特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」テーマ展「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」展

羽柴於次秀勝像

特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」(~12月4日(日)まで)が催されている長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)で現在会期中のテーマ展の第5回目、「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」(~7月18日(月)まで)を観覧して来ました。

ちょうど、テーマ展の展示説明会が6月26日(日)午後1時30分から催されるとの事だったので観覧に行くと…

◎「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」

秀吉の子息といえば、淀殿とのあいだに出来た「鶴松」と「秀頼」が有名である。しかし長浜城時代の秀吉には、『実子が生れたが夭折した。』という伝承が現存し、追善のための肖像画(後に焼失)と、墓石や位牌が現存している。この「本光院朝覚居士」が天正4年(1576)10月14日に没した後に、信長の四男を養子に迎え「於次秀勝」と名付けている。この「於次秀勝」が、天正13年(1585)に18歳で病死すると、秀吉は姉「とも」の次男「小吉」を迎え再び「秀勝」と名付けている。「小吉秀勝」は、「於次秀勝」の領地を引継ぎ、丹波亀山城主となる。秀吉の九州攻めに従軍し、越前敦賀城主から小田原の役後は甲斐国が与えられた。その後に、岐阜城主となる。文禄元年(1592)5月に秀吉が策定した三国国割計画では、朝鮮全土の統治者となっている。同年9月9日に朝鮮出兵中に、唐島(巨済島コジェド)で病死した。享年24。

浅井三姉妹の「江」が二度目に嫁ぐ夫が、この「小吉秀勝」である。「江」は、『徳川幕府家譜』や『柳営りゅうえい婦女伝系』によれば、20歳の時に秀勝に嫁入る。天正20年(1592)2月で、「小吉秀勝」は岐阜城主であった。しかし夫の秀勝は、前述したように同年9月9日に朝鮮出兵中に病死する。「江」と秀勝の間には、一女(のちの九条完子さだこ)が生れていたが、淀によって養育され、その養女となって公卿九条幸家に嫁いだ。

この展覧会では、「朝覚」ゆかりの位牌や秀吉寄進状、「於次秀勝」の木造を始め、「於次秀勝」の判物などを展示する―
といった趣旨の展示会でした。以下、展示資料を観てみると、

〔次郎秀勝について〕
  1. 豊臣秀吉朱印状 妙法寺宛 1幅(妙法寺蔵)
    秀吉が妙法寺(長浜市大宮町)に寺領を寄進した朱印状。坂田郡南小足村(長浜市南小足町)と北小足村(長浜市新栄町の一部)で30石を寄進している。寺伝では、早世した「朝覚」の菩提を弔うために寄進されたと伝えている。天正14年(1586)12月8日付けであるため、没後10年が経過しての寄進である。なお、昭和27年(1952)の火災によって本堂が焼失した際、下部に焼損が生じている。

    この「朝覚」の夭折に当たっては、妙法寺をはじめとして、長浜周辺の幾つかの寺院に対し、秀吉から供養料が寄進された形跡があり、知善院(長浜市元浜町)には、天正4年(1576)10月22日付けで供養料として伊香郡井口村(現在の高月町大字井口)で30石が寄進され、徳勝寺(長浜市平方町)の前身寺院の1つである医王寺にも天正4年(1576)10月15日付けで伊香郡井口村(現在の高月町大字井口)に供養料として30石の寄進がみられる。

    しかし、書状自体にはその目的が表記されておらず、「朝覚」の菩提を弔うための寄進で、その供養料なのかどうかは判別できない。

    妙法寺に埋葬された人物が、秀吉の実子だという伝承があります。

    享保19年(1734)に成立したとされる『近江輿地史略』の中で「妙法寺 長浜にあり…(中略)…豊臣秀吉公の末子、次郎早逝そうせいすなわち当寺に葬る、本光院朝覚居士おくりなす」とあり、「朝覚」「次郎」と呼び、秀吉の男子であると記載している。

