。「

戦国時代に日本で布教したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが
昨年7月の調査では製造地まで確定できず、ゴアで製造された大砲との見方もあったようですが、9月の現地調査に同行したに豊後中世砲史研究会(大分県臼杵市)代表の神田高士さんが、弾と火薬を込める薬室の外部に「
宗麟が「FRCO」の印章を文書に使ったのは天正7年(1579)から2年間とされるため、神田さんはこの大砲が天正7年から、宗麟が死去した同15年(1587)の間に製造されたと考察されるようですね。
幕末期の軍事・外交に詳しい保谷教授によれば、江戸時代後期、ロシア帝国皇帝・アレクサンドル1世の親書を携え、正式な使節団(第二次遣日使節)を率いて来日したニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ(Nikolai,Petrovich Rezanov)が通商交渉を求めますが、鎖国政策を取る徳川幕府はこれに応じませんでした。
日本側の対応に業を煮やしたレザノフは樺太島(現、ロシア連邦サハリン州、サハリン島)を調査探検し、日本の防備は極めて貧弱で、少数の軍艦を派遣するだけで樺太、千島、蝦夷を占領できると判断し、アレクサンドル1世に武力行使で日本に開国を促せようと樺太島や千島列島(現、ロシア連邦サハリン州、クリル列島)への軍事行動の許可を求めます。(但し、皇帝は裁可せず)
レザノフは海軍士官のニコライ・フヴォストフ中尉とガブリール・ダヴィドフ少尉に樺太島・千島列島の日本基地を攻撃する事を命じていました。
まず文化3年(1806)9月、フヴォストフらが樺太島のクシュンコタン(久春古丹、後に
同4年(1807)4月には、ダヴィドフらが
ロシア船による樺太島・択捉島襲撃の情報を受けた幕府は北方警備の強化を迫られ、全国諸藩から武器をかき集め、配備しようとします。(無論、幕藩体制下での武器兵器の所有権や利用権限を決定したのは幕府であったでしょうけど…)
その矢先の文化4年(1807)6月、利尻島に停泊していた日本の船の積荷が略奪され、船自体も焼払われるという事件が起こります。
「ロシア船利尻島で日本船四艘略奪」(『視聴草 』所載『利尻島津軽家書状』)
一 リイシリ島ニ而奪取られ候船者
…(中略)…
盤春丸 公儀御船ニ而軍用もの積入之分
…(中略)…
右盤春丸江積入候内大筒之内玉目八百目壱挺ハ往古太閤様朝鮮征伐之砌、彼地ニ手御手ニ入候 蛮国物之由 此度賊将得之而、名作六挺之内なりとて甚悦喜候由
…(下略)…
ロシア船は利尻島を来襲して番小屋を放火。また、同島に居合わせていた日本船も襲撃し、船内の目星い物品を全て奪い取り、船は焼払われたのですが、その中に幕府の御用船である盤春丸があり、軍用武器などを積み込んでいました。
大砲なども積載されていたのですが、なかでも800匁玉の1挺は豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に現地で入手した西洋製の大砲だったんですね。ロシアの軍人たちも名品だと大喜びだったようです。
この利尻島で
神田さんは「印章の存在や砲身の形状を見ても、宗麟が製造した大砲である可能性が極めて高いし、宣教師の文献とも時期的に符合している」と話されています。
◇炸裂した大砲“国崩”の威力
南蛮貿易による豊かな経済力と高度な技術力を背景に、国内で初めて大砲の量産化に成功したとされる大友宗麟。
戦国時代、最盛期には九州北部を支配した大友氏ですが、当時は
そうした状況で、宗麟は大砲を軍事的な抑止力として考えていたかもしれません。
上述したフロイスの『日本史』や日本側の古文書によると、天正4年(1576)宗麟がボルトガル領インドの総督に依頼した輸入品の中に火縄銃や硝石などと共に「フランキ砲」と呼ばれていた大砲が含まれていました。
