元箕島高校野球部監督・尾藤公氏死去!


3月6日午前3時37分、元和歌山県立箕島高等学校野球部監督だった尾藤公氏がお亡くなりになりました。享年68歳―

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尾藤さんと言えば、公立高校である和歌山県立箕島高校野球部を春3回、夏1回優勝に導いた名将として知られていますね。

私自身、箕島と共に高校野球ファンとしての人生を歩んできたので、尾藤さんの死は自分の中で1つの節目が区切られた感じです。

尾藤さんの教え子といえば、

第40回センバツ(昭和43年=1968)ベスト4まで勝ち進んだ時のエース、東尾修投手(箕島→西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ→西武ライオンズ)
第42回センバツ(昭和45年=1970)に優勝した時のエース、島本講平投手(箕島→南海ホークス→近鉄バファローズ)
第49回センバツ(昭和52年=1977)でセンバツ2度目の優勝を果たした時のエース、東裕司投手(箕島→三菱自動車水島)、二塁手だった上川誠二選手(箕島→三協精機→大昭和製紙→中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ・千葉ロッテマリーンズ)
第51回センバツと第61回選手権大会(昭和54年=1979)で春夏連覇を達成したときのバッテリー、石井毅(木村竹志、箕島→住友金属→西武ライオンズ)、嶋田宗彦(箕島→住友金属→阪神タイガース)
第54回センバツと第65回選手権大会に出場した吉井理人投手(箕島→近鉄バファローズ→ヤクルトスワローズ→ニューヨーク・メッツ→コロラド・ロッキーズ→モントリオール・エクスポズ→オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ→千葉ロッテマリーンズ)
第66回選手権大会に出場した嶋田章弘投手(箕島→阪神タイガース→近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ)

などが知られていますね。

尾藤さん率いる箕島は平成7年(1995)に勇退されるまでに春8回、夏6回甲子園出場を果たされ、以下の戦績をおさめておられます-

◎昭和43年(1968)第40回センバツ…センバツ初出場でベスト4!
 苫小牧東 100 001 000=2
◯箕  島 300 101 00X=5
(苫)熊沢→畑山(箕)東尾

◯箕  島 000 101 000=2
 高 知 商 000 000 001=1
(箕)東尾(高)中川→塩見

 広  陵 000 110 001=3
◯箕  島 220 102 00X=7
(広)宇根(箕)東尾

 大 宮 工 000 200 120=5
●箕  島 210 000 000=3
(大)吉沢(箕)東尾

◎昭和45年(1970)第42回センバツ…北陽高校(大阪府)との延長12回の攻防に決着をつけた島本のサヨナラ安打で優勝!
◯箕   島 001 104 000=6
 東海大相模 000 020 000=2
(箕)島本(東)上原

 三  重 100 000 000=1
◯箕  島 100 210 00X=4
(三)大知(箕)島本

◯箕  島 000 002 010=3
 広  陵 000 000 000=0
(箕)島本(広)佐伯

 北  陽 200 000 100 100=4
◯箕  島 000 120 000 101x=5(延長12回)
(北)永井(箕)島本


◎昭和45年(1970)第52回選手権…春夏連覇を目指すが、好投手・湯口の前に沈黙し、春夏5連勝でストップ!
 北見柏陽 000 000 000=0
◯箕  島 012 032 00X=8
(北)大山(箕)島本


●箕   島 000 010 000=1
 岐阜短大付 200 040 00X=6
(箕)島本(岐)湯口

◎昭和47年(1972)第44回センバツ
●箕  島 010 000 000=1
 倉 敷 工 010 000 01X=2
(箕)奥田→津村(倉)山本

◎昭和52年(1977)第49回センバツ…“二十四の瞳”中村高校(高知県)との優勝争いを制す!
 名古屋電気 000 000 000=0
◯箕   島 000 010 00X=1
(名)鈴木(箕)東

 豊 見 城 000 000 000=0
◯箕  島 002 040 22X=10
(豊)下地→神里(箕)東

 県岐阜商 000 000 003=3
◯箕  島 001 003 03X=7
(岐)関谷(箕)東

 智弁学園 000 000 000=0
◯箕  島 010 001 00X=2
(智)山口(箕)東

 中  村 000 000 000=0
◯箕  島 002 001 00X=3
(中)山沖(箕)東


◎昭和53年(1978)第50回センバツ…連覇を狙ったが、“フェニックス”福井商の前に沈黙!
 黒沢尻工 000 000 000=0
◯箕  島 010 000 00X=1
(黒)千葉(箕)石井毅

