「王と私」観賞基礎ノート(4)―於乙宇同事件―

金処善

BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。

私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。

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この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、端宗タンジョン3年(1455)に起きた「癸酉靖難ケユジョンナン」によって叔父である首陽大君スヤンテグン(第7代国王・世祖セジョン)に譲位させられてしまった端宗タンジョンが、世祖セジョン2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「端宗タンジョン復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「戊午士禍ムオサファ」(燕山君ヨンサングン4年:1498)や「甲子士禍カップチャサファ」(燕山君ヨンサングン10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「中宗反正チュンジョンバンジョン」(燕山君ヨンサングン12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された燕山君ヨンサングンまでの物語です。

その間、端宗タンジョン世祖セジョン睿宗イェジョン成宗ソンジョン燕山君ヨンサングン5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた内侍ネシたちにスポットを当てています。

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於乙宇同事件について

「王と私」の中で“毒婦、妖婦、淫婦、悪女”などと蔑称された女性として有名な於乙宇同オウルドンを扱ったシーンがありましたね。

いわゆる於乙宇同オウルドン事件」と呼ばれるものです。

王族の正室であって、「恵人ヘインという称号を与えられていたにも関わらず、 王族や両班ヤンバン、官僚から身分の低い男たちとと関係を持ったため、王室の知るところとなり、死罪に処された女性です。

於乙宇同オウルドンという女性は、承文院スンムノン知事であったパク允昌ユンチャン(注1)の子女で、

  1. 「於乙宇同、乃承文院知事朴允昌之女也、初嫁泰江守仝」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

於乙宇同オウルドンという名称は、“男と情を交わす者”という意味を含んだ隠語、俗語だそうです。

漢陽ハニャン(現在の大韓民国ソウル市)に生まれ、正六品程度の官吏の両班ヤンバンの家門に育った於乙宇同オウルドンですが、朝鮮王朝の王族で太宗テジョンの子で、世宗セジョンの直ぐ上の兄になる孝寧ヒョロン大君テグンの孫にあたる正四品泰江守テガンスドンに嫁ぎました(注2)。
  1. (注1)参照

於乙宇同オウルドンは王族に嫁いだ事で、正四品外命婦ウェミョンブ恵人ヘインに封ぜられます。

ところが、夫である泰江守テガンスにはヨン軽飛ギョンビという妓生の愛人がおり(注3)、於乙宇同オウルドンを追い出さんがための口実に家に出入りしていた「銀匠」(銀細工職人)との密通を仕組まれ(注4)、“淫らな女”という烙印を押され、追い出されてしまいます。

一人娘(注5)と共に実家に戻るものの“家門の恥晒し”として受け容れて貰えず、残された唯一の道は、自立する事しかありませんでした―
  1. 「泰江守仝昵愛女妓燕軽飛、而棄其妻朴氏」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗7年丙申〔1476〕9月乙巳〔5日〕条)

  2. 「仝嘗邀銀匠于家、做銀器、於乙宇同見而悦之、假為女僕、出与相語、意欲私之。仝知而即出之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  3. 「但昨日番佐【于宇同女也】(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗19年戊申〔1488〕7月癸未〔22日〕条)

美しい侍女と実家を出た於乙宇同オウルドンは、しおれるどころか寧ろそうした自由を満喫していきます―


夕暮れ時に美しい衣に身を包んだ侍女が、街中で美少年を物色しては於乙宇同オウルドンの所に誘う込んだり、2人で出かける際には、声をかけられるのを待った(注6)と云います。
  1. 「於乙宇同還母家、独坐悲歎、有女奴慰之曰:“人生幾何、傷歎乃爾 呉従年者、曽為憲府都吏、容貌姣好、遠勝泰江守、族系亦不賤、可作配匹。主若欲之、当為主致之。”於乙宇同頷之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

元々名門両班ヤンバンの娘でその容貌は麗しく、高い教養と知性の持ち主だったので、倡妓に引けを取らず(注7)、評判は直ぐに立ったようです。
  1. 「於乙宇同、変名玄非ヒョンビ、行同倡妓」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗14年癸卯〔1483〕10月庚午〔11日〕条)

