「助左衛門幻影~大阪・堺~」


NHK大阪放送局が制作している「かんさい想い出シアター」という番組で「新日本紀行『助左衛門幻影~大阪・堺~』」を放送していたので、チェックしました。

4月1日に政令指定都市になった大阪府堺市の、28年前の姿を記録した番組なんですが、伝説の豪商・呂宋るそん(納屋)助左衛門の面影を求め、その子孫の方や所縁の品々などを紹介していました。

この番組が放送されたのが、昭和53年(1978)5月、ちょうど大河ドラマ「黄金の日日」(城山三郎氏の原作『黄金の日日』)が放送中の時期です。

番組の冒頭で拓ぼん(川谷拓三さん)演じる杉谷善住坊(←そーいえば、「功名が辻」にも信長狙撃シーンで出てましたね。やはり僕にとっては、川谷拓三さん演じた善住坊の方が強烈ですが…)が堺の通りを「助左~」と叫びながら走っていきます(笑)

今から想うと、「黄金の日日」でちょうど5月28日が「善住坊処刑」の回だったので、余計インパクトあったでしょうねぇー。

さて、呂宋助左衛門は、戦国時代に和泉国堺で活躍した貿易商人で、正式には、納屋助左衛門と言います。

安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営む事で巨万の富を得、豊臣秀吉の保護を受けて日本でも豪商として活躍しました。

文禄3(1594)7月20日、ルソンより持ち帰ってきた、生きた麝香獣2匹、壺50個、唐傘、香料、蝋燭などを秀吉に献上します。

(例)『太閤記』での呂宋助左衛門に関する記述―

泉州堺津菜屋助右衛門(助左衛門か?)と云し町人、小琉球(フィリピン)呂尊へ、去年の夏相渡り、(文禄甲午)七月二十日帰朝せしが、其此堺之代官は、石田杢助(正澄)にてありし故、奏者として、唐の傘、蝋燭千挺、生たる麝香二疋上奉り、御礼申上、則真壺五拾、御目に懸けしかば、事外御機嫌にて、西之丸の広間に並べつつ、千宗易(利休)などにも御相談有て、上中下段段に代を付させられ、札をおし、所望の面々誰々によらず執候へと仰せ出だされしなり。之に依て望の人々、西丸に祗候いたし、代付にまかせ、五六日之内に悉く取候て、三つ残りしを取て帰り侍らんと、代官の杢助に菜屋申ければ、吉公其旨聞召、其代をつかはし取て置候へと仰されしかば、金子請取奉りぬ。助右衛門五六日之内に、徳人と成にけり(『太閤記』巻第16「呂尊より渡る壺之事」)

その生活は豪奢を極め、堺の戎町の邸には、その居室に七宝をちりばめ、庭園には珍奇な花卉を植え、狩野永徳の筆になる丹精をこらした襖絵で飾ったほどでした。

しかし、慶長3年(1598)、その余りに豪奢な生活ぶりが秀吉に忌み嫌われて、邸宅没収の処分を受ける事になりますがそれに屈せず、その壮麗な邸宅や財産を菩提寺である大安寺(大阪府堺市南旅籠町)に寄進し、日本人町のあるルソンへ脱出したのだとか―

番組では助左衛門の子孫の方(納屋氏)が出ておられて、その方が過去帳などから調べたのであろう先祖の由緒書というか系図が映し出されました。

しかし、その系図の中には助左衛門の名はありません。慶長期のご当主の方の名は「よそざえもん」とあります。

にも変わらず、代々、子孫の方々は“助左衛門の子孫”と言い伝えられてきたのだそうです。

助左衛門の根本史料とも言うべき史料を京都大学国史研究室が所蔵されており、それは慶長12年(1607)にカンボジア国王が肥前佐賀城主(鍋島氏?)に宛てた書簡なのだそうです。

そこには「日本船主助左衛門為有忠厚志誠作事有規矩本国…国頭目…」の文言が…(画面から読み取っただけなので、全体が把握できませんが…)

助左衛門は、慶長12年(1607)、イスパニア(スペイン)が柬埔寨国(カンボジア)に介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、日本から渡航する貿易商人を管理する元締の地位―港務長兼税関長(シャパンダール)―や日本人宰領の任にあったとその書簡は伝えています。(カンボジアにあったオランダ商館長の記録などに依れば、朱印船貿易時代のプノンペンやピニャールの日本人町には300~400人の日本人が住んでいたらしいです)

助左衛門がもう10~20年存命だったのならば、江戸幕府の鎖国=海禁政策による余波をどう受け止めたでしょうね。

「黄金の日日」でのラストみたいに新たな新天地に向けて船出を試みるでしょうか!あるいは、山田長政のような悲劇に遭ったでしょうか!?

※(参考)「『黄金の日日』完全版」

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