長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)で10日から始まった企画展「田中吉政とその時代展―山内一豊の傍輩・田中吉政の生涯を探る―」を観てきました。
宇治から長浜まで(新快速)で90分(はじめて京都駅の0番線ホームってのを知った!笑)駅に到着してまずは観光案内所に直行。長浜城への行き道を尋ねる…と、長浜の観光観光MAPと企画展の割引券(10%分割引、1人1枚のみ)を頂き、目的地に直行。博物館に着き、いざ2階の第1展示室へ…(どこかの放送局が展示室の様子を撮影してました!)全て観覧後、受付にて図録を購入。さらに友の会に入会しました。(そしたら、会員は無料って事で、入場料がキャッシュバックされました、ありがたや!)
さて、田中吉政という人物を知っている人はどれだけいるでしょうか。一番知られているのは関ヶ原の合戦で石田三成を捕縛した人として知られているくらいでしょうね。(実際、僕も最初はそうでしたし…)
田中吉政は近江の出身で、最初は宮部継潤に仕えていました。(継潤の子の長熈〔長念〕が「田中兵部(=吉政)は譜代(=家臣)のもの…」と語っている史料も展示されていました。)
後に羽柴秀次の家臣となります。(ただ、秀次も吉政が継潤の家臣であった時期に継潤の養子となっているので、面識はあったのかも?)
秀次の家臣になったといっっても、実際には付家老として、(秀吉の意向を前提として)秀次を補佐する立場であって、直接の家臣ではありません。
ただ、秀次が近江八幡山城主であった時期も尾張清洲城主であった時期も実際に領国経営を差配していたのは吉政だと言われています。
そんな吉政ですが、同じように付家老となった山内一豊や堀尾吉晴、中村一氏に比べて余りにも知名度がなさ過ぎ…(山内一豊が大出世し、それ以外は御家断絶で幕末まで続かなかったから仕方のない事でしょうが…)
そうした中で、僕は吉政について調べていく中で、彼が土木工事のテクノクラートだということを知りました。そして、三河岡崎城主時代に岡崎の城下町の原型を作った人である事、また筑後柳川城主時代も同様に城下町の基礎を作った人である事を知りました。
しかし、岡崎も柳川も自分たちの街を作ったのは、あるいは徳川家康のおかげ(←岡崎が家康の生まれた土地だから…)だったり、あるいは立花宗茂(←立花氏がそのまま幕末を迎えているもんだから…)のおかげとして、吉政の事はどこかに忘れ去られてしまっているのが事実でした。
今回、陳列していた吉政の史料や古文書などを拝見して改めて確認したのは、岡崎城主時代は岡崎の城下町の整備に尽力したのはもちろんですが、岡崎には城代を置いて自分は西尾城に入り、西尾の城下町をも整備していたという新たな事実。また、岡崎の西を流れる矢作川の築堤工事や矢作橋の架橋工事にも尽力していたんだそうです。
柳川城主時代には有明海沿岸沿いに慶長本土居を築堤したり、(今でいう有明海干拓事業の先駆け…)領国内の本城であった柳川と支城であった久留米を結ぶ幹線道路(現在の県道23号線だそうですが…)を造成するなど道路網の整備をしたのも吉政の功績だそうです。
もちろん、一番有名なのは、時代劇のロケ撮影には必ずといっていいほど使用される近江八幡の八幡掘でしょうね。この技術は岡崎城の惣掘や柳川城下町をめぐらす掘割にも大きく影響を与えています。
このように田中吉政はテクノクラート=技術者として顕彰されるべき人物なのに、今だかっって注目も浴びませんでした。実際の話、今回の企画展のサブタイトルでも「山内一豊の傍輩・田中吉政の生涯を探る」と、どう見ても来年の大河ドラマ「功名が辻」に企画便乗したものである事がはっきりと判りますね。
しかし、今回の企画の言い出しっぺが岡崎市の側から持ち込まれたという話を聞きました。先ずは一歩前進かな?そう思いたい今回の展覧でした。
この田中吉政の企画展示は今後、岡崎市美術博物館(愛知県岡崎市)や柳川古文書館(福岡県柳川市)でも開催されます。こういう人物の息吹を感じてみるのもいいですよ!
秀吉を支えた武将田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史 - 市立長浜城歴史博物館, 岡崎市美術博物館, 柳川古文書館
田中吉政 天下人を支えた田中一族 - 宇野秀史, 箱嶌八郎, 半田隆夫, 松本康史
秀吉の忠臣 田中吉政とその時代 - 田中建彦, 田中充恵
トップの資質 ―信長・秀吉・家康に仕えた武将、田中吉政から読み解くリーダーシップ論 - 半田隆夫, 箱嶌八郎, 宇野秀史, 小川修, 香之
この記事へのコメント
山口久美子
何だか嬉しくて、コメント入れました。
貞苅
2016年に実家(柳川市)にあった田中吉政公没後400年記念出版 筑後国主 田中吉政・忠政とその時代と出会いました。著者は半田隆夫様です。とても読みやすく書かれております。今まで知らなかった田中吉政という人物を高く評価した次第です。
昨日は、柳川から久留米までの道、田中道を一日かけて、吉政公を偲びながら回ってきました
地元に残る吉政公ゆかりの兵部社 吉政社 玉垂宮 安武八幡神社 津福八幡神社…今も柳川では、大切に祭られております。
御堂
近江八幡での歴史パネル展、良かったですね!
そこで新たに吉政を慕う人たちと出会い、交流が深まっていかれます事を期待します。
山口久美子
先日、滋賀県、京都を視察することになり、近江八幡の方々とご縁が出来て、ついに、9月の19.20日の11時から21時(途中短いお芝居をします)
近江八幡市の尾賀商店さんで、吉正公の歴史パルル展をすることになりましたよ!
知ることから始めようと言って頂いたのです。
感激して、ご報告いたしました。
御堂
当ブログへの来訪&コメント有難う御座います。
田中吉政は長浜(滋賀県長浜市)、近江八幡(滋賀県近江八幡市)、岡崎(愛知県岡崎市)、そして柳川および筑後国(福岡県柳川市および南西部)に所縁のある人物ですから、それらの地域が交流を深められて「田中吉政ってこんな偉人だったんだよ」って知って下さる方がいっぱい増えるといいなぁーと感じます。
山口久美子
感心して読ませて頂きました。
御堂
さのすけ
今後とも、よろしくお願いします。
御堂
戦国武将ってやはり戦(いくさ)上手な、格好良さが目立つ人ほど名が知られて、目立たないけど領国経営など内政に秀でた人の存在はあまり注目されませんよね。江戸時代の藩政ならいざ知らず…
私が田中吉政に注目し出したきっけけは、住んでいる土地が過去において水害が多発した場所であった事です。
そこから調べるうちに、秀吉の家臣団の中にテクノクラートがたくさん育っていた点に気付きました。
築城術に長けた黒田如水や加藤清正、藤堂高虎、河川改修に秀でた蜂須賀小六や山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏などの面々。
なかでも、秀次に付された家臣団は特に秀逸な能力集団だったようで、その中でも八幡掘を開削した田中吉政が飛び抜けて秀でたんですね。
私自身がメジャーな人物には興味が向かないのも一因ですけどね(笑)
吉政の事について詳しい書物を上げるとすれば、長浜城歴史博物館で催された「田中吉政とその時代展」の図録本ともいうべき『秀吉を支えた武将田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』(長浜城歴史博物館刊)が良いのでは!
さのすけ
トラックバック、ありがとうございました。
田中吉政はあまり、知られていない事がよくわかりました。
彼のことを書いた書物がないですよね。