 小  倉 000 000 100=1
◯箕  島 010 000 21X=4
(小)大石(箕)石井毅

◯箕  島 000 101 000=2
 PL学園 000 000 000=0
(箕)石井毅(P)西田

 福 井 商 013 400 010=9
●箕  島 000 010 020=3
(福)板倉(箕)石井毅→上野

◎昭和53年(1978)第60回選手権…紀和大会(紀和=奈良・和歌山)で天理など奈良の強豪校に全国大会への出場を阻まれていたが、「1県1校制」に出場枠が増えたために出場を果たす!
 能  代 000 000 000=0
◯箕  島 100 000 00X=1
(能)高松(箕)石井毅

 広 島 工 000 000 100=1
◯箕  島 000 000 60X=6
(広)津田(箕)石井毅


 中  京 002 000 030=5
●箕  島 002 100 100=4
(中)武藤(箕)上野→石井毅

◎昭和54年(1979)第51回センバツ…牛島-“ドカベン”香川のバッテリー&名将・広瀬監督率いる浪商高校(現大体大浪商、大阪府)とのノーガード・ガチンコ対決を制し、3度目の優勝!
◯箕  島 000 501 202=10
 下 関 商 100 010 200=4
(箕)石井(下)山本

 倉 吉 北 000 000 100=1
◯箕  島 111 010 10X=5
(倉)矢田(箕)石井

 PL学園 100 020 000 0=3
◯箕  島 000 100 002 1x=4(延長10回)
(P)中西→阿部(箕)石井

 浪  商 100 003 201=7
◯箕  島 102 101 21X=8
(浪)牛島(箕)石井


◎昭和54年(1979)第61回選手権…箕島の代名詞“サーカス・スクイズ”で決勝点を挙げ、公立高校史上初の“春夏連覇”を達成!
◯箕  島 201 120 001=7
 札 幌 商 000 003 000=3
(箕)石井(札)鈴木→金山

 星  稜 000 100 000 001 000 100=3
◯箕  島 000 100 000 001 000 101x=4
(星)堅田(箕)石井

 城  西 000 100 000=1
◯箕  島 201 100 00X=4
(城)安倍→渡辺(箕)石井

 横 浜 商 000 010 010=2
◯箕  島 101 010 00X=3
(横)宮城(箕)石井

 池  田 100 110 000=3
◯箕  島 100 001 02x=4
(池)橋川(箕)石井


◎昭和55年(1980)第62回選手権…センバツ優勝の“球道くん”率いる高知商を打破するも、箕島のバント戦法を“バントはアウトをプレゼントされたもの”と冷静に無視した横浜野球にあと一歩及ばず、連覇ならず!
◯箕  島 000 021 002=5
 国  立 000 000 000=0
(箕)宮本(国)市川

◯箕  島 111 000 002=5
 高 知 商 000 000 000=0
(箕)宮本(高)中西

◯箕  島 010 201 001=5
 美濃加茂 010 000 020=3
(箕)宮本(加)池戸→奥村


 横  浜 111 000 000=3
●箕  島 000 011 000=2
(横)愛甲(箕)宮本

◎昭和57年(1982)第54回センバツ
◯箕  島 100 300 020=6
 上  尾 000 002 000=2
(箕)上野山(上)日野

 明  徳 000 000 000 000 21=3
◯箕  島 000 000 000 000 22x=4(延長14回)
(明)弘田(箕)上野山

●箕  島 000 000 000=0
 PL学園 001 000 00X=1
(箕)上野山→吉井(P)榎田

◎昭和58年(1983)第65回選手権
 吉  田 001 010 000 000 1=3
◯箕  島 000 000 101 000 2x=4(延長13回)
(吉)三浦(箕)吉井

 駒大岩見沢 100 000 002=3
◯箕   島 030 011 00X=5
(岩)大西(箕)吉井

●箕  島 010 100 000=2
 高 知 商 241 001 00X=8
(箕)吉井→嶋田(高)津野→岡村

◎昭和59年(1984)第66回選手権


 取 手 二 000 000 050=5
●箕  島 110 000 100=3
(取)柏葉→石田(箕)嶋田→杉本

◎平成3年(1991)第63回センバツ
 旭川竜谷 000 010 000=1
◯箕  島 012 002 00X=5
(旭)笹木(箕)山路

●箕  島 101 020 000=4
 大阪桐蔭 100 010 04X=6
(箕)山路(桐)背尾→和田

-以上のように、春センバツに8回出場して指揮をとられ、優勝3回、22勝5敗。夏選手権に6回出場して指揮をとられ、優勝1回、13勝5敗。通算35勝10敗という戦績を遺されました。


