今年も「8月15日」を迎えました。あの年から数えて65年目の歳月が経った訳ですが、毎年の事、この日には戦没者追悼式が催されています。
そして私たちは現在、この日を「終戦記念日」あるいは「敗戦記念日」として刻みこんでいる訳です。
昭和20年(1945)8月を振り返ってみると、
8月6日午前8時15分 広島に原爆投下される
8月8日午後11時 ソ連外相、駐ソ日本大使に9日午前0時をもって宣戦布告する事を通告
8月9日午前0時 ソ連、対日参戦し、満州・朝鮮に侵攻開始
8月9日午前10時半~ 最高戦争指導会議構成員会議(結論出ず)
8月9日午前11時02分 長崎に原爆投下される
8月9日午後2時半~10時半 閣議(結論出ず)
8月9日午後11時50分~10日午前2時20分 御前会議(条件付き、すなわち国体護持=天皇制存続でポツダム宣言=1945年7月26日の米英華三国宣言=受諾をするという昭和天皇の聖断が下される)→国体護持=天皇制存続という条件を除き、全日本国軍隊の無条件降伏でポツダム宣言受諾
8月10日午前4時~ 閣議(条件付きでのポツダム宣言受諾を日本政府として正式に決定)
8月10日午前6時45分 外務省より利益代表国であるスイス及びスウェーデン政府宛ての通告文をスイス公使及びスウェーデン公使に打電
8月10日夜 海外に対して同盟通信と放送局を通じて、通告文の内容が放送される
8月11日 ソ連軍、南樺太に侵攻開始
8月12日午前0時15分 サンフランシスコ放送(ザカライアス放送)を通じて、バーンズ・アメリカ国務長官の正式回答(「バーンズ回答」)を放送
8月12日午前0時45分 サンフランシスコ放送(ザカライアス放送)が流した正式回答(「バーンズ回答」)を外務省・同盟通信・陸海軍海外放送受信所がそれぞれ受信→国体護持=天皇制存続という条件付き受諾を決定していたが、「天皇および日本政府は連合国司令官にsubject to」するとの回答の「subject to」の解釈を巡り、「隷属」と解釈する陸軍と「制限下に置かれる」と解釈する外務省の間で対立し、陸軍側が態度を硬化
8月12日午後6時40分 アメリカがスイス経由で伝えた正式回答(「バーンズ回答」)が日本政府に届く(天皇制存続は明言せず)
8月12日午後3時~ 臨時閣議(宣言受諾か再照会かを巡る対立で、結論出ず)
8月13日午前8時半~午後3時 最高戦争指導会議構成員会議(結論出ず)
8月13日午後4時~ 閣議(結論出ず)
8月14日午前10時50分~正午 御前会議(昭和天皇の2度目の聖断が下り、ポツダム宣言の受諾が確定)
8月14日午後11時 ポツダム宣言受諾の詔書発布と同時に、外務省はスイス及びスウェーデン公使に向けて、宣言受諾を打電
8月14日午後6時(ワシントン時間) スイス政府から正式な日本政府の回答が伝達される
8月14日午後7時(ワシントン時間) トルーマン・アメリカ大統領により日本がポツダム宣言を受諾した事を発表される
8月14日、大東亜省は暗号第716号において、居留民の現地定着、すなわち民間人の切り捨てを指示=朝鮮人および台湾人の生命や財産の保護責任を一切放棄→大日本帝国の自己否定
8月15日正午 (日本人のみに対する)玉音放送
◆切り捨てられた地域では依然として戦闘状態が続いていた
8月16日 中華民国南京政府(汪兆銘臨時政府)解消
8月17日午後11時半頃 占守島対岸のカムチャッカ半島ロパトカ美咲付近からソ連軍の砲撃が開始される
8月18日午前2時半頃 ソ連軍が占守島に上陸(~21日の停戦まで続く)
8月18日 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀、退位宣言
8月18日 自由インド仮政府、チャンドラ・ボース国家主席の事故死により自然解消
8月19日 蒙古自治邦政府(デムチュクドンロブ=徳王=主席)解消
8月25日 ソ連軍が松輪島に上陸し占領
8月25日 ソ連軍が樺太全土を占領
8月28日 ソ連軍が択捉島に上陸し占領
8月29日 ソ連軍が得撫島に上陸し占領
9月1日 ソ連軍が国後島に上陸し占領、同日、色丹島に上陸し占領
9月2日 米戦艦ミズーリ号艦上で休戦協定(降伏文書)調印式が行われる(=対日戦勝記念日)
9月5日 ソ連軍が歯舞諸島を占領し、千島全島の占領完了
9月6日 トルーマン・アメリカ大統領よりマッカーサー連合国軍最高司令官(General Headquarters,the Supreme Commander for the Allied Powers:GHQ/SCAP)へ通達があり、「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する」とポツダム宣言及び降伏文書無効を暗黙の了解とした
9月9日 京城で朝鮮総督府降伏文書調印
9月9日 南京で降伏文書調印
10月25日 台湾総督府の行政権委譲
さて、日本政府がポツダム宣言受諾を決定したのが8月10日、それが玉音放送で日本人に伝わったのが8月15日なのですが、この5日間は一体何のための5日間なのでしょうか?
戦後作家となった大岡昇平氏は、フィリピンのミンドロ島サンホセで米軍の捕虜となり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容されていましやが、8月10日の夜に、アメリカ艦隊の汽笛と
ましてや、この5日間の間にも、
といった具合に、これらの都市や軍事施設が空襲の被害に遭っているのです。たくさんの尊い生命が無駄に奪われていった訳です。これも全て、日本の支配層らの曖昧さ・優柔不断さが招いたであろうおよそ馬鹿げた戦争被害といえないでしょうか。
この中で、熊谷空襲に出撃した元アメリカ軍パイロットは、われわれは攻撃目標に向かっているのに、ニューヨークでは対日戦勝を祝っている
と、日本への出撃前にラジオから流れてきた戦勝を祝うニュースを聴いていたそうです。
そして、向かいながら、攻撃を中止し引き返すための暗号が発せられるはずだと神経を尖らせていたが、ついに暗号が出される事はなかったのだと述懐されています。(「爆撃中止の指令、願ったが 熊谷空襲の元米兵」『東京新聞』平成22年=2010=8月10日付夕刊)
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