夏、第1回大会(大正4年)
●秋田中(現・秋田高、東北代表、秋田県)1-2 京都二中(現・鳥羽高、京津代表、京都府)=延長13回
夏、第51回大会(昭和44年)
△三沢高(北奥羽代表、青森県)0-0 松山商高(北四国代表、愛媛県)=延長18回、引き分け
夏、第51回大会(昭和44年)
●三沢高(北奥羽代表、青森県)2-4 松山商高(北四国代表、愛媛県)
夏、第53回大会(昭和46年)
●磐城高(東北代表、福島県)0-1 桐蔭学園高(神奈川代表)
夏、第71回大会(平成元年)
●仙台育英高(宮城代表)0-2 帝京高(東東京代表)
春、第73回大会(平成13年)
●仙台育英高(東北ブロック、宮城県)6-7 常総学院高(関東・東京ブロック、茨城県)
夏、第85回大会(平成15年)
●東北高(宮城代表)2-4 常総学院高(茨城代表)
春、第81回(平成21年)
●花巻東高(東北ブロック、岩手県)0-1 清峰高(九州ブロック、長崎県)
―と7度のチャレンジが過去にありましたが、今回“七転び八起き”の思いも叶わず、0-11で敗退し、またも東北人の悲願は先延ばしとなりました。
さて、各都道府県の代表校が勝ち残っていく様を
余談ですが、優勝旗を乗せた飛行機に添乗していたスチュワーデスが機転を利かせて「深紅の大優勝旗も皆さまとともに津軽海峡を越え、まもなく北海道の空域へと入ります。」とアナウンスし、機内に大歓声が上がったという話は有名ですね。
“白河越え”とは、優勝旗を
飛鳥時代の大化2年(646)正月、改新の
初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河と地方行政制度の整備が
―初めて京師を修め、畿内国司・郡司、関塞 ・斥候 ・防人 ・駅馬・伝馬を置き、鈴契 (駅鈴・契)を造り、山河を定めよ
畿内を防御するために拠点として、東海道の
上記のうち、白河関とは陸奥国白河郡と下野国那須郡の間、すなわち現在の福島県南部に位置する白河市に建っていたであろう関塞で、鼠ヶ関(江戸時代以降、念珠関)・勿来関と共に奥州三関の1つに数えられます。
白河関は主として8~9世紀頃、すなわち奈良時代から平安時代中頃にかけて機能していたようですが、やがて
しかし、その後も東北地方への玄関口として人々の記憶に受け継がれます。
なかでも、東北を旅行し、和歌を詠む人々にとって「白河関」は歌枕(但し、初期においては、和歌において使われた語句や詠まれた題材を枕詞としたものを指したが、のちに和歌で詠まれる名所旧跡のみを指すようになった)として知れ渡り、平安時代の歌人、
「白河以北、一山百文」―
「白河関は関東と奥州の境にあり、現在の本州の東方、北方に住み、その昔ヤマト王権の支配が及ばなかった
確かに、当時の日本は中国大陸を支配していた王朝(例えば唐王朝)を中心とする中華・華夷思想(例えば、中国大陸を制した王朝が自らの事を「中華」と呼ぶのに対し、その四方に居住し、帰順しない周辺民族を
※ 東北地方は律令体制下では奥羽地方と呼んでおり、日本海側の出羽国(現在の秋田県・山形県)の人々を蝦狄、太平洋側の陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)の人々を蝦夷と呼んでいました。
なお、江戸時代以降、現在の北海道地域を
また、幕末・維新期の戊辰戦争で東北地方の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して明治新政府に対抗し、結果敗北するのですが、以降西南雄藩らの“勝てば官軍”思想の表われとして、「白河以北、一山百文」と白河以北の土地は一山あっても、せいぜい百文程度にしかならない荒れ地ばかりで価値がない―とまで蔑まれます。
盛岡藩出身で大正時代に“平民宰相”と云われた原敬は西南雄藩への対抗意識から自分の雅号に「白河以北、一山百文」から採って、「一山」と号します。東北人としての反骨精神を表すフレーズとして用いたようですね。
そう考えたら、“白河越え”というフレースは決してひがみ根性からくるものではなく、“やったるわい!”って東北人の気骨を示すフレースといっていいんじゃないでしょうか。
※ 個人的には正直、原敬という人物はすきになれませんけどね…“平民宰相”っていうけど、家柄は盛岡藩家老職に就くほどの上級武士の家柄だし、自分が20歳の時に分家独立し、平民籍に編入されたのだって、要は徴兵制逃れ(=戸主は兵役義務を免除されるという規定があった)のためにすぎなかったんですよ。何か…ネ!。
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