    また、長浜における曳山ひきやまの起源に関する伝承で、寛文6年(1666)に書かれた『江州湖東八幡宮勧請並祭礼之由来』には「其後若様御誕生ニつき、町々へ砂金頂戴ス、是ヲ基トシテ曳山造営の志願ヲ発ス」と、長浜城主であった秀吉に男子が出生し、それを喜んだ秀吉が、長浜の町衆に砂金を振舞ったのを元手に長浜曳山祭の12基の山が建造されたという伝承です。

    しかしながら、実際に秀吉が長浜の町衆に対し「町屋敷年貢米300石免除」や諸役免除の特権を与えるなどの経済的な恩恵を与えたのは、天正19年(1591)の出来事(『(天正19年)5月9日付長浜町人中宛豊臣秀吉朱印状』下郷共済会蔵)であり、ここで云う男子誕生は棄丸(のちの鶴松)だと考えられ、矛盾を感じますね。

  2. 秀吉・秀勝位牌 1基(徳勝寺蔵)
    浅井氏三代の菩提寺として知られる徳勝寺(長浜市平方町)に伝来した位牌。右側に「國泰寺殿雲山峻龍大居士 台閣秀吉公」という秀吉の法名と、左側に朝覚 大禅定門 次郎秀勝君と妙法寺に葬られる「朝覚」の法名が刻まれ、その裏面には「天正四子年十月十四日」と命日が刻まれている。

  3. 竹生島奉加帳 1帖(竹生島宝厳寺蔵)
    秀吉とその家族・家来たちが天正4年(1576)から同16年(1588)まで、竹生島ちくぶしま宝厳寺に金品を奉納した記録。冒頭の秀吉による「百石」の寄進に続いて、「御内方」(のちの北政所・おねね)「大方殿」(のちの大政所・なか)など上段に家族の寄進記録がある。その三番目の箇所に「石松丸」と記され、ち(乳)の人」の注記がある。秀吉の家族に乳幼児がいた事が伺えるが、だからと言って、「石松丸」秀勝と名乗っていたという証拠は何一つない。

  4. 妙法寺境内図(『近江農商工便覧』) 1冊(長浜歴史博物館蔵)
    明治22年(1889)に発刊された『近江農商工便覧』に掲載された妙法寺の図で、「秀勝公御廟」が明記されている。しかし現在、描かれた形での現存はない。

〔於次秀勝について〕
  1. 木造 羽柴於次秀勝像 1躯(京都・瑞林院蔵)
    秀吉の養子で信長の四男にあたる羽柴於次秀勝の肖像彫刻。伝来した瑞林院は、浄土宗大本山百万遍ひゃくまんべん知恩寺創建時から塔頭たっちゅうとして存在していたと云う。瑞林院は蒲生氏郷夫人の「冬姫」が、早世した弟の「於次秀勝」の菩提を弔うために創建したと伝えている。開基は、知恩寺第30世「岌州上人」の弟子「岌方行西」で、信長の家臣で小谷の方(お市の方)が浅井家に輿入れした際、お供の者として随従した藤懸永勝の一族だと伝えている。寺名は、「於次秀勝」の法名「瑞林院殿賢巖才公大禅定門」から付けられている。この像は、江戸時代前期頃に「於次秀勝」の菩提を弔って造立されたと考えられる。作風から京仏師の作品と推定される。若くして死んだ「於次秀勝」の容貌を伝えていると思われる。この他に、本像とそっくりの画像が知恩寺と大徳寺に所蔵される。

  2. 羽柴於次秀勝禁制 1枚(長浜八幡宮蔵)
    秀吉の養子となった「於次秀勝」が、長浜八幡宮の遷宮での千部会にあたって出した禁制。千部会は、祈願や追悼のために、同じ経典を1000人の僧が1部ずつ読む法会である。この八幡宮での千部読経は、秀吉による八幡宮の社殿復興の完成に伴って行われたと推定される。この時秀吉は、因幡鳥取城を包囲中で、太閤ヶ原にて対陣中だったため、秀吉に代わって湖北支配を代行していた「於次秀勝」が、長浜八幡宮の求めに応じて、禁制を掲げたものと思われる。