「フランキ」とは、フランク人(ポルトガル語でFranco、オランダ語でFrank)が転訛した語で、東方(主に中国)から見て西欧人一般を示した語と云われています。
新航路政策でインドから東南アジア一帯の港湾都市や島嶼域の貿易拠点を植民地化し、その交易圏を日本にまで伸ばしてきたポルトガルやスペインがもたらした大砲の種類全般を指し、上記のように中華民族がポルトガル人やスペイン人を示した呼称から「フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)砲」とも云っていました。
宗麟が輸入した「フランキ砲」は、インドのゴアで交易品として製造された艦砲射撃用の大砲で、発砲した際に出る天地を揺るがす様な大音響とその威力から、宗麟によって“
更に、2年後にはそれをモデルに領内で“国崩”の製造に成功。同11年(1583)には量産したと-との記述があります。
当時、日本ではこうした「フランキ砲」のような大砲の事を「
“国崩”はカートリッジ(
これにより
しかしながら、子砲と砲身部の密閉状態が不完全なため、本体と子砲の間から発射薬の燃焼ガスの噴出漏れが激しく、砲身内のガスも圧力が低くなって、有効射程距離は200mを超える事はなく、最大射程距離も500m前後であったようなので、確実に目標まで弾丸は届くはずがなく、破壊・殺傷というよりは威嚇に優れてものと考えられます。
さて、この“国崩”が威力を発揮したのが、天正14年(1586)に島津軍約2千人が豊後に侵攻した際に、宗麟の居た臼杵
『大友興廃記』によれば、
島津軍は大友氏からの内応者の案内で、城から3町半(約380m)程離れたと伝えています。平清水 に陣取り、菟居 島=鵜鷲島(現在の光蓮寺 付近)まで攻め寄せて来た際に、場内から石火矢 を砲撃させたところ、島津軍はかなりの死傷者を出し、退却した
ところが―
別な資料で同じ様に天正14年(1586)の臼杵丹生島城攻防戦の模様を探ってみると、
城には守備に必要なものが何一つなかったことである(ルイス・フロイス『日本史』第68章 敵が臼杵に到達した次第、ならびに我らの身に生じ始めた困苦について)とあり、“国崩”を使用した気配どころか、城内には武器は1つもなかったと記載しています。
また、宗麟が天正6年(1578)に日向
かくて国主は、家臣から急き立てられた結果、その財宝の大部分と、その場に持っていた非常に優秀な大砲を放棄したまま出発して行った(ルイス・フロイス『日本史』第46章 国主フランシスコが土持より豊後へ、そしてフランシスコ・カブラル師およびその同僚が国主とともに帰った次第)と駐屯していた「牟志賀」(現・宮崎県延岡市無鹿)に臼杵から運ばせていた「優秀な大砲」を宗麟が退却するに際し、全て置き去ったために島津軍に
この時に置き去った「優秀な大砲」って天正4年(1576)に輸入された“国崩”の事なんでしょうね。
それを裏付ける話として、宗麟が耳川での敗戦の後、大砲の配備を怠りなく進める様に指示し、天正11年(1583)には豊後国内で大砲の鋳造をするよう命じている事実があります。
しかも、この時に鋳造された大砲は、「優秀な大砲」よりも相当小型であった事がフロイスの記述にみられるんですね。
その後、大友氏が改易された後に入封した福原直高・太田一吉や慶長5年(1600)11月に稲葉貞通が入封して以降15代続いた藩政時代にも“国崩”は常時臼杵城本丸に配備されていたそうです。
この“国崩”のうち、1門は明治4年(1871)の廃藩置県の折り、国に献上され、現在、靖国神社付属の博物館「遊就館」に展示されています。

また、地元の臼杵城跡地の臼杵公園と臼杵図書館横の稲葉氏下屋敷跡には“国崩”のレプリカが置かれています。このレプリカは、昭和61年(1986)、靖国神社に置かれている実物から型取って複製したものなのだとか…





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