夫婦同然に仲睦まじく暮らしたり、遊興に親しんだり、詩歌を詠んだり…

そうした於乙宇同オウルドンと関係を持った者の中には、、王族の方山守李瀾(注8)や守山守李驥(注9)、官吏では内禁衛ネグミ具詮(注10)や学録ホンチャン(注11)、書吏甘義享(注12)、その他に典医監生徒である朴強昌(注13)、生員李承彦(注14)、良民李謹之(注15)、奴婢ノビ知巨非(注16)に至るまで関係を持ったようです。
  1. 「(於乙宇同)又嘗以微服、過方山守(李)瀾家前、瀾邀入奸焉、情好甚篤、請瀾刻名於己臂涅之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  2. 「又端午曰(於乙于同)靚粧出游、翫鞦韆戲于城西、守山守(李)驥、見而悦之、問其女奴曰:“誰家女也”女奴答曰:“内禁衛妾也”遂邀致南陽京邸通焉」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  3. 「内禁衛具詮、与於乙宇同、隔墻而居、一日見於乙宇同在家園、遂踰墻、相持入翼室奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  4. 「学録洪璨、初登第遊街、過方山守家、於乙宇同窺見、有欲奸之意、其後遇諸途、以袖微拂其面、璨遂至其家奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  5. 「書吏甘義享、路遇於乙宇同、挑弄随行、至家奸焉、於乙宇同愛之、亦涅名於背」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  6. 「典医監生徒朴強昌、因売奴、到於乙宇同家、請面議奴直、於乙宇同、出見強昌挑之、迎入奸焉、於乙宇同、最愛之、又涅名於臂」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  7. 「生員李承彦、嘗立家前、見於乙宇同歩過、問於女奴曰:“無乃選上新妓”女奴曰:“然。”承彦尾行、且挑且語、至其家、入寝房、見琵琶、取而弾之。於乙宇同問姓名、答曰:“李生員也、曰長安李生員、不知其幾、何以知姓名”答曰:“春陽君女壻李生員、誰不知之”遂与同宿」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条

  8. 「又有李謹之者、聞於乙宇同喜淫、欲奸之、直造其門、假称方山守伻人、於乙宇同、出見謹之、輒持奸焉」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  9. 「密城君(李琛)奴知巨非居隣、欲乗隙奸之、一日暁、見於乙宇同早出、却之曰:“婦人何乗夜而出 我将大唱、使隣里皆知、則大獄将起。”於乙宇同恐怖、遂招入于内奸之」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

しかし、こうした噂は朝廷にまで届くところとなり、於乙宇同オウルドンは捕縛され(注17)、厳しい詮議や拷問の末、於乙宇同オウルドンと関係を持った者が上記の如く数十人も明るみになります。

義禁府ウィグムブでは彼女の罪状について、「法に照らしても、死刑に処する事はでき兼ねるので(注18)、せいぜい流罪(追放処分)が妥当」(注19、20)だと処断するつもりでしたが、風紀を正すという名目(注21)で、最後は成宗ソンジョン自らが於乙宇同オウルドンに極刑(絞首刑)を言い渡します。(注22)

ところが、於乙宇同オウルドンと関係を持った人物は殆んどが軽い刑罰か、無罪放免となっているのです。(注23、24、25、26、27)

実際、国王が刑の執行を決めて言い渡す事は余程でない限りない事です。成宗ソンジョンの立場からすれば、悪くすれば王族たちを処断しなければならない事態であり、法に則って極刑にすれば、この事件は政治的に利用される可能性がある。そうなった場合、王権を揺るがし兼ねない事態に陥り、結果として王族に官吏が処罰を与えた前例がない事から、国王による直裁で事が収まったのです。

その他にも、方山守の供述により、魚有沼、盧公弼、金世勣、金你、金暉、鄭叔墀などの名も挙がったが、これらは方山守の誣告(注28、29)として扱われ、或いは釈放されたと云います。
  1. 「聞泰江守棄妻朴氏、自知罪重而逃、其窮極追捕」成宗11年庚子〔1480〕6月甲子〔15日〕条

  2. 「於宇同、以宗親之妻、士族之女、恣行淫欲、有同娼妓、当置極刑、然太宗、世宗朝、士族婦女、淫行尤甚者、雖或置極刑、其後皆依律断罪、今於宇同、亦当依律断罪」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  3. 「太宗朝、承旨尹脩妻、奸盲人河千慶、世宗朝、観察使李貴山妻、奸承旨趙瑞老、皆処死、其後判官崔仲基妻甘同、称娼妓、横行恣淫、而減死論断、今於乙宇同、以宗室之妻、恣行淫欲、無所畏忌、雖置極刑可也、然律不至死、請減死遠配」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  4. 「祖宗朝、但尹脩、李貴山妻処死、其後士族婦女失行者、竝用律文断之、況律設定法、不可以情高下、若以事跡可憎、而律外用刑、則任情変律之端、従此而起、有妨聖上好生之仁。請依中朝例立市、使都人、共見懲艾、然後依律遠配」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  5. 「於宇同以宗室之婦、恣行淫欲、苟適於意、勿嫌親戚貴賤、媚悦相奸、傷敗彝綸(人として堂々と守らなければならない道理)、莫甚於此。宜従祖宗朝権制、置諸重典」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  6. 「絞於乙宇同」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕10月甲子〔18日〕条)

  7. 「“方山守(李)瀾、守山守(李)驥、於乙宇同、為泰江守妻時通奸罪、律該杖一百、徒三年、告身尽行追奪。”命贖杖、収告身、遠方付処」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月丁亥〔9日〕条)

  8. 「付処方山守瀾于昆陽、守山守驥于井邑」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月己丑〔11日〕条)