尾藤さん箕島、とくればほとんどのファンやマスコミが昭和54年(1979)夏の選手権大会の3回線、vs星稜高校(石川県)戦での延長18回の死闘を挙げるようですが、当時、“箕島野球命”で小学5年生から中学2年生だった私としては、春センバツでの箕島の戦いぶりの方が印象的です。

まずは、






第49回センバツ(昭和52年=1977)の決勝、vs 中村高校(高知県)戦で東裕司投手が3安打完封した試合。東投手といえば、当時箕島にカリキュラムとして存在した定時制課程の生徒で、“部活動・勉強・勤労”3足の草鞋わらじを履きこなしていたんですよね。伝聞した話だと、尾藤さんと同じ工場に務めていて、仕事が終わると尾藤さんが運転する車で一緒に学校に行っていたそうなんですけど、1年生の時、制球力がなくて試合に負け、その次の日から働いていた工場と学校の間、往復20kmを走って足腰を鍛え、その成果としてこの大会では4試合中3試合に完封勝ちという内容で優勝投手となるんですよね。ましてや、定時制に通っていたという事実が、昼間の普通科でのうのうと過ごして来た私にとっては一番衝撃的な現実でした。頑張ればできるんだ、って事を教えてくれた選手であり、試合だったのです。

さらには、

第51回センバツ(昭和54年=1979)の準々決勝、vs 倉吉北高校(鳥取県)で大会記録となる1試合10犠打を記録。なかでも、3番バッター・上野山善久選手は全打席犠打のため、スコア記録は“0打席(打数)”私が面白いなぁーと思っている試合展開は打って勝つ野球ではなくて、地味でもボディボローのように効くバント、走塁、ミスにつけこむ野球が好きなので、まさに理想的なゲーム展開がなされた試合だったと思います。しかも、そうしたバントも投手(ピッチャー)と一塁手(ファースト)と二塁手(セカンド)が守る定位置のちょうど中間点に打球を転がすプッシュバントが得意だったので、記録上は犠打野戦って形でバッターランナーも一塁に生きて、相手方の好投手&堅陣な野手たちへの攻略にはもってこい、な采配だったんですよね!

そして最後に、

]

第51回センバツ(昭和54年=1979)の決勝、vs 浪商高校(大阪府)でのガチンコ勝負!前の試合まで12打数2安打(打率.167)と全く不振だった4番バッター・北野敏史選手(箕島→松下電器)を“お前が箕島の4番だから”と使い続けた尾藤さん。その期待に応えた北野選手は、この試合でセンバツ史上初のサイクルヒットを記録!その最後の打席の時(状況は8回裏、7-6で箕島が1点リード。二死二塁)、浪商ベンチ=広瀬監督は敬遠の指示を伝えますが、牛島-香川のバッテリーはガチンコ勝負に徹します。果たして勝負は、北野選手がツーベースを放ち、点差を広げたという伝説の攻防!こうした追いつ追われつの打撃戦に当時はワクワクしちゃってました。


最後に、箕島高等学校の校歌を書き記します。唄える方は斉唱してみましょう―

♪冬吹きやまぬ西の風
 海からとび立つ黒雲に
 あたりはおどろの闇となる
 さあれ新緑光浴び
 有田の谷にほとばしり
 この学舎に溢る香は
 きびしい冬に耐えて来た
 われらおのこの凛烈の意気
 凛烈の意気♪

尾藤公さん、あなたの甲子園での雄姿はいつまでもあなたが描いた箕島野球と共に私の脳裏にいつまでも輝き続けるでしょう。謹んで、生前のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈りします!

この記事へのコメント

  • 御堂

    からすさん、来訪&コメント有難うございます。

    私も一番高校野球に夢中になっていた時期がちょうど―

    初めて父に連れて行ってもらった昭和49年(1974)夏の大会から、自分が高校生活を終わる昭和58年(1983)夏の大会まで(ちなみに甲子園へに観戦も昭和63年春の大会で終止符を打っています)

    ―なんですよね。

    その間、印象に残ったのが。昭和50年夏に優勝した習志野市立習志野高等学校(現、東京ヤクルトスワローズ監督の小川博司さんがエースでした)です。3回戦の磐城高校戦では、16-0で勝ちましたが、バントという小細工を一切しない、ただ打って、打って打ちまくった勝利でした。現在のように金属バットではなく、木製バットでのこの勝ち方ですので、見ごたえのある展開だったのを覚えています。

    また、徳島県立池田高校も印象的でした!昭和49年春・準優勝、同54年夏・準優勝、同57年夏・優勝、同58年春・優勝という実績が物語っていますよね。(私自身、公立高校卒なので、公立高校の活躍には嬉しさがこみ上げてきます。からすさんが仰るように、私立の学校はほとんど野球専門学校の様相で、“野球をする事しか能のない連中”とバカにしてます)

    そんな中で、昭和57年夏・同58年春の際は、私もリアルタイムで同級生だったので、グラウンドでプレーしてる選手たちに自分を重ねて応援してましてから、準決勝でPLに敗退した時は、「あぁ、これで高校野球も終わったな!」という気持ちにさせれれちゃった訳です(笑)。翌年以降からは、言ってみれば年下ばかりの高校球児になるので、感情移入はほとんどできませんしね…

    さて―

    私にとって、尾藤公監督率いる和歌山県立箕島高校を初めて知ったのが、昭和52年春の優勝!この時のエースが同校の定時制課程に在学していた東投手でした。コントロールも良く、まさに“守って勝った”優勝だったと思います。

    そこから箕島野球のファンとなり、黄金世代と呼ばれた石井投手、嶋田捕手らが入学する時期とシンクロしちゃったんですね。

    とくに嶋田捕手のファンで、「捕手で1番」って感じが驚きでした。当時からすると、1番バッターは阪急ブレーブスの福本豊選手のようなタイプしかイメージできなかったし、しかも捕手という点が新鮮な感覚を与えてくれたのです。

    嶋田選手は甲子園に出場した高2の春夏、高3の春夏の全15試合でヒットを打っています。これもすごいなぁーと感心させられます。

    私が高校野球の試合で一番理想とするのは、池田やPLのような“打って、打って、打ちまくる”試合運びではありません。

    その昔、昭和38年春に準優勝した北海高校がめざした試合運びが一番の理想です。

    この時の北海高校はチーム大会通算22盗塁(5試合)を記録したそうです。

    なかでも2番バッターだった高木和富選手は通産8盗塁、3番バッターの谷木恭平選手(のち中日ドラゴンズに入団)は1試合5盗塁の大会記録を含め、通産9盗塁の快走ぶりを見せたそうです。

    そうした快走ぶりがファンに浸透すると、試合中に谷木選手がが出塁するたびに応援席から「ゴー!ゴー!谷木」コールが出たそうです。

    甲子園を「足」で沸かせたチームこそ、一番好きなんですけどね…

    その他には「犠打」の重要性を訴えたい感じ―

    箕島が春夏連覇を果たした昭和54年春の準々決勝・倉吉北戦で3番の上野山選手は回ってきた4打席が全て犠打。結果、0打数0安打という公式記録ですが、4犠打という隠れた貢献度は目を見張りました。

    昨今では、セーフティーバンドやスクイズ、バスターエンドランなどが作戦として多く見受けられますが、私としては、“自己犠牲”の象徴たる送りバンド、犠打こそが一番輝きを見せる野球だと感じます。

    “古いなぁ”とか、“昭和くさいなぁ”と言われがちですが、これこそ武士道精神に通じる、日本の伝統ではと感じるんですよね。

    それ故、一番大好きで、尊敬する尾藤監督が率いた箕島のイメージであるバント戦法に誇りを感じています!
    2012年08月28日 03:18
  • からす

     積極果敢な走打。攻撃的な守備。粘り強いピッチング。長打力(当時としては)とバント、エンドラン、盗塁。全員でつないで1点ずつとって全員で守り抜く。うまい試合運び。何より劣勢になったときに見せる驚異的な粘り。(PLの機械的な人工的な逆転とは一味もふた味も違う。)洗練されている(そこが田舎くささだけの池田と違う。)かと思えば田舎らしい素朴さも。尾藤スマイルに率いられた箕島野球は日本時9んの理想の高校野球を具現化したものだった。昨今の高校野球がどこもPL化してきてリトルプロみたいで面白くない(大阪桐蔭や光星など。)
     箕島野球はあの甲子園にもっとも似合うユニフォームも含め、日本人のイメージしている高校野球そのものです。尾藤監督はミスター高校野球です。
    2012年08月27日 19:01
  • 御堂

