BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。
私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。
この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、
その間、
於乙宇同事件について
「王と私」の中で“毒婦、妖婦、淫婦、悪女”などと蔑称された女性として有名な
いわゆる「
王族の正室であって、「
- 「於乙宇同、乃承文院知事朴允昌之女也、初嫁泰江守仝」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- (注1)参照
ところが、夫である
一人娘(注5)と共に実家に戻るものの“家門の恥晒し”として受け容れて貰えず、残された唯一の道は、自立する事しかありませんでした―
- 「泰江守仝昵愛女妓燕軽飛、而棄其妻朴氏」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗7年丙申〔1476〕9月乙巳〔5日〕条)
- 「仝嘗邀銀匠于家、做銀器、於乙宇同見而悦之、假為女僕、出与相語、意欲私之。仝知而即出之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「但昨日番佐【于宇同女也】(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗19年戊申〔1488〕7月癸未〔22日〕条)
美しい侍女と実家を出た
夕暮れ時に美しい衣に身を包んだ侍女が、街中で美少年を物色しては
- 「於乙宇同還母家、独坐悲歎、有女奴慰之曰:“人生幾何、傷歎乃爾 呉従年者、曽為憲府都吏、容貌姣好、遠勝泰江守、族系亦不賤、可作配匹。主若欲之、当為主致之。”於乙宇同頷之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
元々名門
- 「於乙宇同、変名
玄非 、行同倡妓」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗14年癸卯〔1483〕10月庚午〔11日〕条)
夫婦同然に仲睦まじく暮らしたり、遊興に親しんだり、詩歌を詠んだり…
そうした
- 「(於乙宇同)又嘗以微服、過方山守(李)瀾家前、瀾邀入奸焉、情好甚篤、請瀾刻名於己臂涅之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「又端午曰(於乙于同)靚粧出游、翫鞦韆戲于城西、守山守(李)驥、見而悦之、問其女奴曰:“誰家女也”女奴答曰:“内禁衛妾也”遂邀致南陽京邸通焉」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「内禁衛具詮、与於乙宇同、隔墻而居、一日見於乙宇同在家園、遂踰墻、相持入翼室奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「学録洪璨、初登第遊街、過方山守家、於乙宇同窺見、有欲奸之意、其後遇諸途、以袖微拂其面、璨遂至其家奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「書吏甘義享、路遇於乙宇同、挑弄随行、至家奸焉、於乙宇同愛之、亦涅名於背」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「典医監生徒朴強昌、因売奴、到於乙宇同家、請面議奴直、於乙宇同、出見強昌挑之、迎入奸焉、於乙宇同、最愛之、又涅名於臂」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「生員李承彦、嘗立家前、見於乙宇同歩過、問於女奴曰:“無乃選上新妓”女奴曰:“然。”承彦尾行、且挑且語、至其家、入寝房、見琵琶、取而弾之。於乙宇同問姓名、答曰:“李生員也、曰長安李生員、不知其幾、何以知姓名”答曰:“春陽君女壻李生員、誰不知之”遂与同宿」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条
- 「又有李謹之者、聞於乙宇同喜淫、欲奸之、直造其門、假称方山守伻人、於乙宇同、出見謹之、輒持奸焉」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「密城君(李琛)奴知巨非居隣、欲乗隙奸之、一日暁、見於乙宇同早出、却之曰:“婦人何乗夜而出 我将大唱、使隣里皆知、則大獄将起。”於乙宇同恐怖、遂招入于内奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
しかし、こうした噂は朝廷にまで届くところとなり、
ところが、
実際、国王が刑の執行を決めて言い渡す事は余程でない限りない事です。
その他にも、方山守の供述により、魚有沼、盧公弼、金世勣、金你、金暉、鄭叔墀などの名も挙がったが、これらは方山守の誣告(注28、29)として扱われ、或いは釈放されたと云います。