  9. 「於乙宇同所奸金你、鄭叔墀、金暉、皆繫獄、而魚有沼等、独不下獄…(中略)…金你、鄭叔墀、金暉皆服」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕7月甲辰〔26日〕条)

  10. 「於乙宇同、以士族婦女、不弁貴賤、不計親疏、恣行淫乱、毀汚名教莫甚…(中略)…請鞫魚有沼、盧公弼、金世勣、金你、金暉、鄭叔墀、而有沼、公弼、世勣、則全釈不問」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕8月壬子〔5日〕条)

  11. 「泰江守棄妻於宇同、奸守山守驥、方山守瀾、内禁衛具詮、学諭洪燦、生員李承彦、書吏呉従連、甘義亨、生徒朴強昌、良人李謹之、私奴知巨非罪、律該決杖一百、流二千里」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕9月 己卯〔2日〕条)

  12. 「方山守窺免其罪、誣引者多」((『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年〔1480〕7月壬辰〔14日〕条)

  13. 「請刑訊方山守瀾、於乙宇同、幷鞫魚有沼、金偁…(中略)…有沼、金你、皆出於方山守誣引、不可鞫也。方山守乃宗屬、亦不可刑訊」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、成宗11年庚子〔1480〕8月辛亥〔4日〕条)
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◆於乙宇同は本当に妖婦だったと言えるのか?

文書に記録されてくる内容が全て事実ならば、於乙宇同オウルドンは“毒婦、妖婦、淫婦、悪女”と蔑称されても仕方のないかもしれません。

於乙宇同オウルドンが生きた時代は、儒教思想を支配の論理として掲げた朝鮮王朝にとって、全てのものが道徳的規範を基に構成されていく過渡期だったと思います。

朝鮮王朝の王室だけでなく、その支配階層である両班ヤンバン社会の中では、宮廷女官たちも国王1人のための消耗品であり、妓生キーセンらも詩歌や書画に風流を楽しんだしても、両班ヤンバンたちのための装飾品に過ぎないのです。

両班ヤンバンの男たちの女子供への淫行に対しては寛大で、女性や身分の低い者たちのそれは非常に厳しいというのが、朝鮮王朝での階級社会の実情だった訳です。

仁粹大妃

同時代の女性で成宗ソンジョンの母である仁粹インス大妃テビ昭恵王后ソヘワンフ韓氏)は学識が高く、当時の女性たちの教育書であった中国古典書『烈女』『小学ソハク』『女教』『明心宝鑑』などを整理し直して“朝鮮の女性のため”の教育書『内訓ネフン』を編纂します。

この『内訓ネフン』を読むと、徹底した男尊女卑ぶりが窺えます。女必従夫、三従之道、七去之悪など男性中心の儒教思想を反映した社会を体現するために『内訓ネフン』に記載された内容通りに実践し、儒教思想的女性観を貫こうとしたのです。

「夫が百人の妾を置いても妻たる者は見ないふりをし、嫉妬もせず、夫に尽くさなければならない」
とが」は自分にあるのではなく夫にあるのに、儒教的倫理観の前では嫉妬と言われてしまえば「咎」は女性のものになってしまう」
など、儒教社会における典型的な良妻賢母を『内訓ネフン』ではいている訳ですね。

於乙宇同オウルドン泰江守テガンスにより婚家を追い出されますが、それは銀匠(銀細工職人)と対話しただけだった様です。

しかし、それが男性中心の儒教的倫理観の前では「既婚の女性であるにも係わらず、夫以外の男性と話した」と苦言を呈されるという、社会秩序からの疎外感を被ってしまう訳です。

於乙宇同オウルドンについては「淫乱で、風紀を乱した女」や「才能はあったが、身持ちが悪かった」と酷評されるケースが稀です。

確かに、於乙宇同オウルドンの行状は褒められたものではなかったかもしれませんが、閉鎖的な社会制度の中、男性中心の倫理観に一石を投じたのは間違いないでしょう。

儒教のイデオロギー下にあって、外出禁止、男女交際禁止などの男女差別の仕来たりで、生活の隅々まで女性は監禁生活を強いられた朝鮮王朝時代。女性が人間扱いされない時代において、その一生を自らの欲望のまま「恋」に生きた、稀有けうな女性であったと思います。

於乙宇同オウルドンは、朝鮮王朝が要求する儒教的な女性像には収まりきれない、独立した人間としての個を確立した女性だったのでしょう。

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於乙宇同オウルドンが刑死して後の30数年後、国王も中宗チュンジョンの時代に代わっていますが、朝議の中で「成宗ソンジョンの時に於乙宇同オウルドンを死刑に処したのは、やはり合理的に失敗したもの」(注30)と改められています。

於乙宇同オウルドンを極刑に処した事は行き過ぎた栽定と認めたんですね…既に後の祭りだけど…
  1. 「成宗朝、以於乙于同処死者、亦未得其宜也」(『朝鮮王朝実録』成宗実録、中宗7年壬申〔1512〕10月丙辰〔16日〕条)

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※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(3)―内侍と王妃の愛―
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