    なにわのヒバゴンさま、こんにちは!来訪&コメント、サンクスです。

    高校野球といえば、やはり地元に密着した“地場文化”だと思っています。よく甲子園での勝利で“県勢何十年ぶりかの勝利”って言ってるけど、内実は野球留学で他都道府県から来てる生徒ばかりの巣窟!また、昔からの強豪校も野球部に入部できるのはスポーツ(野球)推薦で入学した連中ばかり…一般入試で入学してきた生徒にとっては、そこで門戸が閉ざされてる…

    私は生まれ育った土地から他の場所へ野球(をするだけのための)留学した生徒など、その時点で“人生の落伍者”と考えている人間なので、いくらその生徒が、選手が活躍しようとも蔑(さげす)んだものの見方しかしません。

    尾藤さんが指揮を揮っておられた頃の箕島の象徴は本文にも書きましたが、定時制の生徒も野球部員だった事ですね。(第49回センバツで優勝投手となった東投手や第51回センバツ、第61回選手権では春夏連覇のメンバー、第62回選手権にも出場した森川選手も定時制の出身です)

    昼間の普通科で何の苦労も知らず、のほほんと高校生活を過ごしている生徒に比べ、夜間の定時制の生徒は“勉強がしたい”“部活動がしたい”、でも生活が苦しいから、働きながらの苦学生活をせずにはいられない、といった人たちの集まりです。

    ―私事ですが、私の父は獣医になりたかったけど、家庭の事情で学業を断念しました。また、母も音大に進みたかったけど、やはり同じく家庭に事情で断念せざるを得ませんでした。

    そんな境遇だった両親にとって、私が2浪してでも大学に進学した事を我が事のように喜んでくれました。(でも、正直なところ、高3の時のクラスメートは1浪で昼間の学部を諦めて、夜間の二部に進んだのがほとんどだったので、そんな連中に対してある種の申し訳なさがあったりします)

    大学に入って以降でも、夜間の学生に対しては、すごく引け目を感じたものです。彼らは学業と生活とが表裏一体となった人生を歩んでいる訳で、こちらは勉強する時間は2年間だけなのに、まだ余計に2年間も学生生活を過ごしている―

    いざ、社会人として就職した時でも、その人生観は夜間出身者と比べたら、私など世間知らずのガキそのものでした…

    ―チョット脱線しましたが、箕島が甲子園の出場から遠ざかったのも、偏差値が低くなり、進学率が伸びなかったのが原因だと聞きます。

    そうなると、トカゲのしっぽ切りで定時制も廃止され、野球部を含む部活動も熱心な支援がなくなったそうです。

    どのやり方がいいのか、という明確な答えは十人十色なので何とも言えませんが、なにわのヒバゴンさんにしても、私にしても一番純粋だった頃の“高校野球”を観てきた気がします。

    その象徴だったのが、尾藤さん指揮する箕島野球だったのかな!
    2011年08月30日 14:40
  • なにわのヒバゴン

    こんにちは。尾藤元監督が亡くなられて半年が経とうとしていますが、高校野球ファンを虜にしたあの尾藤スマイルは忘れることができませんね。地元の選手のみで勝ち取ったと言っていい4度の甲子園優勝~!!派手さはなくとも堅実な打撃、絶妙なバント、卓越した守備、勘のいい走塁。。。古き良き時代の高校野球を象徴していた尾藤箕島。大切な私の想い出です‥☆
    2011年08月28日 17:53
  • 御堂

    和歌山県民さん、来訪&コメント有難う御座います!

    私にとって、この時期が一番高校野球を熱心に観ていた時期でもあります。(注目試合はスコアブックにつけたり、各地方予選からの新聞記事をスクラップブックに貼ったり…)
    そうした状況の中で、尾藤さん率いる箕島の活躍に自分自身を重ねていたんですよね。
    今回の尾藤さんの死は、私にとっての人生の1ページが完全に終わったんだな、と感じさせる出来事なのかもしれません。
    2011年03月16日 03:07
  • 和歌山県民

    大変心温まるブログ有難うございます。
    北野君が3塁を狙ってアウトになった後の尾藤さんの笑顔が何とも言えませんね。こんないいコラムがありました。
    http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20110307108.html
    2011年03月12日 23:13

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