- 「聞泰江守棄妻朴氏、自知罪重而逃、其窮極追捕」成宗11年庚子〔1480〕6月甲子〔15日〕条
- 「於宇同、以宗親之妻、士族之女、恣行淫欲、有同娼妓、当置極刑、然太宗、世宗朝、士族婦女、淫行尤甚者、雖或置極刑、其後皆依律断罪、今於宇同、亦当依律断罪」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)
- 「太宗朝、承旨尹脩妻、奸盲人河千慶、世宗朝、観察使李貴山妻、奸承旨趙瑞老、皆処死、其後判官崔仲基妻甘同、称娼妓、横行恣淫、而減死論断、今於乙宇同、以宗室之妻、恣行淫欲、無所畏忌、雖置極刑可也、然律不至死、請減死遠配」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)
- 「祖宗朝、但尹脩、李貴山妻処死、其後士族婦女失行者、竝用律文断之、況律設定法、不可以情高下、若以事跡可憎、而律外用刑、則任情変律之端、従此而起、有妨聖上好生之仁。請依中朝例立市、使都人、共見懲艾、然後依律遠配」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)
- 「於宇同以宗室之婦、恣行淫欲、苟適於意、勿嫌親戚貴賤、媚悦相奸、傷敗彝綸(人として堂々と守らなければならない道理)、莫甚於此。宜従祖宗朝権制、置諸重典」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)
- 「絞於乙宇同」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)
- 「“方山守(李)瀾、守山守(李)驥、於乙宇同、為泰江守妻時通奸罪、律該杖一百、徒三年、告身尽行追奪。”命贖杖、収告身、遠方付処」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月丁亥〔9日〕条)
- 「付処方山守瀾于昆陽、守山守驥于井邑」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月己丑〔11日〕条)
- 「於乙宇同所奸金你、鄭叔墀、金暉、皆繫獄、而魚有沼等、独不下獄…(中略)…金你、鄭叔墀、金暉皆服」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月甲辰〔26日〕条)
- 「於乙宇同、以士族婦女、不弁貴賤、不計親疏、恣行淫乱、毀汚名教莫甚…(中略)…請鞫魚有沼、盧公弼、金世勣、金你、金暉、鄭叔墀、而有沼、公弼、世勣、則全釈不問」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕8月壬子〔5日〕条)
- 「泰江守棄妻於宇同、奸守山守驥、方山守瀾、内禁衛具詮、学諭洪燦、生員李承彦、書吏呉従連、甘義亨、生徒朴強昌、良人李謹之、私奴知巨非罪、律該決杖一百、流二千里」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)
- 「方山守窺免其罪、誣引者多」((『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕7月壬辰〔14日〕条)
- 「請刑訊方山守瀾、於乙宇同、幷鞫魚有沼、金偁…(中略)…有沼、金你、皆出於方山守誣引、不可鞫也。方山守乃宗屬、亦不可刑訊」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕8月辛亥〔4日〕条)
◆於乙宇同は本当に妖婦だったと言えるのか?
文書に記録されてくる内容が全て事実ならば、
朝鮮王朝の王室だけでなく、その支配階層である
同時代の女性で
この『
「夫が百人の妾を置いても妻たる者は見ないふりをし、嫉妬もせず、夫に尽くさなければならない」など、儒教社会における典型的な良妻賢母を『
「咎 」は自分にあるのではなく夫にあるのに、儒教的倫理観の前では嫉妬と言われてしまえば「咎」は女性のものになってしまう」
しかし、それが男性中心の儒教的倫理観の前では「既婚の女性であるにも係わらず、夫以外の男性と話した」と苦言を呈されるという、社会秩序からの疎外感を被ってしまう訳です。
確かに、
儒教のイデオロギー下にあって、外出禁止、男女交際禁止などの男女差別の仕来たりで、生活の隅々まで女性は監禁生活を強いられた朝鮮王朝時代。女性が人間扱いされない時代において、その一生を自らの欲望のまま「恋」に生きた、
- 「成宗朝、以於乙于同処死者、亦未得其宜也」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、中宗7年壬申〔1512〕10月丙辰〔16日〕条)
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(3)―内侍と王妃の愛―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(2)―内侍府―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート―内侍&宦官について―
この記事へのコメント