木曽三川とは、濃尾平野を流れる木曽川、長良川、
かつての木曽三川の流路は、木曽川と長良川は
木曽川、長良川、揖斐川それぞれの流域面積を見てみると、
木曽川=5275㎢、
長良川=1985㎢、
揖斐川=1840㎢、
となっており、木曽川が圧倒的に規模の大きな河川であり、最も多くの水量を誇っています。即ち、濃尾平野とは木曽川から運ばれてきた大量の土砂が堆積して形成されたものなのです。
これは「濃尾傾動地塊運動」といって、濃尾平野の西側ほど沈降し、東側の三河高原側が上昇する事で、平野部全体が西側へ傾斜する地殻変動をいいます。
この地殻変動は数百万年前から始まっていて、平均して毎年約0・5㎜程の速度で沈降しており、それは現在も続いているのです。
濃尾平野の西端には敦賀湾と伊勢湾を結ぶ、柳ヶ瀬ー養老断層帯と養老ー桑名ー四日市断層帯があり、その西側にある養老山地がこの断層の活動による隆起によって、また濃尾平野はこの断層の活動による沈降によって形成されます。
この事から何が言えるのか―
「濃尾傾動運動」のために下流に行けば行く程西へ偏り、互いが接近しているために、各河川は低い方へ向かって流れようとします。
水量だけではなく川によって運ばれる土砂の量が最も多いのも木曽川なので、川床の高さはが木曽川→長良川→揖斐川の順に低くなっていきます。
つまり、木曽川の水は長良川へ、長良川の水は揖斐川へ流れ込む―といった具合です。
更に、濃尾平野の西には養老・伊勢湾断層があり,それを境に西側の養老山地側が上昇活動をしているのも重なって、揖斐川流域の住民は水害との闘いの歴史を繰り返し悩まされ続けてきたのです。
今現在は、三川とも他の河川に一切負担をかけず伊勢湾まで流れ着いていますが、この木曽三川を巡る治水の攻防を紹介します。
先ず最初が、慶長13年~14年(1608~1609)に築かれた「
「御囲堤」は現在の愛知県犬山市から
その反面、木曽川右岸の美濃側には、本格的な河川堤防の築造を許されず、しかも尾張領への洪水を防ぐために、美濃国側の領主たちに「対岸美濃の諸堤は御囲堤より低きこと三尺たるべし」と、「御囲堤」に対し3尺(約1m)低い堤防しか築造してはならないという差別的治水政策しか施さなかったので、水害がしきりに起こっては木曽川右岸の小規模な堤防を乗り越え、美濃国に
尾張を木曽川の洪水から守るために美濃を犠牲にした施策であったといえますね。
果たして、それ以降は美濃側だけが水害常習地帯となり,尾張側では殆んど水害がなくなっています。
「御囲堤」によって、美濃側の水害による被害は甚大を極めるようになりましたが、江戸時代も中頃の宝暦3年(1753)12月、「
工事は大きく3点に絞られ、
- 木曽川と長良川を結ぶ逆川に
洗堰 を築堤して木曽川から長良川への流入を阻もうとする工事、 - 長良川と揖斐川を結ぶ
大槫 川に洗堰を築堤して長良川から揖斐川への流入を阻もうとする工事、 - 木曽川と揖斐川の合流点である油島新田(現在の岐阜県海津市海津町油島)に洗堰を築堤して木曽川から揖斐川への流入を阻もうとする工事、
ところが、この「宝暦治水」工事でも洪水は収まりませんでした。
下流域では一定の効果をみるのですが、完成した洗堰により水勢が変化したり、長良川
でも、仕方ありません。ここまでが当時の日本の技術の限界だったから…
その後、明治になって、
“日本の近代治水の父”ヨハネス・デレーケ(Johannis de Rijke)による「木曽三川改修計画」です。
デレーケは、明治6年(1873)、お雇い外国人として内務省土木局に招かれて来日。明治10年(1877)より「木曽三川改修計画」を担当します。
翌11年(1879)には木曽川・長良川・揖斐川の三川をはじめ支派川の調査を実施します。
この調査に基づいて起草したのが『木曽川下流概説書』と呼ばれるもので、
その中でデレーケは水害多発の原因を木曽三川をはじめとする諸川の流出する土砂の堆積にあると指摘し、またその要因として河川流域における樹木の伐採によって引き起こされていると述べています。
「川を治めるにはまず山を治めるべし」―
日本人に森林伐採をやめさせ、植林を勧めるなど、環境保護の大切さを教えたのです。
こうした治山治水の思想のもと、デレ-ケは最後まで上流部の水源地砂防の重要性を強調。これが、“近代砂防の祖”と称せられる由縁なのです。
やがて、明治20年(1887)工事が着工、明治45年(1912)3月に完成しています。
現在、木曽三川公園にはヨハネス・デレーケの銅像が建ち、私たちが間違った方向に行かないよう見守ってくれています。
※(参照)大垣城―「肝心」な場所―
この記事へのコメント
御堂
大変やね、お疲れ様!
のののーん
よく分かりました