この大垣城は補給基地=兵站地としての役割を担った場所と解釈すればよいでしょう。
そもそも、大垣城のある場所は、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の一番西側にあたります。
この辺りの地形は「濃尾傾動運動」という地殻運動―濃尾平野の西側程沈降し、東側はより上昇する事で,平野部全体が西側へ傾く運動で、平均して毎年約0・5㎜程の速度で沈降しており、それは今現在も継続中です―によって、水害多発地帯となっています。
さらに悪い事に、西側にあたる養老・伊勢湾断層の影響で、養老山脈が年々隆起・上昇活動をしており、大垣市内は東西の受け皿のような断面なのです。
すなわち、大垣城の位置を上空から見た場合、東側からは木曽川→長良川→揖斐川とまるで河岸段丘のような地形、西側からは養老・伊勢湾断層による土地沈降運動の地形といった感じになり、まさに大垣城はその受け皿なの立地場所にあるわけです。
という事は―「水城」にはもってこいな地形といえます。
さらに、それを物語る史跡があります―明治29年(1896)に大洪水に見舞われた際の大垣城の古写真とその水位を示した石垣と石碑です。
この状況下をみて考えたら、大垣城内は長期戦=籠城戦の構えに長けた構造だといえますね。
そうした大垣城の重要性を秀吉はどう考えていたのか―それを探る面白い史料があります。
それは秀吉が、天正13年(1585)に大垣城の城主に任じられていた加藤光泰を罷免した際の理由を家臣団たちに説明した書状の中で、「大柿事、肝心之所候」とした理由を「自然東国辺へ人数を遣候時之兵粮」を備蓄する場所、つまり(東国の武将との)将来の戦争に備えて「城米」「兵粮」を備蓄される場所として大垣城が「大事之かなめの城」と説いているんですね。
しかも、この「兵粮」の内訳には米と大豆を指定しています。麦を指定していないところがポイントですね。
米と大豆…人の兵糧としての米、軍馬などの馬糧としての大豆、であるわけで、耕作に従事するに必要な牛のための食糧としての麦を指定していません。
こうした条件からも、大垣城の位置、重要性が見えてきませんか!
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※(参照)「木曽三川、治水との闘い」
この記事へのコメント
あほやん
焼失さえしなければ、国宝の天守が・・・
もったいない(ToT)
御堂
僕は専攻科の時の、長良川の上流から下流を巡る
歴史地理学の課外巡検で訪れました。(教わった教授が輪中の研究をする方だったので…)
大垣城ですが、残念ながら、この写真の天守は昭和20年7月の空襲で焼失しちゃったそうです。(昭和11年=1936=には国宝にもなってたそうですが…)
現在の天守は昭和34年(1959)4月に再建されたものだそうですが、噂によると、また新しく整備するのだとか―
あほやん
僕は大垣城に行ったことは無いので分からないのですが、古写真の天守は、今建ってるやつですか?