  3. 羽柴秀吉・於次秀勝判物 称名寺宛1通(称名寺蔵)
    秀吉と「於次秀勝」が連署して、称名寺(長浜市尊勝寺町)に対し、寺領63石が与えたもの。本能寺の変の際、長浜城内にいた秀吉の家族は美濃国広瀬(岐阜県揖斐郡坂内村)へ避難するが、この避難には称名寺の僧・性慶せいきょうも助力していた。称名寺は元は美濃国安八あんぱち郡津布良庄奥村(現在の岐阜県大垣市津村町付近)にあった天台宗系の寺院だったが、戦国期に浄土真宗系の寺院に改まり、天文年間(1532~1555)頃に湖北地方に移ったとされる。姉川の戦いで始まった元亀争乱(1570~73)の際、浅井氏に味方したため、浅井氏滅亡後、信長により追放の憂き目に遭う。しかし、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の際に、光秀が長浜城にいる秀吉の家族などの殺害を企てている情報を知った、同寺5世の性慶が美濃へ避難させた功績で秀吉に帰郷を許され、寺院の復興が認められた。

  4. 羽柴秀吉・於次秀勝判物写 広瀬兵庫助宛1通(浅井歴史民俗資料館蔵)
    秀吉と「於次秀勝」が連署して、広瀬兵庫助に浅井郡高山村(長浜市高山町)・坂田郡甲津原村(米原市甲津原)・伊香郡杉野村(長浜市木之本町杉野)で500石を宛行ったもの。天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の時に、長浜城内にいた秀吉の家族を広瀬兵庫助は美濃国広瀬(岐阜県揖斐郡坂内村)に匿った。この連署状は、その礼として領地を宛行ったもの。但し原本は紛失してしまったらしいが、江戸時代に作られた写しが浅井歴史民俗資料館に所蔵されていたと云う。本能寺の変の際における秀吉の家族の動向が判る貴重な文書

  5. 羽柴於次秀勝判物 徳昌寺宛1幅(徳勝寺蔵)
    秀吉の養子となった「於次秀勝」が出した、徳勝寺への寺領安堵状。天正10年(1582)6月27日の清洲会議において、長浜城の領有権は柴田勝家に移り、勝家は長浜城主に養子・勝豊を置いている。それに伴う勝豊の長浜入城は7月下旬と考えられるが、「於次秀勝」は清洲会議の後、北庄に帰還する勝家の人質となったり、長浜城に在城し、7月15日に勝家方への城明け渡しの責任者として残っていたのではないかと考えられている。

〔小吉秀勝について〕
  1. 羽柴小吉秀勝書状 安岡寺宛1幅(安岡寺蔵)
    「小吉秀勝」が摂津の安岡寺あんこうじ(高槻市浦堂本町)の寺領を安堵したもの。「小吉秀勝」は秀吉の姉・ともの次男。秀吉の養子となって、秀勝と名付けられたのだが、従来、「於次秀勝」の死後に養子となったと考えられていたが、本状によって天正13年(1585)9月には秀勝を名乗っていた事が判明した。「於次秀勝」が亡くなるのが同年の12月10日である事から、9月から12月10日までの期間、秀勝を名乗る人物が2人いた事実が確認された事になる。

この記事へのコメント

  • 広瀬兵庫助

    私は、広瀬兵庫助から12世代目の末裔のハンドルネーム「広瀬兵庫助」です。
    「広瀬兵庫助」末裔の広瀬家には「兵庫助」に関する事跡を記した史料が約400年間に亘り伝えられています。これまで広瀬家は「兵庫助」に関して積極的に公表してこなかったので、一般には文献等で知られる情報は少なく結果として門外不出でありました。
    このたび末裔として、代々の広瀬家に伝わる寺(真宗大谷派=東本願寺=所属寺院)の「過去帳」に記された「兵庫助」の事跡に基づく正しい情報をお伝えしたい、という純粋な気持ちで「兵庫助」の事跡について広瀬家に伝わる古文書のほか公立図書館等で調査し、約40年間に亘り研究しています。
    ご参考になれば幸いです。
    2014年02月15日 11:17

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