雛祭りに飾り立てる「雛人形」。雛段の最上段に
(飾り方)
・最上段=内裏雛の
・二段目=三人官女で、両端の官女は立ち、真ん中の官女は座っている。向かって左から銚子、三方、長柄の杓を持っている
・三段目=五人囃子で、向かって左から太鼓・大皮・小鼓・笛・謡の順
・四段目=左大臣と右大臣、あるいは左近衛大将と右近衛大将
・五段目=三人仕丁で、向かって左から台傘、沓台、立傘を持っている(京風では箒、熊手、塵取りを持っている)
・六、七段目=調度品で、御所軍や御駕籠,、貝桶などの婚礼調度品を飾る
最上段の男雛(お内裏さま)の位置については、東京と京都では置き場所が違います。東京は男雛(お内裏さま)は向かって左、女雛(お雛様)は右に対し、京都では男雛(お内裏さま)は向かって右、女雛(お雛様)は左となります。
これは、「天子南面の思想」といって、古来より北(上座)に御座す天子様から見て左側と右側があり、除目などの座次も左側が上位者でした。
雛人形の配置も例外ではなく、京都では左(向かって右)に男雛(お内裏さま)を、右(向かって左)に女雛(お雛様)を南向きにして飾ります。
また、雛飾りにセットされている桜や橘の木は、京都御所の「左近の桜」「右近の橘」を模しています。この場合も「天子南面の思想」に則って「左近の桜」が向かって右、「右近の橘」が向かって左に配置されるわけです。
「天子南面の思想」の起源は『
『周易』とは、周王朝時代に成立した、中国で最初の書物という伝承がありますが、実際には古い時代の
断片的な占いの言葉に「伝」と呼ばれる解説部分が加わっているのですが、その中でも風水に関する自然現象などを取り上げている
聖人南面而聴天下、
聖人南面して天下に聴き、
嚮明而治、
明に嚮(むか)ひて〔世を〕治む
蓋取諸此也
けだし諸をこれに取るなり
と書かれた箇所があります。
古代中国において、聖人君子は北の空に不動の姿で輝く北極星に例えられたため、南側を向いて着座する習慣がありました。この習慣が具現化され、都城では天子の宮殿が最北端に置かれ、それが長安城や洛陽城に採用されます。
古代の日本で平城京(城)や平安京(城)などは中国の都市計画の基本であるこの都城制を採用したので、宮城となる大内裏を最北端に置き、最南端に正門である朱雀門を置きました。その間にはメーンストリートである朱雀大路が延び、大路の東側を左京、西側を右京と呼びました。
遷都当初、左京区域は洛陽をモデルとしたため、洛陽城と別称。右京区域も長安をモデルしたので長安城と別称していました。その後、右京区域は水
因みに余談ですが、元号である明治は、まさに上記の一文「聖人南面而聴天下 嚮明而治」から「明」と「治」を採って元号とされたものなんですよ。
◎何故違いができたのか?
昭和3年(1928)の昭和時代の裕仁天皇の即位の大礼の際、天皇・皇后陵陛下が向かって左側が
但し、その事で大きな弊害が生じているのも事実です。
東京の雛人形は天皇・皇后両陛下の並び方を改変し「男雛と女雛」だけを並び替えたので、それ以外の配置に矛盾してしまっているんですよね。
例えば、四段目の左大臣と右大臣(あるいは左近衛大将と右近衛大将)ですが、右大臣や右大将より偉い左大臣・左大将が向かって右のままになっています。「男雛と女雛」は左側を身分の上位者にしているのに、「大臣」級は身分の上位者を右側にしているわけなんですよね。
さらには、「左近の桜、右近の橘」も天皇の向きで左=向かって右に桜があり、向かって左側に橘が位置しています。
このように、「男雛と女雛」以外は昔ながらの並び方をしている分、並び方に対する説明に大きな矛盾が生じているんですよね。
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